2011年10月6日木曜日

悩まない生き方

この話も前回の続きだ。
関係とはお互いのどこに焦点を定めるかで、まったく違うものになると書いた。
怖いとか、気難しいといわれている人が、会ってみるとぜんぜん違ったりする。

僕も社会的に成功している人、地位やお金や権力を持っている人と、
意外にも出会う機会が多い。
横であの××の偉い方だよと教えられて、ご挨拶するのだが、
僕は偉くても学生でも子供でも、自分の態度が変わる事はない。
権威が嫌いな訳ではなく、誰に対しても敬意は持つからだ。
その人に敬意を持つ事と、その人の背景に媚びる事は全く別だ。
本当に普通にお話しさせてもらっていると、
そういう方達は楽しんでくれる事が多い。
普段、過剰に媚びる人に囲まれていて、
普通の会話も出来なくて、孤独さえ感じておられるのだろう。
だから当り前な人間としてお付き合いさせていただくと、喜ばれる。

偉そうとか言われている人にしても、
関係によって、偉そうにしているように見えてしまうだけの人もいる。

僕がまだ10代の頃だったけど、
精神疾患を抱えている人で、パニックになると何をするか分からない、
という人が居た。
普段はクスリを飲んでいていて大丈夫なのだが、
時々、リズムがおかしくなるときがあった。
その人が急に鎌を持って振り回しだした。
10人以上、人が居たのだが、みんな騒然となって、逃げ回りだす。
鎌を振り回しながら、色んな所を走り回るのだ。
その度に、みんながあっちへ行ったり、こっちへ行ったりする。
誰かが病院に電話する。
またいつものパターンで、注射を持った看護士が4、5人来るのだろう。
その前になんとかしたいなあと思う。
彼は坂道まで来て、下りをまっすぐ走り出す。
ちょうど、少し下に僕が居た。
僕は気が付くと彼と同じリズムとスピードで、
まっすぐ彼をめがけて走り出した。後の事は何も考えていない。
一緒にまっすぐ走っているので、
彼と僕がギリギリの所でぶつかりそうになる。
その瞬間、彼は鎌を地面に落として、僕に抱きついてくる。
ハグをして、「おし、いくか」というと、彼は頷く。
「少し落ち着いた?もう少し走る?」
「もう大丈夫だよ。歩いて行く」

それで終わりだ。彼は正気にかえった。

これも関係性によって、あるいは共感によって何かが変わるという例。

人との関係も、その人のどこを見るのか、
その人の中に何を見るのかと言うことだ。
そこに自分のこころの癖がはっきりと関係してくる。

前回、少し途中だったのはこの部分だが、
出来事や世界と向き合うときも、同じことがおきている。
自分の見ている世界が唯一のもの、
客観的事実だと人は思うが、それは違う。
他の人には違ったように認識されている。

例えば、僕が出会っている様な人達にはよくある事だが、
何かトラブルがあってこころが病んでしまう、という事があってとして、
実はその出来事は引き金に過ぎなくて、
そのきっかけによって、過去の家族関係や昔あった出来事が、
再現されているということは結構多い。

同じような辛い事があっても、人によってその反応は様々だ。

出来事のクローズアップする側面が異なるからだ。
自分がつい強く反応してしまう物事を知っておくと、その影響は弱まる。

物事にはプラスの側面もマイナスの側面もある。
どんな状況下でも、マイナスに考えて良くなる事はあり得ない。
プラスにとらえれば、何かしらは出来る事はある。

ただ、絶えずプラスの部分をピックアップ出来るようになるには、
プラス思考でいけば良いという訳ではない。
大切なのは自分の癖や歪みから自由になる事。
ある意味で自分を外して、物事を見ることができるようになる事だ。
プラスとマイナスがあって、プラスを選択出来るには、
本来はその事自体はプラスでもマイナスでもないという、
フラットな状態になる必要がある。

自分のこころをそのような状態に保って、
見詰め直す事が出来れば、悩む事もない。

だから、自分がからっぽになれる時間をつくることが必要だ。
人によって、その時間の作り方は違うだろう。

僕の場合は、ダウン症の人たちと接している時は、
瞬間に自分を捨てられるし、歪みもとらわれもないモードに転換されている。
僕たちの仕事は、自分が出るべきではない。
何かの変わりになったり、何かを代弁したり、
梯子になって「どうぞ、踏んで行って下さい」といったり、
何かと何かを繋ぐための存在になる事だ。
そこでは「自分」などじゃまになるだけだ。

勿論、制作の場を離れた僕はどうしようもない存在だ。
ほんとに、こいつしょうもないなと思う様な人間だ。
だから佐久間になどなんの価値もおかない。
ただ、場に入った時、その瞬間に僕は佐久間ではなくなることが出来る。
(制作の場での僕自身のこころの使い方、見方、感じ方は、お話しすると面白いと言って下さる方もいるので、またあらためて書くと思う)

そうする事で、日常のしょうもない人間としての佐久間も、
すこしはましになり、少しは使い物になるのだ。
だから、僕には自分を使うという感覚がある。

大事なのは何者でもなくなる時間を持つ事で、
迷う事なく、悩む事なく、周りに振り回されずに、
状況を良くして行くことが出来ると言う事だ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。