2011年9月16日金曜日

楽しさの質

震災後、やっぱり「こころ」に関心が持たれているようだ。
仏教本がブームらしいが、そんなところに救いがあるのだろうか。
お坊さんってほとんどがインチキだから。
勿論、本物もいるし、僕はあったこともあるけど、
そういう人は安易な幸福論は語らない。
分かり易く書けば何でも良いという訳ではない。
ブームで出回っているもののほとんどは、
本質とはまるで無関係なものばかりだと思う。
もう一つはスポーツ選手が書いた、精神コントロールの方法が売れるらしい。
これはお坊さんより、実際的だと思う。
スポーツ選手はやっぱり、どんな場面でも実力を発揮出来なければいけないし、
絶えずこころのバランスを保っていなければならない。
そんな経験を重ねている人達の言葉は信用出来る。
みんな、こんな時期にどうやってこころを保っていけば良いのか、
いろいろと悩んでいる訳だ。
でも、スポーツの試合中に精神コントロールが出来ても、
現実の一つ一つの出来事はもっともっと、複雑で難しいと言える。
そこをどう取り入れていくかだ。
こころをいかなるときも良い状態に保つには、日々の積み重ねが必要だ。
今すぐ、簡単な方法で身に付けることは出来ない。
ブームになっているようなノウハウ本を読んでも、すぐに使える訳がない。
毎日、みんなが気持ちよく居れるように、
自分のこころを良い状態にしておこうという努力を続けてこそ、
こういった大変な時代でも迷うことなく前を向いていられる。

アトリエでの制作の場でも、最も大事なのはスタッフの心構えだ。
一日、二日なら良い気持ちで居られるだろうが、
どんな時でも、毎日、その状態がたもててこそ、本物だ。

先日、長く付き合っている学生の1人から、
「ブログいいんですけど、文章っぽくないところがちょっと物足りないです」
との言葉をもらった。
もちろん、彼は好意的に言ってくれている。
僕の話を普段聞いているので、いやもっと深いでしょと言いたいのだろう。
だけど、深いことをいかにも深そうに書く必要はない。
彼のいう文章っぽい文章とは、僕にいわせれば論文調ということだ。
好きな人はがっしりしていて、何だか読んだ気になるのだろう。
でも、僕は論文調の文章は好きではない。
なぜなら読み手は内容がないのに、読んだという錯覚だけで満足し、
書き手はあらかじめ、読者を限定しているからだ。
その様な文章は閉じている。
実は、そういった文脈の中では、
書き手も読み手も、何も考えてはいない。ただ、そういう錯覚があるだけだ。
冒頭のノウハウ本の方がまだ、読まれることを意識しているだけましだ。

さて、今回は楽しさにも様々な質のものがあるということを考えたい。
楽しさは、気持ち良さは本能だと書いてきた。
ただ、いま本当の意味の楽しさを知っている人がどれだけいるだろうかと思う。
時間つぶしや、自分や現実への紛らわしは楽しさとはいえない。
以前、「遊び」について取材をうけた。
遊びがいかに大切か考えたが、その時の質問に
「一日中ゲームしている子供をどう思いますか?」
というのがあった。
一日中ゲームしているのが良い訳がないが、
では何が原因なのか考えなければ意味がない。
原因はその子供達が「本当の遊び」を知らないところにある。
例えばの話だけど「遊び」と「勉強」を
あるいは「遊び」と「仕事」、「遊び」と「真剣さ」を分けて、
遊びを悪者にしていないだろうか。
問題なのは遊びではなく、質の低い遊びだ。
真の遊びは勉強でもあり仕事でもあり、真剣な行為だ。
ゲームで遊ぶ子供は遊んでいるのではなく、遊ばされているのだ。
同じようにインターネットで遊んでいる大人達も、
いくらそれが仕事だと言い張っても、情報に遊ばされている。
最近ではあまり言う人すらいなくなったが、
ゲームを擁護する理屈として「頭を使う」と言われていた事もあった。
ひどい理屈だと思う。
確かに何をやっていても頭は使う。
ただ、ゲームで使う頭の機能がどれだけ限定されて偏ったものか考えるべきだ。
そこまで言うと実は受験勉強で使う頭も、
はっきり言って同じように偏ったものだけれど。

楽しさと言ってもこれと一緒だ。
楽しければ良いと言う理屈は、
その楽しさの質を考慮しなければならない。
本物の楽しさ、一歩踏み込んだ楽しさを知ってほしい。
それは当然、自分で見付けるしかない。

アトリエで過ごす作家たちの姿を見ていると、
この人達は本当の楽しさを知っているなと思う。
まだ本当の楽しさを見付けられていない人は、制作の場でも迷いが強い。
一人一人がただ楽しければいいというのではなく、
本当の楽しさを発見出来るようにしていかなければならない。

以前、ある施設の運営者が自分のところでは通う人達みんながいつも遊んでいて、
楽しく過ごしている、好きな事をしている、アトリエと一緒だと言っていた。
申し訳ないが全く違う。
どこが、違うかはここまでお読みいただければおわかりだと思う。

楽しさにも、遊びにも、人を大きくする大切な要素があるか、
しっかり見極めて、より深い楽しさ、より深い遊びを見付けてもらいたい。
そのために大人は自分が深い世界を経験して、
子供達や若い人達に、もっと深く素晴らしい楽しさがあるよ。
知らないともったいないよ、という事を教えるべきだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。