2011年9月7日水曜日

変わらない場所

昨日、アトリエに来たてる君が
「サクマさんって、大きくなって、お父さんになるんだね。がんばってね」
と言ってくれた。誰の言葉より嬉しかった。
そして、彼と最初に出会った時から何も変わっていない時間と絆を感じた。
彼らとは本当に深く通じ合うことができる。
彼らと出会って良かったといつも思う。

月曜日にアトリエに来た元学生にも、
「なんにも変わってないねー。やっぱりアトリエはいいね」
と言ってもらった。
この「変わらない場所」ってなんだろうと思う。
生きていると色んな事がある。つらい事も悲しい事も。
世の中がどんなに変わっても、
ホッと出来る場所、自分を取り戻せる場所があればいいなと思う。

アトリエの中でも実は様々に変化しているし、
一人一人、成長し、その意味では変わって行っている事は確かだ。
場合によってはメンバーすら変わっている。
でも、ここへ来て「何も変わってないなあ」と感じるのはなぜか。
それは、より正確に言えば「変わっていない」のではなく、
「変わらない何か」があるから。「変わらない何か」を大切にしている場所だから。
「変わらない何か」とは文字どおり「普遍」であろうと思う。

僕自身、人間にとっての普遍性が一番大事だと思っている。
普遍なものとは、「誰もが求めている」「誰もが気持ちいい」ことだと思う。

ここで出会うダウン症の人たちのリズムは、とてもゆっくりしていて心地よいと、
多くのお客様が言って下さる。
そのリズム、時間の感覚は実は「ゆっくり」なのではなく「普遍」なのだと思う。
なぜなら、逆にあまりに「早い」時間の流れに委ねてみたら、
多分みんな「心地よい」と感じないだろう。
心地よいと感じると言うことは、それが本来の在り方だと言える。
おそらく今の世の中の時間の流れ、スピードの方が特殊なのではないだろうか。
人間という種にとって適切なリズムに入った時に人は心地よいと感じるのだろう。

前にも書いたが「早い」や「便利」が良いだけではない事はあきらかだ。
例えば山でも歩くことをせずに、いきなり人工的に頂上に連れて行かれたら高山病になる。
歩いてくスピードによってしか身体は変化出来ない。
身体もこころも同じだ。
早く出来た事は、自分の中に深く入らない。時間をかけてこそ自分のものになる。
今の社会の流れでは沢山の高山病を生んでしまう。
実際に高山病になってしまった人が、ここへ来て、ゆっくり呼吸して、
自分を取り戻していったケースもいくつかある。

そんな事を思うとダウン症の人たちのゆったりとした時間感覚は、
人として適切なリズムであるように思う。

人間にとって、このリズムが気持ちいいよねとか、
こうするとちょっと嫌な気がするねとか、
やさしくあるのって大切とか、みんなで協力すると楽しいねとか、
そういう当たり前な、「普遍的」なことを大切にして来たから、
ここが「変わらない場所」に感じられるのだと思う。

この「変わらない場所」は卒論のテーマにアトリエを選んだ、
ゆりあやモロちゃんの言葉にも現れている。
ゆりあの卒制写真集タイトル「はじめにある風景」。
モロちゃんの論文タイトル「絵画のむこう側」。
「変わらない場所」とは絵画のむこう側であり、はじめにある風景であると思う。
そしてそれはゆりあとモロちゃん、それぞれが、
アトリエやダウン症の人たちと出会うことで、
自分自身のこころの中に見出した光景であったはずだ。

「変わらない場所」とは一人一人のこころの中にある、人間の普遍的な在り方の事だ。
社会はそれをどれだけ大切に出来るか。
私たち一人一人は、それをどれだけ大切に守っていけるか。
大切なものを忘れてはいけない。
大切なものを見失ったり、なくしたりしないように。

アトリエの活動が変わらない、普遍的な価値に気付くきっかけとなればと思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。