2011年9月30日金曜日

人材育成

ようやく秋の気配。
昨日はアトリエの作家の作品を使った、ティーシャツのサンプルの展示会に。
また状況が進展したらご報告します。

それにしても本当に色んな事がある。あっと言う間に秋が来た感じがする。
冬から夏にかけて、めまぐるしく時が過ぎた。
個人的な事だけど、祖母が亡くなり、
仕事のうえで尊敬して来た人と、決別せざるを得ない出来事があり、
そして、子供ができ、震災があった。

これらの、出来事がなければ今こうしてブログを書いてはいなかっただろう。
自分の見て来たもの、経験し、学んで来たものを通して、
何かを伝えていく必要を強く感じている。
それが、どんな役に立つのか、
そもそも役立つ事ができるのか分からないが、
黙って指をくわえている時期ではない事は確かだ。

先日、ある編集者の方が仰っていたのだが、
この時代に危機感を持っているのは、若い世代に多いと言うことだ。
50代、60代の方達、世代の上の人達と、それはなかなか共有出来ないと言う。
それはそれで良いと思う。
これからを生きる若い人達で、新しい文化をつくりあげていく必要がある。
20代、30代で良い書き手も増えているそうだ。
すっかり本離れしていたので、久しぶりに読んでみたい気がおきた。

それはそうと、自分の仕事を通して次に残る事をして行かなければならない。
先日も、原発反対のデモがあったそうで、署名はしたのだが参加出来なかった。
その日、アトリエがあった日だったので、
デモではなく自分の仕事で、最善を尽くした事に、それで良いと言う思いがある。
これからも、少しでも良い場を創り、
少しでも自分の仕事の質を高める事が、最大の運動だと言う姿勢で行きたい。

今後を考えると、東京のアトリエで言えば、
現場を動かしているスタッフは、僕とよし子だけという状況を改善したい。
僕達2人で見る生徒は既に38名と、これ以上は対応出来ない。
次に繋げる事が必要だと思う。
新しい動きをして行くにも、どうしてもあと数名はスタッフが必要となる。
ただ、人数を集めれば良いという訳にはいかないので、
特に制作の場を見る人は時間をかけて育てる必要がある。

今年から少しづつ研修を始めた。
学生も多く関わり、様々な場を手伝ってくれる人がいるが、
まず制作の場のスタッフとしては最初に、ゆりあに育っていってもらおうと思う。
彼女はこの場で要求される資質を、基本的に持っているので、
経験さえ積めばこれから良い仕事が出来ると思う。
何よりも、追求心と学ぶ姿勢がある。
簡単なようだが、
絶えず良くしていこうという、努力を続けられる人間はそう多くはない。
どこかで、飽きたり諦めたりこの辺で良いかと思ったりしてしまう。
人のこころを相手にするのだから、完璧も完成もあり得ない。
終わりのない探究心を持ち続けられなければいけない。
ゆりあとは長く付き合って来たが、
彼女の努力を惜しまない姿勢にはいつも感心させられる。

必要なのは良い状態を持続出来る力だ。
それには身体的にも精神的にも体力がいる。
気を抜かないこと。
もっと良い可能性があるはずだと言う意識をもち続けること。

前回の絵のクラスで、2名ほど、なかなか良い絵が出てこない人が居た。
しばらく様子を見て、後半で僕が隣に座ったのだが、
みるみるうちに絵も良くなるし、本人の表情も良くなる。
「ちょっと変わったの分かった?」と僕はゆりあに聞く。
勿論、それくらいのことが彼女に分からないはずはないのだが。
見て、変化に気付く事ができるから、彼女は成長出来る。

大事なことは、僕がこの2名の絵を良くしたのではないということ。
もともと、そういう質の絵を描く人達なのだ。
ただ、人はだれるときも、悩むときも、迷うときもある。
その時にしっかりその人の本当に良い部分に戻してあげる力は必要だ。
はじめて見る生徒の場合も一緒だが、
今表面に出ているその人の性質が、その人のすべてではないと言うことだ。
感じ取る能力を養う。
その人の奥に、もっと良いものがあるかも知れない。
もしかしたら、本人自身も気付いていないかも知れない。
そこを見極めて、そこに波長を合わせていく。
内面的には「そこちょっと見せて。お願い」という気持ち。
彼らは必ず見せてくれる。
「見せてくれてありがとう。たのしかったよ」という思いが伝わり、
あちらからは「もっと面白いの見せてあげようか」とでも
いうようにどんどん、世界が展開していく。
それが作家とスタッフとの信頼関係であり対話でもある。

今、こういう場面をゆりあにあえて見せているのは、
彼らのこころの中というものを知ってもらいたいからだ。
その奥深さを認識すればするほど、彼らもより深いものを見せてくれる。
浅い部分で付き合ってしまったら、
彼らだって表面的な部分しか見せてはくれない。
だから最初から、こういった経験を積んでいくことで、
ゆりあ自身が彼らの中に深く入って行けるようになる。
謙虚な姿勢さえ忘れなければ、経験は自然についてくる。

ゆりあは
「私、まだまだ、分からないことばっかり」と言っていたが、
そこを認識出来るのが、彼女の良いところだ。
確かに揺るぎない確信は必要だが、
分からないという自覚も絶対必要だ。
僕自身もまだまだ分からないと思っている。
分からないという認識と、もっと分かりたいと言う思いが大切だ。
むしろ「分かる」「分かった」という感じが最も危険でもある。
「分かった」とか「出来た」というのは、
相手のこころを分かる範囲、出来る範囲にとどめていると言うことだ。
そんなことでは、自分の範囲から一歩も出られない。
僕達は絶えず、自分を超えていかなければならない。

一年もすれば、ゆりあには彼女にしか出来ないことができる。
それは、僕達とはまた違ったスタンスになるだろう。
そのことになんの心配もしていない。
彼らにとっても良い人間にたくさん出会っていく経験が必要だ。
関わる人と関係によって、可能性は色々と広がっていく。

2011年9月28日水曜日

自己満足

先日もブログについて、お褒めの言葉を頂いた。
僕としては、熱心に読んで下さる方達にこの程度のものしか提供出来ず、
申し訳なく思っている。
毎回、前回よりは良くなるよう努力しているのだが、未だ満足の出来る内容にならない。

様々なご意見も頂くが、その全てを何らかのかたちで反映させていただいている。

また、ブログの中で批判している人や活動についても、
はっきりと意見を言わせていただいた上で、日常的にはお付き合いしている。
意見は言うが、自分達と違うから付き合わないということはしない。
世の中では今、逆になっていると思う。
何も意見や批判を口にしない変わりに、違う存在とは付き合わないで、
同じ様な世界の人達だけで集まっている。

どんな世界であれ、客観的な視点がなければ自己満足に陥ってしまう。
社会に何が必要とされているのか、
自分達の関わる活動はどう見られ、どうなることを求められているのか。
そういった考察をして行かなければ、
閉じられた内輪の世界に留まり続ける事になるだろう。

かと言って、色んな人の意見に振り回されていてはならない。
誰がなんと言おうと、貫くことでいつかは分かってもらえることもある。
そこで、ブレたり妥協したりしたのでは、本質的な仕事はできない。
そこに普遍的な真実があると確信したなら、
どんなに周りの理解がついて来ていなくても妥協しない。

その辺のバランスも大事だが、今回は自己満足に気をつけようということを書く。

最近は、こんな時代でもあるのでボランティアに注目が集まっている。
ひと言だけ書く。
人のために何かをする場合、いかに気付かれないでするかが大事だ。
気付かれないというのは不可能に近いが、
もしくはいかに自分がいなくても出来るようにするかという事だ。
僕達の仕事にしても、文字通り無償で行う部分も多い。
そこで気付かれないでやっていくうちに、
いつの間にかみんなが自分で出来たというふうになればいい。
やってもらっていると言うことは、負担にもなるし、依存にもなりやすい。
前にも書いたが、最も気をつけるべきは、
やっている側が、してあげていると言う自己満足に陥る事だ。

今、必死になって頑張っている方々がいる中で、気が引けるが書かせていただきたい。
決して悪意があって言う事ではないので、そこだけはご理解いただきたい。
例えば、復興支援として福島や東北の野菜を売っていこうとか、
買って行こうという動きがある。
または、放射能が出続けている中、応援するために観光しようとか。
これは間違いだと思う。
本当に応援したいのなら、もっと合理的に策を練るべきだ。
危険があるのに我慢して買ったり、行ったりするのは問題を複雑にするだけだ。
売り買いも、観光も商売であるはずだ。
商売である以上、お金を出す側は選ばなければならない。
そこを我慢してしまうことで、その人はいいことをしたつもりでも、
他の人は出来ないし、長い目で見れば誰も選択しなくなるだろう。
みんなが長期間我慢し続けるなら、少しは支援になるかも知れないが。
ここでは、安全を確保して、欲しくて買うという状況まで持ち込めてこそ、
支援と言えるのではないか。
だいたい、僕が売る立場だったら、
欲しくもないのに応援のために買ってもらって嬉しいはずがない。

作業所で作られている、商品を「こんな人達も頑張って作っているんだ」と
いう感じで買っていく人も多い。
悪いとまでは言わない。
でも本来なら、欲しいものを買うべきだ。
そうでなければ、かえって無礼ではないかと思う。
売れなければ売れないで、こういうものでは人は買ってくれないと、
運営する側も考えるだろう。それが結果、みんなのためになるかも知れない。

もう何年も前になるが、海外から障害を持った人達の演劇というのが来て、
とても素晴らしいという評判だったので見に行った。
正直に言わせていただく。全然面白くなかった。
これはエンターテイメントとパンフレットに書いてあったので言わせていただく。
この団体に関して「障害者を見せ物にしている」との批判があったが、
僕はそこは批判しない。(僕自身は見せ物は嫌だが)
エンターテイメントとは見せ物だからだ。
本人が分かった上で楽しんでいて、見る人がいいのであれば成立していると思う。
単純に見せ物としてつまらなかった。
見る側も、障害がある人達がこんな事をしているという見方で満足して、
面白いかどうかを誰も見ない。
これも、悪い訳ではない。
ただ、そんなものではたしていつまで人が見続けるのかは疑問だ。

パラリンピックと言うのは身体に障害のある人達のオリンピックで、
スペシャルオリンピックスというのは、知的障害の人達のオリンピックだという。
これは、活動している人たちではなくて、
あくまで社会全体に向けて言いたいのだが、
オリンピックという世界大会が存在するのだから、分ける必要はないのではないか。
オリンピックは体重や、男子、女子が分かれて競っているのだから、
同じように、身体のハンディの部門、知的ハンディの部門があれば良いのではないか。

さっきはたとえ、障害を持つ人達の作ったものでも、
買いたいから買う、買いたくないから買わないと言うことがいいと書いた。
今度は買いたいから買うと言うことが出来るものも、
出てくるようになったと言うことを書く。

障害を持っている人達で、
本当に美味しいチーズやワイン、パンやクッキーをうる団体が増えて来て、
状況は一歩前進した。
素晴らしいし、とても良い事だと思う。
僕達もそういった方々とお付き合いがある。
ただ、もう一歩つぎの段階もあるのではないかと思っている。
勿論、ここまで来たのは素晴らしい。
次は、彼らにしか出来ない、彼らの持ち味が社会に紹介されていけば良いと思う。
なぜなら、例えば美味しい食べ物も商品も、
言ってしまえば健常者が作れば、もっと効率も良くなってしまうからだ。
これでは、競争原理で勝負するかぎり、勝ち目はない。
彼らにしか出来ない、彼らの感覚で、
競争原理を超えた新しい価値を創ることができれば、
私達の社会にとっても、これから必要な文化を見出す事になるのではないだろうか。

2011年9月27日火曜日

素材と質感

展覧会でよく質問されることの一つに、制作に使われる素材についてがある。
どういった紙や絵の具を使っているのかと。
先日お会いした時、肇さんに雑談の中でうかがったのだが、
三重の保護者の方の中には、自分の子供が高級な素材を使って同じ様な絵ばかり描くのがもったいない、という声も聞くそうだ。
同じ様な絵を繰り返し描く、という事については、「型」のところで少しふれた。
私達には「繰り返し」にも「同じ」にも見えない。
彼らは絶えず、新鮮に制作にむかう。
同じように見える部分は、その人の持つ生命のリズムだ。
それを個性と呼んでもいい。

さて、良い素材を使わなければならないのは当たり前のことだが、
あえてもう一度、その意味について考えてみたい。

良い素材とは、「高い」とか「安い」というお金の価値とは異なる。

良い素材とは、人の手がかかっていること、
そのものに質感が感じられるものである事だ。

感覚や感性は、物の質感をとらえる時に動くわけだ。
質感が弱ければ、感覚も弱まる。
感覚が弱まるとは生命が弱まるに等しい。

例えば、こういう話がある。
以前テレビで見たのだが、あるお医者さんと研究者が、
認知症と音の関係を調べているそうだ。
面白い事を話していた。
認知症の方の回復に効果があったり、予防に役立つ音の周波数を調べていく。
最初は誰の音楽が良いとか、そういうところから、
最後は研究者達で、その周波数に合わせた音楽をつくる。
実験するととても効果がある。
ここから先が良いのだが、
結局、その周波数を最も多く出している音は、アマゾンの森の音だったという話だった。

これとは別のところで聞いたのだが、
アマゾンの森の音は、大都会の喧噪より、音としては遥かに大きいらしい。
都会の音は騒音、雑音として聞こえるが、
それより遥かに大きい音を出しているはずのアマゾンの森の音は、
人が聞くと心地よく感じるという。
おそらく空間の広がりが違うのだろう。

だが、もっとも大切なのは、
人間の感覚、あるいは脳は自然の変化や質感を感じるためにあるということだ。
先ほどの話でいうと、アマゾンの森の音を聞くと認知症に効果があるという以上に、
つまり自然を離れたことによって、様々な不具合が生まれているといえる。
人間を育んだ、自然にある様な、質感にふれて生活していれば、
認知症にならないということかも知れない。

自然にある、音も色も匂いも人間の感性を育てるのだ。

道具というのは、人間にとっての第二の自然といえる。
だから、手に触れる道具を疎かにしてはならない。

これを今風に言えば「リアル」といってもいい。
リアリティが感じられない時代と言うが、
ゲームやアニメで育ち、インターネットで情報を収集していて、
リアルが感じられるはずがない。
私達が一つ一つの道具を吟味してこなかったことが、リアルを失わせたのだ。

子供は玩具を舐め回したりする。
その玩具がプラスチックでできているか、木で出来ているかで違いが出るのは当然だ。
身の回りにあるものが、質感や手触りがあるかどうか。
簡単に大量生産された物には合成の匂いしかしない。
それは道具でも物でも現実でもない。ただ物に似せた何かだ。

食物については、もう少し気を付けるだろう。
インスタント、レトルトはほとんど食べないという人が、
なぜ、物や道具に気をつけないのか。

いずれにしろ、簡単に手軽に出来た物で人間は育たない。
簡単に手軽に出来た人間になってしまう。

人間は森の中で生きて来た。
感覚は生命に直結している。
自然の変化をとらえ、豊かに活き活きと育っていくには、
こころのこもった丁寧な時間を過ごしていかなければならない。
環境や身の回りの物をしっかり見直していきたい。

何度も書いたが、制作とは一人一人が、自分のこころに向き合うことだ。
そこでの素材は自然そのものと言っても良い。
そして、自分のこころという自然に入って行く。
道具が感性を育て、感性が自然の動きをつかんでいく。
これがコミニケーションでもある。
良い環境は、良いこころを引き出す。良いものは響き合い、生命力を高める。
このような豊かな時間を持つことで、一人一人が自らの命の力を失わずにいられる。

2011年9月26日月曜日

展覧会

数日前だけど、台風すごかったですねえ。
アトリエは途中からおむかえに来てもらって中止に。
あんな大きなのは珍しい。
夜、しばらく外で台風を見ていた。
自然の大きな力が動いている時は、やっぱり自分のこころのどこかが、
強く反応していることに気が付く。
鳥肌が立つ様な感覚や、たった1人になって静かになっていく様な、
懐かしい感覚もある。人間の中の古い記憶が戻ってくるのかも知れない。

さて、現在開催中の韮崎大村美術館での展覧会に行って来た。
今回は昔からのメンバーの展示になっているので、
アトリエ・エレマン・プレザンのスタンダードとも言える作品が展示されている。
是非、ご覧頂きたいと思う。

東京のアトリエは土、日曜日が中心となっているので、
僕達はなかなか他の場所に行くことは出来ない。
今回は土、日曜日クラスの方々に予定を変更させていただいた。
みなさん、ご迷惑おかけしました。ご協力、ありがとうございました。

土、日曜日に韮崎に行ったのは、その日に三重のメンバーが、
はるばるツアーを組んでやってくる事になっていたからだ。
皆さんにお会い出来て、すてきな時間を過ごすことができた。
土曜日は蓼科のホテルにみんなで宿泊。
今回の一連の企画はツアーも含め、女子美術大学同窓会の方々がお世話して下さった。
三重の作家たちとご家族も揃って、みんなでバスに乗って、
ホテルに泊まって、次の日に展示を見て、楽しく帰路についた。

僕達はホテルと展覧会場だけご一緒したが、
行き帰りのバスの中もとても楽しそうな雰囲気だった。
こういう時間も大事だなとあらためて思った。
日程や都合により実現出来なかったが、最初は東京のメンバーとご家族も、
展覧会で集まるようにしようと話し合っていた。
今度こそ是非。

佐藤家は、肇さん、敬子さん、文香ちゃん、よしこ、僕で5人部屋。
実はこういう時間はあんまりとれない毎日なので、良い機会でもあった。
夜、久しぶりにお風呂で肇さんとゆっくり話せた。
ダウンズタウンの事とか。
東京からの三重合宿を、今回のようにバスツアーにするのも良いかもという話にも。

日曜日、東京のゆうすけ君ご家族が来て下さった。
大きなレンタカーでご家族総出でおみえになった。
よしこのお腹が大きいので、美術館からの帰りをどうしようかと思っていたが、
ゆうすけ君ご家族が送って下さる事になって、本当に助かった。
ありがとうございました。
お父さんのお話も興味深く聞かせていただいた。
専門のジャンルをお持ちの方で、とても面白い話題がでたので
ご紹介したいのだが、差し障りがあるかも知れないので、残念だが書けない。

今回は家族と絆について、思うところがいっぱいあった。
三重のメンバーのご家族、佐藤家、ゆうすけ君家族。
そして、このプロジェクトを通じて、それぞれが繋がっていく、
全体を大きな家族と見た時の可能性。
思い合っている、繋がっているということが、とても大切なのだと思う。

今回は東京アトリエは展示に関わらなかったが、
たとえ自分達が作品選定して展示したとしても、会場で作品を見る時はいつも新鮮だ。
初めて見るように見ているし、そうする様、心掛けてもいる。
彼らの作品にいつも心動かされることは確かだ。

韮崎なので、東京からでも少し時間はかかることは事実だ。
でも、作品を見るのには少し、時間をかけた方が良いと僕は思っている。
ちょっとした事でも、そのためにわざわざ何かをするという経験は、
絶対に自分に帰ってくる。
遠くから足を運ぶとか、歩かなければ行かれない場所に行くとか、
時間と手間によってこころが入る。
そこまで行かなければ見れないと言うことは大事だ。
特に今のように情報はパソコンで知れたり、
何でも自分が動かないで見たり、聞いたり出来る環境の中では、
何かの為に、何かをするという喜びを忘れてしまう。
例えば、上野の美術館に奈良の山奥にある仏像が展示された事があった。
ああいう場所で仏像の美が見える訳が無い。
なぜ仏像が美しく、神々しくさえ見えるのか。
それは、はるばる遠くまで出向いて、石の階段を何段も踏みしめて、
やっと辿り着いた場所で、照明も無く薄暗い中で、
見えるか見えないかのものを見るとき、人の感覚が開くからだ。
神社もお寺も、辿り着いてしまえば、そこには何も無い。
そこへ行くまでのほうが大事だったりする。

本物は知る為に努力が必要だ。
その場に行かなければ何も見えない。

デジタルについて書いた時にもふれたかも知れないが、
僕自身は、簡単とか、便利、安い、すぐに出来る、
というものにそれ自体では価値をおかない。
むしろ、物事にはいい面も悪い面もあるのに、
良い面しか語られないものには注意が必要だ。
すぐに出来るものは、すぐに出来る程度のものだ。

何かの為に時間をかける、思いをこめる、
そうすると、その分だけ何かが見える、何かが分かる。

それは、「敬意をもつこと」「大事にすること」と全く同じだ。
制作の場でもスタッフは、楽なほう、簡単なほうにいってはならない。
相手が気持ちよくなってくれるなら、手間をかけこころをこめることを続ける。
物理的に言うなら時間をかけるということだ。
スタッフのみならず、アトリエに入ってもらう場合は、
必ず「場」や「人」に敬意をもってもらう。
大事に思う気持ちが持てる人だけに来てもらっている。
なぜなら、結果がその人自身に帰ってくるからだ。
わざわざ来てくれた人に、何かは持ち帰ってもらいたいと思う。
何かを得るには、その人に真剣さが必要だ。
敬意をはらうことも、大事にすることも、結局は自分のためだ。

ただ見ただけで、見えると思ったり
ただ行っただけで、経験したと思うのは間違いだ。
簡単に分かったとは、その理解の質も簡単なものでしかないということだ。

四ッ谷で展覧会を開いていた時、会場の都合で入場料をいただいていた。
受付をしている学生が「お金を払いたくないという方が来ています」
と言うので行ってみると、おじさんが
「なんだよ。いつも来てんだけど、ここはタダで見れるんだよ。」
と言い続けている。
「今回の企画は、入場料をいただくかたちになっていますが、それだけの価値はあると思いますよ。タダより良い経験が出来ます」
「しょうがねえな。見てみるか」
入って行ってから学生と笑っていると、
会場の奥からさっきのおじさんの大きな声が聞こえてくる。
「なんだよー。すげーじゃねえか。こんなのみたことねよ。えー。きれいじゃねえか」
ずーっと喋り続けている。
微笑ましい場面だった。

情報化社会というが、情報は経験となってはじめて意味をもつ。
情報が経験に変わるのには、実際に歩くこと、
自分の目で、耳で、五感を使って味わうこと。
その経験が自分をつくる。
情報を使い、判断するのは自分自身だ。

是非、会場で作品をご覧いただきたいと思う。
見て良かったと思っていただけます。

2011年9月20日火曜日

外にある自然と内にある自然

今回も前回の続きの様な話を書く。
自然は美しい。そして自然は謎にみち、怖くもある。
自然は人を超えている。
それと同じ事が私達の持つこころにも言えると思う。
前回、こころについて少しだけ書いた。
一番重要なのは、こころの中にも大自然と同質な領域が存在すると言うことだ。
それを証明しているのは、人間の本能だ。
私達は、教えられなくともこの世界で生きていくために、
何が安全で、何が危険かを知っている。
教育によって身につけていくのは、もっと社会的な領域だ。
私達はこころのどこかでは、すべてを知っているとも言える。
この世界に生まれ、どのように振舞うべきか、本能は分かっている。

以前、小さな集落に居させてもらった事がある。
今では人も居なくなって、家もいくつかしか残っていなかった。
そこで、古い写真を見せてもらった。
かつて、幾つもの家が並び、田んぼや畑が広がっていた頃の情景。
それを見た時に感じた事があった。
この人達は自然と一つになって生きているということだ。
少し標高もあるところなのだが、その写真で見ると、
自然のものである山々や草木と、人の生み出した住居や田畑が、
完全に一体化していた。人の表情も土地の色に溶け込んでいる。
僕が居た建物は茅葺き屋根で柱も太く、強烈な存在感を放っていた。
その為に、周囲との一体感をあまり意識しなかった。
ところがそれは、他の建物が無くなって一軒だけ残ってしまった事による、
不自然な景色だったのだ。
昔の沢山の住居と自然の中で見ると、
あの強烈な存在感は無く、逆に全体の中に埋もれている。
昔の人達はもっと謙虚だ。
雪の中で、ほとんど無いに等しい位に埋もれている建物を見て、
本当に人が自然の近くにいる事の意味を考えた。
それにしても、完璧なまでに自然な集落の作りだった。
人が住んでいる事を最小限にとどめるように、
場所が選ばれ、配置されている。
それは自然の中で一番目立たない場所でもあった。
ある映画の撮影にも使われたそうで、
その時に上空から撮った写真もあった。
上から見ると、ますます自然とのバランスが良い。
沢山の建物と田畑と草木や山々が、始めからそのようにあったように自然だ。
あの様な住居は一軒いっけん、別の人が建てた訳だし、
全体を見て纏める人など居なかったはずだ。
まして上空からなど見ていた人は居ない。
それにも関わらず、全体が一つになったデザインを、
上空から見て完璧な配置を人々は作り上げて来た。
彼らは必要に応じて、自然からの恩恵を受け取り、
危険の無い様な選択をし、周囲に配慮して生活をつくった。
おそらく自然の声に耳を傾けて。
結果があのようなバランスになっていったのだろう。
私達がダウン症の人たちの作品に見る感性と同様で、
自然と調和するというのは人間の本能だ。
人にはそれがなぜ可能かといったら、
外にあるあの自然と同じものが、人間のこころの中にもあるからだ。
もっといえば、自然をあのようなバランスに保っている構造が、
私達のこころを創っていると言える。

このブログでも、ダウン症の人たちの感性から学ぶと言うことを書いてきた。
それは私達のこころの本来の姿を知り、
本能を目覚めさせようという事でもある。
自然からも、本能からも遠ざかり、情報と欲望に埋もれて、
自己破壊の危機に迫っている今こそ、見直されるべき事がある。
調和や平和のバランスを創る力を、自然の中、人の中、自分の中に発見したい。

どうすれば、私達がそのような本能を蘇らせることが出来るのか。
ヒントになるのは、例えば何度も書いてきたが、
制作の場における、ダウン症の人たちの在り方だ。
こころが何者にも縛られず、自由に動けばこころ自身がバランスを創る。
良いときの彼らは制作する時、本当にすべてを知っているように見える。
次にどのように振舞うべきか。
意図とは別に絵の具がこぼれても、自然に、どうすればきれいになるか分かっている。
自然(例えば瞬間に入り込む偶然)と戯れ、調和していく。
こころがこういった働きをするには、
一切のとらわれや、わだかまりや、欲望や、プライドや、恐怖心から、
一旦、離れる事が必要だ。
本当にこころからそういったすべてを外して、
まっさらになったら、何をどうするべきかが分かる。
私達のこころには、今の時代だったら、情報が入り込み過ぎている。
情報はこころが働くスペースを犯す。
技術もある意味で同じだ。
ただ、今の私達に情報や技術を無くして、生きていく事は難しい。
ではどうするか。
情報や技術を持っていても、
そこからいつでも離れることが出来るようにしておく事だ。
前回、スタッフのこころの使い方に少しふれた。
相手のこころの動きを見極め、適切に読みつつ、
共感し響き合っていく為に、自分のこころをフラットにすると書いた。
彼らが制作する時のこころの動きと同じことが、
スタッフにも言えるということだ。
次に何をすべきかと言うことは、こころを無にしていれば(ニュアンスが難しいのであまりこの言い方は好まないが)分かる。
自分のこころの癖や歪み、限界を知っておくことで自由になるとも書いた。
人間は弱い。どんなに嫌な人間と思っても、
そうなる要素は自分の中にもあることを忘れてはならない。
逆にどんなにきれいな素晴らしいこころの人でも雲の上の存在ではない。
人のこころは基本的な形は皆同じだ。
縛られていない、制限を受けていないこころの状態にある人など居ない。
だから、自分の限界を知っておくことで、
必要に応じてそこから自由になり、こころの源に帰ることが出来る。
そうなる為には勿論、普段からの訓練が必要だ。
まずは素直になること、まっすぐに物事を見ることが大切。
それから、日々の中で良いものを沢山見付けていきたい。

2011年9月18日日曜日

「こころ」を考える。

今回のテーマはこころ。
これは、僕達の活動の中でも中心となるものだし、とても複雑でもある。
しかも、今日ブログに使える時間は一時間弱。
ということで、今回は入口のところまでのお話しになると思う。

こころといっても、それぞれ見解があるだろう。
宗教家の見方、科学者の見方、哲学者の見方。
僕がここでふれる見解は特殊かもしれない。
ダウン症の人たちの絵画制作の場で見て来た、人間のこころの世界だ。
これは一人一人のこころに直接向き合っていく事で経験される世界だ。

僕自身はダウン症の人たちの作品が示しているのは、
人間のこころの最も深いところにある自然界の法則のようなものだと思っている。
彼らの在り方を知っていく事は、
私達人間のこころとは何なのかを、知る鍵を手に入れる事だ。

人間のこころには、この宇宙や自然を生み出している動きの構造と同じものが刻まれている
と考えられる。
何度も書いて来た事だけど、人が快を感じたり不快を感じたりする事は、
生命と直結した感覚だ。
痛みを感じなければ、人はもっと簡単に死んでしまう。
反対に快感を感じなければ、子孫が増えていかない。
こころといってもその源は、自然界のバランスと全く同質のものであるはずだ。
しんじ君やてる君の描く作品を見てみよう。
彼らは誰からも教わらずに、人を美の感覚に導くような絵を創ることができる。
美の感覚とは自然界のバランスと同じものだ。
僕達のこころの一番深いところ、源にあるのは彼らの描く様な感覚の場所である。
それによって人間は様々な環境で調和し共存出来る訳だ。

一番、源のところは実は明晰だともいえる。
こころが逆に複雑になってくるのは、もっと浅い部分。
僕達が日常的に使っているこころの機能は、もっと表面の部分だ。
ここでは、とても複雑に見える部分が多い。
でも、これも実はそんなに複雑でもないような気がする。
人間は自分を保つためのプライドを持ち、
それ故にコンプレックスを持っている。
その形が様々なだけで、実際は恐れ、恐怖と孤独が根底にあって、
自己の存在を確認するために支配欲や嫉妬心などが生まれる。

この事に関連して、少し制作の場におけるスタッフの技術的な事にふれてみたい。
技術と言っても一般的な技術とは違うかも知れない。
我々の場合はこころに入って行くための技術が中心にある。
制作するとき、一人一人はこころの深いところに入って行く。
スタッフはここで絶えず相手のこころと響き合っていなければならない。
そして、すんなり入って行けるようにこころに触れ続けなければならない。
物理的にではなく、精神的に絶対に相手から離れてはならない。
相手のこころに入って同じように見たり感じたりして、
一緒に何かをつかみ取ってくる感覚だ。
相手のこころの動きを見極めてついていくためには、
自分のこころをフラットにする必要がある。
そのために自分のこころを知りぬいていなければならない。
自分のこころの癖や歪みを知っていなければならない。
例えば相手のこころのどこに、自分が反応するかは自分のこころが関係してしまう。
相手が可能性を示す心の動きをしたとしても、それを拾えなかったら意味がない。
なぜ、拾えなかったかと言えば、それが自分のこころの癖だからだ。
逆に流れに任せて次ぎの場所に行くべきところを、
反応してしまって流れを止めてしまう場合、
ポイントじゃないところに反応するのは自分のこころに関係するところがあるからだ。

例えば、相手が激しい怒りをぶつけて来たとする。
この場合、受入れてあげる事も必要だが、
相手が何を求めているのか知らなければならない。
ケンカしたいのかも知れないし、怒りそのものを発散したいのかも知れない。
ケンカして存在を確認したいのに、ひたすら受け入れるだけだったら、
相手を孤独にしていくだけだ。
なぜ、ケンカしてあげられないかと言うと、
自分のこころがケンカという事態に対して、何かしら拒否したい記憶や癖があるからだ。
逆に受け入れてあげるべき時にケンカしてしまうのは、
受け入れると言うことを拒むこころの癖があるからだ。
これはいつか別の機会に書くが、
お互いが深い繋がりの中で向き合っている時に出てくる感情は背景がある場合がある。
さっきの怒りにしても自分に向けられているとは限らない。
どこかでいつかおきた事が消化出来ていなくて、再現しているのかも知れない。
「好き」「愛してる」と言われたとして、本当の恋愛というケースは稀だ。
それは何かのかわりだったり、何かを再現したり、埋め合わせたりしている。
父を求められたり、母を求められたり、子供や弟を求められたりするが、
それは相手が成長と共に乗り越えていくべき対象を、
置き換えて進んでいこうとしていると言える。
その事をしっかり自覚しながら、手伝っていかなければならない。
そこに気付かずに腹を立ててしまったり、深刻に考えたり、喜んだりしたら、
それは自分のこころの癖だ。
自分が何が好きで、何が嫌いか、何を言われれば嫌なのか、
自分のこころはどんな制限をうけているのか、知る必要がある。
自分の限界が自覚出来れば、自由になれる。
そこから先の技術は、例えば、ケンカを求められたら、
今はこれに腹を立てる自分の癖を使おうとか、
受け入れられたいと望んでいる人には、今は腹を立てる自分は出てくるな、
受け入れる自分に登場してもらおうとか、
ある意味で自分を分割して使うことができる。
現場においては、自分を離れたところから、客観視出来なければならない。
自分を無くしたり、自分を使ったり、
相手のこころに入ったり出たり、状況を見極めて動いていく。

こころは関係によって変化し、環境によって変わるものだ。
良いこころの動きは磨かなければ身に付かない。
こころは鍛えることができるものだ。
そしてこころには可能性がみちている。
彼らの作品の世界の様なこころを取り戻せば、
僕達はもっと幸せに平和になることができる。

2011年9月16日金曜日

楽しさの質

震災後、やっぱり「こころ」に関心が持たれているようだ。
仏教本がブームらしいが、そんなところに救いがあるのだろうか。
お坊さんってほとんどがインチキだから。
勿論、本物もいるし、僕はあったこともあるけど、
そういう人は安易な幸福論は語らない。
分かり易く書けば何でも良いという訳ではない。
ブームで出回っているもののほとんどは、
本質とはまるで無関係なものばかりだと思う。
もう一つはスポーツ選手が書いた、精神コントロールの方法が売れるらしい。
これはお坊さんより、実際的だと思う。
スポーツ選手はやっぱり、どんな場面でも実力を発揮出来なければいけないし、
絶えずこころのバランスを保っていなければならない。
そんな経験を重ねている人達の言葉は信用出来る。
みんな、こんな時期にどうやってこころを保っていけば良いのか、
いろいろと悩んでいる訳だ。
でも、スポーツの試合中に精神コントロールが出来ても、
現実の一つ一つの出来事はもっともっと、複雑で難しいと言える。
そこをどう取り入れていくかだ。
こころをいかなるときも良い状態に保つには、日々の積み重ねが必要だ。
今すぐ、簡単な方法で身に付けることは出来ない。
ブームになっているようなノウハウ本を読んでも、すぐに使える訳がない。
毎日、みんなが気持ちよく居れるように、
自分のこころを良い状態にしておこうという努力を続けてこそ、
こういった大変な時代でも迷うことなく前を向いていられる。

アトリエでの制作の場でも、最も大事なのはスタッフの心構えだ。
一日、二日なら良い気持ちで居られるだろうが、
どんな時でも、毎日、その状態がたもててこそ、本物だ。

先日、長く付き合っている学生の1人から、
「ブログいいんですけど、文章っぽくないところがちょっと物足りないです」
との言葉をもらった。
もちろん、彼は好意的に言ってくれている。
僕の話を普段聞いているので、いやもっと深いでしょと言いたいのだろう。
だけど、深いことをいかにも深そうに書く必要はない。
彼のいう文章っぽい文章とは、僕にいわせれば論文調ということだ。
好きな人はがっしりしていて、何だか読んだ気になるのだろう。
でも、僕は論文調の文章は好きではない。
なぜなら読み手は内容がないのに、読んだという錯覚だけで満足し、
書き手はあらかじめ、読者を限定しているからだ。
その様な文章は閉じている。
実は、そういった文脈の中では、
書き手も読み手も、何も考えてはいない。ただ、そういう錯覚があるだけだ。
冒頭のノウハウ本の方がまだ、読まれることを意識しているだけましだ。

さて、今回は楽しさにも様々な質のものがあるということを考えたい。
楽しさは、気持ち良さは本能だと書いてきた。
ただ、いま本当の意味の楽しさを知っている人がどれだけいるだろうかと思う。
時間つぶしや、自分や現実への紛らわしは楽しさとはいえない。
以前、「遊び」について取材をうけた。
遊びがいかに大切か考えたが、その時の質問に
「一日中ゲームしている子供をどう思いますか?」
というのがあった。
一日中ゲームしているのが良い訳がないが、
では何が原因なのか考えなければ意味がない。
原因はその子供達が「本当の遊び」を知らないところにある。
例えばの話だけど「遊び」と「勉強」を
あるいは「遊び」と「仕事」、「遊び」と「真剣さ」を分けて、
遊びを悪者にしていないだろうか。
問題なのは遊びではなく、質の低い遊びだ。
真の遊びは勉強でもあり仕事でもあり、真剣な行為だ。
ゲームで遊ぶ子供は遊んでいるのではなく、遊ばされているのだ。
同じようにインターネットで遊んでいる大人達も、
いくらそれが仕事だと言い張っても、情報に遊ばされている。
最近ではあまり言う人すらいなくなったが、
ゲームを擁護する理屈として「頭を使う」と言われていた事もあった。
ひどい理屈だと思う。
確かに何をやっていても頭は使う。
ただ、ゲームで使う頭の機能がどれだけ限定されて偏ったものか考えるべきだ。
そこまで言うと実は受験勉強で使う頭も、
はっきり言って同じように偏ったものだけれど。

楽しさと言ってもこれと一緒だ。
楽しければ良いと言う理屈は、
その楽しさの質を考慮しなければならない。
本物の楽しさ、一歩踏み込んだ楽しさを知ってほしい。
それは当然、自分で見付けるしかない。

アトリエで過ごす作家たちの姿を見ていると、
この人達は本当の楽しさを知っているなと思う。
まだ本当の楽しさを見付けられていない人は、制作の場でも迷いが強い。
一人一人がただ楽しければいいというのではなく、
本当の楽しさを発見出来るようにしていかなければならない。

以前、ある施設の運営者が自分のところでは通う人達みんながいつも遊んでいて、
楽しく過ごしている、好きな事をしている、アトリエと一緒だと言っていた。
申し訳ないが全く違う。
どこが、違うかはここまでお読みいただければおわかりだと思う。

楽しさにも、遊びにも、人を大きくする大切な要素があるか、
しっかり見極めて、より深い楽しさ、より深い遊びを見付けてもらいたい。
そのために大人は自分が深い世界を経験して、
子供達や若い人達に、もっと深く素晴らしい楽しさがあるよ。
知らないともったいないよ、という事を教えるべきだ。

2011年9月14日水曜日

ほめてのばす?

テーマはこうなってるけど、前回の続きの様な事を書きたい。
前回、共感について書くつもりが、鍼の先生とのことで終わってしまった気がして、
反省している。

冒頭の言葉は先日、お客様とお話ししていた時に出たものだ。
「つまり、ほめてのばすことですね?」
会話の途中での質問だった。
そうかな?とちょっと違和感があって考えてから答えた。
「僕の場合だとほめてのばすと言う様な事はしません。ほめることはありますが、のばすためではありません。純粋にいいと思った時にほめます」
そんな会話だった。
何度か書いたが、人のこころはマニュアルどおりにはいかない。
ほめてのばすと言ってしまったら、それはマニュアルだ。
マニュアルどおりに進めるために、良いと思わなくてもほめる事になってしまう。
大事なのはほめる事ではなく、相手の中からほめるべきすぐれた要素を見付ける事だ。
たとえほめても、それが心から出た言葉でなければ、
逆に相手とのこころの距離が深まるばかりだ。
特に、こどもを相手にする場合、ウソを言ってはならない。
「この人、本心から言っていないな」と思われたらもう次ぎには繋がらない。
だから、ここでも大切なのは「共感」だと思う。

共感する事は簡単なようで難しくもある。
共感するとは相手のこころと、自分のこころを一つにする事だ。
これが出来れば、必ず良い関係が生まれ、そこから何かが生まれる。

最近、数回に渡ってダウン症の人たちの資質と気をつけるべき事にふれた。
やはり保護者の方達からいくつか反響があった。
その中で、今悩んでおられる方からの相談もあった。
こういう場合はどうしたら良いのでしょうという具体的なものについて、
本当に残念ながらお答え出来ない。
困ったり、悩んだりしておられる方に直接力になれなくて申し訳ないが、
これはどうする事も出来ない。
なぜなら、こうすれば絶対に上手くいくという方法はないからだ。
アトリエにいる時は、この場合どうするか、一つ一つの状況において、
スタッフはみんな適切な判断をしている。
その時に何をすれば良いのか、私達には手に取るように分かる。
ただ、それぞれの生活の場でのことは、
表情を見る事も出来ないし、同じ事でも言い方や、振る舞いで全く違う結果を招く事もある。そのような大切な時間における責任は保護者の方にある。
私達や他の人間では、どう努力しても代わる事は出来ない。
ひとくちに無理は禁物と言っても、
何が無理で、何が無理でないのか。
その判断はしっかりと見極めなければならない。
それから一度こころのバランスを崩してしまった人の場合、
ただ本人のペースにだけにしておくと、どんどん脳が退化してしまう。
この場合は「無理は禁物」だけではだめだ。
ある程度の外的刺激も必要になってくるからだ。
原理的にはとても分かり易い事だが、
つらい時期をずっと経験して来て、外の世界から身を守るために、
情報をシャットアウトしている状況だ。
これが続いていくと認知症と似た様な症状が出てくる。
外の世界を自分の中に入れないように、閉じている訳だが、
これが違う形で現れると、妄想や架空の現実に浸ると言うこともある。
少しくらいは全く気にしなくて良いが、
外的ストレスが多くなっていないか、ここも見極めだ。

アトリエにいる時間は月のうち2回の2時間くらい。
平日に来ている人にしても限られた時間だ。
いかに、他での長い時間をどう過ごすかが大切になってくる。
勿論、アトリエでの短い時間に、凝縮された形で一人一人が、
自分本来のリズムを取り戻している姿は嬉しいかぎりなのだが。

最も大事なのは各家庭での保護者の方の判断であろうが、
様々な現場において彼らに関わる方達も共通の認識が必要だ。

冒頭にかえるが、ここでも一番大事なのは共感することだ。
どんな状況であれ、本人がどんな風に感じたり考えたりしているのか、
一緒になって共有していく事で、いま何が必要なのかが分かる。
以前、「正しさより楽しさ」が伝わると書いた。
個人との関係においては「正しさより共感」と言えるかも知れない。
実際、共感はどんな場合でも力になるが、正しさはそうとも限らない。
正しくても、共感が伴わなければ、その場では意味を持たない事がある。
例えば、制作の場においては特にこころのバランスを崩している人を見る時、
スタッフには次ぎにどうなるか読む能力が要求される。
一歩先を正確に感じ取っていかなければならない。
ところがだ、正確に正しく読めていても、何も良くならない場合がある。
「正しい」は見えているのだが、実際の相手のこころが動かない。
この場合、僕なら一旦、「読み」を捨てる。
せっかく見えた「正しい」も捨てる。
一歩先も見ない。そして、相手と一緒になって「うーん。どうしよう」
という状況を共有する。
不思議な事にその共感が通じた時、相手のこころが動き、
本人が自分で答えを見付けだしていく。

今では様々な責任もありこんな事もしなくなったが、かつての事。
代々木にアトリエがあったころ。
生徒の1人が全く表情を失っていた。
本当に外部をシャットアウトした状態。
僕と彼は2人で外を探索した。
彼は本当にゆっくりと歩く。マンホールの蓋をぐるっと一周したり、
歩き方にも自分の世界のルールをつくっている。
僕は彼のルールに従って全部、彼のやったようにする。
半日、そうやって歩き続けた。
代々木ゼミナールがあって、その中に彼が入って行く。
僕はとことん付き合うと決めていたので一緒に行く。
人がいっぱいで僕達の存在に案外誰も気が付かない。
その内、立ち入り禁止の場所を発見。
彼はとても興味を示している。
一瞬、迷ったようだが決断して入って行く。
僕はゲゲーと思いながらもついていく。
そして警備員にみつかった瞬間だった。
彼が今まで見た事もない様な猛スピードで走り出した。
警備員も追いかけていく。
僕も逃げるが、彼の方が遥かに早い。
僕はやったあと思った。彼の勢いが一瞬でも戻ったのだ。
警備員は追うのをやめる。
僕はなおも彼を追いかける。
彼が僕を振り向きながら「わーはっはっはー」と絵に書いたように、
少し僕をバカにしたように笑っている。
表情もなくなっていた彼が、猛スピードで走り、大声で笑った。
教室に帰ってしばらくノートを書いてお家に帰った。
彼が帰った後にノートをみると、
「エコールマン(おそらく僕のこと)の電話番号を教えて下さい」
と書いてあった。エコールとはアトリエで開いていた学校のこと。

制作の場においても、最も大切なのは共感だ。
相手と一つになること。
それは、言葉でほめたり、一緒だよと言うことだけではだめだ。
自分も相手も同じように感じていられる様な関係を築くこと。
かけた気持ちと努力の分だけ、必ずかえってくる。

2011年9月13日火曜日

共感する

前回、前々回と、自閉症の人達との比較という、やや細かい話題にふれてきた。
今回はもう少し一般的なお話をしたい。
ただ、一つだけ補足させていただきます。
ダウン症の人たちを記述する部分では、いつもすぐれた資質にふれているのに、
自閉症の人に対してはやや慎重な言葉にとどめた事について。
これはダウン症の人たちの方がすぐれていると言うことでは全くない。
僕が気を遣ったのは逆にこれまで自閉症の人たちについて、
「驚異の能力」「驚くべき記憶力」等が、キャッチフレーズのように語られて来た。
讃えられる事は、実はいいことばかりではない。
前回書いたが、なぜ彼らがあのような再現能力を持つのか、
考えもせずに祭り上げると、かえって彼らにとって生きにくい環境になっていく。
これは障害を持つ人達の才能や能力を取り上げる時、気をつけるべき問題の一つだ。
一つだけ例を挙げる。
障害を持つ人達について、
「彼らは細かい作業が得意なんです」とか、
「私達と違って、憶えるのに時間はかかっても、一度おぼえれば丁寧に間違えないでずっと続けていられるんです」とか、
そういう事を言う人は多い。
しかも、よく聞く話として「障害のある人達は細かい作業をひたすら続けるのが得意」
という誤った常識が広がりつつある。
こういった事には注意が必要だ。
勿論、細かい作業を繰り返すのが得意な人は結構いる事は事実だし、
彼らはそういう作業に生き甲斐を感じ、自信を持つ。
その人にとっては素晴らしい事だ。
だけど、かならずしもみんなそうではないことは、当たり前だ。
勝手に得意にされて、困っている人達も確実にいる。
さらには、そういった作業にしか参加させてもらえていないという現状を、
見直した上で、本当にそうなのか考えてみて欲しい。
ここでも、誤解がないように書いておくと、
勿論、細かい作業を繰り返すということは、立派な行為であり、
大袈裟かも知れないが、偉大な仕事であると思う。

さて、今回は「共感する」と言うことの大切さを考えたい。
僕は自分が知らない世界というものが好きだ。
自分が知らなかったり、見えないものがあって、
それを知っていたり、見えている人と話してみるのは楽しい。
幸いに、様々なジャンルの専門家や、色んな生き方をしている方々に出会う事が多い。
僕達もかわった事をしていると思われているので、興味を持たれる方も多い。
動物を知り尽くしている方や、海や森を知っている方、
職人さんの世界。そういう世界には特に興味がわく。
何かを専門にしていると、普通の生活の中では見えないものが見えたり、
感じられないものが感じられる。
そんな人達と話していると、「あっ、その感覚一緒だ」と思うことがよくある。
お仕事で出会っている方について、細かく書くと支障があるので、
ここではプライベートで出会っている方との話を書こう。

最近はぜんぜん行けていないが、近所に鍼灸院がある。
そこの先生とはこう言ったら失礼かも知れないが、とても気が合う。
実は鍼になど興味がなかった。
長い間、身体の疲れすらほとんど経験した事もなかった。
極端な話、身体というものが存在していて、その限界の中に自分がいる、
という事実を自覚したのは数年前だったと思う。
急に疲れ果てて、身体が自由にならない時期があった。
まあ、色んな事が重なった時期だったと思う。
その頃、鍼灸に出会った。
最初に行ったのは結構遠いところだった。
でも、そこに2、3回通っただけで、身体が元気になった。
それから、近所にあるところが良いと、よし子に教えてもらって、
僕もたまに行くようになった。
この鍼の先生とはいつも話し込んでしまう。
アトリエ以外の場所では聞かれないかぎり、仕事の話はしないようにしているが、
先生とはお互いの仕事の話ばかりしている。
一番意気投合したのが、「共感する」ということだ。
先生は共感する事を治療の最も大切なポイントだという。
癌の人を治した事もあるらしいが、そのときも共感の力が強く働いたそうだ。
共感するだけで、何かが変わる。
鍼をさす、お灸をするというのはあくまで手段だそうだ。
お互いが繋がり、共感が伝わった時、何かが変わるという。
この先生は面白い方で、頭に触っていると、その人の考えや、
過去や様々な事が見える。本当に分かるのだ。
僕も見てもらったときは大体当たっていた。
でも、なぜそれをするかと言ったら、相手に共感するためだ。
もう一つ、興味深いのは、先生は絵を見ていても、
画家の身体の状況が分かるそうだ。
だから、絵を見ていて身体のあちこちが痛くなったり、気持ち悪くなったりすると言う。
先生にダウン症の人たちの描いた絵を見せると、
本当に気持ちが良くなる絵だと感動されていた。
多分、身体を見ていく中で、様々な状況下で相手と一つになる、
という技術を磨かれてこられたのだろう。
絵を見ただけで身体が分かったり、
身体に触れただけでこころの中や、その人の過去が見えると言うと、
不思議に思う人は多いだろうが、僕はそれは有り得ると感じる。
制作の現場でも実際同じ様な事はおきるからだ。
個人的には実感としてその様な経験があるが、あまり言わないようにしている。
なぜなら、あっちの世界の話になってしまうからだ。
あっちの世界に行く事は必要だが、必ず戻ってこなければならない。
不思議なことが大事なのではなく、
共感しようという努力が不思議な世界を見せてくれるのだ。
気とかオーラとかいうのも同じで、僕はそういった言葉を使ったらアウトと思っている。
こういう言葉は便利でもあるので使いたくもなるし、
実際にそういったものを仮定しなければ、説明出来ない仕事でもある。
ただ、そういう自分達だけが分かっている世界に入ってしまうと、
他の世界の人には関係のないものになってしまう。
絵を見れば分かるから、分かる人だけ見れば良いという考えも、
下手をすると気やオーラのような話になってしまうので気をつけている。
ただ、言える事は自分のこころを磨き、
良い「気持ち」を相手に向けて、相手と一つになる事によって、
何かが変わり、良い方向に動いていくと言うことだ。

面白いのは多分、先生は相手を見ると、あるいは触れると、
その人の一番弱い部分、つらい部分が見えて、そこを共有する。
僕は多分その逆。まず始めに相手の一番強い部分、良い部分が見える。
まだ、それが表面に出て来ていなくても見える。
そしてそこに共感していく。
先生も僕も多分、人の幸福という同じものを目指すが、
プロセスにおいて違いがあるのだろう。

もうひとつだけ、興味深かった話を書く。
先生は治療する時、自分の中に森とか海とか自然をイメージするらしい。
そうすると相手に心地よい空間が伝わっていく。
これに近い事は確かに僕にもある。
自分の精神や身体の力だけでは現場は回っていかない。
自分の力に頼っていると消耗していくだけだ。
なにかしら自分を超えたものが、自分という器を使って仕事するイメージを持つ。
それだけでぜんぜん違ってくる。
ただ、ここでも僕の場合、森や海といった具体的イメージを避ける。
もっと何にでも変わりうる様な漠然とした空間をえがく。
例えば、制作に入る時、1人の作家のこころの中に、
作品がいくらでも出てくる自由な空間の様なものが見えるが、
これが見えないと上手く流れていかない。

先生が言うように、共感する事によって、必ず何かが変わる。
より自然に、より良い流れが見えてくる。
生命は絶えず、良くなろうとしている。

人と人が響き合う、共感すると言うことが人間の本能の一つだと言える。

2011年9月12日月曜日

自閉症とダウン症2

さて、前回の続きだが、
この項目では人間のこころの機能を2種類に分けて考えている。
それぞれの機能を代表しているのが、これまで書いて来た人達、自閉症の人やダウン症の人と言うことになる。
当たり前な事だが、どちらの能力の方がすぐれているという事では全くない。
2つの能力がそのまま、私たち人間を作って来たと言える。
2つとも人間が世界に対して、自然に対して、向きあうときの、
認識する、把握する時に働くこころの動きだ。
一方は分析的であり、一方は直感的である。
一方は過去へ向かい、一方は今という瞬間に向かう。
事物を一旦、分けてから記号化して認識する在り方。
物事の繋がりを全体でいっぺんに感じ取って、それに合わせる在り方。
現代はどちらかと言うと、記号的な把握の仕方に偏っていると言える。

私達がダウン症の人たちから学ぶべきは、
この現実を繋がりの中で認識していくこころの在り方だ。
彼らのこころを知る事は、私達の偏りや、歪みに気付き、
修正していく事にも繋がる。

ダウン症の人たちの持つ資質については、すでにこのブログでも書いて来た。
調和的感性、平和な在り方。直感の鋭さ。感覚の力。繊細さ。

ここではもう一方の在り方である、自閉症の人との比較を通じて考える。
例えば「食べる」という行為。
食べるとは自然を直接自分の中に入れてしまうという事でもある。
僕の友達でもある自閉症の人の場合、
チョコレートの中にアーモンドが入っていたら、
一旦アーモンドを取り出して、チョコレートと分けて並べる。
両方を認識してから、どちらかを食べる。
だから、色んなものが沢山混ざっている様なものには恐怖を感じて、
最初から手を出さない。
逆にダウン症の人の場合。
平日のプレクラスでもよく見る光景だが、彼らはよく何でも混ぜて食べる。
それとそれも混ぜるの?と思う様なものでも混ぜて食べる。
ちょっとした事だけど、面白い違いだと思う。
ダウン症の人たちは一緒になって纏まっていることの方が理解しやすい。
自閉症の人達の場合は、バラバラに分かれている方が理解出来る。
それぞれが自分の認識しやすい形に持って行くということだろう。

何かをしようと言う意志を伝えるとする。
僕の経験では、自閉症の人に対してはする行為だけを繰り返し伝える。
ダウン症の人には感情とか気持ちを伝える。
自閉症の人達は感情や気持ちが入った瞬間に認識出来なくなってしまう。
反対にダウン症の人たちは気持ちを切り離して説明してしまうと理解出来ない。

現実が記号化された瞬間に理解出来るのが、自閉症の人達。
現実が記号化された瞬間に理解出来なくなるのがダウン症の人達。

それぞれの得意とする事、苦手とする事を見ていくとこの事ははっきり分かる。

分けると分かる人達と、繋がっていると分かる人達。

僕達が最も見ている部分なので、絵画についても少し書いてみたい。
アトリエ・エレマン・プレザンはダウン症専門のアトリエなので、
普段はなかなか自閉症の人達の制作を見る事はない。
ただ、僕自身は個人的に自閉症の人を知っているし、
昔、寝起きを共にしてきた経験もある。
絵画に関しては、今は1人だけ僕が個人指導(本当はここでも「指導」的なことは何もしていないが)している人がいる。
自閉症の人達に絵を描いてもらった事は、何度もある。

ダウン症の人たちは、何も無く、何も決められていないところに、
描いていく事を得意とする。
自閉症の人達は何かがあったり、決められているものを描く事が得意。
決められているというのは、あくまで人にではなく、自分でだが。

形や記憶を忠実に写し取るのも、自閉症の人達の世界としてよく語られる。
ダウン症の人たちは、形や記憶は、それに伴う体験や雰囲気と重なった物として描く。

よく言われるのは、ダウン症の人たちの作品の方が抽象度が高いという話。
これは、私達のアトリエから生まれている作品をさしていっているのだろう。
僕は実は逆だと思っている。
自閉症の人達の作品の方が抽象的だと思う。
それは前に述べた、地図や暦と一緒だ。
地図も暦も現実にそっくりな部分があるが、現実そのものではない。
地図や暦は現実を極限まで抽象化したものだ。
あるいは記号化とも言えるだろう。
だから、地図や暦にはズレがない。現実にはズレがある。
ズレがないものに一度置き換えてというよりは、
ズレがない部分だけ切り取って構成し直した現実のモデルが地図や暦だ。
自閉症の人達が描く、記憶や現実の風景は正確なのではなく、
正確な部分だけ切り取って記号化したものなのだ。
なぜ、その様に描くのか、あるいは描けるのかは、
彼らがそのように理解可能なものにしなければ、現実を理解出来ないからだ。

逆にダウン症の人たちの作品は、彼らの見ている現実をそのまま描いている事が多い。
あれは彼らの中での現実でもある。
ある意味で言うと具象的とまでは言わなくとも、
見たまま、感じたままを描いていると言える。
例えば作品タイトルがころころ変わるというのがある。
ホテルだったのが、海になったり、街になったり。
僕はその絵がホテルであり、海であり、街であり、もっと色んなものなのだと思う。
実際にホテルを見ていてホテルだけを感じている事などあるだろうか。
そこにある風や空や音。雰囲気。その時、思い出した他の記憶。
一つの画面には一つのテーマしか描かないというのは、
私達の思い込みであり、一つの場面には様々な要素が混在している。
現実の中から、これだけが大切な現実というものを切り取るという行為は、
ある意味で抽象化、記号化された行為と言える。

繰り返すが、ここではダウン症の人たちの方に好意的に書いている訳ではない。
ただ、比較しそれぞれが生きやすい状況とはどんなものか考えている。

極めて簡単にではあるが、おおよそこのような相違点が彼らにはある。
細かくふれられなかったが、「分けてから再構成する」という事を、
見ていけば自閉症の人が描く作品の他の特徴も理解出来ると思う。
それぞれダウン症の人たちにはあまり見られない特徴だ。
画面をはっきり区切る。細部から描く(人を描く時に、人の小指から描く等)。
細部に注目する視点。それらが何処から来るのか、理解出来ると思う。

最後に一番大事なのは、彼らを私達や私達の社会がどのように受け止めていくかと言うことだ。
精神科医の中井久夫の著作であったと思うが、
あるしゅの統合失調症について以下の様な考えが述べられていた。
精神疾患の様な障害はなぜ生まれ続けるのか。人類という種は私達が思っているより、遥かに強いもので、もし必要のないと判断された障害があれば、長い歴史の中で確実に淘汰されていく。歴史を経て、存在している障害はではなぜ、なんのためにあるのか。
おそらく、人類が狩猟のような事で生活していた時、今の精神疾患をもつ人達が何らかの役割を果たしていて、その役割がなければ人類は生き残ってこられなかったのではないか。

その様なことが書かれていた。面白く、興味深い考え方だと思う。
いういった大きな視点から、これまで見て来た自閉症の人達や、
ダウン症の人たちを考えていく必要があると思う。

人類が生きていくために必要であった機能。
これからも必要な能力。
物を分け、吟味し、利用可能なものに作り替える能力。
物事の繋がりを感じ取り、様々な違いと共存していく能力。
過去を刻む事で、今を解釈する力。
今と言う瞬間の変化に感応する力。
それぞれが大切な能力だ。

私達は今、この時代に必要とされる能力を育てていかなければならない。
これからの時代は、共存するすべや、
平和であり続ける生き方が模索されなければならない。

人間にとっての2つの能力、こころの動きを見て来たが、
人間の在り方を見詰め直して、今失われつつある平和なこころを取り戻したい。
平和は外に求める以上に、自分のこころの状態として見出したい。

2011年9月11日日曜日

自閉症とダウン症

土曜日クラス、充実してました。
今、アトリエで一回で作品を完成させないで、何度かかけて制作しているのは、2人のだいすけ君とみりちゃんだけ。
みんな描くの早いから。
昨日、みりちゃんの新作、完成しました。
みりちゃんの作品はいつも、時間をかけたことが分かる丁寧な仕上がり。
オシャレでデザイン的な感じもあるので、いつも人気です。

日曜日クラスの準備をしながらこれを書いている。
待合室がなにやらコーヒー臭かったのでチェックしてみると、
椅子にボロボロと粉の様なものが落ちている。
たどってみると、原因発見。
絨毯に粉末のコーヒーと砂糖がいっぱい。
お湯がかかったのか、べっとりとこびりついて光っている部分や、
がびがびに固まっているところもある。
結局、拭き取るのに何度もお湯を温めて、ぞうきんを変えて、
結構、時間がかかってしまった。
そう言えば昨日、待合室に生徒が1人という状況があった。
彼が半分は失敗して、半分は気を引こうとして、こうなったのかな。
こういうことは、よくあることなので別に何とも思わない。
むしろ、「また、こんなにして。手間かけさせるなあ」という経験が、
その人との関係性を深めていく。
ただ、彼が1人になっている時間が少し長かったと思う。
制作が終わってから、他の生徒もまだいるので、
私たちは教室から離れることは出来ない。
保護者の方にもちょっとだけ配慮していただければと思う。
風邪がひどかったりしてしても、連れてこられる方があるが、
他の生徒もいるし、中には免疫の弱い人もいるので、
みんなの事を考えた場でありたいと思う。

さて、今回のテーマだけど、
前回のブログの中で、ほんの少しだけ自閉症の人との比較を書いた。
そこの部分にもう少しふれて欲しいという声があった。
あれは話の本題ではなかったのだけど、これを機に考えてみよう。
という訳なので、今回は興味のある方は限られるかも知れない。
また、障害の違いを考えると言うことが、
普段のアトリエのダウン症の人たちに、すぐれた資質を見出すという姿勢から、
少し違和感を感じる方もいるかも知れない。
でも、僕自身の見解では自閉症の人達と比較する事は、
彼らのことをより深く、客観的に知る事に繋がると思う。
細かい話題なので、ちょっと興味があるなあという方だけ読んでみて下さい。

これから書く見解は大枠において、村瀬学著「初期心的現象の世界」及び「自閉症」から考えの枠組みを借りて来ている。また、中沢新一の一連の著作、特に「対称性人類学」と「狩猟と網籠」からも、そこに直接、自閉症やダウン症が語られている訳ではないが「もうひとつの人間の知性」という視点から参考になると思われる。
それらの見解に加えて、僕自身の個人的経験を元に考えてみたい。
僕自身はある意味からいうと、人間の心というテーマから様々な障害を持つ人達と16、7歳のころから向き合って来た経験がある。そういった経験は特殊な環境における、特殊なものではあったが、何かしら根源的な問題を突きつけるものでもあると思っている。

予め、お断りしておくと、自閉症には様々なケースがあり、
その中でも障害の種類がわかれる。
ダウン症の人たちに見られる様な一つの在り方として、ひとくくりには出来ない。
ここでは、障害そのものではなく、そこに現れた人間の心の機能に絞って書いている。
また、ダウン症とは違って、自閉症についてはすでに、相当に研究がなされている。

自閉症の人達とダウン症の人達は、実は対照的でありながら、
コインの表裏のような関係にある様な気がする。
勿論、一方は染色体と言う根源的部分に存在の由来があり、
一方は脳機能の障害と言われている部分で、全く種類の異なる部分もある事は確かだ。
ただ、それぞれが人間を考える意味で最も重要な能力を示している。
簡単にひと言で纏めると、
自閉症の人達は、物事をバラバラに分けて、抽象化、記号化する能力を。
ダウン症の人達は、世界を繋がりの中で全体的に把握し、調和していく能力を、
それぞれ示している。
この二つの能力は人間にとってもっとも重要なものと言える。

まず、自閉症の人達が示す機能について考えてみる。
村瀬学によると、「地図」と「暦」という、人間の発明の中でも最も偉大なこの2つが、
自閉症的な心の表れの代表だという。
そこから考えてみると、地図も暦も現実そのものではない。
現実を一旦、分解して、分けてから、再構成したもので、
それを抽象化、記号化ということができる。
抽象化、記号化とは、今しかない現実の中から普遍的要素だけを取り出して、
他の場面でも再現可能なものとする事。
言い換えれば、現在を過去にしてから把握する能力。
この能力が科学を生んだ。
今の私たちの社会はこの機能抜きには考えられない。

よく、テレビ等で自閉症の人達の驚異的な記憶や、再現能力が取り上げられている。
あれをただ単に、驚異的能力と呼んではならない。
彼らにしてみれば、あのように驚異的に見える、記憶や再現能力を使わなければ、
この現実を把握する事が出来ないという事を忘れてはならない。
現実をまるのまま、全体で把握する事ができないが故に、あの様な能力が働く。

彼らの世界の面白いのは、現実を一旦、バラバラにしてから再構成するところだ。
バラバラに分けたものを、もう一度組み立て直すところに、彼らのリズムが現れる。
一旦、バラバラに分けて、扱いやすくしてから組み立てるので、
ある意味で邪魔が入らないで自分のリズムを貫くことができる。
前回書いた自分のリズムが壊れそうになると、断固拒否するというのは、ここの部分。
逆にダウン症の人たちの場合、現実をそのまま全体的に把握するので、
間にクッションが入らない。落ち着いて後で再構成するということが出来ない。
それが、彼らの壊れやすさの元でもある。

ところで、僕の好きなピアニストにグレングールドという人がいる。
グールドについてはいっぱい語られているが、
もっとも本質的な事は、実はここに書いて来た様な事なのではないかと思う。
彼の演奏が変わって聞こえるのは、
彼が現実を(この場合譜面)バラバラに分けた上で、再解釈、再構築しているところ、
そこに彼独自のリズムが現れる。
これは自閉症の人達の示す、心の働きと一緒だ。

自閉症の人達のこころの在り方について、まだまだ語り足りないところは多い。
あまり長くならないために言うと、
こういったこころの能力は人間を人間ならしめたものと言える。
自閉症の人達を知るとは、私たち自身を知る事だ。
また、現代は社会全体が自閉症化していっていると言える。
自閉症の人達は私たちの今を示す。
ダウン症の人たちは、多分、私たちの未来を示している。

次回、ダウン症の人たちについて書いた上で、
自閉症の人達と比較してみたい。
先取りして書いておくと、ここで見て来た自閉症の人達の丁度反対が、
ダウン症の人たちだ。

2011年9月9日金曜日

ダウン症の人たちの性質

今日は、どうしても考えておかなければならない問題を書く。
このブログでは毎回、ダウン症の人たちの持つすぐれた感性から、
私たちは何を学び、実践していけば良いのか考えて来た。
そこで書いて来た様な、彼らの素晴らしいセンスは、
彼らに合った適切な環境の中でこそ育まれていくものだ。
彼らは良いものにも、悪いものにも影響を受けやすい。
普通の人以上に環境が重要になってくる。
彼らのすぐれた資質とは、逆に言えば悪い環境の中では、
本人を苦しめる要因にもなりかねない。

お断りしておくと、これから書く問題は、本来はアトリエの扱う領域ではない。
専門の人達が研究もされていく必要がある。
ただ、目の前で原因も分かっていて、未然に防げる可能性があるにも関わらず、
手出し出来ないで悪くなっていく人達を見て来た。
私たちで分かっている部分は共有したい。
これまで、彼らの性質を見極めないで無理強いされてきたが為に、
こころを病んでしまった人達を沢山見て来た。
病んでしまってから、助けを求めて来る方や、
元気だった頃を知っている生徒もいる。

特に思春期をどのようにすごしていくかは重要だ。

これだけ、無理をさせられて、病んでいく人が多いのに、
一体この問題がどれだけ語られているのだろうか。
様々なケアについて、色んな場所で提言されているのかも知れない。
講習会の様なものもあるのかも知れない。
でも、最終的には彼らを守れるのは、身近にいる人達だけだという自覚が必要だ。
実際はほとんど、彼らを守れていない現状があると思う。

まず、もっとも身近にいる保護者の方達。
それからダウン症の人と関わる立場の方達。
さらに社会全般に共通の理解が必要となってくる。

実際の場面で一番多く発生する問題は、
健常者(と言われている)の社会のリズムと、
彼らの内的認識と成長のリズムが合わないところから来る。
個人差は大きいが、環境としては、学校、養護学校、
習い事の場で、このズレが生じる事がある。
だが、これは比較的に早いケースだ。
ほとんどの場合は思春期以降、就職先や作業所等での無理が重なって、
病んでいくケースが多い。
年齢的なデータに意味があるか分からないが、
僕が見て来た中で多かったのは、女性は18歳頃から、男性は20歳頃から、
この問題がおこりやすい。(実際にはもっとずっと後の場合もある)
全体から見ると、やや男性の方が繊細で注意が必要となってくる。

若干、話がそれるかも知れないが、病んでしまうと、
今の精神医療ではほとんど解決出来ないように思われる。
まだまだ、精神医療は健常者が病んだ場合を基準に作られていて、
こういったケースはモデルになっていない。
彼らの場合、言葉から症状を判断するのも難しいと思うし、
言葉によって理解させようとするのも難しい。
もっと言うと彼らの認知や認識のプロセスと、健常者(と言われている)の
それとは大きく異なっている部分があるのではないかとも思う。

まず一番は彼らの性質を知ることだ。それに尽きると言っても良い。
例えば自閉症の人達の場合(僕も以前は沢山付き合って来た)、
すでに常識となっていることは多い。
急に身体に触れたり、目をピッタリ合わせたりしてはいけないとか、
理解させるのに踏まなくてはいけない手順とか。
こういったことは、すでに常識となって、彼らに無理に接する人は少ない。
(必ずしもそれが良いとは思わない。人のこころはマニュアルのようにはいかない。僕は自閉症の人に接する時、専門に勉強した人達からはびっくりする様な動きをする時があった。ここで書いた急に身体に触れるとか、それはあるタイミングでは関係性を築くのに必要であったりする。マニュアルでは有り得ない行動が、その人のこころを開くきっかけとなる時もある)
特に作業所や養護施設では対応にズレはないと思う。
そもそも自閉症の人達の場合、無理強いされたら自分から、
何らかの身体反応を起こして拒絶する。(単純に暴れる等)
ダウン症の人たちの場合、こういった拒絶の反応をほとんど示さない。
そこで見落とされてしまうケースがおおい。

ダウン症の人達の場合、ひと言で言えば無理は禁物だ。
そして、その無理は良く相手を見てこちらで判断しなければならない場合がある。
よくあることだけど、本人がやりたいと言うからやらせました、
本人がいきたいと言うから行かせましたと、それで悪くなる場合がある。
本人の意思は勿論、もっとも尊重すべきところだ。
ただ、無理が重なった場合、本人が自分で判断出来ない、
意志が持てない状況があることを理解しなければならない。
大事なのは、本人の意思を感じ取ってあげることだ。
彼らの場合、周りに配慮して、みんなが望んでいるならとか、
自分がここでイヤと言ったらみんなが悲しむとかを感じている。
無理でも自分では言えないことがほとんどだ。
彼らの場合、気をつけなければならないのが、
良いことの場合も、悪いことの場合も、普通の人から見れば、
だいぶ後になってから影響が出てくる。
目に見える形で影響が出て来た時にはもう遅い。
(勿論、それでも出来ることはたくさんある。ただ、時間が相当かかると覚悟を持つことは必要)
なぜ、今こうなっているのか、分からないと言う人は多い。
彼らの場合は本当に長い目で見る視点が必要だ。
結果はだいぶ後に出るし、自分の中に吸収するのにも時間がかかる。
なかなか良くならないと悩まれる保護者の方も多いが、
その人がそういう状態になるのに実は10年我慢し続けているかも知れない。
10年かかって、病んでしまったのなら、治るのに10年以上かかるだろう。
前にも書いたが、大事なのは良い時から、
良い状態で居続ける努力をすることだ。
そして、もし病んでしまったら、周りは焦ったり急いだりしてはいけない。
付き合う覚悟を持って、気長に一歩づつ歩むしかない。
極端にいえば、そばにいる人間は、治そうと思ったり、
治って欲しいと思わないで、本人を受け入れることが大切だ。
結果、それが一番近道でもある。

彼らは自分が壊れてしまうまで我慢を続ける。
周りの見極めが必要だ。

本当は彼らより、私たちの認識をこそ変えなければならない。
先日も生まれたばかりのダウン症のお子さんを抱えて、
お母様は本当に必死になって質問して来た。
「この子は普通になれるのでしょうか」
「理解出来るようになるのでしょうか」
「成長するのでしょうか」と。
始めてで全く分からない、不安で仕方がないという様子だった。
少しでも希望を持っていただきたいと、彼らの可能性をお話しした。
その方が望んでおられる様なこと、
普通に成長して、物事を認識して、幸せを感じること。
みんな彼らは出来る。
だけどそれは私たちのとは違うやりかたでかも知れない。
成長にも、「出来る」にもやり方は一種類じゃない。
彼らの理解の仕方、彼らの成長の仕方、彼らの生き方がある。
こちらが、それを理解出来れば、無理を強いることをやめるだろう。

訓練すればなんでも出来るようになる訳ではない。
彼らのリズムで出来ることは増えていく。
その時間を一緒に楽しんで共有出来ていれば、どんどん成長していく。

嫌がっていたのに訓練し続けて本当に良くなった等と言う話は聞いたことがない。

職場や作業所の方々にもこのことは、深く理解していただきたいと思う。
これまで、一生懸命、正しいと思って努力させるという人ほど、
失敗していることが多い。

彼らの場合、愛情がもっとも必要だ。
成人したから愛情がいらないとはならない。
愛情とはある意味での注意力、注意を注ぐことだ。
悲しんでいれば、悲しみを共有する。
喜んでいれば喜びを共有する。
何かを努力していれば、そのプロセスを共有して一緒に乗り越えていく。
一つ一つ、小さなことでも、精一杯生きている彼らの状況に、
絶えず共感していくこと。

今回はこの一回だけでは書ききれなかった。
いくつか、具体的なエピソードにも触れたいものがあったのだが。
またいずれ、このテーマは深めていきたい。

2011年9月8日木曜日

「辛口」の意味

モロちゃんからも嬉しいメールをもらった。
会社帰りに電車の中でこのブログをチェックするのが日課になったと。
ありがとう。
やっと少しだけ、書くのになれてきた。
でもやっぱりまだキーボードを打つのは、普通の人よりそうとう遅いと思う。
エクセルからも「ちょっとづつサクマさんの文体になれて来て、楽しみ」とのこと。
ゆりあからは「もう少し、要点をまとめてすっきりさせたらいいよ」と言われている。
頑張ります。
保護者の方達や外の方からも、応援して下さる言葉がきている。
有難いかぎり。

数人の方から「辛口が気持ちいい」との声があった。
僕は辛口に書いているつもりはないけれど、理解されて嬉しい。
たしかに、これ言っていいのかなと考えない訳ではない。
反対意見は恐れないけど、アトリエにある「ほんわかした雰囲気」が好きとか、
「やわらかい感じがいい」と言って下さっている方達がいるので、
そこは変えたくないなと思っている。
アトリエ・エレマン・プレザンの人達、佐藤家の人達は、
肇さん、敬子さん、よし子たちは、このおだやかな雰囲気にぴったり。
小さな事には拘らないし、包み込んでいくやさしさがある。
その意味で身近にいながら尊敬出来る人たちだ。
僕は残念ながら、そんな人格者ではない。
背伸びしてそんな存在に見せる気もないし、自分を偽りたくはない。
だから、ここでの僕の役割はいいものはいい、悪いものは悪いと、
はっきり書く事でこの活動の意図を少しでも明確にする事だと思う。
それも一つの役割で、これまで見えにくかったことが見えてくるかもしれない。

勿論、僕だって教室ではほんわか雰囲気ですよ。
「サクマさん人に甘すぎるよ」っていつも注意されてるくらい。
まあ、まだ遊びがないことは事実かな。
「サクマさん、マジメすぎ」とも言われる。

例えば、よし子と学生達が見守る中、僕とある生徒のやりとり。
「ハーリーポッター!」
「ハーリーポッター?」
「ヘーリーポッター」
「ヘーリーポッタア?」
「ビエスー」
「ビエスっ?」
「ビエッス!」
「オーー」
「オオー、ビエッス!」
お互いの顔が10センチというところでのやりとり。
周りのみんなは大笑いしている。
でも実は僕は大マジメに話している。
なんとか相手の世界に入ろうと真剣な場面。
僕が真面目になればなるほど、周りでは笑いが増えていく。
この辺はいい真面目さと言える。

このブログでは人を傷つける様な事は書いていないつもりだ。
ただ周りに配慮するあまり何も言ってない事になるのはダメだと思う。
正直である事がルールだと思っている。
真面目に考えてた結果、現状に対する批判が出て来たならはっきり書く。
全ての人が賛成はしないだろうが、それはそれでいい。
真剣に考えた道筋だけでも伝わればと思う。

時々、議論になる時もあるが幸いな事に、
今のところ議論した人とはその後、理解が深まり合えている。

謙虚な態度は必要だが、その謙虚さは真実に対する恐れから来ていないか注意が必要。
いいものはいいと言って、悪いものは悪いと言って、
その言葉に責任を負う覚悟が必要だ。
何も言わなければ当然、責任は免れるが、それでは本当に守るべき価値すら
曖昧になってしまわないだろうか。

批判するには勇気がいる。
自らも批判にさらされる覚悟も必要。
でも、正しいと思う事があり、それを守る大切さが分かるなら、何も恐れる事はない。
むしろ守るべきものを守らず、間違った考えを認める事こそ恐れるべきだ。

僕にとって目上の人間は、あまり怖くはない。
それよりも学生や年齢が下の存在は、濁りのない目が怖い。
ごまかしがきかないと感じる。
彼らがそばにいる状況があるのはだから楽しい。
「あんな仕事をしてはいけない」「こうあるべきだ」と言う話や、
間違ったものに対しての批判を自分が口にするほど、
ではお前はどうなのかということが問われる。
いつもそんな話を聞いている学生達が仕事を見ている。
「サクマさん、そんなんじゃダメだよ」と言ってくれているうちは、
信頼関係が成立していると言える。
本当にダメな仕事や生き方を見せたら、彼らは黙って去っていく。
おそらく2度と帰ってこない。
少しでも手を抜いてしまえば、
「やっぱり批判はしていても口だけだな」となってしまう。
だからはっきり「こうあるべき」と言って、
周りからも見られる場所に自分を置いておくのは、精神的な堕落を防ぎもする。
責任を持つ事が大切だと思う。
そこが、言っていて気持ちがいいからいうのと異なるところだ。

今の自分のレベルがまだまだなのは、日々実感として感じてしまう。
でも、あらかじめ未熟さを言い訳にしたくはない。
最善を尽くしているなら、
「ある程度は良い仕事ができている」という姿勢は見せる。

ところで辛口というか、はっきり意見を述べるということで言うと、
展覧会やイベント中に必ず、議論をしたがって来る人がいる。
僕自身はいつでも受けて立つ準備はできているけど、
他のお客さんもいるし、場の状況は見極めて欲しい。
人がいない時にいくらでもお相手しますからと言いたい。

この前も学校を出たばかりの血気盛んな青年と議論した。
「かわいいもんなんだから、はい、はい、そういう意見もあるね」と
流しとけばとか大人げないとか言われつつ真剣に議論した。
僕は相手が真剣ならこちらも真剣に行く。
手加減しては逆に失礼だと思う。
偉い人であろうが、学生であろうが、そこに区別はない。
ただ真剣に考えていくだけだ。

こういったことは全部、「明晰にする」ためだと思っている。
何が大切で、何を守るべきか。
いま私たちに何が必要なのか。
アトリエにある様なおだやかな雰囲気とは、
そのような努力無しにこの時代の中で守ることは出来ない。

2011年9月7日水曜日

変わらない場所

昨日、アトリエに来たてる君が
「サクマさんって、大きくなって、お父さんになるんだね。がんばってね」
と言ってくれた。誰の言葉より嬉しかった。
そして、彼と最初に出会った時から何も変わっていない時間と絆を感じた。
彼らとは本当に深く通じ合うことができる。
彼らと出会って良かったといつも思う。

月曜日にアトリエに来た元学生にも、
「なんにも変わってないねー。やっぱりアトリエはいいね」
と言ってもらった。
この「変わらない場所」ってなんだろうと思う。
生きていると色んな事がある。つらい事も悲しい事も。
世の中がどんなに変わっても、
ホッと出来る場所、自分を取り戻せる場所があればいいなと思う。

アトリエの中でも実は様々に変化しているし、
一人一人、成長し、その意味では変わって行っている事は確かだ。
場合によってはメンバーすら変わっている。
でも、ここへ来て「何も変わってないなあ」と感じるのはなぜか。
それは、より正確に言えば「変わっていない」のではなく、
「変わらない何か」があるから。「変わらない何か」を大切にしている場所だから。
「変わらない何か」とは文字どおり「普遍」であろうと思う。

僕自身、人間にとっての普遍性が一番大事だと思っている。
普遍なものとは、「誰もが求めている」「誰もが気持ちいい」ことだと思う。

ここで出会うダウン症の人たちのリズムは、とてもゆっくりしていて心地よいと、
多くのお客様が言って下さる。
そのリズム、時間の感覚は実は「ゆっくり」なのではなく「普遍」なのだと思う。
なぜなら、逆にあまりに「早い」時間の流れに委ねてみたら、
多分みんな「心地よい」と感じないだろう。
心地よいと感じると言うことは、それが本来の在り方だと言える。
おそらく今の世の中の時間の流れ、スピードの方が特殊なのではないだろうか。
人間という種にとって適切なリズムに入った時に人は心地よいと感じるのだろう。

前にも書いたが「早い」や「便利」が良いだけではない事はあきらかだ。
例えば山でも歩くことをせずに、いきなり人工的に頂上に連れて行かれたら高山病になる。
歩いてくスピードによってしか身体は変化出来ない。
身体もこころも同じだ。
早く出来た事は、自分の中に深く入らない。時間をかけてこそ自分のものになる。
今の社会の流れでは沢山の高山病を生んでしまう。
実際に高山病になってしまった人が、ここへ来て、ゆっくり呼吸して、
自分を取り戻していったケースもいくつかある。

そんな事を思うとダウン症の人たちのゆったりとした時間感覚は、
人として適切なリズムであるように思う。

人間にとって、このリズムが気持ちいいよねとか、
こうするとちょっと嫌な気がするねとか、
やさしくあるのって大切とか、みんなで協力すると楽しいねとか、
そういう当たり前な、「普遍的」なことを大切にして来たから、
ここが「変わらない場所」に感じられるのだと思う。

この「変わらない場所」は卒論のテーマにアトリエを選んだ、
ゆりあやモロちゃんの言葉にも現れている。
ゆりあの卒制写真集タイトル「はじめにある風景」。
モロちゃんの論文タイトル「絵画のむこう側」。
「変わらない場所」とは絵画のむこう側であり、はじめにある風景であると思う。
そしてそれはゆりあとモロちゃん、それぞれが、
アトリエやダウン症の人たちと出会うことで、
自分自身のこころの中に見出した光景であったはずだ。

「変わらない場所」とは一人一人のこころの中にある、人間の普遍的な在り方の事だ。
社会はそれをどれだけ大切に出来るか。
私たち一人一人は、それをどれだけ大切に守っていけるか。
大切なものを忘れてはいけない。
大切なものを見失ったり、なくしたりしないように。

アトリエの活動が変わらない、普遍的な価値に気付くきっかけとなればと思う。

2011年9月6日火曜日

プレ•ダウンズタウン

最近、色んな方がブログを読んで下さっていると聞く。
好意的なご感想もいただく。本当に嬉しいことだ。

このブログでは、アトリエの事を知っていただくだけではなく、
この場から見えてくる事を通して、少しでもこころが豊かになるために、
役立つ視点を書いていきたいと思っている。
読んで下さるみなさんのお役に立てるものを書きたいと、心を込めて書いてはいるけど、
自分の力不足を感じる事は多い。
ただ、ブログの様な形だと書き流す様な文章が多いので、
そういったものにだけはしないようにしている。
毎回読むのが大変だと思うので、ご興味の持てるものだけお読みいただければと思う。
勿論、お時間がある時は過去のものでも是非、お読みいただければ嬉しいです。

昨日は久しぶりの元学生が遊びに来てくれた。
赤ちゃんを心から祝福してくれて、よし子の目からも涙という場面もあった。
ありがとう。
でも、ちょっとだけ学生チームにお願いです。
よし子さんの体調はやはり普段とは違います。
会いたい人、お話したい人もいると思うけど、しばらく休ませてあげてね。
僕1人でも良ければ、話は聞きます。(よし子さん、お灸、マッサージ時間は僕の仕事)
みんな協力お願いね。

さて、昨日から平日のクラスが始まった。
月、火、水曜日におこなわれているクラスはプレ•ダウンズタウンという名前。
プレはその名の通り、ダウンズタウンへ向かうための活動だ。
もともとこのクラスは、アトリエが代々木にあった頃に学校として始まっている。
当時、中学校卒業を目前にむかえた、保護者の方々が中心となって高校のかわりとして、
学校が創れないかということでスタートした。
指導(僕らは指導という言葉は使わないが)を任された僕達は、
どのような学校にしていこうかと考えた。
結論は一人一人が、自分で創り、みんなで協力して創造する学校にすることだった。
最初に参加した4人のメンバーは既に絵画を描き続けている人達。
アトリエでは特別な場合は除き、制作に題材やモチーフを与えない。
テーマもなし。技法を教える事もない。描くように言う事すらほとんどない。
その中で、彼らは描き、画面に調和を生み出す。
この感覚は彼らの内面にある、秩序でありバランスであるはずだ。
それは、彼らの生そのものにある秩序でもあると考えた。
そこで絵を描くのと同じように、学校も創っていけるはずと思い、このクラスが出来た。
最初は何もないビルの一室に4名の生徒と僕とよし子が入って、
「これからなにしよっか?どんな学校にしたい?」
と言うところから始まった。
「壁が真っ白でつまんないから、みんなで絵を描きたい」
と1人が言ったのが始めての共同作業のスタートだった。
壁に絵を描きながら彼らのイメージはどんどんふくらんでいった。
みんなで棚や机を創った。
柱にもブラインドにも模様を付けた。
トイレはカッティングシートできれいなデザインにした。
自分達で創った空間の中で、一人一人が落ち着いて学び合い、
自分のスタイルを確立していった。
ダウンズタウンの具体的なイメージはここから生まれている部分も大きい。
ここだけで話が終わってしまうので、学校の話はまたいずれ。

そうやって創って来た場が今、プレダウンズタウンとなっている。
学生達やお客さんはプレに来て、メンバーに会い、歓迎されて友達になったり、
幸せを分け合っている。
時には落ち込んだ時に、彼らの迷いなく創っていく姿勢や、
明るい笑顔や、人を思いやる気持ちに救われたり。
学びと創造の空間がプレだ。

プレダウンズタウンは会員の方達のご寄付に大きく助けられている。
毎年、支えて下さる皆さまにプレのご報告をすると、
すぐにご寄付を振り込んで下さる方々。
そういった方達の思いがこの場を創っている。

スタッフもここでは人件費は頂かずに、場づくりをさせていただいている。

この場の可能性と力を信じる人達で、良いものが生まれている。

昨日の初日はゆうすけ君の
「うはよーございぱーーす」の元気な声で始まった。

2011年9月5日月曜日

ダウンズタウン

土、日曜日は久しぶりに絵のクラス。みんな相変らずすごい。
さとし君、てる君は休み明けだとさらに勢いがある。
描き終わった後に、すぐる君としばらくお話しするのも日課。
「今度はねえー。キャンプ場に行くんだよ」
「どこのキャンプ場?」
「サワガニキャンプ場」
「サワガニキャンプ場?すごいね。サワガニがとれるの?」
「サっサワガニはねー。とれない。サガワニはいるんだよ」
「サガワニ?佐賀のワニ?」
「サガワニはいいんだけど、キャンプ場の奥に蛇がいるんだよ」
「あぶないね。奥には行かない方がいいね。蛇はあぶないよ」
「蛇って言うかね、ガマガエルなんだ」
「ガマガエルくらいなら、大丈夫か」
「いや、ガマガエルは、ちょっとだけ毒を持ってるからね」

「ご飯はねー、イギリスは肉がまずいんだよ。だから妹はパンを持って行ったんだよ」
「えっ、イギリスにいってるの?いつ帰って来るの?」
「9月7月」
「9月7月か」(9月7日)

「イギリスはね、ナイフとホークを使うんだよ」
「日本はお箸だよね」
「ドイツは手だよ」
「えっ、ドイツって手なんだ。僕もドイツ行ってみたいなあ」
「ドイツは危ない。ドイツは戦場カメラマンが行くんだよ」
「ドイツのトイレはどうなってるの?もしかして手?」
「ドイツはねえ、吊るしてある布でふくんだよ」
「ドイツの食べ物と言えば、カレーでしょ」
「そうカレー」
「じゃあ、インドは何食べるんだっけ?」
「インドはねえ、ナン!」

さて、今回はダウンズタウンについて書く。
(特にアール•イマキュレやダウンズタウンの部分は、アトリエ内でもそれぞれの考えと思いがある。このブログで書いているのは、スタッフとしての佐久間の見解である事はおことわりしておく)
ダウンズタウンについては、既にパンフレットも出来ているし、
ネット上にページもあるので、概要はだいたい見れるようになっている。
ただ、少し誤解もある事は事実だ。

ここでは、少しだけ大きな視野で考えていきたい。

「アール•イマキュレ」と同じく、「ダウンズタウン」も、
ダウン症の人たちの作品と、彼らのこころの在り方を見つめていく中から、
ある意味で必然的に見えて来た概念だ。
僕自身は、この2つは直結していると考えている。
イマキュレ作品にある、共通した感性とは何か。
彼らが同じ背景を、文化を、こころを共有していることが分かる。
そして、このあえてひと言で言えば平和なこころは、
私たち人類の心の奥にある、もっとも根源的で重要な感覚なのだと思う。
ダウン症の人たちの持つ感性を活かし、提示出来る場があれば、
そこで私たちは、本来、人間誰しもが持つこころの源に出会い、
自らのその機能に気付く事ができる。
その様な文化装置がダウンズタウンの大事な要素だと思う。

大袈裟に言えば、私たち一人一人が人間としての大切なものを、
発見出来、重視出来るかどうかが、ダウンズタウンの実現を決定づける。

ダウンズタウンという考えは、2005年におこなわれた、
聖路加国際病院でのシンポジウムでの、佐藤よし子の発言で、
始めて公的に語られた。
その後、中沢新一氏という協力者を得て、多摩美術大学芸術人類学研究所と共同で冊子やホームページが作られた。

中沢新一氏や多摩美術大学も、賛同者、協力者として大切な方々ではあるが、
他の大学や、学者の方もそれぞれ、重要な協力者となって下さってもいる。
様々な立場の方々が垣根を越えてご協力下さっている事も書き添えておきたい。

このプロジェクトは様々な方達のご協力を得なければ実現出来ない。
言い換えれば、社会がダウンズタウンを必要としなければ、
それは現実のものとはならない。
私たちは、具体的な土地や仕組みを構想していくと同時に、
文化的土壌づくりもおこなっていかなければならない。
真の理解者を増やしていく事が重要な課題でもある。

ではダウンズタウンとはどのようなものになるべきか。
まず、ダウン症の人たちが共有している文化が体感出来る場である事。
「アール•イマキュレ」美術館が中心にあり、世界からも人々が訪れる。
自然や農場がある環境。
作家たちのアトリエや家。訪れる人の宿泊施設。
作家たちが創るカフェ。
そういったイメージがパンフレットに書かれていると思う。
ただ、これは理想郷なのではなく、
具体的にダウン症の人たちと接してきた中で生まれたイメージだ。
実際に現在おこなわれているアトリエでも、
彼らの出すお茶にホッとしたり、彼らの作品に感動したり、
彼らの言葉や存在に癒されたりして帰って行くお客さんは多い。
人が平和になれる場所。
人が平和を見つけられる場所。
自然や人や多様性と調和する環境。
人間本来のリズムと感覚を取り戻せる場所。
それがダウン症の人たちの文化であり、
それがダウンズタウンとなる事が理想だ。
ダウン症の人たちの生まれ持つ感覚を文化として、人類の価値として、
提示し、学べる環境は世界に類を見ないであろう。

誤解を受ける事も多いのであえて書くが、ダウンズタウンは施設ではない。
形だけ整えて、箱だけ作るのならすぐにある程度出来るだろう。
だが、世の中に溢れている、そのような既成の施設を
一つ二つ増やす事になんの意味があるのだろうか。
すでに沢山の施設があるが、それでは機能出来ないものをこそ掘り起こそうとしているのだから。
箱は出来たけど中味は何もないというものは多い。
ダウンズタウンはそうなってはならないし、
そのようなものになるなら、創らない方がいい。

私たちの社会は、今後ダウンズタウンを必要とすると思う。
人類は様々な在り方と共存するすべを身につける必要があるし、
平和や自然との調和を学んでいかなければならない。

私たちはまず、今の生き方、今の感じ方や考え方が全てではない事に気付くべきだ。
そして違う世界があるかも知れないと、感じてみたい。
そう思った時に、ダウン症の人たちの文化に気が付くかも知れない。
気付く、きっかけや機会をどんどん増やして広げていきたい。

ダウンズタウンというメッセージを掲げたと同時に、
反応してくれた人、共感して支援して下さる人、様々に協力してくれる人達。
そういう方々がすでに沢山いる。
こういった動き自体がダウンズタウンであると思うし、
ダウンズタウンは創っていくプロセス自体に希望と価値がある。

近道はないと思う。
目的のために手段を選ばないというのは、ダウンズタウンに相応しくない。
プロセス自体が美しくならねばならない。
なぜなら、ダウンズタウンは人類が創る平和のビジョンであり、
新しい生き方のことなのだから。

2011年9月2日金曜日

アール•イマキュレ

朝から台風の気配。日射しは明るいけど、ようやく雨が降って来た。
少しづつ出産に向けた準備中。

9月からは佐藤よし子はお休みをいただく予定です。
教室は平日は佐久間が、土、日の絵画クラスは佐久間と飯田ゆりあが責任を持って進めていく事になると思います。
スタッフ人員が少ないですが、皆さま宜しくお願い致します。

さて、そろそろアトリエの活動の核となる「アール•イマキュレ」と「ダウンズタウン」についても書いていきたいと思う。
これを読んで下さっている方は、すでにアトリエの事をご存知の方が多いが、
中にはアトリエ・エレマン・プレザンに興味を持ってホームページを見て下さる方も居ると思うので、一通りはアトリエの活動を説明していきたい。
多く質問を受ける事や、アトリエで重要になってくる事を中心に、書いていく予定。

今回は「アール•イマキュレ」について簡単に説明しようと思う。
既に書籍となった「いいんだよ、そのままで」や川崎市市民ミュージアムと三重県立美術館での展覧会図録をお持ちの方は、そちらを見ていただければと思う。
あるいは、多摩美術大学芸術人類学研究所と共催した2つの展覧会とシンポジウムのカタログにも、アール•イマキュレについて書かれている。

ここでは一通り、全体像が分かるようにしたい。

アトリエ・エレマン・プレザンの活動は、芸術、美術の視点からダウン症の人たちの感性を捉え、位置づけていく事が中心となっている。
その中で重要なのが「アール•イマキュレ」という概念だ。
この言葉はダウン症の人たちの作品群をさして、それらを美術史の中で位置づけていくために定義されている。
この概念が生まれて来た背景を見てみよう。
まず、佐藤肇、敬子によってダウン症の人たちを専門としたプライベートアトリエ、アトリエ・エレマン・プレザンが創設された時から、この概念の萌芽が生まれたと言っていいと思う。ダウン症の人たちが共通した感覚を持っている(この時点では美術的視点で見てのもの)というささやかな発見がアトリエ開設を促す。
1997年に「無垢なる魂 アトリエ・エレマン・プレザンの作家たち」展が川崎市市民ミュージアムにおいて開催される。その時の図録ではアール•ブリュット美術館のジュヌヴィエーブ•ルーラン氏、学芸員の中山久美子氏、エレマン・プレザン主催の佐藤肇が、それぞれダウン症の人たちの作品群について言及している。
この時点ではアウトサイダーアートという大きな背景と視野の中からの、捉え方が語られ、まだはっきりした形で「アール•イマキュレ」という言葉は公式には出てこない。
ただこの時点でジュヌヴィエーブ•ルーラン氏のメッセージの中に「アトリエ・エレマン・プレザンで制作している知的障害の人々の作品は、アール•ブリュットの作品群とは異なりますが、彼らの作品からは、自然が醸し出す心地よい調和と同質の快さが感じられます。」
という言葉があり、これは重要だと思う。
そして1999年の「無垢の芸術 アトリエ・エレマン・プレザンに集う17人の作家たち」展(三重県立美術館)の展覧会図録の文章に、始めて「アール•イマキュレ」という言葉が語られる。当時の三重県立美術館館長(現、福島美術館館長)の酒井哲朗氏が先のルーラン氏の文章にふれたうえで、「たしかにダウン症の人々の表現は、アウトサイダー•アートに属するとしても、もうひとつの「アール•ブリュット(生の芸術)」、この静かな「アール•ブリュット」は、「アール•イマキュレ」(無垢の芸術)とでもいえばよいのだろうか。」
と述べられている。
その後も様々な展覧会を行って来たが、2007年には「アール•イマキュレ ダウン症の人たちの感性に学ぶ」シンポジウムを多摩美術大学芸術人類学研究所と共催し、カタログにおいて中沢新一氏がアール•イマキュレに言及している。2009年、同じく多摩美術大学芸術人類学研究所との共催で展覧会、「アール•イマキュレ 希望の原理」展を開催。
キュレーターに長谷川祐子氏をむかえた。カタログでは中沢新一氏、長谷川祐子氏が、寄稿し、アール•イマキュレについて考察されている。共にシンポジウムにおいてもアール•イマキュレを定義すべく議論されている。

以上がおおよその成り立ちだ。
「アール•イマキュレ」は美術的概念である以上、作品主体で議論されるべきで作品についてのみ語られるべきだと思う。
従って僕自身は制作の場におけるスタッフとして、良い作品が生まれる環境に全力を尽くし、必要最低限の背景を語るにとどめたいと常々思っている。
私たちはダウン症の人たちの持つ優れた資質は伝えるが、彼らの生み出す作品が、芸術か否かといった議論には与しない。そう言った議論は公共的に、専門家たちを中心になされるべきだし、いずれ歴史が決める事だと思う。
私たちの使命は可能性を提示する事である。
そして様々な人達が様々に、問いかけ、議論していけばと思う。
そのための重要な素材がアトリエ・エレマン・プレザンにある。

そこを踏まえた上で、制作の場に関わる人間としての感触を書いてみよう。
アウトサイダーアートといった場合、そこにあまりに多くのものが含まれ過ぎていて、
それらを同じものとして議論して良いのかという疑問がある。
色んな種類があるという他にも、色んなレベルのものが混じっている。
特に日本では語るに値しないレベルのものまで、アウトサイダーという言葉の元に曖昧化し、作品の質すら問わなくて済むような風潮もある。これに関してはまた別問題なのでここではふれない。
例えばアール•ブリュット(と言ってもこの言葉ももはやアウトサイダーと同義語とかしている。ここではジャンデュビュフェ、及びその系譜の人達がはっきりとした視点で選定したもののみをさす)と比較した場合、ダウン症の人たちの作品群はそれらと大きく異なっている。自由で人間的型を突き破っているという所は似ているが、その自由の成り立ちは違う。
生まれながらの自由と、破壊され破れて生まれて来た自由。
多くの人も言及しているが、暴力性の有無も大きい。
アール•ブリュットの作家たちは破壊性や暴力性、強迫観念といったものから来る、秩序破壊や独自の執着による反復に特徴がある。
ダウン症の人たちにはそういった要素はない。
彼らの作品は明るくやさしい。精神医学の専門家には、闇が感じられないと語られた事もあった。彼らはダウン症という染色体異常として生まれて来るが、心自体には全く病はない
。むしろ、健常者以上に健康だとも言える。(思春期、成人期に心を病んでしまうケースがおおいが、これは別の問題)
イマキュレ作品の特徴は環境と調和する事だ。
どんな環境に置いても、違和感なく溶け込む。
アールブリュット作品群との違いはそこにもある。

また、アール•ブリュットの作家達は、その孤立性、単独性にこそ特色がある。
一人一人が、誰にも似ていないという所に個性がある。
アール•イマキュレの作家たちは共通性が重要な要素だ。
彼らは背景を同じくする事で、何らかの感性の共有している。
おそらくだが、描く事の意味も違っている。
アール•ブリュットの作家たちは描かずにはいられない、衝動を抱えている。
アール•イマキュレの作家たちは素材や環境と出会わなければ、描く可能性は低い。
一方は人や世界と断絶し個に向かうために描き、
一方は人や世界と繋がるために描いている。
これらは勿論、あまりに分かり易く単純化して書いている事ではあるが。

そういったことが何を意味しているのか、多くの人がより深く興味を示してくれて、
考察するきっかけが生まれればと願う。

本当の事を言うとこのような違いや、共通項は私たちにとって、
おおきな視野から人間とは何かを問い直すものだと思う。

美術の視点と言うことを書いたが、「アール•イマキュレ」の魅力は、
普通の人、普通に生きている人、美術などと大げさに考えない人にこそ、
語りかける絵画なのだと思う。
そこにこそ可能性がある。
美術とは何か、人がものを創るとは何か、
人間の創造性とは何かと言った事を教えてくれるヒントがイマキュレ作品なのだろう。

彼らが作品を生み出すプロセスは、
結局のところ、私たちに「良く生きる」という事を教えてくれる。

2011年9月1日木曜日

色とはなにか

この季節、自然の中では強く濃い緑があふれる。
新緑、紅葉、雪景色、それぞれいいけど、この時期の深い緑も好き。
森の中に入っていきたいという気持ちになる。
色彩って本当に不思議だと思う。
色彩をきっかけにして、人間は自然の奥にあるものを感知する。
自然は外にあるだけではなく、人のこころの中にもある。
例えばこの濃い緑がこころに響くことによって、私たちは内側にある自然を感じている。
外の自然と内面が共鳴する、引き金は音であったり、様々な感覚があるが、
色彩も重要な要素として存在している。

何日も密度の高い制作の場に入っていると、
街を歩いていても景色が色彩に満ちて見えてくる。
色彩が外部も内部も覆い尽くして、どこまでも広がっていく。

展覧会前に、作品選定に入っている時も、
一人一人が作品に向き合っていた時のイメージ自体が色彩となって迫ってくる。
一枚の絵の色だけでなく、無数の絵画や制作の場の情景自体が色彩とかして、
いっぺんに周りをかこむ。

世界は音やリズムで溢れ、色彩に満ちている。
私たちが普段感知していない無限の世界がそこにある。

ダウン症の人たちが描くものも、たしかに色彩のコントラストや豊穣さを感じさせる。
でもそれ以上に、どの色も似たように見える。
もっと言えばまるで一色に見える時すらある。
コントラスト以上に、似た色を重ねる特徴もある。
2色や3色の絵の具だけを使って、とても豊かな表現になったり。
今の濃い緑のような世界も描かれている。
色彩の対比よりも、その色とその色は本来一つだと感じさせられる時がある。

良く話しあ合うことだが、確かに彼らのバランス感覚は完璧で、
その色の隣にはその色しか有り得ないと思わせられることは多い。
でも僕はそれ以上に実はその色のとなりに、
極端な言い方だがどんな色がきても合ってしまうと言うところに、
彼らの魔法のもう一つの魅力があるような気がする。
新聞に絵がのった時、色彩の豊富さが特質の作家が白黒だったのに、
なにか感じさせる、むしろ白黒になってはじめて見えるバランスがあった。

勿論、色んな見方がある。
これは一つの見解に過ぎないし僕自身、
制作の場で彼らと居る時はそんな事は忘れている。
ただ、もしどんな色同士もあわせられる、間なり構成なりが背景となって、
そのリズムの中で制作されていくのなら、それはまるで彼らの生き方そのものだ。

ジョンケージは龍安寺の石庭について、
「多くの人は石がこれ以上ないくらい完璧に配置されている、そこにしか置きようがない位置に置かれていると賞賛するが、自分は全くその逆だと思う。あの空間の中の何処に石を置いても成立する。そのような空間であることこそが龍安寺の素晴らしさだ。」
と言うようなことを何かに書いていた。
何かそれに近い、空間生が彼らの作品にもある。

彼らのバランス感覚は先にあげた、この色の隣はこの色でなければならないという、
感覚も当然、鋭いものがあるのだが。

これも誰かから聞いた話で、正確なところは分からないが、
ある種の色弱のような症状で色と色の違いが見えないというのがあって、
実はそれは見えないのではなく、細かく見えすぎるということらしい。
情報が正確でないので申し訳ないが、このような話だったと思う。
普通の人は色と色が分かれたところから見えているが、
その症状の人は実はその色同士が同じ(波長なのか粒子なのか)状態の部分まで
見えてしまうらしい。
つまり色と色が違うものとして見えている方が、
フィルターが荒いと言うことだ。
人間は生きていくために必要な視覚を獲得して来たのだろうが。

なぜ、そんな不正確な情報をあえて書いたかと言えば、
そこに何らかの真理があるなら僕達の追求していることにも、
大きなヒントになりそうだからだ。

そのイメージの中で一色の世界というのがうかんだ。
深い緑に囲まれたと時のように。
以前、信州の山の方で生活していた事があったが、
その地方では雪がたくさん積もっている時に、雪が降り風も強くなり、
何らかの要素が重なったとき、四方八方が真っ白になって、
上下左右が分からなくなる事がある。
みんなはホワイトアウトと言っていたけど。
僕もホワイトアウトを体験した事がある。
白以外何もない世界だ。
生活の中では危険この上ないことで、何とか自分の位置を確認しなければならない。
白一色の世界はとても神聖で美しかった。

ダウン症の人たちも、社会的にあるいは環境的に、弱い、
劣っていると見られ安い部分は、物事の違いや分別に関わること、
分かり易く言えば、ものを分けて考えることが苦手というのがある。
これはある意味で言うと私たちの社会がものを一緒に見る、繋がりで捉える、
一つのものとして認識する、という能力が退化していることの裏返しと言える。

色で言えば先ほどの、「よく見えすぎる」という現象が「見えない」と
解釈されているのと共通するかもしれない。

一色の世界は、もしかしたら、とても豊穣でやさしい世界かもしれない。
僕達が忘れてしまっているだけで、
本当は自然も人間も、どんなものも一つで、繋がりの中で、
多様性を持ちながら存在している。

ダウン症の人たちにとっては、みんなが楽しんで自然に共存しているのが、
普通の世界だ。
それは、私たちにとってもそうなはずだ。

ところで、これも正確なことではないが、
テレビで脳科学の茂木健一郎という人が、
「人間に色覚が生まれたのはサバンナで熟れた果実を見極めるためだ」
と言っていて面白かった。

やっぱり、キレイとか美味しそうとか、本能が快を感じるのは、
生命を良いバランスに保つため。
彼らの作品が心地よいのは生命のバランス感覚。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。