2011年9月18日日曜日

「こころ」を考える。

今回のテーマはこころ。
これは、僕達の活動の中でも中心となるものだし、とても複雑でもある。
しかも、今日ブログに使える時間は一時間弱。
ということで、今回は入口のところまでのお話しになると思う。

こころといっても、それぞれ見解があるだろう。
宗教家の見方、科学者の見方、哲学者の見方。
僕がここでふれる見解は特殊かもしれない。
ダウン症の人たちの絵画制作の場で見て来た、人間のこころの世界だ。
これは一人一人のこころに直接向き合っていく事で経験される世界だ。

僕自身はダウン症の人たちの作品が示しているのは、
人間のこころの最も深いところにある自然界の法則のようなものだと思っている。
彼らの在り方を知っていく事は、
私達人間のこころとは何なのかを、知る鍵を手に入れる事だ。

人間のこころには、この宇宙や自然を生み出している動きの構造と同じものが刻まれている
と考えられる。
何度も書いて来た事だけど、人が快を感じたり不快を感じたりする事は、
生命と直結した感覚だ。
痛みを感じなければ、人はもっと簡単に死んでしまう。
反対に快感を感じなければ、子孫が増えていかない。
こころといってもその源は、自然界のバランスと全く同質のものであるはずだ。
しんじ君やてる君の描く作品を見てみよう。
彼らは誰からも教わらずに、人を美の感覚に導くような絵を創ることができる。
美の感覚とは自然界のバランスと同じものだ。
僕達のこころの一番深いところ、源にあるのは彼らの描く様な感覚の場所である。
それによって人間は様々な環境で調和し共存出来る訳だ。

一番、源のところは実は明晰だともいえる。
こころが逆に複雑になってくるのは、もっと浅い部分。
僕達が日常的に使っているこころの機能は、もっと表面の部分だ。
ここでは、とても複雑に見える部分が多い。
でも、これも実はそんなに複雑でもないような気がする。
人間は自分を保つためのプライドを持ち、
それ故にコンプレックスを持っている。
その形が様々なだけで、実際は恐れ、恐怖と孤独が根底にあって、
自己の存在を確認するために支配欲や嫉妬心などが生まれる。

この事に関連して、少し制作の場におけるスタッフの技術的な事にふれてみたい。
技術と言っても一般的な技術とは違うかも知れない。
我々の場合はこころに入って行くための技術が中心にある。
制作するとき、一人一人はこころの深いところに入って行く。
スタッフはここで絶えず相手のこころと響き合っていなければならない。
そして、すんなり入って行けるようにこころに触れ続けなければならない。
物理的にではなく、精神的に絶対に相手から離れてはならない。
相手のこころに入って同じように見たり感じたりして、
一緒に何かをつかみ取ってくる感覚だ。
相手のこころの動きを見極めてついていくためには、
自分のこころをフラットにする必要がある。
そのために自分のこころを知りぬいていなければならない。
自分のこころの癖や歪みを知っていなければならない。
例えば相手のこころのどこに、自分が反応するかは自分のこころが関係してしまう。
相手が可能性を示す心の動きをしたとしても、それを拾えなかったら意味がない。
なぜ、拾えなかったかと言えば、それが自分のこころの癖だからだ。
逆に流れに任せて次ぎの場所に行くべきところを、
反応してしまって流れを止めてしまう場合、
ポイントじゃないところに反応するのは自分のこころに関係するところがあるからだ。

例えば、相手が激しい怒りをぶつけて来たとする。
この場合、受入れてあげる事も必要だが、
相手が何を求めているのか知らなければならない。
ケンカしたいのかも知れないし、怒りそのものを発散したいのかも知れない。
ケンカして存在を確認したいのに、ひたすら受け入れるだけだったら、
相手を孤独にしていくだけだ。
なぜ、ケンカしてあげられないかと言うと、
自分のこころがケンカという事態に対して、何かしら拒否したい記憶や癖があるからだ。
逆に受け入れてあげるべき時にケンカしてしまうのは、
受け入れると言うことを拒むこころの癖があるからだ。
これはいつか別の機会に書くが、
お互いが深い繋がりの中で向き合っている時に出てくる感情は背景がある場合がある。
さっきの怒りにしても自分に向けられているとは限らない。
どこかでいつかおきた事が消化出来ていなくて、再現しているのかも知れない。
「好き」「愛してる」と言われたとして、本当の恋愛というケースは稀だ。
それは何かのかわりだったり、何かを再現したり、埋め合わせたりしている。
父を求められたり、母を求められたり、子供や弟を求められたりするが、
それは相手が成長と共に乗り越えていくべき対象を、
置き換えて進んでいこうとしていると言える。
その事をしっかり自覚しながら、手伝っていかなければならない。
そこに気付かずに腹を立ててしまったり、深刻に考えたり、喜んだりしたら、
それは自分のこころの癖だ。
自分が何が好きで、何が嫌いか、何を言われれば嫌なのか、
自分のこころはどんな制限をうけているのか、知る必要がある。
自分の限界が自覚出来れば、自由になれる。
そこから先の技術は、例えば、ケンカを求められたら、
今はこれに腹を立てる自分の癖を使おうとか、
受け入れられたいと望んでいる人には、今は腹を立てる自分は出てくるな、
受け入れる自分に登場してもらおうとか、
ある意味で自分を分割して使うことができる。
現場においては、自分を離れたところから、客観視出来なければならない。
自分を無くしたり、自分を使ったり、
相手のこころに入ったり出たり、状況を見極めて動いていく。

こころは関係によって変化し、環境によって変わるものだ。
良いこころの動きは磨かなければ身に付かない。
こころは鍛えることができるものだ。
そしてこころには可能性がみちている。
彼らの作品の世界の様なこころを取り戻せば、
僕達はもっと幸せに平和になることができる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。