2011年8月9日火曜日

デジタルとアナログ

学生チームで今は卒業している、通称エクセルにブログについて「もっと改行とかして、読みやすくして」と言われたので、過去のブログも少し直してみた。
これを機に要らない機能を削除してシンプルにした。画面に表示されるページも投稿一回分にしたので、興味のある方は過去のブログは「前の投稿」をクリックして読んで下さい。
すこしは改善されたかな?
でもエクセルが読んでくれてるのが分かって嬉しかった。ありがとう。

さて、前回は彼らの「やりすぎない」にふれたけど、今回はデジタルとアナログについて。
先日、会場で久しぶりに元テレビ局の現在は環境関連のお仕事をされている方に会った。
いつも、僕らの知らない面白いお話を聞かせていただくのだが、先日も震災のことから始まり、興味深い話題だらけだった。
色んなことを聞いたが、何故か「アナログは強い」という言葉が強く記憶された。
長年、映像を撮り、伝えるという作業をされている方なので、その言葉には深い実感が感じられた。
「アナログは強い」は逆に言えば「デジタルは弱い」でもある。
僕の考えではアナログとは具体的に身体を動かし、時間と手間をかけ、今しかない個別の現実に触ること。実感を持って経験することだと思う。
ではデジタルとは何か。その場では具体的に身体を動かすこと無く、時間や手間をかけずに、現実を抽象化し、記号に置き換えることで、その場にいない人にも伝えることができるテクノロジーだといえる。
前回の「やりすぎない」もここに深く関係する。デジタル化することで人は「やりすぎる」、暴走するのだ。そもそもアナログでは時間と手間がかかりすぎて「やりすぎ」が出来ない。
その時の会話で、僕が言ったのは「現代人はデジタル化になれすぎて、心の動きまでデジタル化してしまっている。たとえアナログで行為してもやっている側の内面がデジタル化しているのでリアリティが弱い。ダウン症の人達はアナログを生きている。彼らの世界は具体的な感覚を動かし時間をかけて、味わわれたものしか存在しない」ということだ。
デジタルとは、そのものにふれずともそのものにある概念を取り出して形にすることだ。
だからヘタをすると現実の限界を超えてしまう。現実は時間や量に限界を持っている。
抽象化され、記号化されたものにはナマの癖や限界が感じられなくなる。
必要以上の便利さを生み出してしまうのは、具体的な不便に対する便利でなく、「便利」という抽象化された概念自体が目的になってしまうからだ。
手間がかかり、時間がかったことは、自分の中に入り自分のものとなる。
手間も時間もかからないものはすぐに使うことは出来るが、そのものと自分との距離は埋められない。
アナログが大切なのは思いや気持ちがそこに入るから。
現実に対して謙虚になれるから。
ではデジタルには意味が無いのか。僕はそうは思わないし、アナログ人間でありたいとも思わない。例えばこのブログを書くこともデジタルな行為だと思う。
僕はここではデジタルをおこなっている。抽象化し記号化し、そして普遍化している。
僕にとってのアナログは制作の現場、アトリエで作家たちに向き合っている時だ。
ダウン症の人たちはこうだとか、彼らの作品はとか、彼らから何が見えるかとか。
そういったことは全部、具体的な場面ではなくて抽象化された現実だ。
現場で、彼らにすこしでもいい気持ちで深い世界に入って、制作してもらいたいと思う時にここで考えているような概念は一切役に立たない。それぞれの場面ではもっと具体的な動きが必要とされる。でも現場にあるような具体性は経験したことの無い人に話して伝えられることではないし、そもそも伝える意味も無い。他の人の役にも立たない。
自分にとって具体的な一番役立つことは他人にとって最も関係のない役に立たないことであったりもする。
現場人間はいるが、僕はいいとは思わない。
やっぱり個別のものを普遍化することで人に伝わり、人と繋がる。普遍化とは一種のデジタルだ。普遍化が無ければいつまでも閉鎖された世界で分かり合っているしか無い。
それは排他的でもある。
それに概念化し普遍化することで、現場だけでは見えて来ない本質が見えて来る。
本当の仕事をしようと思ったら自覚的にデジタルとアナログを行き来しなければならないと思う。行き来によって両方の行為が相互に深まっていく。
結論はアナログを徹底してしり、その経験を重ねることを大切にしつつ、デジタル化してみんなと共有するのがいい。「デジタルは弱い」と書いたけど「アナログを知らないデジタルは弱い」と言い換えよう。「弱い」は「危険」でもある。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。