2011年8月14日日曜日

アウトサイダーアートのゆくえ

お盆に入ったせいか、東京はとても静かだ。
すごく暑くて人がいなくて、蝉の声がうるさいくらいだけどきれい。

昨日のアトリエも充実した内容になった。
前回に引き続き、しんじ君が絶好調だった。
久しぶりに栗ちゃんが福太君を連れて、遊びに来てくれた。
あかちゃんかわいすぎる。

夜のアトリエも今日でおしまい。
今日はどんなアトリエになるか。

先日、保護者の方がこのブログを読んで下さっていて、
ご丁寧に感想をお手紙にして下さった。
とても熱心な方で、お手紙の内容も有難いものだった。
特に福祉の世界において、障害という概念からマイナスのイメージが、
無くなりつつあると言うこと、少なくともマイナスのイメージが伴わない、
概念が出来ているのだと言うことを知り、大変面白かった。
そのお手紙の中で、僕が「日本のアウトサイダーアートは完全に福祉だ」と
書いた言葉にふれ、いくつかのアトリエや団体を上げて、
福祉的ではない制作の場もあるということをご指摘されていた。
それらの団体から生まれた作品が優れたものかどうか(勿論、その評価は僕がする事ではない)はここではおくとして、
全体としてのアウトサイダーアートの動きを考えてみたい。
まず、どこかに優れた作品を生み出し続ける施設や団体があるだろうことは、
一切否定しないし、多分あるのだろう。(それよりも個人に優れた作家がいる)
ただ、アウトサイダーアートという全体の流れを見ると、
日本のそれは福祉的であること、あるいは福祉の視点が入りすぎていることは否定出来ないと思う。未だに大きな展示やシンポジウムにおいて社会参加のようなテーマが持ち込まれているのも例の一つといえる。
芸術、あるいは制作とは社会参加の手段ではない。
芸術には障害の有無など関係ないといった主張も一見、作品主体に聞こえるが、
実はそのおおくが人間としての平等の主張にすぎない。
本当に作品が主体となった議論なら、作品に否応なくあらわれている作家の、
感覚が障害(と言われている。ここでは一つの認識の型)に由来する部分を
無視出来ないはずだ。
断っておくが、先ほどからの社会参加や人間としての平等自体には、
全く賛成であり、僕自身出来ることはとことんやりたいとも考えている。
ただ、それらが芸術の名を語ることにはうさん臭さを感じざるをえない。
ついでにいうと、アーティストが認めただとか、アーティストとコラボとか
みんなで合作、のようなチャリティー的な大きいものはいいものだといった、
イベントもいい加減やめにしたほうがいい。

ここからが本題。
この様な、芸術や美術の領域に福祉的視点を持ち込むことが、
実は作家たちにとって良くない環境を作っている。
長い目で見てみよう。
アウトサイダーアート(日本のアール•ブリュットも含め)は
ブームを作ろうとしている。ブームは多分作れる。
でもブームは必ず終わることを忘れてはならない。
終わった後の消耗はブームが大きければ大きいほど強いものだ。
特に作品を売って稼ぐ、というような発想はよっぽど考え抜かれたものでなければ、
長続きしないだろう。
今のように障害がある人の作品であれば何でもアウトサイダーアートと、
言ってしまっていれば見る人達が頭の中で「ああアウトサイダー。あんな感じだろうな」
と飽き飽きしてくるのは時間の問題だ。

作家一人一人にはそれぞれの一生があるということを忘れてはならない。

ところで、ここではアトリエ・エレマン・プレザンの提唱する、
アール•イマキュレについてはふれなかった。それはまた別の機会に。
芸術の視点、美術の視点を強調して来たが、
実はダウン症の人達の作品が、芸術や美術といった従来の価値観自体を問い直し、
覆していくような可能性を秘めていることも書いておく。
今ある、芸術や美術が全てではない。
まったく新しい何かが、これから見えてくるかもしれないのだ。
いずれにせよ、それは私たちが主張することでも、決めることでもない。
アトリエ・エレマン・プレザンはただ提案する。
どう解釈し、位置づけるかはみなさんの自由だ。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。