2011年8月19日金曜日

放射能

昨日、この部分を書く予定だったけど、機械が不調でブログのページが開けなかった。

少し前に学生の1人から
「原発関連で良い資料があったら教えて下さい」とのメールがきた。
彼は結構、調べているみたいだ。
震災の直後、彼がアトリエの仕事を手伝ってくれていたので、
行動を共にしていた期間がしばらくあった。

言わない人も含めて、みんな不安で心配なのだ。

この様な得体の知れない不気味な不安を前にした時、
人は大体、二つのこころの反応を示す。
分かろうと、予測しようともがき、調べ尽くし、すべてが不安の対象となるか、
もう一つは、無かったことにして、これまでの世界に帰ろうとする。
何かが変わっているのは薄々、感じてはいても気付かないふりをしている。

この二つの反応は共に、事態を改善出来ない。
冷静に、しかも持続的に考えていかなければならない。

そこで、今回は僕達がどうすればいいのか、少し考えてみたい。
この件も本当は書くべきか、迷った。
自分達の仕事は、人間のこころに向かっていくものであり、
どんな事態がおきようと現場ですべき事、しなければならない事が無限にある。
一人一人が自分の仕事で最善を尽くすべきではないのか。
状況がどんなに変わろうと、だまって出来る事、
自分の仕事で答えていくべきではないか。
そういった思いがあった。

しかし、これは一人一人の命にも関わる問題だし、
アトリエの作家たちや学生達の身体とこころにも、
決定的な影響を与えていくものでもある。
黙っている訳にはいかないことだ。

これはあくまで僕の個人的な見解に過ぎないと、
お断りして話を進める事にする。

何故、だれも本質的な事を発言しないのだろうか。
情報として流れているもののほとんどは無意味だ。
放射能、あるいは放射性物質をすこしでも避けられる為の、
具体的手段以外は情報として必要ないとすらいえるのではないか。
今後、長く続いていくのだから、放射能を浴びる量を少しでも
減らしていく努力を続けるしかない。

決定的な事を、誰もいわないので考えてみよう。
その上で個々人が判断するしかない。
ひと言でいえば、今起きている事の結果、
つまり、人間が放射能を浴び続けてどうなるのか、について
誰も、いかなる人も分からないという事実だ。
誰も分からないし、誰も知らないという事実を、まず認識すべきだ。
なぜなら、誰も経験した事がないのだから。
(チェルノブイリや前例をみて予測する事も必要だが、事実は一つ一つ違うということ、結果も同じようになるとは限らない事も認識すべきだ)
科学(数値とか基準値と呼ばれるものも)も含め、
すべての議論は予測、予想である事を忘れてはならない。
そして、予測は外れる場合の方が多い。
人体は自然であり、自然は人がコントロール出来るものではないし、
完全に予想する事も不可能だ。
そういった筋道にそって考えれば分かる事だが、
原発事故や処理についても責任問題ばかり議論されているが、
責任など誰もとれない。誰も責任がとれないようなことをしてしまっている。
それが原発の恐ろしさだ。
今議論されている事も、長い目で見極める必要がある。
出回っている情報についても、
この事態の結論が出た時には、誰も責任をとれないだろう。
だから誰も知らないし、分かっていないし、責任もとれない。
そういう事態として命がけの判断が要求されているのだ。
極端な話、明日バタバタ人が倒れて、こんな事が起こりうるなんて誰も予想出来なかった、
というような事だって、おきないとは言い切れない。

では、どうすべきか。
本当に絶対助かりたいと思うなら、逃げるしかないと思う。
何処まで行けば、安全なのかも考えなければならないが、
とにかく、1人でも多くの人が逃げられればいい。
逃げる事はまったく悪い事ではない。
逃げて、助かる人が少しでも多くなれば、それが人類のためだろう。
勿論、それが出来る人はだけど。

もっと言えば逃げた人達で村が出来て、
そこにどんどん他の人達も逃げ込めるようになっていけばいい。

ダウン症の人たちの事も心配でならない。
可能な状況があれば、1人でも多くの人が少しでも良い環境に身をおいて欲しい。

逃げられない状況にいる人達は、(僕達もそうだが)
長いスパンで考えて、少しでも放射能を受けないようにする事。
民間療法や東洋医学的なものの中には、解毒出来る可能性のあるものもある。
すべてを考慮して最善を尽くす。
その上で、覚悟だけはもって自分の一生を決めていくべきだ。
もし、残された時間が短いのなら、少しでも人の為に何かをする。

僕自身はアトリエに来て絵を描きたいと思う人がいる限りは、
この場を離れる事はない。
少なくとも安心して任せられる人が出来るまでは。
(とはいえよし子とお腹に赤ちゃんもいる。家族の命は優先する。)
科学の生み出す物質には勝てないが、
来てくれる一人一人のこころの平和になら少しは役立てるだろう。
自分の命優先なら、始めからこの仕事を選ばなかっただろう。
大げさに聞こえるかもしれないが、
僕は命がけで制作の場に関わって来たし、
今後も命がけで挑んでいくだろう。

やや楽天的すぎる見解も多いので、今回は少し深刻な話をした。
人体は分からない予測出来ないと言うことは、
もしかして、ぜんぜん大丈夫だったと言うことも有り得なくはないと思う。
それくらい未知のものが自然や身体や宇宙なのだから。
深刻になりすぎるのも良くない。
ただ、警戒は怠らず、自分の事だけではなく家族や人の命を考えて、
最善を尽くす。希望は持ち続ける。

情報に惑わされてはいけない。
誰かが答えを持っていると思ってはいけない。
何でも調べれば分かると思ってはいけない。
便利さに慣れすぎて、本能を失ってはいけない。

状況を少しでも良く出来るのは、
一人一人の気持ちと行動だけだ。

自分の直感を信じて、決断しよう。

補足
そう言えば、近所の自然食品のお店が、放射能汚染について無頓着だ。
あれだけ、張り紙をしてお店の食品がいかに安全で、他のものと異なるのかを書き、
農薬や環境汚染の害を書いて、食の安全を押し出しているのに。
放射能の事にはまるで触れていない。これは一体どういう事か。
自分達の仕事になんのこだわりもプライドもないのか。
無農薬セシウム食品になりかねない。(風評被害についても、被害より先に安全性を調べるべきだ。本当に農家を思うなら、まずは徹底して安全を確認すべきだ)
安全であると思うならそのように書くべきだ。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。