2011年9月11日日曜日

自閉症とダウン症

土曜日クラス、充実してました。
今、アトリエで一回で作品を完成させないで、何度かかけて制作しているのは、2人のだいすけ君とみりちゃんだけ。
みんな描くの早いから。
昨日、みりちゃんの新作、完成しました。
みりちゃんの作品はいつも、時間をかけたことが分かる丁寧な仕上がり。
オシャレでデザイン的な感じもあるので、いつも人気です。

日曜日クラスの準備をしながらこれを書いている。
待合室がなにやらコーヒー臭かったのでチェックしてみると、
椅子にボロボロと粉の様なものが落ちている。
たどってみると、原因発見。
絨毯に粉末のコーヒーと砂糖がいっぱい。
お湯がかかったのか、べっとりとこびりついて光っている部分や、
がびがびに固まっているところもある。
結局、拭き取るのに何度もお湯を温めて、ぞうきんを変えて、
結構、時間がかかってしまった。
そう言えば昨日、待合室に生徒が1人という状況があった。
彼が半分は失敗して、半分は気を引こうとして、こうなったのかな。
こういうことは、よくあることなので別に何とも思わない。
むしろ、「また、こんなにして。手間かけさせるなあ」という経験が、
その人との関係性を深めていく。
ただ、彼が1人になっている時間が少し長かったと思う。
制作が終わってから、他の生徒もまだいるので、
私たちは教室から離れることは出来ない。
保護者の方にもちょっとだけ配慮していただければと思う。
風邪がひどかったりしてしても、連れてこられる方があるが、
他の生徒もいるし、中には免疫の弱い人もいるので、
みんなの事を考えた場でありたいと思う。

さて、今回のテーマだけど、
前回のブログの中で、ほんの少しだけ自閉症の人との比較を書いた。
そこの部分にもう少しふれて欲しいという声があった。
あれは話の本題ではなかったのだけど、これを機に考えてみよう。
という訳なので、今回は興味のある方は限られるかも知れない。
また、障害の違いを考えると言うことが、
普段のアトリエのダウン症の人たちに、すぐれた資質を見出すという姿勢から、
少し違和感を感じる方もいるかも知れない。
でも、僕自身の見解では自閉症の人達と比較する事は、
彼らのことをより深く、客観的に知る事に繋がると思う。
細かい話題なので、ちょっと興味があるなあという方だけ読んでみて下さい。

これから書く見解は大枠において、村瀬学著「初期心的現象の世界」及び「自閉症」から考えの枠組みを借りて来ている。また、中沢新一の一連の著作、特に「対称性人類学」と「狩猟と網籠」からも、そこに直接、自閉症やダウン症が語られている訳ではないが「もうひとつの人間の知性」という視点から参考になると思われる。
それらの見解に加えて、僕自身の個人的経験を元に考えてみたい。
僕自身はある意味からいうと、人間の心というテーマから様々な障害を持つ人達と16、7歳のころから向き合って来た経験がある。そういった経験は特殊な環境における、特殊なものではあったが、何かしら根源的な問題を突きつけるものでもあると思っている。

予め、お断りしておくと、自閉症には様々なケースがあり、
その中でも障害の種類がわかれる。
ダウン症の人たちに見られる様な一つの在り方として、ひとくくりには出来ない。
ここでは、障害そのものではなく、そこに現れた人間の心の機能に絞って書いている。
また、ダウン症とは違って、自閉症についてはすでに、相当に研究がなされている。

自閉症の人達とダウン症の人達は、実は対照的でありながら、
コインの表裏のような関係にある様な気がする。
勿論、一方は染色体と言う根源的部分に存在の由来があり、
一方は脳機能の障害と言われている部分で、全く種類の異なる部分もある事は確かだ。
ただ、それぞれが人間を考える意味で最も重要な能力を示している。
簡単にひと言で纏めると、
自閉症の人達は、物事をバラバラに分けて、抽象化、記号化する能力を。
ダウン症の人達は、世界を繋がりの中で全体的に把握し、調和していく能力を、
それぞれ示している。
この二つの能力は人間にとってもっとも重要なものと言える。

まず、自閉症の人達が示す機能について考えてみる。
村瀬学によると、「地図」と「暦」という、人間の発明の中でも最も偉大なこの2つが、
自閉症的な心の表れの代表だという。
そこから考えてみると、地図も暦も現実そのものではない。
現実を一旦、分解して、分けてから、再構成したもので、
それを抽象化、記号化ということができる。
抽象化、記号化とは、今しかない現実の中から普遍的要素だけを取り出して、
他の場面でも再現可能なものとする事。
言い換えれば、現在を過去にしてから把握する能力。
この能力が科学を生んだ。
今の私たちの社会はこの機能抜きには考えられない。

よく、テレビ等で自閉症の人達の驚異的な記憶や、再現能力が取り上げられている。
あれをただ単に、驚異的能力と呼んではならない。
彼らにしてみれば、あのように驚異的に見える、記憶や再現能力を使わなければ、
この現実を把握する事が出来ないという事を忘れてはならない。
現実をまるのまま、全体で把握する事ができないが故に、あの様な能力が働く。

彼らの世界の面白いのは、現実を一旦、バラバラにしてから再構成するところだ。
バラバラに分けたものを、もう一度組み立て直すところに、彼らのリズムが現れる。
一旦、バラバラに分けて、扱いやすくしてから組み立てるので、
ある意味で邪魔が入らないで自分のリズムを貫くことができる。
前回書いた自分のリズムが壊れそうになると、断固拒否するというのは、ここの部分。
逆にダウン症の人たちの場合、現実をそのまま全体的に把握するので、
間にクッションが入らない。落ち着いて後で再構成するということが出来ない。
それが、彼らの壊れやすさの元でもある。

ところで、僕の好きなピアニストにグレングールドという人がいる。
グールドについてはいっぱい語られているが、
もっとも本質的な事は、実はここに書いて来た様な事なのではないかと思う。
彼の演奏が変わって聞こえるのは、
彼が現実を(この場合譜面)バラバラに分けた上で、再解釈、再構築しているところ、
そこに彼独自のリズムが現れる。
これは自閉症の人達の示す、心の働きと一緒だ。

自閉症の人達のこころの在り方について、まだまだ語り足りないところは多い。
あまり長くならないために言うと、
こういったこころの能力は人間を人間ならしめたものと言える。
自閉症の人達を知るとは、私たち自身を知る事だ。
また、現代は社会全体が自閉症化していっていると言える。
自閉症の人達は私たちの今を示す。
ダウン症の人たちは、多分、私たちの未来を示している。

次回、ダウン症の人たちについて書いた上で、
自閉症の人達と比較してみたい。
先取りして書いておくと、ここで見て来た自閉症の人達の丁度反対が、
ダウン症の人たちだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。