2011年9月2日金曜日

アール•イマキュレ

朝から台風の気配。日射しは明るいけど、ようやく雨が降って来た。
少しづつ出産に向けた準備中。

9月からは佐藤よし子はお休みをいただく予定です。
教室は平日は佐久間が、土、日の絵画クラスは佐久間と飯田ゆりあが責任を持って進めていく事になると思います。
スタッフ人員が少ないですが、皆さま宜しくお願い致します。

さて、そろそろアトリエの活動の核となる「アール•イマキュレ」と「ダウンズタウン」についても書いていきたいと思う。
これを読んで下さっている方は、すでにアトリエの事をご存知の方が多いが、
中にはアトリエ・エレマン・プレザンに興味を持ってホームページを見て下さる方も居ると思うので、一通りはアトリエの活動を説明していきたい。
多く質問を受ける事や、アトリエで重要になってくる事を中心に、書いていく予定。

今回は「アール•イマキュレ」について簡単に説明しようと思う。
既に書籍となった「いいんだよ、そのままで」や川崎市市民ミュージアムと三重県立美術館での展覧会図録をお持ちの方は、そちらを見ていただければと思う。
あるいは、多摩美術大学芸術人類学研究所と共催した2つの展覧会とシンポジウムのカタログにも、アール•イマキュレについて書かれている。

ここでは一通り、全体像が分かるようにしたい。

アトリエ・エレマン・プレザンの活動は、芸術、美術の視点からダウン症の人たちの感性を捉え、位置づけていく事が中心となっている。
その中で重要なのが「アール•イマキュレ」という概念だ。
この言葉はダウン症の人たちの作品群をさして、それらを美術史の中で位置づけていくために定義されている。
この概念が生まれて来た背景を見てみよう。
まず、佐藤肇、敬子によってダウン症の人たちを専門としたプライベートアトリエ、アトリエ・エレマン・プレザンが創設された時から、この概念の萌芽が生まれたと言っていいと思う。ダウン症の人たちが共通した感覚を持っている(この時点では美術的視点で見てのもの)というささやかな発見がアトリエ開設を促す。
1997年に「無垢なる魂 アトリエ・エレマン・プレザンの作家たち」展が川崎市市民ミュージアムにおいて開催される。その時の図録ではアール•ブリュット美術館のジュヌヴィエーブ•ルーラン氏、学芸員の中山久美子氏、エレマン・プレザン主催の佐藤肇が、それぞれダウン症の人たちの作品群について言及している。
この時点ではアウトサイダーアートという大きな背景と視野の中からの、捉え方が語られ、まだはっきりした形で「アール•イマキュレ」という言葉は公式には出てこない。
ただこの時点でジュヌヴィエーブ•ルーラン氏のメッセージの中に「アトリエ・エレマン・プレザンで制作している知的障害の人々の作品は、アール•ブリュットの作品群とは異なりますが、彼らの作品からは、自然が醸し出す心地よい調和と同質の快さが感じられます。」
という言葉があり、これは重要だと思う。
そして1999年の「無垢の芸術 アトリエ・エレマン・プレザンに集う17人の作家たち」展(三重県立美術館)の展覧会図録の文章に、始めて「アール•イマキュレ」という言葉が語られる。当時の三重県立美術館館長(現、福島美術館館長)の酒井哲朗氏が先のルーラン氏の文章にふれたうえで、「たしかにダウン症の人々の表現は、アウトサイダー•アートに属するとしても、もうひとつの「アール•ブリュット(生の芸術)」、この静かな「アール•ブリュット」は、「アール•イマキュレ」(無垢の芸術)とでもいえばよいのだろうか。」
と述べられている。
その後も様々な展覧会を行って来たが、2007年には「アール•イマキュレ ダウン症の人たちの感性に学ぶ」シンポジウムを多摩美術大学芸術人類学研究所と共催し、カタログにおいて中沢新一氏がアール•イマキュレに言及している。2009年、同じく多摩美術大学芸術人類学研究所との共催で展覧会、「アール•イマキュレ 希望の原理」展を開催。
キュレーターに長谷川祐子氏をむかえた。カタログでは中沢新一氏、長谷川祐子氏が、寄稿し、アール•イマキュレについて考察されている。共にシンポジウムにおいてもアール•イマキュレを定義すべく議論されている。

以上がおおよその成り立ちだ。
「アール•イマキュレ」は美術的概念である以上、作品主体で議論されるべきで作品についてのみ語られるべきだと思う。
従って僕自身は制作の場におけるスタッフとして、良い作品が生まれる環境に全力を尽くし、必要最低限の背景を語るにとどめたいと常々思っている。
私たちはダウン症の人たちの持つ優れた資質は伝えるが、彼らの生み出す作品が、芸術か否かといった議論には与しない。そう言った議論は公共的に、専門家たちを中心になされるべきだし、いずれ歴史が決める事だと思う。
私たちの使命は可能性を提示する事である。
そして様々な人達が様々に、問いかけ、議論していけばと思う。
そのための重要な素材がアトリエ・エレマン・プレザンにある。

そこを踏まえた上で、制作の場に関わる人間としての感触を書いてみよう。
アウトサイダーアートといった場合、そこにあまりに多くのものが含まれ過ぎていて、
それらを同じものとして議論して良いのかという疑問がある。
色んな種類があるという他にも、色んなレベルのものが混じっている。
特に日本では語るに値しないレベルのものまで、アウトサイダーという言葉の元に曖昧化し、作品の質すら問わなくて済むような風潮もある。これに関してはまた別問題なのでここではふれない。
例えばアール•ブリュット(と言ってもこの言葉ももはやアウトサイダーと同義語とかしている。ここではジャンデュビュフェ、及びその系譜の人達がはっきりとした視点で選定したもののみをさす)と比較した場合、ダウン症の人たちの作品群はそれらと大きく異なっている。自由で人間的型を突き破っているという所は似ているが、その自由の成り立ちは違う。
生まれながらの自由と、破壊され破れて生まれて来た自由。
多くの人も言及しているが、暴力性の有無も大きい。
アール•ブリュットの作家たちは破壊性や暴力性、強迫観念といったものから来る、秩序破壊や独自の執着による反復に特徴がある。
ダウン症の人たちにはそういった要素はない。
彼らの作品は明るくやさしい。精神医学の専門家には、闇が感じられないと語られた事もあった。彼らはダウン症という染色体異常として生まれて来るが、心自体には全く病はない
。むしろ、健常者以上に健康だとも言える。(思春期、成人期に心を病んでしまうケースがおおいが、これは別の問題)
イマキュレ作品の特徴は環境と調和する事だ。
どんな環境に置いても、違和感なく溶け込む。
アールブリュット作品群との違いはそこにもある。

また、アール•ブリュットの作家達は、その孤立性、単独性にこそ特色がある。
一人一人が、誰にも似ていないという所に個性がある。
アール•イマキュレの作家たちは共通性が重要な要素だ。
彼らは背景を同じくする事で、何らかの感性の共有している。
おそらくだが、描く事の意味も違っている。
アール•ブリュットの作家たちは描かずにはいられない、衝動を抱えている。
アール•イマキュレの作家たちは素材や環境と出会わなければ、描く可能性は低い。
一方は人や世界と断絶し個に向かうために描き、
一方は人や世界と繋がるために描いている。
これらは勿論、あまりに分かり易く単純化して書いている事ではあるが。

そういったことが何を意味しているのか、多くの人がより深く興味を示してくれて、
考察するきっかけが生まれればと願う。

本当の事を言うとこのような違いや、共通項は私たちにとって、
おおきな視野から人間とは何かを問い直すものだと思う。

美術の視点と言うことを書いたが、「アール•イマキュレ」の魅力は、
普通の人、普通に生きている人、美術などと大げさに考えない人にこそ、
語りかける絵画なのだと思う。
そこにこそ可能性がある。
美術とは何か、人がものを創るとは何か、
人間の創造性とは何かと言った事を教えてくれるヒントがイマキュレ作品なのだろう。

彼らが作品を生み出すプロセスは、
結局のところ、私たちに「良く生きる」という事を教えてくれる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。