2011年9月14日水曜日

ほめてのばす?

テーマはこうなってるけど、前回の続きの様な事を書きたい。
前回、共感について書くつもりが、鍼の先生とのことで終わってしまった気がして、
反省している。

冒頭の言葉は先日、お客様とお話ししていた時に出たものだ。
「つまり、ほめてのばすことですね?」
会話の途中での質問だった。
そうかな?とちょっと違和感があって考えてから答えた。
「僕の場合だとほめてのばすと言う様な事はしません。ほめることはありますが、のばすためではありません。純粋にいいと思った時にほめます」
そんな会話だった。
何度か書いたが、人のこころはマニュアルどおりにはいかない。
ほめてのばすと言ってしまったら、それはマニュアルだ。
マニュアルどおりに進めるために、良いと思わなくてもほめる事になってしまう。
大事なのはほめる事ではなく、相手の中からほめるべきすぐれた要素を見付ける事だ。
たとえほめても、それが心から出た言葉でなければ、
逆に相手とのこころの距離が深まるばかりだ。
特に、こどもを相手にする場合、ウソを言ってはならない。
「この人、本心から言っていないな」と思われたらもう次ぎには繋がらない。
だから、ここでも大切なのは「共感」だと思う。

共感する事は簡単なようで難しくもある。
共感するとは相手のこころと、自分のこころを一つにする事だ。
これが出来れば、必ず良い関係が生まれ、そこから何かが生まれる。

最近、数回に渡ってダウン症の人たちの資質と気をつけるべき事にふれた。
やはり保護者の方達からいくつか反響があった。
その中で、今悩んでおられる方からの相談もあった。
こういう場合はどうしたら良いのでしょうという具体的なものについて、
本当に残念ながらお答え出来ない。
困ったり、悩んだりしておられる方に直接力になれなくて申し訳ないが、
これはどうする事も出来ない。
なぜなら、こうすれば絶対に上手くいくという方法はないからだ。
アトリエにいる時は、この場合どうするか、一つ一つの状況において、
スタッフはみんな適切な判断をしている。
その時に何をすれば良いのか、私達には手に取るように分かる。
ただ、それぞれの生活の場でのことは、
表情を見る事も出来ないし、同じ事でも言い方や、振る舞いで全く違う結果を招く事もある。そのような大切な時間における責任は保護者の方にある。
私達や他の人間では、どう努力しても代わる事は出来ない。
ひとくちに無理は禁物と言っても、
何が無理で、何が無理でないのか。
その判断はしっかりと見極めなければならない。
それから一度こころのバランスを崩してしまった人の場合、
ただ本人のペースにだけにしておくと、どんどん脳が退化してしまう。
この場合は「無理は禁物」だけではだめだ。
ある程度の外的刺激も必要になってくるからだ。
原理的にはとても分かり易い事だが、
つらい時期をずっと経験して来て、外の世界から身を守るために、
情報をシャットアウトしている状況だ。
これが続いていくと認知症と似た様な症状が出てくる。
外の世界を自分の中に入れないように、閉じている訳だが、
これが違う形で現れると、妄想や架空の現実に浸ると言うこともある。
少しくらいは全く気にしなくて良いが、
外的ストレスが多くなっていないか、ここも見極めだ。

アトリエにいる時間は月のうち2回の2時間くらい。
平日に来ている人にしても限られた時間だ。
いかに、他での長い時間をどう過ごすかが大切になってくる。
勿論、アトリエでの短い時間に、凝縮された形で一人一人が、
自分本来のリズムを取り戻している姿は嬉しいかぎりなのだが。

最も大事なのは各家庭での保護者の方の判断であろうが、
様々な現場において彼らに関わる方達も共通の認識が必要だ。

冒頭にかえるが、ここでも一番大事なのは共感することだ。
どんな状況であれ、本人がどんな風に感じたり考えたりしているのか、
一緒になって共有していく事で、いま何が必要なのかが分かる。
以前、「正しさより楽しさ」が伝わると書いた。
個人との関係においては「正しさより共感」と言えるかも知れない。
実際、共感はどんな場合でも力になるが、正しさはそうとも限らない。
正しくても、共感が伴わなければ、その場では意味を持たない事がある。
例えば、制作の場においては特にこころのバランスを崩している人を見る時、
スタッフには次ぎにどうなるか読む能力が要求される。
一歩先を正確に感じ取っていかなければならない。
ところがだ、正確に正しく読めていても、何も良くならない場合がある。
「正しい」は見えているのだが、実際の相手のこころが動かない。
この場合、僕なら一旦、「読み」を捨てる。
せっかく見えた「正しい」も捨てる。
一歩先も見ない。そして、相手と一緒になって「うーん。どうしよう」
という状況を共有する。
不思議な事にその共感が通じた時、相手のこころが動き、
本人が自分で答えを見付けだしていく。

今では様々な責任もありこんな事もしなくなったが、かつての事。
代々木にアトリエがあったころ。
生徒の1人が全く表情を失っていた。
本当に外部をシャットアウトした状態。
僕と彼は2人で外を探索した。
彼は本当にゆっくりと歩く。マンホールの蓋をぐるっと一周したり、
歩き方にも自分の世界のルールをつくっている。
僕は彼のルールに従って全部、彼のやったようにする。
半日、そうやって歩き続けた。
代々木ゼミナールがあって、その中に彼が入って行く。
僕はとことん付き合うと決めていたので一緒に行く。
人がいっぱいで僕達の存在に案外誰も気が付かない。
その内、立ち入り禁止の場所を発見。
彼はとても興味を示している。
一瞬、迷ったようだが決断して入って行く。
僕はゲゲーと思いながらもついていく。
そして警備員にみつかった瞬間だった。
彼が今まで見た事もない様な猛スピードで走り出した。
警備員も追いかけていく。
僕も逃げるが、彼の方が遥かに早い。
僕はやったあと思った。彼の勢いが一瞬でも戻ったのだ。
警備員は追うのをやめる。
僕はなおも彼を追いかける。
彼が僕を振り向きながら「わーはっはっはー」と絵に書いたように、
少し僕をバカにしたように笑っている。
表情もなくなっていた彼が、猛スピードで走り、大声で笑った。
教室に帰ってしばらくノートを書いてお家に帰った。
彼が帰った後にノートをみると、
「エコールマン(おそらく僕のこと)の電話番号を教えて下さい」
と書いてあった。エコールとはアトリエで開いていた学校のこと。

制作の場においても、最も大切なのは共感だ。
相手と一つになること。
それは、言葉でほめたり、一緒だよと言うことだけではだめだ。
自分も相手も同じように感じていられる様な関係を築くこと。
かけた気持ちと努力の分だけ、必ずかえってくる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。