2011年9月27日火曜日

素材と質感

展覧会でよく質問されることの一つに、制作に使われる素材についてがある。
どういった紙や絵の具を使っているのかと。
先日お会いした時、肇さんに雑談の中でうかがったのだが、
三重の保護者の方の中には、自分の子供が高級な素材を使って同じ様な絵ばかり描くのがもったいない、という声も聞くそうだ。
同じ様な絵を繰り返し描く、という事については、「型」のところで少しふれた。
私達には「繰り返し」にも「同じ」にも見えない。
彼らは絶えず、新鮮に制作にむかう。
同じように見える部分は、その人の持つ生命のリズムだ。
それを個性と呼んでもいい。

さて、良い素材を使わなければならないのは当たり前のことだが、
あえてもう一度、その意味について考えてみたい。

良い素材とは、「高い」とか「安い」というお金の価値とは異なる。

良い素材とは、人の手がかかっていること、
そのものに質感が感じられるものである事だ。

感覚や感性は、物の質感をとらえる時に動くわけだ。
質感が弱ければ、感覚も弱まる。
感覚が弱まるとは生命が弱まるに等しい。

例えば、こういう話がある。
以前テレビで見たのだが、あるお医者さんと研究者が、
認知症と音の関係を調べているそうだ。
面白い事を話していた。
認知症の方の回復に効果があったり、予防に役立つ音の周波数を調べていく。
最初は誰の音楽が良いとか、そういうところから、
最後は研究者達で、その周波数に合わせた音楽をつくる。
実験するととても効果がある。
ここから先が良いのだが、
結局、その周波数を最も多く出している音は、アマゾンの森の音だったという話だった。

これとは別のところで聞いたのだが、
アマゾンの森の音は、大都会の喧噪より、音としては遥かに大きいらしい。
都会の音は騒音、雑音として聞こえるが、
それより遥かに大きい音を出しているはずのアマゾンの森の音は、
人が聞くと心地よく感じるという。
おそらく空間の広がりが違うのだろう。

だが、もっとも大切なのは、
人間の感覚、あるいは脳は自然の変化や質感を感じるためにあるということだ。
先ほどの話でいうと、アマゾンの森の音を聞くと認知症に効果があるという以上に、
つまり自然を離れたことによって、様々な不具合が生まれているといえる。
人間を育んだ、自然にある様な、質感にふれて生活していれば、
認知症にならないということかも知れない。

自然にある、音も色も匂いも人間の感性を育てるのだ。

道具というのは、人間にとっての第二の自然といえる。
だから、手に触れる道具を疎かにしてはならない。

これを今風に言えば「リアル」といってもいい。
リアリティが感じられない時代と言うが、
ゲームやアニメで育ち、インターネットで情報を収集していて、
リアルが感じられるはずがない。
私達が一つ一つの道具を吟味してこなかったことが、リアルを失わせたのだ。

子供は玩具を舐め回したりする。
その玩具がプラスチックでできているか、木で出来ているかで違いが出るのは当然だ。
身の回りにあるものが、質感や手触りがあるかどうか。
簡単に大量生産された物には合成の匂いしかしない。
それは道具でも物でも現実でもない。ただ物に似せた何かだ。

食物については、もう少し気を付けるだろう。
インスタント、レトルトはほとんど食べないという人が、
なぜ、物や道具に気をつけないのか。

いずれにしろ、簡単に手軽に出来た物で人間は育たない。
簡単に手軽に出来た人間になってしまう。

人間は森の中で生きて来た。
感覚は生命に直結している。
自然の変化をとらえ、豊かに活き活きと育っていくには、
こころのこもった丁寧な時間を過ごしていかなければならない。
環境や身の回りの物をしっかり見直していきたい。

何度も書いたが、制作とは一人一人が、自分のこころに向き合うことだ。
そこでの素材は自然そのものと言っても良い。
そして、自分のこころという自然に入って行く。
道具が感性を育て、感性が自然の動きをつかんでいく。
これがコミニケーションでもある。
良い環境は、良いこころを引き出す。良いものは響き合い、生命力を高める。
このような豊かな時間を持つことで、一人一人が自らの命の力を失わずにいられる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。