2011年8月21日日曜日

本能の力

少し涼しくなった。
それにしても気温の変化は激しい。
激しい雨が急に降り出す事も多いが、あの感覚は実はけっこう好き。
大きな災害があった後なので、こんな話をするのもどうかと思うが、
強い雨や雷や台風や地震といった、自然が力強く迫って来る時の、
ゾクゾクするような感覚は不思議だ。
感覚が鋭くなって、他の事はみんな忘れて。何か強く内側から動くものがある。
勿論、自然の力で自分や他人が傷ついたり、命を失ったりするのは、
痛ましい現実だし、嫌だし恐怖心もあるのだけれど。

人間がもっと自然の近くにいた頃の記憶が、身体のどこかに刻まれているのかもしれない。
どこかで聞いた事だけど、たとえば人が遊園地等で、
ジェットコースターみたいな乗り物に乗りたがるのは、
かつての記憶が脳に残っているからだという。
外敵に囲まれて暮らしていた人類は、恐怖で脳が刺激され気持ちの良くなる、
作用を起こすようになったらしい。
もう周りに外敵がいなくなったのだが、人はその時に感じる脳の刺激が残っていて、
時々、求めるらしい。
誰かが言っていた事で、ちゃんと調べていないので、知ってる人は教えて下さい。

人間には様々な使われていない機能がある。
今の世界は人間の能力を限定し、一つの機能だけを特化させて来ている。
そうやって作られたこの社会だけが唯一の世界のようにしている。

例えば、ダウン症の人たちがいる。
彼らに日々接していると、学ぶ事、考えさせられる事がたくさんある。
社会では彼らを知的障害あるいは発達障害と呼ぶ。
だが、私たちの鍛えてきている人間の機能を能力とするなら、
彼らの持っているセンスも別の能力と呼べるのもなのだ。
彼らの文化からいうなら、争い続け、自己によって外部を把握し
コントロールしようとし続ける人達こそ障害者といえる。

世界は一つなどではない。
世界は多様だ。
そして豊かだ。

自分の持っている能力だけに頼っていると、他の部分の機能が退化していく。

私たちがダウン症の人たちから学ぶべき事はいっぱいある。
彼らを見ていて驚くのは、まず絵を描く時の迷いのなさだ。
なぜ、迷わないのか。
ひと言でいえば、本能の力だと思う。
彼らのバランス感覚は本能的なものだ。
私たちはあのように描けない。
技術と情報によって、ある意味で守られているからだ。
彼らの強みは、無駄なものを持たない事だ。
持たない事によって、本能が妨げられずに働く。
前のブログでも書いたが、現代人は何でもどこかに答えがあると思っている。
調べれば分かる、聞けば教えてもらえる。
計算し、計測し予測すれば、危険が避けられると。
そのような安易な計算が原子力発電のようなものを作ってしまった。
答えのないこと。予測もコントロールも出来ないことを、
もっと知って、もっと謙虚になるべきだ。
人間も自然も全く分からない、謎に満ちた存在だ。
分からないと言うことは、無限の可能性があると言うことでもある。
分からない、未知の場、計算も予測も出来ない領域に、
裸で入って行った時、その時に本能が動き出す。
ダウン症の人たちは、そういったこころの働かせ方が出来るのだ。

持つこと、得ることのプラスばかりを考えていると、
そのマイナスがみえない。
当たり前のことだが電車や車が出来て、歩く機能は衰えた。
歩く機能が衰えると、実は内面的なものも含め、他の部分も変化していること、
もっといえば、歩いていた世界とは違う世界にいると言うことまでは、
なかなか考えない。
便利になると確実に何かが失われる。
不便がいいと言うことではなく、
持たない世界、裸の世界に時には身を置くべきだということだ。
足し算ばかりでなく、時に引き算で考えてみる。
そうすることで私たちはバランスをとり、
暴走することなく、世界と調和していける。

ダウン症の人たちや、その作品はとても重要だと思う。
私たちに本能の声に耳を傾けることで、
人間本来の平和な在り方に気付かせてくれる。

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書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。