2011年11月9日水曜日

10代のころ

出産までもう少しという感じになってきた。
今週あたりかなと思っている。
たくさんの方からご連絡をいただいている。
もうすぐ、良い報告が出来ると思います。

さて、これから数回に渡って、僕自身の個人的経験をふりかえって行く。
そこからダウン症の人たちにみる、人間のこころの源にどのように出会ったか、
なにかしら有意義な実験例がみられるのではないか、とも感じている。
最初に書いてしまうと、これで一連の流れを書いたら、
もうふりかえることはしないだろう。
過去はもう過ぎ去った。次の時間に行かなければならない。
いつでも今が一番面白い。

学生達と話していると、10代の頃を思い出すことが多い。
話していて、「佐久間さんの青春は濃いね」とよく言われる。
僕から見ていると、彼らの生が薄い。
勿論、それは彼らの責任ではない。環境に原因があると思う。

確かに、自分でみても僕の10代は濃かった。
何もかもが強烈で、美しいものともたくさん出会ったけど、
きれいごとではない世界にもいた。
褒められるようなことはして来なかったと言うか、出来なかった。
でも、とにかく必死で、生きて、探し求めて、動き回っていた。
内面的にも、外面的にも放浪の日々だった。

あの時代に多分すべてがあると思う。

時間は終わりのないくらい長く感じられて、何でも出来る様な感覚があった。
今ある世界が信じられなかった。
もっと本当のもの、もっと本当の人がいる。
もっと深いものがあるはずだと感じていた。
僕は自分の先生を探し求めていた。

小さい頃の話はまた今度。
中学校3年生くらいから、話そう。
僕の家は母子家庭でもあり、生活保護を受けていた時代もあった。
兄は中学校を卒業と同時に就職したし、
僕自身も自然に進学と言う発想はなかった。
親に学費や生活費を長く負担させたくはなかった。
それと早くこの環境から抜け出さなければという切迫感もあった。
中学校の最後の年は僕はほとんど、学校には行かなかった。
図書館に行って一日本を読むか、
山の方にあるお寺に通って、住職と話したり、座禅をくんだりしていた。
卒業と同時に制服を着たままバスに乗り、そのお寺に向かった。
その日から、若いお坊さん達との修行の日々が始まった。
お寺での生活は厳しいものではあったが、僕は自由を感じた。
それまでの家と街との関係から解放されて、
いつでも何でも出来ると言う感覚があった。
初めて自由を知った。自由とは文字通り何をやってもいいし、
何でも出来るが、かわりにその行動は自分で全責任を負わなければならない。
言い換えれば自由とは命がけの行為だ。
何者にも縛られないが、誰も何も助けてはくれない。

お寺には元暴力団(今話題の?)の方や元右翼の方も何人かいた。
そういった方々からも色んなことを聞いた。
住職はどんな人も受け入れる大らかな方だった。
でも、当時の僕には人格者であるというだけでは物足りなかった。
もっと本物がいるはずだと、恩を受けながらも生意気に思っていた。
でも、住職は僕が外でたくさんのお寺を巡って、
先生を探してくることに反対はしなかった。
はじめこそはそのお寺に半年位いたが、
その後は、様々な場所を回って時々帰って来る程度になっていた。
滋賀県や兵庫県や、地元石川の能登の方でも暮らした事がある。
半分、お坊さん、半分フリーターの様な生活だった。

巡り巡って僕は結果、自分の先生を見付ける事が出来た。
今考えても幸運なことだった。
さらには、あらためて書くと思うが、信州にある共働学舎に出会ったのもこの時期だ。

お寺にいた最初の頃、思い出すのは雪の中を草履で、托鉢してまわったこと。
長いこと歩いて、街の方に出た時、学生達が歩いている。
僕の同級生達だ。向こうは学生服を着て話しながら歩いて行く。
その反対側で僕達はお経を唱えながら草蛙で雪の上を歩いて通り過ぎる。
彼らとは全く違う方向に自分は進んでいるのだと実感する。

思い起こせば、16、7才の時に最も大切な2つの出会いがあった。
一つは共働学舎との出会い。もう一つは名前はふせておくが(知られている方でもあるので差し障りがあってはいけないので)あるお坊さんとの出会い。
両方とも強烈なものだった。
禅寺では師匠を老師と呼ぶ。その老師の声は今でも思い出す。
「おい、ノッポ。大事なのは生活態度じゃ」

今だから、正直に書くが愛を知らなかったあの頃は、
たくさんの女性達と恋愛のまねごとをしていた。
お互い必死で、何が恋愛なのかも分かっていなかった。
傷つけることでしか乗り越えることが出来なかった時代、
たまたま響き合ってしまって、悪かったと思う人も多い。
でも、今ではみんな結婚してこどもを産んでいる。

思えば、本当に長い時が流れた。
あの時あったもののほとんどは、今はもうない。
何もかもが変わって行く。僕自身もあの頃の自分ではない。
もう戻ることは出来ない。
でも、宝物の様な思い出でもある。
今では時間は永遠ではないと分かるし、自分には限界があると認識出来る。

この話はここからが始まり。
共働学舎のこと、そこで出会った人達のこと、これから少し書いていきたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。