2012年12月26日水曜日

無敵

今日は今年最後の教室。

昨日は夜、イサとモロちゃんが我が家に来てくれた。
モロちゃんのご両親にもお会いした。

モロちゃんは今年はお仕事、大活躍のようだ。立派だ。
朝が早いのに、そして最後の忙しい時期に、こうして会いにきてくれて、
本当に嬉しかった。
イサも研究を頑張っている。一年で必要な単位はとれている可能性が高いそうだ。
来年は東京のアトリエと三重の開拓を手伝いながら勉強する予定。
ゆうたの機嫌があまり良くなかったので、
寝られていないなかでも、はりきって料理を作り、
ケーキも用意している、よし子の姿は子供が産まれる前と変わらない。

みんな変わってないなあ、という微笑ましい部分と、
成長したなあというところと、やっぱり両方感じる。

最近は寒いのでキーボードを打つ手がかじかんで、スピードがでない。

先日、TBSの和田さんも言っていたけど自殺率の高さ。
和田さんはこの場の活き活きした姿を見せることで、
人が命を実感して欲しい、勇気づけたいと話していた。
確かにここにいるみんなは、作家たちばかりでなく、
学生達にしても、楽しい気持ちや幸福感、繋がりを強く感じる。
それが生きている、命の実感となって、笑顔につながる。
なにも難しいことではない。
もしかしたら、普通に考えるよりも、もっともっと簡単なことなのではないか。

この場を経験してみた人は感じるだろうけれど、
私達は日常生活であんまり笑っていないと思う。
それくらい、人は本当はもっと笑う存在だ。
ここでみんなを見ているとそう思う。

そして、もっと感じる存在だ。
もっともっと、感じてみれば、生きている実感は深くなる。
問題なのは感じられなくなってしまっていること。
こころがかたくなって動かなくなっているからだ。
もし、自殺まではいかなくても、
死にたいと少しでも思ってしまっている人がいるなら、
それはこころの動きが固まってしまっている。
自殺率が高いことも問題だけど、
実は生きていてもこころが動かなくなってしまっている人も含めて、
考えていかなければならない。
なんであれ、人の気力を衰えさせ、生命や本能の力を削ぐシステムが、
正しいはずはない。

忘れてはならないのは、内側から何かがわき起こる本能を、
どんな時も手放さないということだ。

僕は思う。
この世に産まれて来た瞬間に誰もが、
参加する、関わるということがスタートしている。
誰も傍観者ではいられない。
これは死の瞬間まで続く。
そこまでどれだけ参加して楽しく出来るかだ。
人はほっておいてもいつかは必ず死ぬ。
でもほっておいても生きられる訳ではない。

子供の頃、玩具がないから自分達でルールをつくって、
遊びを開発していた。
おにごっこの延長のようなゲームだったと思うが、
面白かったのは、電話ボックスの中に入った人には誰も何も出来ない、
という設定だった。
その状況を僕達は「無敵」と呼んでいた。
電話ボックスは一つしかない。ガラス張りなので外が見える。
そこに入っていると全員の動きが見える。
走り回って疲れるとそこに入り、「無敵」になる。
みんなの走り回っている姿がよく見える。
自分が離れているので全体が見える。

僕達が学んだことは、無敵がいかにつまらないか、ということだ。
電話ボックスの中にいる時、外へ出たくてむずむずする。
早くみんなとバカなことをしたい、勝ったり負けたりしたい、
もう無敵なんかいらない、と。
電話ボックスに一日入っている子は1人もいなかった。

ここで結論として、自殺してしまうことが、
この電話ボックスの無敵と一緒で、参加することが生きることだ、
と言ってしまえば簡単なのだけど、そう言いきってしまうことはしない。

それでも、この電話ボックスから2つのことを学んだ。
参加しなければつまらないというより、
参加せずにはいられない本能があるということ、
もう一つは離れて見ることが出来なければ、全体を見ることが出来ないということだ。
少しだけややこしいのは、この無敵の存在がなければ、
見えないことがたくさんある、ということだ。

僕は結構、死のことを思う。
そこからどう生きるかも考える。
10代の頃は命になんの未練もなく、死も全く恐れてはいなかった。
今はやっぱりそんな訳にはいかない。
恐怖心もある。

冬の透明な日射しが薄い緑の葉っぱを貫いて光っている。
葉と葉の間から、水色の濁りのない空が見えている。
風は冷たく、強い。

クリスマスが終わって、少しづつ静かになって行く。

バーバーのアダージョやバッハのエールがやさしく響く。

今、自分のいる場所がどんなところであれ、
そこを少しても良い思いで、ちょっとでも良くする。
多分、それが生きること、参加することだ。
そして、それはとても楽しいことだ。

2012年12月25日火曜日

クリスマス。
みなさんが良い時を過ごされていることを願っています。

平日のプレクラスも今日と明日まで。
今年ももう終わってしまう。

よし子の移動前なのでお世話になった方達から、ご連絡をいただいている。
よし子宛のメールに返信出来ておりませんが、
近いうちに本人からご連絡させていただきます。

色んな方とお会い出来て本当に嬉しい。
引っ越し準備とゆうたのことがあるので、あまりお時間をとれないのが申し訳ない。

それにしても、僕自身、仕事の上で様々な人達にお世話になっていることは、
いつも実感し感謝の気持ちがあったのだけど、
最近は私的な部分でも自分達を支えてくれている人達がこんなにいるんだな、
とようやく気がついて来ている。
もちろん、僕のことであって、よし子はそんな事はずっと感じているのだけど。

あたたかく思ってくれる人達に、もっと感謝しなきゃ、と感じている。

今年最後の、そしてよし子が東京にいる最後の絵画クラスでは、
土曜日にNHKの吉川さん、日曜日にTBSの和田さんが来て下さった。
お2人とも、何か形にしたいと企画を考えて下さっているが、
お付き合いも長いので取材というより、
この時期に久しぶりに友人に会うような懐かしい気分だ。
仕事に繋がることは大切だけど、それ以上に大事なこともある。
特にこのような場においては、人はこころで繋がらなければ意味がない。

来年からが勝負と思っているので、今年を振り返ることはもういいかなと思う。
でも、3・11以降の一年くらいで、アトリエの使命を、
より明確で力強く果たして行く必要を感じて来た。
よし子の三重移動には実は充分に準備をしてきている。
この時期に出生前診断が波紋をよんだ。
生命の源泉に立ち返って、本当の価値と本当の道を見出さなければならない。

人間が人間らしく、この地球という有限の空間で、
どのように生きるべきなのか、その答えの手がかりを、
この活動の中から示して行けるかどうかだ。

僕個人で言えば、外でお話しするようなことは控えて来たが、
今年は2本ほど、講演をおこなった。
来年も夏にお話しする予定だ。
場からも伝えるが、イベントや企画を通して、そして、
外でお話することで、どんどん伝えて行かなければと思っている。
何故、伝えるのかと言うと、僕が見ている世界に生命の本質があると思うからだ。
僕の見ている世界とは言うまでもなく、ダウン症の人たちの世界だ。

クリスマスと言えば、信州あたりは雪で真っ白だろう。
僕が昔いたところはマイナス18度くらいにはなる。

僕が小さな頃は金沢も雪が積もった。
今よりずっと寒かったと思う。
あれはまだ父と母が一緒に暮らしていた頃だったろうか、
僕はよく母と買い物のあと、祖母の家へ行った。
母と祖母が話している間に僕が寝てしまうと。
祖母は母に「あんたあ、この子、ここにおいてくまっし。あとで連れていくさかいに」
と言って、母を先に帰らせる。
僕はそれを知っていたので寝たふりをして祖母と一緒に居る時間を作っていた。
祖母はその事に気がついていてわざとそうしていたのだろう。
雪を踏みしめて、寒い寒い冬の中、祖母と手をつないで歩いた。
金沢はベタ雪で、雪の水分が多い。
それにいたるところにスプリンクラーから水が流れ続ける。
長靴でもビチョビチョになる。
もらったお菓子の箱に雪が積もって白くなる。何度も何度も雪をはらう。

祖母が亡くなって、お葬式の日は大雪だった。
夜、雷がなった。外は真っ暗で、雪が降り積もり、何度も何度も雷が鳴った。

滋賀県で町外れの工場のある場所で一人暮らししていた頃、
そこでクリスマスをむかえた。
あの冬は寒かった。
僕は短い期間でたくさん働いて今までにないくらいお金を手にしていた。
春が来たらこれを手に勉強しにいこうと思っていた。
古い旅館を改装した寮があってしばらくそこにいたこともあった。
その頃、色川武大の「あやしい来客簿」という小説集に出会った。
工場での休憩時間によく読んでいた。
いい文章だった。夢とも現実ともつかない、
それでいて、生きていることの滑稽さや危うさや、だらしなさや、
そしてやさしさや素晴らしさすら感じさせた。
文体はのらりくらりのようでいて、結局急所はついている。
ヘンリーミラーの南回帰線の文庫本も持ち歩いていた。
そのころはたった1人だったけど、孤独感のかけらもなかった。

祖母はよくいったものだ。
「たっちゃんは(僕は小さい頃、何故かたっちゃんだった)きっかん子やけど、かたいさけ」。金沢の言葉できっかん子は大人の言う通りにしないような子のことだ。
かたいは標準語で言えば良い子とか強い子。
きかん子とかたい子はちょうど真逆で一緒に使われることはない。

滋賀県にいたころ、オウム真理教の事件がニュースで流れた。
おばちゃん達が色んな噂をしていた。
僕は当時、お寺にも通っていて、宗教による事件に様々なことを考えた。
でも、すべてはどこか遠いところでの出来事のようだった。

寒いところにいたころはあんなに嫌いだった雪も、
今は冬になると、雪でも降って真っ白な景色が見たいなあ、
とか呑気なことを考えてしまう。

冬の一人旅も好きだった。
旅行者が少なくて。
まあ、僕が行くような所にはもともとそんなに人はいなかったけれど。

今年の東京に雪は降るだろうか。

2012年12月22日土曜日

教えること、教えられること。

今日は小雨のようだ。
さて、土、日曜日の絵画クラスは今年最後のクラスとなる。
といっても、5日から始まるのでいつもと変わらない。
でも、年の区切りというのは何故か意識してしまう。

1人で過ごすときに聴こうと思って、少しCDを整理した。
ビリーホリデイは3枚あった。
一枚は中古で300円で買った、
1935年から37年までの2年間の録音を寄せ集めたオムニバスみたいなの。
もう一枚は晩年の枯れきったもの。
そして、定番の「奇妙な果実」。これは37年と44年の録音。
「奇妙な果実」が最高傑作と言われることが多い。
でも、僕はこの中では35年からの2年間の録音が一番好き。
これはだいたいそうだけど、良い表現者は初期のものが一番良い場合が多い。
天才は特に早い時期に完成してしまう。
完成してしまうと、あとはアレンジを加えて行く以外にない。
いじればいじるほどつまらなくなって行く、ということもあるが、
それより、何事も完成されたら、それ以上はどうすることも出来ない。

今、これを書きながら、「奇妙な果実」を聴いている。

木曜日に少しゆっくりゆうたとよし子と3人の時間を過ごした。
恥ずかしながら、こんなに幸せを感じたことはない。
ゆうたはどんどん可愛さを増して行く。

やっぱり佐久間さんってちょっと違う角度から考えますね、と言われる。
別にわざわざ、常識に反抗しようとしている訳ではない。
ただ、僕は決まり文句や常套句というのが嫌いだ。
思ってもないことを言うのは論外だが、
無意識のうちに何も考えずに使っている言葉にも気をつけたい。
実感の伴わない言葉は言ってはいけないと思う。
例えば、ある施設の人と話していた時、
その方が障害を持っている人とのことを、
「むしろ、こちらの方が教えられます。」と言うのだが、
こんな言葉を鵜呑みにしてしまう人は多い。
はっきり言うけど、この方はそんなこと思ってませんよ。
嘘をついているのではなく、もう無意識に言ってしまうのだ。
なんの実感もないし、その言葉の意味についても考えたことがない。
だから、どこかで聞いた事があるような言葉しか出てこない。

もちろん、こんなことを言ってはいけないと言っている訳ではない。
僕だって時と場合によっては言うこともある。
だけど、考えて実感したことを言って欲しい。
突っ込んでも仕方がないが、「こちらの方こそ」という表現に、
実はあらかじめこちらが上という視点があるから、
逆転させたようなことが言える訳だ。

言葉は時と場合によるから、あえて軽い表現が必要な時もある。
だから、こう言ってもいい時もある。
あんまり、こだわると普通の会話が出来なくなるし。
僕がお世話になっていた宮島先生は頑張るという言葉を嫌っていた。
頑を張るというのは良くないと。
それはいいのだけど、先生の前で誰もその言葉を使わない。
こうなると宗教だ。
僕は平気で頑張るという表現をしていた。
その人の哲学で○○という言葉が嫌いというのがあって、
そこまでは分かるけど、周りにいる人がここでは○○という言葉は使わない、
というような場所が結構あって気持ち悪い。
会社とかでもそういうのがあるらしい。

問題なのはどういう意味で使うかだ。

こういう言葉を使ってはいけませんという話ではない。
実感を持って話しましょう。
人の言葉を盗んでばかりではいけません、ということだ。

さっきの方に話を戻すと、その後の会話も常套句の連続で、
最後には「あの人達(障害を持つ人達のこと。この方は利用者さんと呼んでいた。この言葉も何だか気持ち悪い)と一緒にいると癒されますよね」と言う。
お前らが癒されてる場合か、と思うのだが、それはもういい。
この言葉だって、学生や外から来た人が言う分には素直な良い感情がこもっている。

「奇妙な果実」を聴いていると、1937年以降のビリーホリデイは、
何かを失ってしまったのだと思う。
でも、そこに深い魅力がただよっている。
失ったことによって何かを得るということが本当にある。
今の僕にはこっちの方が響いてくる。
音楽にずっと浸りたくなる。

それでも、すぐに失われてしまうからこそ、37年以前の2年間に、
計り知れない魅力を感じてしまう。
誰でも一番良い時期は長くは続かない。

こちらの方こそという話だが、
あれこれ書いたが、それでも、相手から教わると言うことは、
障害を持つ人を対象にした場合のみならず、子育でも教育でもすべてにおいて、
とても大切な事であることは事実だ。
お世話してばかりいては、受け身な人間にしかならない。
教えてばかりいては相手は小さくなって行く一方だ。
人はお世話されるより、お世話することで成長していく。
教わることより教えることで学べることの方が多い。

普段大人から教えられてばかりいた人に、教えてよとお願いすると、
その人がとたんに活き活きしてくることは良くある。
何でも出来すぎる大人が近くで見ていることは、
実は教育上あまり良くない。

僕は特に作家たちにとっては、あんまり出来ない人だ。
だから、彼らはいつもサクマさん大丈夫かあ、とかばってくれるし、
面白いこと教えてあげる、とか、綺麗なものみせてあげるよ、
という態度で僕の前に自分の世界を出して来てくれる。

ゆうたと一緒にいてもそうだ。
僕が帰ると自分はもう食べ終わっていても、「まんまんまん」と言って、
僕に食べるように伝える。スプーンを僕の口に突っ込む。
食べ終わると僕の頭をよしよしとしてくれる。

飼っている犬でも僕の面倒を見ているつもりでいる。

みんなが心配してくれたりやさしくしてくれる。

これは自然とそうなるので、わざとしている訳ではない。
僕の場合は特に、自分の追求して来たことと関係している。
相手のこころが動き出してくれなければ、僕の仕事は成り立たない。
相手のこころがどうやったら動いてくれるのか、ということを追求して来た。
そこで、特に動きが固くなっている場合、
僕自身が相手のこころの深いところまで入りこまなければならない。
ちょっと入れてと言っても、怖いから入れてはくれない。
気配を弱くして、自分を小さくして行く。
やわらかくして行く。
敏感になっている時はこちらから相手に触ってはいけない。
相手から触ってもらえるように、こちらは無防備になる。
何をされても抵抗出来ないほどになる。
そうすると相手は入りな、と言って入れてくれる。
少しづつすすんでいって奥深くにたどりついた時には、
こちらは赤ん坊のように小さく無防備な存在になっている。
その時、自分のこころの深くにいる赤ん坊に対して、
相手は親のようにふるまい、守ってくれる。
そして、内側から様々な自発的な動きがわき起こる。
そうなったら赤ん坊である僕はすぐに消えなければならない。
今度は自然を相手にするように、波を見極め、気流に乗って、
流れの中でどこを活かし、どこを落ち着けておくべきか判断する。

2012年12月19日水曜日

ビリーホリデイ

年末にも関わらず読んで下さる方が多いので、
今日も書かせていただきます。

昨日、AEPニュースの発送も終わったので、引っ越し準備開始。
久しぶりにイサにもモロちゃんにもミヒロにも会える。

先日の日曜日にアトリエを応援して下さるベリーダンスのスタジオの公演があった。
教室だったので顔を出すことは出来なかったけど、
赤嶺ちゃんが一生懸命、繋いで活躍してくれた。
絵も一点、入口に置いてもらった。
ダンス、歌うことや踊ることは、作家たちの描く行為と同じものだし、
人が楽しい気持ちで繋がることができて良かった。
作品も喜んでいただけたようです。

よし子の移動を前に連絡をくれる人達がたくさん。
みんなありがとう。
これからは少し形は変わるけれど、大切なことはいつまでも変わらない。
いつでも前にすすんでいこう。

友の存在は本当に大きなものだ。
と言いつつ、僕には友達は少ないのだけれど。
みんながアトリエやダウンズタウンの活動を自分のものとして、
大切に想ってくれていることが何より嬉しい。
この場や作家たち、よし子や僕が一つのきっかけになって、
一緒に過ごし一緒に学んだ仲間たちと繋がって行って欲しい。

自分自身を考えても語り合った仲間達の存在は大きかった。
まだ経験が浅く、何も知らなかった頃は、
自分を完全にコントロール出来なかったから、
一緒にああでもない、こうでもないと言い合ったり、
認め合ったり批判し合ったり出来たことが自分を成長させてくれた。
特に今のような取り組みを自分が見出しつつあった頃は、
孤独でもあったし、人のこころに感応していくということは、
かなり感覚を研ぎ澄ませて高めて行く必要がある。
慣れない頃は高まって意識のスピードが早くなって行く自分を、
どう扱って良いのか分からなかった。
そんな時に仲間と語り合ったものだ。
みんなそれぞれが自分なりに何かを追求していたのだろう。
僕はその中でも特殊な考えを持っていたと思う。

一番、気があっていた友達のことは語れない。
それぞれが別の道を歩き始め、何人かはこころを病んでしまった。
僕達の相手にしているものは巨大だったから。
あの頃は自分と対象とする相手とのことだけで精一杯で、
仲間を本当に助けることが出来なかった。
僕達はあまりに強烈な体験を若い時期に吸収しなければならなかった。
あまりにおおくの闇や死を見なければならなかった。

よく語り合った友がいる。
彼の方が年上だったが、どちらかと言うと僕の方が何かを教えることが多かった。
彼もそれを望んでいて、結構、僕を頼りにしてくれていた。
教えることが、自分をどれだけ成長させるものなのか、
教えてくれたのも彼の存在だ。
教えているとき、僕は研ぎ澄まされ、開き、意識が高められた。
一緒に見出そうとする作業を続けて来たから、
彼がいなくなり1人になってから、語り合えることの掛け替えのなさが身にしみた。

一人一人と語り合った情景は忘れられない。
その時に見ていた景色や、聴いていた音楽や、世間で起きていた出来事。

お正月は1人で過ごすことになるかも知れない。
そうなったら、あの頃からずっと聴いて来たビリーホリデイでも聴こうか。
あの歌声を聴いていると、色んなことが思い出されてくる。

2012年12月18日火曜日

選挙

昨日はアトリエが終わってから、最後の封入れ作業。
無事終了しました。本日発送です。
出会ったたくさんの方を思い出しながら、作業しました。
それから、手伝ってくれた、あきこさん、稲垣君、赤嶺ちゃん、
本当にありがとう。

久しぶりにミヒロからメールがきた。
引っ越し手伝ってくれるって。

こうして、みんながつながりをもち続けてくれることが嬉しい。

作家たちも、学生達も、関わってくれた方達も、みんながつながっている。
一人一人のことを忘れたことはない。

これからは、よし子も三重へ行ってしまう。
距離が離れてしまうことは事実だ。
だから、ますます、みんなでつながりを強めて行こう。

あ、別に手伝わなきゃいけない訳じゃないよ。
みんなが、それぞれの場所で離れていても、お互いを想って、
自分の道を歩いてくれることがなにより。
どこにいても、アトリエでのように、
その場を良くするということを忘れないで欲しい。

政治のことについて、発言しない様にしているが、
先日の選挙はつまらなかった。
面白いとかつまらないという話ではないのだが。
自民党イコール悪のような考えは当然ない。
民主党もしょうもなかったことは確かだ。
それにしても、もう少しなんとかならないのだろうか。

投票は国民の義務みたいなことを言いたい人がいるが、
もっとよく考えてみると、選んだからには責任がある。
責任を持って選べる人や党がないということが問題だ。
いっそのこと、誰も投票しなかったらどうなるのだろう。
その方がちょっとは考えざるをえなくなるのではないか。

まあ、いい加減なことは言わない方がいいだろう。
ただ一つ。
政治によって世界が良くなることはない。
これは確かなことだ。
世界が良くなるためには、人のこころが良くなるしかない。
それは自分の問題から始めなければならない。

政治家の方とも何人かはお付き合いもあるが、
僕は一生、政治とは無縁だろう。

そんな中で、昨日もゆうすけ君なんかを見ていると、
本当にどうどうとどっしりしている。
世の中がどうなろうが、微動だにしない強さがある。
このたたずまいこそが人間の尊厳だ。
ここまでの精神の偉大さは持てないにしろ、
僕達もあまり右往左往せずに落着いて、良いことをし続ければいい。

ゆうすけ君には重みがあり、重厚感があるが、
てる君には軽さと自在さがある。
前回、志ん嘲のことを書いたが、てる君との共通点が多い。
それは軽さであり、流れるような穏やかなリズムと、
ブレスを感じさせない、深く静かな呼吸だ。
清潔で品があって水のように透明だ。

こういうリズムに触れて感じとれるようになることが、
人を豊かにし、環境を良くしていくことにつながる。

さて、まだ色々と進めなければならない事があるので、
今日はあんまり長く書かないことにしよう。
みなさんも、年末に向けてお忙しいことと思いますが、
お身体にお気をつけ下さい。
また、土曜日くらいに更新します。

2012年12月16日日曜日

境界線

今日は比較的暖かい。
来週、出来れば火曜日くらいには発送作業が終われば、
いよいよ引っ越し準備だ。
それにしても、何度引越したか分からない。
よし子とゆうたと離ればなれになるのは、やっぱり寂しいが、
次の一歩を踏み出すためには自分にも何かを課して行く必要もある。
何をするにしても、そこに人生をかける人、
命をかけて取り組む人とそうでない人がいる。
そうでない人を決して批判はしない。ただ、違う姿勢を見せて行きたい。
誰に対して見せるのかというと、次に何かをしようとする人達だし、
僕の場合はゆうたにも自分の生き方を見せなければと思っている。

この前、ゆうたが咳き込んでいて、2度ほどもどしたのだけど、
僕は自分がビチョビチョになって起きて、
またやってしまったかあと濡れた布団を見ている夢を見た。
この感触は何だろうと思っていて、昨日のゆうたか、と思い出した。
最近はゆうたと同化することが多い。

でも、僕は昔から誰かと同化したり、
誰かの感覚や思考を自分の内部で感じたり、そんな経験をしてきた。

境界線というものがある。
境界線はいったい誰がいつ付けたものなのか。
この答えは簡単だ。
日々、瞬間ごとに私達自身が自分で付けているだけだ。
だから、境界など本当はない。
ここで書いて来たような、夢と現実から始まり、
善と悪、男と女、日常と非日常、内側と外側、自分と他人、
といったようなすべての境界は本当は存在していない。
突き詰めれば生と死すらも。
存在しているとすれば、それは心の中でだけ存在している。
これは別に哲学ではない。経験で分かることだ。
特にこころに深く入る経験によって。
こころの表面ではそういった区分や境界だらけで、
それによって自分の世界を作っているが、深く入って行くと全く違う景色が見える。
そこでは何もかもが渾然一体とかしていて、一つという言葉も存在しない。

ここで上げた例の中で言うなら、
自分と他人というものがあるが、これなんか一番あやしい。
これは僕が特にここと関わる生き方をしているのでそう感じるのだろうが。
自分の中に他人が入って来たり、他の人のこころへ潜ってみたり、
そんなことをしているうちはいいが、
いずれ経験が深くなると、それらが同時に感じられる様になる。
そうすると、どこまでが他人でどこまでが自分なのか分からない。
他人と言っても、1人や2人でなく、多人数になってきたり、
さらにはもっと個を超えた何ものかが入って来たりする。

何もことさら話を大きくしている訳ではない。
単純に隣にいる人の気持ちを感じようということだけでも、
それを深くやってみたら、こんなことになって行くのだ。

数日前のプレのクラスで、
事務仕事を手伝いに来てくれていた赤嶺ちゃんが、
終わった後にたまごサンドを発見した。
古くはなっていない。誰が持って来たのだろう。
これ、誰のかなあ、と聞いても誰も知らない。
「食べてもいいかなあ」
「あまっているんだし、食べてもいいよ。」
そのとき、赤嶺ちゃんが面白いことを言った。
「このたまごサンド、謎だなあ。謎だから食べて、謎を消そうかな」

言葉の使い方は相変らずさすがだなあ。
そう、僕もそんなふうに謎をたくさん食べて来た。
謎があっても気にしないが、謎があっては困る人や、
謎で悩んでいる人がいた場合、僕はすぐにその謎を食べた。
だから、僕のこころの中は謎だらけになって、僕にとっても謎だ。

謎だけではない。悲しみも苦しみも、孤独も怒りも、
みんなまるまる食べてきた。
強い胃袋があって、ちゃんとトイレに流せたから良かったけど。
消化能力が弱い人はやってはいけない。

もう一つ。境界線が消えると言うか、無いところまで行ってもいいけど、
生きているのだからちゃんと境界線は引くこと。
境界線が無いと言うことを知る経験は素晴らしいけど、
そこから出られなくなってはいけない。
境界線を永久に消し去ってはいけないのだ。

僕自身も昔はかなりむちゃをしたので、
命綱をはずしてしまったり、出口を塞いでしまったり、
自分を置き忘れて来てしまったりして、危ないところだったこともある。

でも、こうして生きて帰って来ているのは、勝負を忘れたことがないからだ。
僕は安易な平和主義を良しとはしない。
きれいごとでは生きてはいけない。
生きることは、様々なしがらみを受け入れることだ。

勝負などというものは子供じみている。
それでも、こういう愚かさを引き受けることが必要だ。

確かに良いものを知ったら、すべてを良いものにしたくなるかも知れない。
でも、大切なのはバランスだ。
悪いものを滅ぼそうとしてはならない。
悪いもの醜いもの、そんなものもこの世の中には少しは必要だ。
どんなに良いものもそれだけになってしまうことは怖い事だ。

正しくないものと戦い続けよう。
でも、正しくないものを消滅させることは出来ないし、してはならない。

境界線は必要な分だけひくことだ。

2012年12月15日土曜日

回帰

普段のアトリエでの作家たちの集中は凄い。
多分、こんなに真剣になっている彼らを見る場面もないだろう。
そして、彼らは時に遠くを見るような眼差しでじっとしている。
ぼーっとしているだけの様にも見えるが、目つきが違う。
視線の力について、また暴力性についても何度か書いた。
目は、その人がどんなこころの状態にあるのか、示している。
さらに相手に自分のこころの状態を示す時にも有効だ。
何故、自分のこころの状態を示す必要があるのか、というと、
勿論、迷ったり、困ったりしている時に、安心感を持ってもらうためだ。
だから安心してもらうためには、自分が安心したこころの状態になければならない。

話はそれたが、目を見ているとその人のこころが分かる。
彼らのあの遠くを見る眼差しは、ただ放心しているのとは違う。
あきらかに物ではない何かを見つめているのだ。

今日はその話をしてみたいと思う。
でも、急ぐことはない。

いつもはアトリエまで自転車で通っているのだけど、今日は久しぶりに徒歩。
日の出は遅かった。
寒くなってゆうたの眠りが浅いのか、不安なのか、授乳が一時間おき。
よし子は寝不足で大変だ。
昨日は僕もあんまり寝ていない。
急に成長が早くなってきて、お腹がすいているのではないか、という気がしている。
いっぱい食べれば、寝られると思うのだけど、
アレルギーで食べるものが限られている。
同じものは飽きてしまってなかなか食べてくれない。
栄養が心配になるので、食事を考えていかなければ。

寝不足で朝日を見ると、かつてある障害を持つ人と、
寝ずに付き合って夜が空けたときの情景を思い出す。
身体がどこかへ行ってしまって、意識だけがその場にあるような、
不思議な感覚で夜明けの太陽を見ていた。

それにしても寒い。
ユニクロで暖パンというのを買った。
今年はこれでいこうかな。
いつも途中で邪魔になってやめてしまっていたが、腹巻きも最近はしている。
以前、ほぼ日の方にいただいたのが、やっぱり一番いい。

ようやく、年末の印刷物も纏まりつつある。
来週中には発送出来るだろう。
それにしても年末は特に時間がすぐに過ぎてしまう。

この季節になると、古今停志ん嘲を思い出す。
志ん朝は、僕が生きているうちに見ることが出来て、
一番幸運を感じる落語家だ。
志ん朝と談志だけは、何度も聞きに行った。
テープで聞いた志ん生、文楽、圓生、とか、落語は大好きだけど、
その話はやめておこう。
冬に思い出す落語は、「富久」で志ん嘲の亡くなった後に出た音源だ。
今から9年ほど前だろうか、阿佐ヶ谷で一人暮らしをしていた時に、
よく聞いていた。
今は手元にない。
冒頭の「ウー寒い。ウー寒い。」から始まって冬の寒風の雰囲気が出ている。
あのシリーズの録音が志ん嘲のベストかと言うと疑問だけど。
でも、くり返しあの透明感のある声が聞けるのは嬉しかった。
下手な音楽を聴くより、志ん嘲の落語の方がはるかに音楽的だ。
あのリズム、あの間こそ、自分に刻み付けたい。
談志も志ん嘲もジャズが好きだったけど、
やっぱり志ん嘲の方がジャズを感じさせる。
どこにも滞るところがなく、どこまでも自在だ。
上手さすら感じさせない。爽やかな息づかい。

CDや本は、僕の場合、定期的に手放してしまうので、
記憶の中にだけあるものが多い。
ここに書いているものも幾つかはすでに手元にないので、
確認出来ない。記憶に間違いがあるかも知れない。
なにせ、今は映画も見ないし、本もあんまり読まない。
音楽だってそんなに聴かない。
ゆうたが産まれてからは、電車に乗ることもほとんどない。
アトリエと家のまわりだけが僕の毎日だ。
それで、実は今の方が新しいことがいっぱいある。
ゆうたを見ていると発見することが多い。

最初に書いた遠いところを見つめる目というのも、
昨日、ゆうたがずっとそんな感じだった。
僕はゆうたと同じものが見たいと思ってずっと彼の目の先を見ていた。
無論、物質ではない。どこか遠く。でも確実に存在する何か。
こころの奥深く。
一緒に見ていると、本当に遠いところまで見えてくる。
僕達はどこから来たのか、じっと見ている。
それはアトリエでのこころの動かし方とかなり近いものになっている。

これを仮に発生学者三木成夫の言葉で、
「過去へと向かう遠い眼差し」と呼んでみる。
三木成夫はさらにこの過去へ向かう眼差しに対して、
「今のここに、かつての彼方を見る」視点と書いている。

ここで書いて来た「夢の中にいるような感覚」や、
「今が過去のように感じられる」や、あれやこれやも、
みんなこの過去へ向かう遠い眼差し、ということなのだろう。

これも三木成夫が書いていたと思うが、
鮭が命がけでやって来た場所へ帰ろうとするように、
人間も回帰する本能が植付けられているはずだ。
もっと言えば、この宇宙そのものが回帰する存在なのかも知れない。
世界がやっていたところへ、世界は回帰する。

ここで作家たちが制作する行為も、回帰していく行為だし、
この場は私達が本来あるべき姿に戻る場所だと言える。

そういう意味で、ここで何か新しいものを創ろうとか、
新しい知識や技術を身につけようとか、
持ってないものを手に入れようとか、出来ないことが出来る様になるとか、
そんなことではないと思うのだ。
むしろ、そんな事は毎日毎日、無理やりしているのだから、
一旦、みんな捨ててしまって、元に戻ろうよ、ということをしているのだと思う。
そして、回帰したとき、僕達は再び活力を得る。
しばらくすると、また色んなものが溜まってくるので、
また捨てて、回帰する。生きるとはそのくり返しだ。

素直に捨てられる人、裸になれる人は疲れない。
生命力が新しく湧き出てくる。

2012年12月11日火曜日

ほめること

今日も朝の2、30分でブログ書きます。
昨日も夜明けの太陽を見た。
燃えるようでやっぱり感動する。

今日もプレと事務仕事。今週でかなりのところまで終わらせておきたい。
昨日、机に積まれた封筒とプリントの束を見て、
稲垣君が「明日も手伝います」と言ってくれた。

砂糖は麻薬だと言う人がいるくらいだけど、僕はついつい欲しくなる。
(糖は身体が分解して造り出せるもので、砂糖という形でとる必要はないらしい。)
なるべく避けようとはするのだけど、甘いものの誘惑は凄い。
更には苦いコーヒーとの相性は抜群。ゴールデンコンビだ。
疲れると食べたくなる。
甘いものはずっと好きだった。
よし子とお店に入るといつも注文したものが逆に運ばれた。
僕が注文するものは女性的なもので、よし子は逆だったみたいだ。

赤嶺ちゃんにもよく
「佐久間さんって女だよね。おしゃべりとか好きだし」と言われる。
ここで言うおしゃべりは決して哲学的なものではない。
ひたすら意味のない話だ。あの人がどうしたとか、あの店が良いとか。
実際僕は女性的なものが好きだ。
香りや花や色々。

ずっと以前に尊敬するお坊さんがいて、その方から学びたいと思っていたので、
しばらくだけ、中部地方で暮らした事があった。
その時期、僕の部屋はバラの香りにしていたし、
近くのお花屋さんで定期的に花を買って飾っていた。

友達も以前はほとんどが女性だった。

こういう部分は今では「場」の中で女性的な力を使う場面が多いので、
日常的にはそんなに出さなくてもよくなった。

だから、真面目すぎるとか言われたり、
怖い人間に思われると、誤解されてるなあと思う。
最近はぜんぜん行っていないけれど、以前しばらく通った鍼灸院で、
先生がいつも「佐久間さんは強いですよ。」とか言っていて、
時々、「佐久間さんって武道をされていたんでしたっけ?」と聞かれていた。
毎回、違うと否定するんだけど、お酒も強いと思われていた。
身体を触ると、精神的にも身体的にもかなり強いらしい。
「欠点があるとすれば、強すぎて弱い人のことを理解出来ないかも」と言われた。

そうなのかなあ。
身体も実は昔はとても弱かったと思う。

確かに僕は立ち向かわなければならない時は、完全に男になる。
でも、多分、強くはないと思う。
身体的苦痛に弱いし、高い所と水の中が怖い。
結構、苦手なもの、怖いものがある。

こんな話題もただのおしゃべり。

ところで、「場」のことにも少し触れよう。
長くアトリエに通い続けていたイサが、大阪に行っているが、
向こうでも勉強と同時に現場も見ていきたいと、様々な場所で学んでいる。
主に障害を持った人の施設の中でもアトリエがあるところや、
表現活動をしている場を見学させてもらうのだと言う。
「いいところあった?」
「ないですねえ」
(申し訳ないです。学生の生意気をお許し下さい)
「最初にアトリエみちゃってるからね」

そんな中でこんな話題があった。
ある施設のアトリエで制作を見せてもらっているとき、
作家が作品を仕上げてもスタッフはほめない。
作家は作品に何か言って欲しいみたいで、周りの顔を見る。
イサはうちのアトリエをずっと見ていたから、その光景に違和感をおぼえた。
それで、作家が何か言って欲しそうなのを見て、
「良い絵だねえ」みたいなことを言ったらしい。
そうすると、その場の雰囲気が変な感じになった。
あれっ言っちゃいけなかったかな、と思って、
終わった後に代表の方に聞いたところ、こう答えられたという。
以前、作家を褒めたところ、作品が変わってしまった。
自分達は作家に影響を与えない様にほめないことにしている、と。

さて、結論だけ最初に書こう。
この考え方はあまりに素人的だ。
だが、理由を書く前に、この方達の活動については、
世の中に沢山ある施設の中で際立った良い役割を果たしているものだし、
新たな可能性を開拓してもいるということは述べておきたい。
有名な団体でもあるので名前は出さない。
これはあくまでスタッフの役割という、
現場での実践的な事柄についてのみ、見解の甘さを指摘しているまでだ。
その活動自体はなかなかすぐれたものだとは思っている。

まず、このナイーヴな認識は、始まりは良いと思う。
自分達が影響を与えてしまって、
作品を歪めてしまっていることにさえ気がついていない人が多すぎる。
その中で、作家の良さをこちらの世界の影響で歪めたくない、
という志も高いと言える。
だが、関わるスタッフとして、その程度の認識に留まっていてはいけない。
それは出発地点であって、結論ではないはずだ。
まず、言うなら、本当に作家に影響を与えないなどということはありえない。
「影響を与えたくないから、ほめない」というこのスタンスが、
作家たちに影響を与えていることは確実だ。
場所から道具から、そこにいる人の雰囲気から(方針からではない)、
作家たちは絶えず影響を受けている。
このように影響を与えざるを得ない存在であるというのが、
スタッフとしての出発点なのだ。
その事を真に考え抜いて、どう接するべきか確信を持った人間のみ、
関わる資格がある。
例えば「影響を与えていない」と考えれば、責任もないということになる。
スタッフは自分が関わった作家の作品に責任を持つべきだ。
描く人間はこころを持っている。
こころが動かないで良いものが生まれるだろうか。
こころは共感によって動くのだ。
周りの表情を見たその作家は孤独だったに違いない。

別に創作に限らず、教育の問題にしても、
「ほめる」ということに気をつけなければならない事は確かだ。
ほめるということが、相手を方向づけ、支配することにもなりかねない。
ほめられたい人をほめてはいけないということもある。
ほめられるということは、評価を気にするという卑しい心理を誘導してしまう。
でも、こんなことは基本中の基本。
関わることを仕事としているほどの人間なら、
影響を与えないほめ方や、卑しさを引き出さないほめ方くらいは、
出来なければ始まらない。

スタッフはこころというものを熟知していなければならない。
自分や周りの環境が相手にどのように入って行くのか、
見極め、どのように振舞えば、相手の本質であり、
一番良い部分が発現出来るのか知り、適切な影響を与えなければならない。

だから、そこから先が私達の仕事ですよ、ということだ。

2012年12月10日月曜日

名付けようがない世界

今日はAEPニュースの準備。
パソコン関連の作業や名簿の整理は、
よし子、稲垣君、あきこさんに頼りっぱなしだったので、
三つ折り、封入れ等のアナログ作業で力を発揮しなければ3人に示しがつかない。
しっかり存在感を出せないと、みんなに申し訳ない。

三重での合宿の時も、学生達に協力し合う意味を語りながら、
結局、こちらはみんなの姿に感動するのみで終わった。
アトリエに集まってくる人達は相手を思い、
みんなの為に何かをすることが出来る人達だ。
僕としては愛想を尽かされない様に努力するだけだ。

色んな人達と一緒にいるから、勉強になる。
本も随分読んだ時期があったが、
人がさり気なく教えてくれることから学んできたことの方が多い。
夏になるとよし子の友達の中田君のスイカが届く。
中田君は無農薬でかなりこだわった野菜を作っているが、
なかなか徹底していて信頼出来る。
本当の野菜はこんな味かあ、と改めて感じる野性的な味。
中でも特に凄いと思うのはスイカだ。
本当のスイカは接ぎ木をしないで直接育てる。
普通に売られてるのはカボチャや何かに接ぎ木しているそうだ。
本当のスイカを作ると、同じ畑では8年間もスイカを植えられないという。
それくらい、スイカはエネルキーをもっている。
勿論、味もぜんぜん違う。
食べるだけで、本当に勉強になるくらいだ。
そのスイカを食べていて、僕は「凄い」としか言えずに、
ずっと感心していたのだけど、その時、一緒に食べていたクリちゃんが、
「これ、肉みたい」とつぶやいた。
そうだ、本当にそうだ、と思いつつ、ああこれもいい言葉だなあ、と勉強になった。

最近はテレビを見なくなった。
悠太の寝る部屋の隣にテレビを置いたので、起きない様にあんまりつけない。
でも、ほんの少しの時間、見たらフィギアで浅田真央が滑っていた。
絶えずレベルを上げているのだなあ、と感動。

テレビと言えば、悪い習慣と、だらしなさの現れなのだけど、
少し時間があると、だらだらと見てしまう。
別に面白くもないというより、むしろつまらないことを確認している。

この前、あきこさんとの会話で
「テレビ、結構見ますか」
「あ、つい見ちゃうかな」
「子供の頃、家でテレビ見られなかったとか」
「そうそう。テレビなかったなあ」
「そういう人が反動でみるんだよ。だから子供に、あんまり禁止するのもよくない。」

これもクリちゃんから教わったことだけど、
人がテレビを見てしまうのは、あれは火を見る習慣からだと言う。
かつて、人類は焚き火の火を見つめ続けていた。
そのなごりで光っているものを見てしまうらしい。
こういう話は大好きだ。

信州にいたころは、冬には槙で火をおこしていたし、
陶芸で寝ずの火の番もしていた。
一晩中、槙を入れて1000度以上を保つ。
火をずっと見ていると時間はすぐに過ぎていく。
確かに火に魅かれる。ずっと見ていたくなる。
あれは遠い昔が蘇ってくるのか。

この前から思い出すタルコフスキーの映画も、火と水のシーンがいっぱい出てくる。
火と水が世界にあふれ、世界を包む。静かに。
あるいは火と水にまで遡り、分解されていく。最後には透明なイメージだけが残る。

季節の変わり目は、作家たちも少しペースを崩すのだけど、
冬なら冬になってしまえば、また良い流れに戻る。
という訳で今はまたとても良い。
冬の方が深さが出る。明晰さや迷いのなさは冬の方が発揮される。
冬は内側に集中するようになる。夏は外に開かれていく。
全体的にそんな感じが強い。
絵を見ているとつきることがない。
そとから見学に来る方で、よっぽどの時は注意しているが、
絵に説明を求める人が多い。
特にやめて頂きたいのは作家本人に質問攻めをすることだ。
下を向いて苦笑いしている表情を見たら、すぐやめることだ。
言葉にしないと理解出来ないのは自分達の責任であり弱さなのだから。

ちょっと急だけどちょっとだけ深い話までしよう。
本当に本質的な深い表現には、意味も目的もない。
言葉や解釈である程度読み取れる作品もあり、
そこから理解しようとする人は多いが、
そういった筋やストーリーがあるものはまだ浅いものだ。

これはこころというものに関係していて、
こころの浅い次元では筋があり整合性があり、理解出来る世界がある。
何故なら、自分の意識が世界を解釈して位置づけているからだ。
ここしばらく書いている話で言うなら、
人は無意識のうちに見たいものだけを見て、聞きたいものだけを聞いている。
それ以外のものはないことになっている。
いいかえれば、この世界を絶えず解釈し、自分の範囲に納めている。
時々、違う要素が入って来て混乱するが、そのうちにまた何とか整合性に戻る。
このこころの仕組みが、霊をつくり、気やオーラや宇宙人をつくっている。

人のこころとずっと向き合っていくと気がつく事がある。
それは普段こころというのは完全にパターン化されているということだ。
自分が現実だと思っていることは、自分が無意識のうちに切り捨て、
解釈した世界だと言うことに気がつかない。
見えないものや、経験したことのないものを前にしても、
それを一つの概念によって実体化してしまう。
それが霊とかオーラとかいう解釈になる。
でも、そんなのはみんな、「解釈不能なこころの動き」だ。
これを言うと怖がる人が多いが、意味も目的もない。
ただ、なにものでもない動きそものもがあるだけだ。
こころというものの一番奥には、そういう領域がある。
機嫌がいい人がその領域に触れれば、楽園とか妖精とかに見えるのだろう。
もっと言えば神だってそうやって生まれるのだろう。
反対に不安や恐れがある人が見れば、それが得体の知れない霊とかになる。
でも、どちらも解釈が入ってしまっている。
その後はこころがパターン化した世界に持ち込むだけだ。

生きている以上は何らかの解釈が必要であり、
パターン化も必要ではあろう。
でも、それに縛られてしまって、身動きがとれなくなっている人は多い。
僕達は一度、元をたどって、解釈しない本質にこころを解放しようとする。
そうすると、こころは元気を取り戻す。
意味も目的もない、解釈も出来ない、何ものでもない、ただの動きというと、
怖がる人が多いが、それを本当に経験すると自由になれる。
解放されてもっともっとやさしい存在になれる。
時に本質を思い出すことも私達には必要なのだ。
そんなとき、ダウン症の人たちの作品の力は様々なことを教えてくれる。

絵に関しては美しければそれで良い。
感じることを大切にしよう。

2012年12月9日日曜日

タイトル無し

毎日寒いけれど、今日はいちだんと冷え込む。

今日はどうしようかな、と思っていたが書くことにした。
来週は事務作業が忙しくて書けないと思うし。

ところで、何でも見たがる人というのは、
あれはいったい何がしたいのだろう。
見ればなんんでも分かると思っているのだろう。
そういう人にかぎって、「確かにこの目で見たんだ」とか言って、
見たものを妄信する。
この目で見たからと言って真実とは限らないこと位は知った方がいい。

社会全体がこの「見ること」「見えること」に偏りすぎている。
恐らく、こんなことを書くとなんのことを言っているのか分からないだろうが、
分からないのはそれこそ、見ることが当然で、
見えない状況で感じとろうとした事のない証拠だ。

視覚は便利だが弱点が多い。
離れたものに触れずに、認識することが出来るという便利さはある。
それは全体を把握する場合や、危険を避けるのには有効だ。
だが、触れずに認識するということが、そのまま欠点でもある。
見ることは支配することに近い。

この調子で書いていくとまたテーマが大きくなりすぎるのでやめよう。

絵画全体でも言えることだけれど、
特にアトリエ・エレマン・プレザンから生まれている作品は、
視覚だけに頼って見るより、他の感覚も開いて感じとっていく方が良い。

ものを見る眼差しはその人のこころをよく表している。
謙虚な人、やさしい人は、目を閉じる場面も知っている。

小さい頃に大人によく言われた経験があるだろう。
相手の目をみなさい。相手をよく見なさい。
それが誠意を表すことの様に。
それは場面によっては確かにそうなのだけど、必ずしも正しいだけではない。

特に僕みたいに人のこころとずっと向き合っていると、
「見ること」に対してはかなり自覚的になる。
視線は暴力にもなりうる。
じっと見ることが誠意を伝えたり、なにか真剣なものを伝える力になりうるが、
始終そうしていたら、必要な場面での目の力を失う。
特に人がこころの奥にあるものを動かそうとしだしたら、
最大限のやさしさを示しつつ、目で見ないことだ。

見てはいけないものを見てしまったという言葉がある。
見てはいけないものというものがある。

外を歩いていると、その辺を撮影しているテレビの人や、
カメラをカシャカシャ撮っている人がいる。
素人でも多い。
その辺を歩いている人達に一人一人、「撮影していいですか」とか、
確認をとる訳にはいかないいだろうけど、
何でも見ていいという権利をいつ誰が与えたのだろう。

育ちが悪かったせいもあるが、
僕らの子供の頃だと、相手をじっと見たら殴られても仕方ない。
それは、そういう地域の子供の世界だろうが、
例えば、熊に会ったら目を合わせてはいけないと言うではないか。
動物がそうであると言うことは、人間も本能的には見られることに、
何らかの恐怖を抱いているはずだ。

これは何も視覚の話だけをしている訳ではない。
こういう当り前と思い込んでいることに、もう少し意識的になることだ。
謙虚になり、配慮すると、実は自分が豊かになれる。

アトリエでは見学者に、
「制作している人の背後に立たないで」という注意をする。
こんなこと言わなくても、感覚が正常なら分かるはずだ。
座って繊細になって制作に入っている時に正面からみつめられたり、
言葉もなく背後に立たれたら、どうだろうか。

と言いつつも僕は背後に立つこともあるし、正面から見ることもある。
これは変な言い方かも知れないが、僕だから出来ることだ。
自分の気配や相手への影響をコントロール出来るから、許される行為だ。
他の人は絶対にやってはいけない。
何事もそうだけど、自分の行為の結果に責任を負えることだけすべきだ。

そういえば、ここで書いて申し訳ないけれど、
モロちゃんから手紙をもらっていた。
アトリエでの日々、作家たちのことを思って仕事している姿が伝わってくる。
夢でもアトリエと作家たちが出てくるって。
いつも、みんなとつながっていてくれてありがとう。
ケータイをなくしたそうで、もしアドレスがなかったら、
いつでもアトリエに直接連絡していいからね。
アトリエメールか、電話でも大丈夫です。

いつも、アトリエを応援してくれている、しとみ君からも手紙。
彼は今、福祉の勉強をしていて、大学にも編入。
学校の卒業研究でアトリエを取り上げたいと。
がんばってね。

そして、前にも一度、ご寄付をいただいているが、
ベリーダンスのスタジオが今年もアトリエを応援してくれます。
これは元学生チームで今はボランティアチームとして、
フェイスブックのページを担当してくれている赤嶺ちゃんが繋いでくれている。
前回もそうだったけど、彼女も踊ってくれます。
フェイスブックに情報がのると思うので見て下さい。

イサも大学で頑張っているようだ。
来年に向けて彼にも手伝ってもらうことがいっぱいある。

よし子はクリちゃんと連絡を取り合っている。
ふくちゃんも大きくなった。

ミヒロはどうしているかな。元気かな。

今は平日にあきこさんという心強い人がお手伝いに来てくれている。
熱心に見学しつつ、パソコン関係でも手伝ってくれる稲垣君。

こういうみんなの存在があって、今日もアトリエを動かすことが出来る。
みんなの想いを乗せて、進んでいこう。

みんないつもありがとう。
年末に向けて、頑張ろうね。

2012年12月8日土曜日

現実の向こう側

昨日の地震、みなさん大丈夫だったでしょうか。
途中から悠太を寝かせていたので、その後の情報を知らない。
東北の方々は無事だろうか。

一年ちょっとでこれは、やっぱり何か周期に入ってしまったのではないだろうか。

ところで、別に書くほどのことではないけど、
先日、ある方と話していた時、その方が
「佐久間さんは放射能を気にしているから、水道の水は飲まないでしょう?」
と言われた。
別にどうというわけではないのだが、
そうかあ、普通はそんなふうに考えるんだなと、ちょっと思った訳だ。
放射能の問題は気にするとかしないという話ではないが、それはおいておく。
ねんのため、言うけどああやって書いているのは責任としてであって、
自分が助かりたいからではない。
僕自身は残念ながら水道の水くらいは飲む。

避難出来る人はしたほうが良いとも書いているが、
自分が逃げようと思っている訳ではない。

恐怖や不安から書いている訳ではない。
そもそも僕には自分だけ助かれば良いという考えが理解出来ない。
きれいごとではなく、理解の範疇を超えている。
自分だけ生き残ったところで楽しいだろうか。
更には別に長生きもしたくはない。

まあ、自分に利益がないことは言わないと言う人が多いのだろう。
だから、何かを言えば、自分の欲求を口にしていると思われる。

ということで、別にその様な考え方を非難しているわけではない。
僕には、もっともっと大切な事がある。
それは幸せなことだ。

よく考えることだけど、
こんな大変な問題が山積みの世の中で、
絵とか、絵を描くと言うことにどんな意味があるのだろう。
勿論、意味がなければいけない訳ではないが。

1人の人間にとって、美的体験というものは計り知れない意味を持つと思う。
それはその人の生き方さえも変えてしまう。
美しいものにふれただけで、絶望が癒され、生きようとする力が湧く事がある。

確かに芸術は(あんまり芸術とか言いたくないが)、現実には存在していないものだ。
その作品がどれだけ美しくても、それはこの現実とは異なる。

でも、ここ何回か書いて来たことだけど、
私達が現実と思い込んでいるものは、はたして現実なのか。
それは、見ない様に聞かないように、他の要素を排除して作り上げられた、
人間の意識だけにある世界なのかも知れない。
つまりは現実こそが幻想かも知れない。
この現実の向こう側にもっと本当のものがあるのではないか、
という直感を与えてくれるのが、美的な体験だ。

現実の向こう側にあるものこそが現実だ。

絵を見ているとき、映画を見ているとき、
音楽を聴いているとき、きわめて稀に、途轍もない体験をすることがある。
自分を遠いところまで連れて行ってくれる。
そこにある懐かしさ。

夢の中にいるような感覚について何度も書いてきた。
僕にとっては深く仕事に集中しているとき、
つまり、場に深く入っているとき、この感覚が強くなっている。
そして、それは日に日に強くなっていく。
今では確固とした現実があったことが、遠い過去になりつつある。
夢の中にいる感覚の方が現実だと言える。

10代、20代の時はよく旅をした。
旅、と言うより放浪に近い。
いつも場所を変えて、どこまでも行った。
遠いところまで行くと、自分がどこにいるのか分からなくなってくる。
自分はどこにいるのだろう、何をしているのだろう。
自分とはなんだろう、という感覚になってくる。
ここはどこだ、と考えている。
本当はこの感覚の方が、世界の近くにいると思う。
人は普段、慣れによって自分の周りの世界を分かったものとしている。
でも、本当は何も分かってはいない。
だから見知らぬ土地にいるときの方が現実を捉えている。

僕は学校では勉強しなかったが、
10代の頃からたくさんの人や環境に出会って、教えられてきた。
先生たちにはひたすら感謝だ。
その人達の体系で世界を見た。
その人達の目を通して、様々な経験を深めてきた。
自分では見えなかった世界が見える様になった。
知らない世界を知ることが出来た。
本当に楽しくて夢中になっていた。
そして、先生たちから離れて生きて来た時間は、教わったことによって生かされていた。

でも、今ではそれらの影響はきれいサッパリ自分から消えている。
たった1人でこの場にいて、夢の中にいるような感覚がしている。

人は過去を思い出すとき、夢の中での出来事の様に感じる。
時々、現在が過去のように感じられるときもある。

映画「サクリファイス」の映像が頭をよぎる。
どこまでも続く道。そらの水色。

     「ゆうちゃん。今日のお外は何色?」
ゆうすけ君「白っぽい青。水色系。」

映像がくり返し見える。
広い芝生。小さな人。
時間が止まったような静けさ。

僕達は毎日、深く深く場に入る。
そこには人のこころがある。
こころが見える。こころの音が聞こえる。気配が感じられる。
見え、聞こえ、感じられる動きと一つになる。

どこまでも、どこまでも深く。
夢よりも深く。現実の向こう側まで。
ここでこそ、僕達は生きている。

2012年12月4日火曜日

夢と現実

今日は雨。
そんなに寒くはない。
気候条件としてはいがいと良い日だ。

年末にどうしても忙しくなるので、来年こそは余裕を持って、
と毎年、思うが気がつくとこの時期に来てしまっている。

ハルコが「サクマさん、きのうザズきいたよ」
と言ってマネをする。
いつもは「ぷっぷっくぷー。ぷぷぷっぷー」
という感じでこれはデーブスだと言う。マイルスのこと。
今度は「ぷっぷぷ、ぷっぷぷ、ぷぷぷぷぷー」と早い。
「今日のは早いね」
「パーカース」
「あ、チャーリーパーカー?」
「そうそうそう」

そんな訳で僕の頭の中ではチャーリーパーカーがなっている。

ハルコが話していると、そこに行ってみたくなったり、
食べてみたくなったり、その音楽を聴きたくなったりする。
「昨日、美空ひばりさん誕生日だったよ」
と言われて、急に聴きたくなったり。
最近は「石川さゆり」の話が多い。
演歌は大嫌いなのに(都はるみは別格)、石川さゆりはいいなあ、と思う。
歌の上手さは当り前だけど、良い意味でドラマ的な構成力が凄い。
演歌だけじゃなく、上手い人は絶えず凄みを出し続けているが、
石川さゆりは違う、ここぞというところまでは封印しておいて、
完璧なタイミングで絶頂を見せる。それがまた、ピッタリ決まる。
このドラマ性は一般的な演歌にはないものだ。
良くも悪くも、現代的な感性が強いと思う。

ハルコのお陰で、僕の頭ではチャーリーパーカーや石川さゆりが、
なり続けている。

こういうことはよくあって、てる君と話しているとパズルがしたくなる。
「僕もパズルやろうかなあ」
「だめー。しごとしなちゃい」

夢の中にいるような感覚が大事だと以前に書いた。
なぜかというと、これも最近書いたことだけど、
私達は普段、本当に多くのことを見えないように、
聞こえない様にして生きているので、現実がひどく平面的になっている。
夢の中にいるような感覚とは、こころをほぐして、やわらかくした時の状態だ。
そうすると、これまで気がつかなかったことが見えたり感じたりする。
世界自体が違うものに思えてくる。
そして、これが創造性の秘密でもある。

ハルコは制作中に時々「ああ夢かあ」とつぶやく。
アキも「寝てたよ」と言う。
2人ともしっかり起きて作品を創っていたのだけど。

タルコフスキーの映画、「サクリファイス」は何度かくり返し見た。
最後の作品だけに枯れている。
映像美は変わらないが、色彩的の鮮やかさはやや薄れ、ぼやっと靄がかかっている。
あれだけ、鮮やかで色に敏感だった映画監督が、この時は墨絵に近くなっている。
人類の終末と自己犠牲いうテーマもあって、
こんな時代にもう一度ゆっくり見てみたい作品でもある。
でも、それより、あれはすべて夢の中のことを描いているのだと受け止めてみる。
だからといって、あの夢が覚めた後に現実なるものがある訳ではない。
ひたすらすべてが夢だというようなことではないか。
そういえば、あの映画の中でもすでに夢が描かれていたはずだ。
夢から覚める場面があったはずだ。あれはどう受け止めようか。
夢の中で夢から覚めたけれど、それもまた夢なのだ。

ただ、夢のような感覚が重要なのであって、
現実感のない、あるいは現実逃避はだめだ。
薄い現実を生きてはならない。
今の時代はすべてがバーチャルなものになって、とついいいたくなる。
でも、その言葉自体が紋切り型になっていて、
言う方も聞く方もなんの実感もなくなってしまった。
もともとバーチャルの世界で生まれている人達に、
バーチャルがとかリアリティと言ってもピンとくるはずがない。
しかも言葉だけでは色んなことを知っていて、
分かった気になっている人もいる。
僕らの世代やそれより下の人達は、
本当は今の世界なんてニセモノだという自覚が必要だ。
本当の現実はもっと深い。もっと大きい。
何かもっと途轍もないものだ。

僕自身もこんなに世界というものが、生命というものが、
強烈で計り知れないものなのだ、という実感を持つことができたのは、
10代で信州の山で暮らす経験があったからだ。
強烈に生きている人達と出会えたからだ。

でも、そんな日々も今では夢の中の出来事のように感じられる。
何が現実で何が夢なのだろうか。

2012年12月3日月曜日

毎日

今日も冷え込みが厳しい。
今、アトリエを暖めながらこれを書いている。
グールドのバッハ、ゴールドベルク変奏曲が流れている。
一度目の録音の方。
グールドは初期の方が好きだ。
スピード感がいい。
機械的と言う人が多いが、機械的というよりは数学的、建築的だ。
音楽の構造そものに語らせる。
それぞれの音が思いつきではなく、有機的につながっている。
法則を正確に描けば描くほど、現れたものは自然に消えて行く、
と言うことを感じさせてくれる。
何もかもが美しく、何もかもが過ぎ去っていく。
この快適なスピードに乗って。正確に刻まれていくリズムにのって。

昨日のアトリエは来客も、見学もなく、僕と作家たちだけ。
やっぱりこういう時は流れがいい。
本当はこれが一番なんだけど、あんまり言わない。
どんな要素も良くなるために活かさなければならない。
それぞれ違う良さがあるから。

いよいよ選挙だ。
いろいろ書いていくことにしたが、政治だけは語る気がしない。
政治には黙っておこう。

ただ、今の世の中の動きを見ていて、楽天的にはなれない。
マイナス思考は百害あって一利無しなのだけど、
あまりにも深刻さに欠けている様に思える。
それこそ、大袈裟かも知れないが、人類にとって滅ぶかどうか、
というところまで来ているのではないのだろうか。
それは確かに物理的にはどうしたっていつかは滅ぶのだろうけれど、
愚かすぎる滅び方はしたくないものだ。

最近はあんまり書かない様にしていたけれど、
日本中に放射能が散ってしまって以降は、
この世界は別のものになったことを忘れてはいけない。
出来るだけ、距離をとったほうが良いが、
それ以上に口に入れるものに気をつけたい。
食べ物は距離以上に重要になってくる。
チェルノブイリでも食物からの被爆が7割だったと読んだ。
つまりは、一定の距離に避難して食物を選ばなければ、
東北にいて食べ物を徹底しているよりリスクは高くなる。

しかも、これはかなり難しい。
産地は基準としては今のところ、一番有効だろうけれど、
これからはしっかり検査もされていかなければならない。

このことを書いていくと、結局答えはない。
だから、どれだけ自覚して、どう生きるか、という各個人の判断になってくる。
しっかり、丁寧に生きていきたいものだ。
自分の無知の結果、自分の身になにがおきてもしかたない。
でも、子供や次の世代のことには大人達が責任を持たなければならない。

もう書かないが、一つだけ気になることを指摘したい。
基準値ってなんだ、と言うことだ。
人々は放射能測定済みとなっていると安心する。
でも、計ったからそれで良いという風潮にも警戒した方が良い。

低線量被爆というものがある。
本当に怖いのは低い線量の放射能を長い間、浴び続け、
蓄積されていくことだそうだ。
そうなってくると、基準値以下の放射性物質もかなり怖い。
基準値以下だから食べ続ける、ということになってしまう。

そもそもが基準値なんて、作ることが出来るのだろうか。
ここまでなら、大丈夫と言える数値があるとは思えない。
こう言ってしまうと、すべてが救いようが無いことになるのだが、
はっきり言うと、「放射性物質を含むか否か」が基準だ。
ゼロかどうか、と言うことだ。
そうすると、さっきも言ったが救いようがなくなる。
だから、そう見えない様に基準値というものがあるとしか思えない。

基準値とか偏差値とか、それはいったいどんな根拠があるのだろうか。
というより、根拠なんかないことはすぐに分かる。

もう、とっくに過去の様になってしまったが、
一時期「ただちに人体に害がない」という言葉があった。
この「ただちに」という言葉は凄い。
「基準値」も「ただちに」と同じトリックだ。

ところで、こころというものをずっと見て来たし、
ここでもお話して来た。
僕はあえて言えば、人間のこころというものをテーマにしている。
そして、ダウン症の人たちは人間のこころの本質がどうなっているのか、
教えてくれる存在と言える訳だ。
こころ、というものから考えた場合、
「ただちに害がない」ものとは最も害のあるものであると言える。
どんなに害になるものでも、ただちにその場で、その反応がでるものは、
ある程度、対処も出来るし、難しさというレベルでも、
「ただちに害がない」ものほどではない。
「ただちに害が」なく、少しづつ蓄積されていくものは、
本当に恐ろしい。

これは良いものでもそうなのだ。
僕達はこころにとって、良いことをしたいと思っている。
人のこころに良いものを残していきたいと。
本当に良いものとは「ただちに良い」ものではない。
気がつかないうちに蓄積されていくものだ。

放射能の逆を行きたい。
見えないけれど、少しづつ広がって行って、
気がつかないうちに強い影響力をもっていく、
やさしさや豊かさのエネルギーが世界中に行き渡ればいい。

ささやかながら、みんなであたたかい、良い場を創っていく。
毎日、毎日、創っていく。

2012年12月2日日曜日

偏見

土、日曜日の絵画クラスでは普段は音楽をかけない様にしている。
視覚にしろ聴覚にしろ、イメージを方向づける部分があるからだ。
出来るだけ、白紙の状態でありたいと思う。
まあ、でも時と場合でどんな条件も良い方にも悪い方にも向かいえる。
だから、状況を見て、用意していく。
必ずこうするという決まりはない。

昨日の午後のクラスでは本当に小さい音だったけど、
ジャズをかけていた。マイルスデイビス。
一番最初に登場したえいた君は、この雰囲気にピッタリ。
彼は聴覚障害もあるので、この音はほとんど聞こえていないはずなのだけど、
音楽とかさなる様に描いていく。
描くリズムに普遍性があるので、どんなものとも合っている様に見えるのか。
もしかしたら、音は振動でもあるので、皮膚で感じられるのかも知れない。

春頃だっただろうか。
ダウン症のお子様を連れて、アトリエに見学にいらした方がいる。
その方から久しぶりにメールをいただいた。
僕がちょっと前に書いた「出生前診断」を読んでいただいたようだ。
感謝の言葉がそえてあった。
ああ書いておいて良かったな、と思う。

実はあそこでは、あえて知らない人や一般の人に向けて書いたので、
現在、ダウン症の子供を持つ保護者の方達を応援する内容にまでは出来なかった。
実際に産み、育てておられる方々には物足りない内容であろうと思いつつ。
なぜ、そうしたかと言うと、おいおい書いていくが、
やっぱりこの問題には冷静な客観的な視点が必要だと思ったからだ。

こうして、喜んで下さる保護者の方がいたことは嬉しい。

本当はもっと保護者の方達の力になりたいと思っている。
一番彼らを守っているのは保護者の方達なのだから。
彼らを産み、育てるということを命をかけて、おこなって下さったからこそ、
この世に貴重な宝物のような存在がいるのだ。
僕達はその存在の本質を多くの人に知ってもらおうとしている。

それでも、保護者の方達と意見が分かれる時がある。
本意ではないがいたしかたない。
すべてはダウン症の人たちの存在を正しく、知ってもらうためだ。
ここで知ってもらうではなく、正しく知ってもらうと書いた。
ただ、知られれば良いということではない。

例えば、出生前診断の衝撃が強かったのだろうが、
様々な場所で色々とイベントが行われている。
多くの団体は保護者の方達や、身近な関係者が中心となってすすめられている。
だから、真剣に必死になってダウン症の人たちを守ろうとか、
知って下さいとアピールしている。

あらかじめ書くがこの流れを否定するつもりは毛頭ない。
ただ、一言だけ言いたい事がある。
なるべく、外部の、客観的な視点を持つ人を立てて企画した方が良い。

今、社会でもダウン症の人たちに関心が集まっている。
この時期が大切なことだけは確かだ。
知ってもらうにも良い機会なはずだ。
だからこそ、冷静な判断が必要だと思う。
知ってもらいたいがばかりに、身内で団結して、
中の人にしか通じない活動をしてしまうと、
外で見ている人達は、ああやってるなあという感じで、本当の関心はよせてこない。
勿論、障害の問題や権利の問題があるので、
あからさまに悪く言う人もいないだろうし、
良く思わなくても言葉では良いと言う人もいるだろう。

知ってもらいたい、と必死になればなるほど、
関係者だけの世界になって、外の人はその必死さ故に近づけなくなっていく。

外の人達が見て、楽しそう、面白そう、というくらいが良い。
初めから、みんな平等だから一緒になりましょう、
と強引に手をつないだら、嫌じゃなくても反射的に手を引っ込める人は多い。

僕達だってアトリエで彼らと一体になって過ごしている時と、
外部へ発信している時ではスタイルを全く変えている。
特に作品や、見せるという部分に関しては厳しい視点が必要だ。
ここはどうしても距離の近さは弱点となってしまう。

大切なのは彼らの存在を、知ってみたいと多くの人に感じてもらうことだ。
そのための方法はしっかりとしたものでなければならない。
あえて言えば、戦略的でなければならないかも知れない。
少なくとも、そう言う観点も考察する必要がある。

もう一つだけ、近さ故に生まれている発想を取り上げる。
「ダウン症」という呼び名を問題視している方々もいるようだ。
マイナスイメージがあるので変えるべきだ、ということだが、
これもよく考えてみて欲しい。
マイナスイメージは呼び方から来るものだろうか。
まずは「ダウン症」という名前がマイナスイメージにならないような、
むしろダウン症という人達は素敵というようなプラスのイメージを創る。
そちらが先ではないだろうか。
ダウン症という呼び方はプラスでもマイナスでもない。
ただ単にダウンと言う発見した人の名前だ。
これがマイナスイメージになっているのは、それに伴う偏見であり、
まず偏見を正して、しっかり知ってもらう方が大切だ。
名前を変えたところで、その名前がまたマイナスイメージになっては意味がない。

かつて、統合失調症のことは精神分裂病と呼ばれていた。
確かに余りにひどい呼び方だし、ここまでいくと変えた方が良いかも知れない。
ただ、呼び方が変わったことによって、
はたして統合失調症の人達に対しての偏見や差別はなくなっただろうか。

まさか、呼び名自体が必要ないから無くそうとまでは思わないだろう。
もし、みんな平等だから障害の名前を呼ばないみたいな事になったら、
それこそ、偏見や差別は内在化されて、
呼ばないけど敬遠される、みたいな事になっていくだろう。

そもそも呼び方にこだわる人達は、
例えば自分の中に偏見があるのではないだろうか。
僕自身は、ダウン症とか自閉症のと誰かが言ったとしても、
そこに何のマイナスイメージもない。
ダウン症や自閉症の名前が変わっても、そういった人達がいなくなる訳ではない。
この人はダウン症、自閉症ではありません、とまで言いたいだろうか。
それよりはダウン症で良いし、自閉症で良いという社会になった方が良い。
何度も書いたが違いのないことが平等なのではない。
違いが許されることが平等だ。

何事もあまりヒステリックにならない方が良い。
魅力のある人達なのだから、必死になったり媚びたりしないで、
一緒に出来る様々な可能性を、楽しさを伝えていけば良い。

僕は自分に偏見がないとアピールする人と、よくこんな会話をする。
「ダウン症の人たちって別にぜんぜん普通ですよね。
私達となんの違いもありませんね。」
「いや、違いはあります。私達はあんな絵は描けないし、
彼らは私達の知らないことを知っています。」

2012年12月1日土曜日

すっかり寒くなった。
12月になってしまった。なってしまったということもないか。
この一ヶ月でやっておかなければならない事がたくさんある。

また、とりとめもなく書かせていただきます。

しばらく前から書き方を変えている。
これまでもそうだったのだけど、これまで以上に構成しないで、
思いつくままに書いてみている。
制作の場から普段見えている光景に少し近づけてみたいと思って。

ブログを始めた時にいくつか自分の中でルールを決めていた。
私的な話しは書かない。趣味のことは書かない。
音楽、絵画、映画、本、食物のことは書かない。
という様に。
このルールもこの辺で終わりにしたい。

結局、僕が言う「場」というものは人生のすべてがつまっているのだから、
どんなことも無関係にはなりえない。
流れの中で関係してくるものについてはふれる方が自然だ。

早速、個人的な話で申し訳ないが、結婚記念日だった。
一時間ちょっとだけ、悠太をあずけてよし子と2人で久しぶりに食事。
結婚して7年。出会ってからは15年くらいだろうか。
本当に色んなことがあった。

悠太が日に日に可愛さを増していく。
一緒にいるだけで幸せになれる。
悠太さえ元気にしてくれたら、もう何もいらない。

数日前に夜、腹痛。5回もトイレに行った。
下痢。すべてが出てしまうと、身体が軽くなってすっかり調子が良い。
たまにはこういうのも必要なのか。

今日は霊と言うか、見えないものの事を書いてみたい。
こんなテーマで上手くいくはずはないのだけど。
数日前に、お風呂に入っていて、ちょっとウトウトしてしまった。
耳元で女の人の声がする。小さな声でささやいている。
よし子かなと思って、「どうした」と見てみても誰もいない。
よし子と悠太は寝ている。
これは確かに霊というヤツかと思う。

まあ錯覚とか気のせいということもありうるが、
どうもそうではなさそうだ。
こういうことは、時々は誰しも経験している。
だから、その手の話しは多いのだろう。
でも、それが何なのかと言ったら、誰も説明出来ない。
すぐに、信じるか、信じないか、という話になる。
宗教のことでもそうだけど、なぜみんな、信じるか信じないかという基準になるのか。
信じるか信じないかというのは実は部分的な問題でしかないかも知れない。
僕が言いたいのは、そういうものをどう捉えるかだ。

ところで、僕はその霊的なことだけど、
ああいうのはぜんぜん怖くはない。
怖いものがないなんて、強がってみせる訳ではない。
怖いものはたくさんある。
でも、見えないものとか、分からないものをことさらに怖いと感じることはない。
霊を怖いと感じるのは、ほとんどは見えないからだ。

例えば、それらしい話しで、この世に思いを残してとか、
見捨てられた恨みを持ったままとか、
色々とそういう怨念のようなことが話題になる。
そんな未熟なこころを持った存在を僕は怖いとは思わない。
むしろ、終わったことにいつまでも未練を残すなと説教してやりたい。
時々、人を怖がらせたり、
ちょっかいをかけているだけの甘ったれた存在を恐れる必要はない。

こうやって書くと、
まるで霊みたいなものをあると言っているようだが、そうではない。
見えないものやエネルギーみたいなものは、みんなそうだけど、
一言で言ったら、あると言えばある、ないと言えばない。
問題はどんな姿勢で生きるか、だ。

ここではいつも、こころを問題にしてきたが、
考えてみれば、というか考えなくても、こころは見えるものではない。
そうすると、霊とあんまりかわらない。
それに、確かにこころは恐ろしいものでもある。
人は見えないものを恐れるが、それはこころを恐れているのだ。

霊の話ではこんなのもよく聞く。
どこかを歩いていると、猫が死んでいる。
それを見て、「ああ、可哀想に」そう思った瞬間に取り付かれる。
あるいは無念のうちに殺された人の話を聞いていて、
「可哀想に」と思う。それで取り付かれてしまうという。
これは、かなり上手く表現された話だと思う。
これをこころという領域の話として見てみると、
まったく本当だ。僕自身、そうやって取り付かれるというか、
溺れていってしまった人達をたくさんみている。

こころに触れる時、共感が一番大切なのだけど、
相手と一体化しすぎたり、距離がなくなっていくのは危険だ。
この「可哀想」という思いは、生きている存在にとっても危ういものだ。
勿論、可哀想と思っても良いのだけど、その感情に溺れてはいけない。

いつでも強い意志の力を持っていなければならない。

こころの話も、実は霊とか気とか、見えないものの話に近くなってくる。

創造性というものがあるが、いったいどこから来るのか。
こころから来ることは間違いない。
が、いったいこころのどんな場所から来るのか。
とにかく、こころの中にその様な場所があって、
芸術家はそこへ入るために様々な技術を駆使したり、
自分なりの方法を暗中模索する。
ダウン症の人たちは何故かその場所にスッと入って行ける。

あえて、そのコツを考えてみると、こころをやわらかくしておくことだ。

私達は普段、「現実」とはこうだと考えて、
それ以外の要素は見ない様に、聴こえないように、感じない様に、
強固なバリアーをして生きている。
時々、不意に何かが見えてしまう、聞こえてしまう。
それを何とかなかったことにしようと日常へ帰る。
見えること、聞こえること、感じることを恐れている。
逆に見えないものが見える人が居たり、
聞こえないものが聞こえる人がいると、
恐れて否定するか、凄い能力と言って崇めるか、どちらかになってしまう。
霊媒師や占い師がいっぱいいるのもそこに原因がある。
見えたり、聞こえたり、普段分からないことが分かる人が居ても、
そんなのは実はぜんぜん、凄くもなければ、偉くもない。
ただ単に私達が普段、「現実」にないと決めつけていることを、
見ないように、聞かないように努力しているだけのことだ。

以前に少し書いたかもしれないが、
ハルコは「画面」と呼ぶこころの空間を持っている。
「画面から見えたよ」と言ってさまざまな情景を話す。
画面のようなものはハルコにはずっと昔からあったのだけど、
それに「画面」と名付けたのは3、4年前くらいだろうか。
「昨日、○○君がタバコ吸ってたの画面から見えたよ。」と言ったり。
その子は普段タバコは吸わない。
でも、話を聞くとしばらく前に友達と久しぶりにタバコを吸ったと言う。
「○○さんのお家にキラキラ光るもの吊るしてあるね」と言う。
本当にその様なものがあるらしい。
こんなことはいくらでもある。

ハルコの画面は想像も夢も現実も、ずべてがかさなっている。
そして、その中には予知とか、透視と呼ばれるものに近いようなものもある。
一つ言えるのは画面の中では発想が自由に動くと言うことだ。
彼女が得意とする連想もそこから来る。

ハルコを知っている僕にとって、それはまったく不思議なことではない。
画面はつまりさっき書いた創造性が生まれるこころの空間だ。

ここで大事なのはこころの内部の空間が現実に対応しているということだ。
人のこころの中まで見えたり、見ていない現実を見たり、
知らないはずのことを知っていたり、それらが実際の現実とかさなっている。

実はこころの深い部分で経験することは、
内側とか外側と言う境界がなくなっている。

制作においてこころに入って行って、
自然の法則を発見出来るのはそう言うことなのだ。

こころの中で見たものが現実に見え、
現実で起きていることが、こころの中で自分の一部として感じられる。
そういう経験が増えていくと、
夢と現実とか、こころと世界とかが一つのものとして見えてくる。
そうすると、見えないものが見える。聞こえないことが聞こえる。
感じられないものが感じられる。

こんな所まで来てしまったが、時間になってしまった。
また、続きを書くか書かないか分からないが、そんなこともあるという話だ。
ただ、最後に一つだけ強調したいのは、
先の方で書いた意志の力というものの大切さだ。
感覚が敏感になった人達は溺れやすい。
しっかりと感情をコントロールして、客観的に見る目を持ち続けなければ、
こころという大海で溺れ死んでしまう。
見えないものは、見えないからと言って恐れる必要はないが、
いつでもそこにいる自己を見失った時、危険が迫っている。

2012年11月27日火曜日

川の音など

来客者がちらほら。
色んなお話をする。
絵のこと、教育のこと、福祉のこと。
今の社会でおきていること。

この場所が何か良いものを持っていてくれて、
それが世の中に広まっていく事が出来れば。

たった1人の人でも、人に会って伝える事は大切だ。

急に寒くなったので悠太の機嫌が悪く、よし子から一時も離れない。
睡眠不足も続いているので、なるべく早く休みをとって交代してあげたい。

しかも、今年のAEPニュースがギリギリの時間にきている。

日曜日の午前のクラスで、
なおちゃんが「しゅうへい君としんじ君ってケンカばっかりしてますね」
と言う。(本当は名字で言っていたが、僕は名前で書くので直しました。)
そういうなおちゃんも2人を知り尽くしてるなあと思う。
その午後のクラスでしゅうちゃんとしんじ君は、
相変らずの掛け合いを楽しんでいた。
勿論、これはケンカではなくて、遊んでいるのだけど。
まさしくなんでも言い合える関係だ。
ちょっと見ただけだと、しゅうちゃんの方が優位にたっているようだが、
実際はしんじ君も言いたい事をいったり、
しゅうちゃんに何かを言わせようとじゃれたりしている。
実はしゅうちゃんの方が気をつかっている。

ハルコ、アキの関係もそうだ。
こちらは仲良く、言い合うような場面もないけど。
2人で話し合っているのを聞いていると、アキの意見の方が強いのかなと思っても、
結局、最終的にいつもハルコの意見に決まっていくようだ。
2人とも、お互いを良く知っていて配慮している。

修ちゃん、しんじや、ハルコ、アキのような、関係はうらやましいくらい素敵だ。

その日のしんじの制作も凄かった。
描いている時の孤高の雰囲気は、その場面を見た事のない人には想像出来ないと思う。
彼の普段の姿からも分からないだろう。
それ位、作品に向かうときの彼は別人のようだ。

てる君にしても、ゆうすけ君にしてもそうだけでど、
この凄みは普通の人には全く知られていない類いのものだ。

だからといって見せるということではないが。

この前、雨が降っていてずっと曇っていたのが、
急に日が射して来て明るくなった。
その時間は全員が同時に外に注目していたのだけど、
みんなとアトリエ自体がフッと輝くような感じだった。
ハルコ「パパ、お空からアイロンかけてるね。」

この前、川の音のことを書いたら、それからしばらくかつて聴いていた、
その川の音が聴こえてくる。

てる君の作品に「かわのさかなのやまのぼり」というのがある。
作品もタイトルもてる君の自由で透明な空気を伝えてくる。
こういうのは説明したり分析したりしない方がいいなあ。
でも、この透明感は川の水みたいだ。

久しぶりにまた夢をみた。
僕はたくさんの子供達と遊んでいる。
子供の合宿のような感じで、僕は子供達をみる役割のようだ。
いつものようにただ、子供達と遊んでいるだけなのだが、
僕の意志を直接伝える事はない。
一人リーダーの少年がいて、
彼に何かを伝えれば他の子供達に伝わるようになっている。
でも、僕がその少年に何かを言う必要はない。
その少年と僕は特別な関係のようで、僕が思った事はすべて、彼には分かるのだ。
少年はとてもやさしく、大人のように振舞うのに純粋で汚れがない。
彼といると彼の方が僕を擁護しているように感じる。
懐かしいのに実際にはあった事がない。
夢の中では完全に知っているのに、会った事がない少年。
唯一登場するおじさんが僕に、
「あの少年は変わっているねえ。あんなに賢いのに純粋さを持ち続けている。」
と語りかける。
寝ているときか、うっすら起きたときかに、
もう子供達がいなくなった後で僕は考え続けていた。
あの少年は誰だろう。あ、あれは多分、悠太だ。
だからあんなに懐かしい感じがしたんだ。

さっき、てる君のお母さんから電話があった。
お休みの連絡だったのだけど、
てる君がよし子さんと佐久間さんが元気か聞いて欲しいと言っているという。
本当にやさしさとか、相手を思う気持ちってこういう事だなあと思う。
小さなことだけど、これだけで伝わることがたくさんある。
そして、それはどんなにささやかでも、大きな出来事よりはるかに価値がある。

今日はよく晴れた。
コンクリートに落ち葉がいっぱい。
紅葉した葉っぱや緑の葉っぱが風でゆれている。

ハルコ「アキ、てんぷらみたい」
アキ 「ににがー」(なにがー)
ハルコ「アキ、こえか」(こえが)
アキ 「にーー」
ハルコ「アキたべたーい」 

2012年11月25日日曜日

分からない

早起きは三文のとく、という言葉は日の出が見られるからだろうか。
犬の散歩コースを変更して、あんまり朝日がきれいなので反対方向へ歩く。
これを書いている今もまだ朝日の力はある。
光の透明感、神々しさ。
少し標高のあるところに暮らしていた頃は、
どんなに夜が遅くなっても日の出が見たくて早起きしていたこともある。
日の出の光。透明な、赤でありオレンジであり黄金の色。
それはいつまでも特別な何かだ。

そういえば先日は、これも唖然とするほど美しい黄色を見た。
紅葉した銀杏なのだけど、輝きが凄くて別次元のようだった。

美しいものって、変ないい方だけどがっちりと存在していないような気がする。
あわいというか、あるか無きかのような。
ある意味で存在が薄い。存在感は強いのだけど。
それに少しの時間しかもたないで、すぐに消えて行くものが多い。

毎日、絵を見ていても、やっぱり描き上がる瞬間や、完成したばかりのものは、
特別な美しさを持っている。
色が乾くと少し衰えるという物理的な要因ばかりではない気がする。
その時間のそのプロセスの中でしか見えない何ものかを、
その場にいる人達は感じるのではないだろうか。

土曜日のアトリエ、久しぶりにゆうすけ君の絶好調の作品。
彼は描き続けて、今では円熟した作品になっているが、
色んなことを経験して、深みがでたぶん、
初期の頃の明るく健康的な力は少し失ってしまった。
今は今にしか描けない世界があるのだから、それはそれでいい。
でも、こうして時々、初期の頃のような感覚と、
今の彼の世界が良いバランスで融合するときがある。
描いている時、やっぱり日常での彼とは全く違う次元にいる。
たたずんでいる雰囲気は僕らなんかとは格が違う存在なんだなと思わせられる。

最近、ハルコがよく「佐久間さんザズ聴いてね。佐久間さん好きそうなザズ」
と言う。ザズはジャズ。
「佐久間さん、きのう聴いたよ。デーブス」
「マイルスデイビス?」「そう」

頭の中で何度も何度もリフレインされるフレーズがある。
バグスグルーヴという曲。
マイルスとモンクが共演したものだけど、
ある時期、この曲を聴きすぎて歩いている時はほとんど頭の中で、
曲がなり続けていた。マイルスは芸術的な繊細な演奏で素晴らしいけど、
ここではやっぱりセロニアスモンクが凄い。
モンクのリズムは不思議な魅力がある。
いくら聴いても分からない音楽だ。

分からないという感覚は実はとても気持ちがいい。

そうだ、実はこのことだけは書いておきたいと思って書きはじめた。
忘れてしまいそうなので書いておこう。
これも確かな情報ではないのだけど、
かなり前に本屋さんで立ち読みしていて、
そのまま出て来てしまって、今ではもう調べようもなくなってしまった。
不思議なことに時々、その事を思い出してしまう。
ちょっと気になるテーマなのかも知れないが、
かといってそれ以上調べる気もおきないことは事実だ。

なんという題名の本だったか、それすら憶えていない。
もしかしたら、その時読んだ数冊の本がまじった記憶かも知れない。
とにかく、宣教師がアマゾンかどこかの奥地へ行った調査の記録だ。
確か、言語学とか、言葉を研究しにいったのだったか。
そこで、こんな話しがあった。
人間というのは明るくなったら目覚め暗くなったら眠る。
それは体内の機能がそのように出来ている。
詳しくは知らないが交感神経が副交感神経と切り替わったりとか、
生理的な動きというものは、この昼と夜のバランスで成り立っている。
人間の身体は自然に順応してこういうバランスになっている。
でも、この事実を覆す人達も生きていると言う。
そこで暮らしている人達には昼とか夜とか、そういう区分がないらしい。
暗い時間に連続して寝ると言うこともない。
そうなってくると現代の医学でいう、
生理的な「本来の人間の機能」というのも絶対ではない。

この人達は更に言語学上も、学説を覆す特徴を持っていると言う。

こうやって、人間を分析して研究して、
こうなっていたと分かって来たことでも、
それに全くそわない生き方をしている人達が、この世界のどこかにはいる。

こういうことは、本当に面白いなあと思う。
簡単に片付けたくはないけど、つまり、そう簡単に分からないぞ、ということだ。
人間なんてそうそう分からないよ、と。
そういう事実を知ると、むしろ、面白いし、人間はいいなあと思う。

例えば、寝ない人達とか、食べない人達がいても何の不思議もない。
(そういう個人がいるという話しはあるようだが、ここで言っているのはあくまで文化とかそういうレベルでのこと。)

人間はこうやって出来ているから、こうするのが正解とみんな思っているけど、
実は結構思い込みである可能性が高い。

そんな中で例えば、ダウン症の人たちを一般の社会のルールに適合させれば、
それでいいと考えることになんの疑問も抱かない。
さらには、産まれる前から、診断して、それで、一体どうしたいのだろうか。

実は何も分かっていないし、もっと違う在り方も出来るかも、
という感覚は多くのものを与えてくれるだろう。

僕はダウン症の人達と過ごして来て、
たくさんのことに気づかされて来たし、
見えていなかった多くのものが見えるようになった。
存在すら知らなかった世界を認識することが出来るようになった。

だから、ないことになっているけど、他の世界もあるということを言いたい。
もう一つの世界と言っても良いけど、こっちの方が豊かだよ、と言いたい。

まあ、そういうテーマはこれまで随分書いて来た。

そう、そのアマゾンかどこかの人達は、
自分とか他人とかを分ける言葉を持たないらしい。
言葉がないと言うことは、そういう認識がないということだろう。

さて、自分と他人を分けたところで何が分かるのだろうか。
そんなことを考えると、彼らと私達ではどちらが正解か分からない。
というより正解など存在しない。

分からないという感覚を持つことは良いことだ。
分からない時は感覚が敏感になるし、こころが動く。
分かるときや知っているときは実は人間としての能力は弱まっているのではないか。

僕自身は今日もダウン症の人たちの制作に向き合うが、
ここでも、何も分かってはいないのだ。
場に入れば、自分が何をすべきかは分かる。
でも、なぜそうなのかは分からない。
言い換えれば、何も分からないのに、どうすれば良いか分かる。
これは作家たちもみんなそうだ。
この場で何をすれば良いのか、みんな分かる。
何も知らなくても、出来る。
分からないで分かるというか、
分かる分からないというのとは違う分かり方で分かる。
(これも何だか分からないか)

分からないことはいいことだと思う。
少なくとも分かるという思い込みよりはるかに楽しい。

2012年11月24日土曜日

川の流れのように

模倣すること、というタイトルにしようと思ったが、やめておこう。
今後は少し書き方を変えていきたいと思う。
何かついての考えをちょっと纏め過ぎたかな、と思っている。
体系をつくって、そこから物事を見ていきたくはない。
それより、その時々、日々の出来事や思ったことを、
結論は見えなくても今の考えに忠実に書いていってみようかな、と。

考えてみれば、答えも結論もない、こころや生き方をテーマにしているのだから。

模倣というのは、最近、環境についてやあれやこれを考えたりしているので、
以前このブログでも書いたが、
人はなぞる、くり返すということを、考え直してみたいと思った訳だ。
1人の人間のこころは周囲の環境や、そばにいた人達の思いをなぞる。
模倣する。
だからこそ、環境が大切だ。

変奏曲というジャンルがある。
同じ主題が様々な形に変奏されていく。
上手く出来ている曲だと、本当に自然な流れで、
一つの主題が多様な姿をとって、でもやっぱり同じ主題だと納得する。

ダウン症の人たちの描く世界も変奏曲のようだ。
いつも最初に現れる主題は一つでそれが変奏されていく。

それから、
同じフレーズがリフレインされながら、変化したり、
突如、インスピレーションがわいてきて、他のフレーズと重なり、
渦巻き、新しいフレーズがまたリフレインされ、次の閃きをさそったり、
という感覚ではジャズのようでもある。

模倣と言っても、反復といっても、くり返すことで、
他の要素が次々に加わって来て発展していくことは確かだ。

でも、リフレインされる部分、反復される部分なくしては、
その後の無限の展開もまたないのだろう。
模倣し続けることも大切だ。
良い感覚なり、心地良いリズムを見つけたら、くり返し何度も浸っていればいい。
そのうちに自分の中に刻み込まれてくるものがある。

いつも、客観性や冷静さを重視して書いているが、
それは実は僕自身が主観を信じきらなければならなかったり、
対象と一瞬にして一体化しなければ成り立たないような仕事をしているからだ。
客観性や冷静さを捨てて、深く入って行かなければ出来ないことをしているから、
そこから一度離れたらバランスをとる必要がある。
そういう意味で、人一倍、客観性や冷静さが大切になってくる。

いつも書くがどちらかではいけない。バランスだ。
男性性と女性性とか、みんなバランスだ。

そういう意味では、今の時代は、
むしろのめり込むほどの主観性のほうが欠落しているのかも知れない。
すべてが情報として処理されているような気がする。
上手く整理整頓しても分からないことはたくさんあるはずだ。
これしかないという強烈な体験をした方が良い。
分析なんて後ですれば良いのだし。
騙されまいとしすぎていないだろうか。
体験とは、間違いをおかしやすいものだ。
だからといって間違えまい、騙されまいと思っていてはどこにも行けない。
一度、騙されても良い、間違えても良いくらいの入り込みは必要だ。

これ以外にないという思い込み。
一度、そこから見てみることで、実はその後の客観性も深くなる。

惚れ込むという体験。
惚れ込んだ人であれ、音楽であれ、絵であれ、本であれ、
一度はそれに浸りきってそれ以外なくなるところまで同化してみる。
ここは良いけど、この部分はあんまり良くない、という入り方はしない。
惚れ込んだら、丸ごと取り込む。
何度も何度も、そのものに見を浸し、寝ても覚めても、そればかり。
くり返し、反復し、模倣する。
いつか対象と一つになって、同じ呼吸をしている。
その対象から物事を見たり感じたり出来るようになっている。
そういう経験をしてから、そこを離れていく。

尊敬する人が居たら、その人がこのことにはどう判断するか、
どんな場面でもその人がどう考えるか、まで感じてしまう。
息づかいまで体感してしまう。
そんなところまでいってみること。

同じ絵を何度も見た。同じ本を何度も読んだ。
同じ音楽をくり返しくり返し聴いた。
そんな日々に見えていた景色はきっと、自分に刻み込まれている。

この世には良いもの、美しいものはたくさんあるから、
それらを刻み付けて、それらを模倣していく。
でも、人間にとっての模倣のおおもとはやっぱり自然だろう。

何もかもどうすることも出来なくなったら、
自然に帰れば、再び立ち上がれる気がする。
分からなくなったら、自然に立ち返るのがいい。

森の中に入っていって、全身で自然に浸って、
全身で感じること。自然を感じ、自然の奥で何が動いているのか感じとる。
そうするだけで、何度救われたか分からない。

川の流れのように。
言うまでもなく美空ひばりの曲だ。
美空ひばりをそんなに聴いた訳ではないし、全く詳しくはないが、
確か最後の方の曲だろう。だから、歌声は全盛期ほどではないだろう。
別にこの歌を思い出したり、聴いたりした訳ではないが、
急にこの言葉が浮かんで、そうするといつも聴いていた川の音を思い出した。
ただそれだけだ。
川の流れのようにと言っても、川の流れは一つではない。
でも、すべての川は自然のリズムを体現している。
何かリズムが狂って来たら、海や川の音を聴き続ければ良い。
無意識のうちにそのリズムを模倣し、静かで深い呼吸になってくるだろう。

僕の聴いていた川は、怒濤のように激しい流れだった。
ごうごうと強いうねりを伴って、石にぶつかりながら、
勢いを全くおとさず流れ続ける。
その川の音の激しさで、始めてその場所に来た人は眠れない。
僕はその土地を離れて始めて、あの音に気がついた。
あれ、音がしないぞ、となって始めて、音を聴き続けていたことに気づいた。
それ位、その音と流れと一つになっていた。
いくかわのながれはたえずして、という方丈記の文章は、
その言葉自体が川の流れのようなリズムだ。

人は環境を模倣するから、荒れた環境、無機質な環境を変えなければならない。
自然を模倣して、バランスと調和を取り戻したい。

2012年11月21日水曜日

もの忘れ

昨日も、とても良いお仕事をなさっている方とお引き合わせいただいた。
教室が終わった後だったので、出来立ての作品を少し見ていただいた。
これから良い繋がりができればと思う。

土、日曜日の絵画クラスにいる時と、平日のプレクラスにいる時では、
意識の使い方はずいぶん違っている。
自分自身も何か違うものになっている。変ないい方だが。
そこに流れる時間と一つにならなければならない。
だから、そこに流れる時間がその時の自分だ。

もの忘れっていったい何だろう。
時々、もの忘れする。
しまったすっかり忘れてた、というものから、他愛のないものまで。
この前は犬の散歩中に、アレっ自転車がないぞ、確か乗って来たはずなのに、
どこに止めてここまで歩いて来たのだろう、と思って、
ゆっくり思い出しても分からない。
はっとして気がつく。
いやいや、アトリエに自転車を止めて犬だけ連れて来たんだ。
これは、だから何も忘れて来た訳ではなく、勘違いだ。
でも、物忘れのときの感覚と同じ感じがする。

同じように犬の散歩をしていて、帰って来くると、
持っていたはずの散歩用バックがない。
いったいどこに置いて来たのか。手から離すような場所もなかったはずなのに。
自転車に乗って散歩したコースをそのままたどってみる。
やっぱり途中のどこにもない。そう、あの時は持っていたもんなあと思い出すだけ。
ところが最後の方、本当にアトリエの近くまで来て、
曲がり角においてある。
いくら思い出そうとしても、そこの記憶だけない。

忘れてしまっている時、いったいこころの中で何がおきているのだろう。
そもそも、なぜ忘れてしまったのだろう。

言えることは、忘れていたことに気づいたときと、
忘れていたときでは違う時間の流れの中にいたということだ。

何か連続して流れている時間がどこかで切れている。

だからもの忘れをしてしまって、気がつくと、
何やら不思議な感覚になる。
懐かしいような、帰って来たような。
何もない見知らぬ世界にぽんと放り出されてしまったような。

でも、僕はこんな感覚に浸っている時の方が、
本当の世界にいるような気がする。
なぜなら、すっかり染み付いてしまったものの見方を手放せた感じがあるからだ。

ダウン症の人たちが教えてくれていることの一つに、
知っているものとしてではなく、知らないものとして、
この世界を見てみるということがあるような気がする。

場に入るということは、自覚的にもの忘れしてみようという感覚かもしれない。

2012年11月20日火曜日

呼吸

そういう方が多いと思うけど、
何とか年内に終わらせなければならない仕事におわれている。

そんな中でも外の世界の騒々しさから無縁な場所が教室。
ゆっくりとか違う時間という言い方で、ダウン症の人たちのリズムを語って来たけど、
ここでの彼らは一定のテンポがずれない、というのが凄い。
この1年を見ていても、いつでもどんな時でもペースが変わらない。
良い時も悪い時も同じリズムで時間が流れている。
ある意味で乱れないというか。
彼らと一緒にいると落着くという人も多いが、それはこのことと関係している。

彼らの感覚は鋭く、その瞬間を捉え、即座に調和して行く。
制作における即興性も物事を瞬時に見極める素早さも、
とてもスピード感があるものだ。
おっとりした彼らのたたずまい、
呑気そうな雰囲気のどこからあのスピード感が出てくるのか。
一言で言うとそれは軸が安定しているから、瞬時に動きに反応できると言うことだ。
動きのあるものを捉えるときや、即興性には軸の安定感が必要だ。
軸がブレないという状況で始めて、動き変化する流れに対応出来る。

前回、自由学園の環境が素晴らしいと書いた。
あの場所の秘密の一つが建物と自然のバランスにあるのだが、
特に線の安定感によって、不動の場所から外を見ているような感覚になる。
こちらが動かないから自然の繊細な動きが見える。

僕は10代の頃、禅寺でお坊さん達と一緒に生活させてもらっていた時期がある。
あの日々を思い出す事があるが、あれもブレない安定したリズムを見つけだし、
そこから物事に対応していくと言うとと関係している。
同じ時間に同じことをくり返す、全く変わらない日々が退屈かと言うと、
実はそんな事はない。普段よりもっと自然の変化を感じることが出来る。

疲れると呼吸が乱れる。緊張すると呼吸が乱れる。
同じ呼吸を保つことはなかなか難しい。

リズムというのは呼吸のことだ。

一定のリズム、テンポ、呼吸を保つこと。
作家たちの制作に流れている時間と出来上がった作品はその事を示している。
現代人の日常はリズムが乱れに乱れている。
色んな問題はそんなところからも来ているのだ。
ちょっと落着いて、と誰かが言わなければならない。

場を整えるという私達スタッフに要求されることも、
ここで言った安定したリズム、呼吸によって、いつでも安心出来る空間を創ることだ。

2012年11月19日月曜日

センスオブワンダー

寒い。寒いし薄暗い。
すっかり静かになった。

日曜日のアトリエ、午前のクラスも午後のクラスも、
制作に関してはみんな絶好調だった。
体調的には風邪ぎみの人が多かったけど。
絵具を片付けていてビリジャン(緑)の減りの多さに驚く。
クリスマスツリーだ。
それで本当にクリスマス頃になると、鏡餅とかが描かれる。
少し季節を先の季節を描く場合が多い。

金曜日に悠太は1才になった。
長い長い一年だった。
いつでも本当にかわいくて、本当にやさしい子だ。
真っすぐに一生懸命、ただ大きくなろうとしている。

よし子にとっては辛い日々だっただろうし、今でもそれは続いている。
アレルギーがあるために、普通の子より、気を遣い続けなければいけない。
夜の授乳も2時間間隔は今でも変わらない。
食べてくれたり、なかなか食べなかったり、
しばらく良くなっていたのが、また痒くなってきたり。

僕は仕事以外の時間は一緒にいて、なるべく悠太をみているけど、
それくらいでは彼女の負担は減らないと思う。
会社に出勤という仕事ではないのでちょっとは良いかもしれない。
少しの時間ならアトリエで面倒を見ることも出来るし、
みんなにとっても悠太にとっても、場にとってもそれは良いことだ。
でも、ずっとアトリエで過ごすというわけにはいかない。
制作の場の質を保つことは、そんなになまやさしいことではない。
両立するのはやっぱりどんな仕事であっても難しい。

よし子にも悠太にも日々支えられて感謝だ。

三重から一日だけ肇さんが来てくれたので、一緒に過ごすことができた。
そして、悠太の誕生日に自由学園の展示に連れて行ってもらった。

アキさんが作ってくれた折り紙のケーキをテーブルにおいてお祝い。
悠太はケーキはアレルギーで食べられないので、このケーキは嬉しい。
(アレルギー源が多いので、一般のアレルギー対応の食品もだめ)

自由学園の校舎には始めて入った。
生活に根ざした教育観は知っていたし面白いと感じていたけど、
そういった思想より、環境そのものの方が多くを語っている。
教育で最も大切なものは環境なのだと再認識した。

建物の高さ、形、窓の位置、縦と横のライン、
建物と建物の距離感、自然とのバランス。
それらすべてが自然に無意識のうちで人を育てていく。
調和の感覚だ。
どの位置にいても自然が感じられる。
人は自然の一部であり、自然の方がはるかに大きいという、
当り前の事実を忘れさせない。
巨大な建物は人を傲慢にする。
そうした環境では人間中心の意識しか育たない。
謙虚につつましくあれと言うなら、それを言葉で教育してもだめで、
それをデザインしなければならない。

教育は知識を詰め込むことではない。
技術を磨くことですらない。
もっとそれらのもととなる感覚を養うことだ。
知ることより、知りたいという気持ちを育てなければならない。
人はどんな事物からでも学ぶことが出来る。
学ぶための姿勢と感受性を持ちさえすれば。
まさしくすべての出発点はセンスオブワンダーではないだろうか。

学問も芸術も科学もあらゆる人の営みの原点にあるもの、
それがセンスオブワンダーだ。
自然への驚きと好奇心の感覚さえ養われれば、
学びも創造も自発的にうまれてくる。
逆ではいけない。

大人がしなければいけないことはことは、
子供達が大きなものの気配を感じとることが出来る環境をつくること。
きっかけをつくること。それから一緒になって好奇心を持つこと。
一緒に追求すること、一緒に学ぶことだ。

よく見ること、耳を澄ますこと、感覚を開いて、
感じること。
そのための場を創らなければならない。

ダウン症の人たちの世界の豊かさの秘密は、
このセンスオブワンダーにある。
彼らと一緒にいて、一緒に感じてみればすぐに分かる。
私達は思い上がりを捨てて、新鮮な開かれた気持ちを取り戻して、
もう一度、この世界に向かい合う必要がある。
その時には全く違う何かが見えて来るだろう。
いつでも希望はなくならない。

2012年11月17日土曜日

出生前診断

あえて、このテーマにした。
このキーワードで検索した場合、ちょっとでもヒットする可能性があるからだ。
したがって今回はこういったことに関心を持つ方に向けて書いている。
もし、ここで何かを感じてもらえたら、このページの他のブログや、
私達のHPもご覧いただきたい。

さて、出生前診断について以前、あらためて書くと予告した。
この話題に触れるかどうか、実は少し迷った。
それよりも、本分であるダウン症の人たちの可能性を見せたり、
楽しさを伝える取り組みに集中すべきではないか、と。
彼らの持つ世界を伝えていくことがすべてだと思っている。
こういう問題は本筋から逸れていく可能性もある。

それから、出生前診断については、それを反対するにしろ、賛成するにしろ、
(勿論、はっきりと賛成と言える人は少ないだろうが)、
どちらの立場をとるにしても、ややヒステリックになっている人が多い。
ここは冷静に考える必要があるところだ。

でも、そろそろ言わなければならない。
はっきり戦っていかなければならない。
曖昧な議論はしたくないので、まずは立場をはっきりさせよう。
出生前診断については、当然反対だ。

前置きが長くなった。
ここで言う出生前診断とは、例の妊婦の血液からDNAを調べるというもののことだ。

さて、ここでたまたまこのページを開いて読んで下さっている方がいたら、
お聞きしたい。あなたは何を調べようとしているのだろうか。
調べることで何が分かるのか、何を知ろうとするのか。

その前に一つ、今回の検査で分かる部分は本当にわずかであり、
ダウン症以外には幾つかの心臓の疾患他が分かるのみだ。
つまり、これはほぼ、ダウン症検査と言っていいものだろう。
その事を、専門家やこの検査を普及している方々に問い直したい。
ダウン症という特定の人達を対象にした検査を行うということは、
一言で言えば差別以外の何ものでもない。
こういう言動はあまりしたくはないのだが。
技術にたけた専門家こそが、倫理観を啓蒙し、偏見から人々を解放すべきだ。
需要があるから、供給するのでは医療が商売になってしまう。

反論を恐れずに言えば、本来は規制すべきだと思う。

ここからは、出生前診断について考える一般の人達に向けて書く。
まず、親としてあるいは親になろうとする人として、
自分の子供に障害がないことを願い、
産まれて来た子が健常であることを喜ぶ、出来れば、リスクは避けたいと思う。
これは本能であり、誰からも責められるべきことではない。
当然のことだ。
だから、もし出生前診断で確認したいと思ったり、
人やお医者さんからすすめられれば、なおさらそういう気持ちになるだろう。

ただ、ここで一歩、冷静に考えてみていただきたい。
この出生前診断ではダウン症と、他のいくつかの障害が分かるのみだ。
この検査でダウン症ではないと分かったとして、
一度、この様な思考をとってしまうと、不安はどこまでもつのっていく。
ダウン症ではないが、他の障害をもって産まれてくる可能性もある。
それら一つ一つを調べていくことは出来ない。

考えてみると、極端な話、
心理的にはダウン症でなければ産みたいという人がいないとも限らない。
そんな人が他の障害を持った人を産んでしまったら、どうなのだろうか。
怖いと思う。
少し言い方が悪いかも知れないが、ご容赦願いたい。
こういう部分を考えておかなければならないからだ。

そんな訳で、今言われている「生命の選択か、こころの準備か」という議論だが、
あの検査だけでこころの準備はできない。
ダウン症であるかしか分からないのだから。

それでも、準備だと言うなら、指摘しておきたいが、
仮にダウン症であると分かった場合、専門家はどのように説明し、
どのようなケアを行うのだろうか。
その後の対応や方向性が見えていない以上、
これはどちらかと言うと命を選ぶという方向にあるのではないだろうか。

もし、あなたがこころの準備のために、この検査を受けたいと考えるなら、
少しだけ想像してみて欲しい。
確かにダウン症は1000人に1人くらいの可能性で産まれる。
どこに原因がある訳でもないので、誰のところにでも産まれて来る可能性がある。
だから、あなたや私の子供がダウン症である可能性はある。
でも、こころの準備というなら、ダウン症の人達がどんな性質を持っているのか、
知らなければ、知ろうとしなければ意味がない。
今、あなたが想像しているような人達では恐らくないだろう。
そして、他の障害を持つ子供が産まれて来る可能性はもっとあるかも知れない。
そんな可能性がたくさんある。
他の障害を診断出来る方法が開発されれば、それもまた受けるのだろうか。
そういうやり方でこころの準備は出来ない。

出生前診断を受けて、安心して健常な子が産まれたとする。
そこで、少しは思わなだろうか。
その子が産まれる前に、こんな言い方をして申し訳ないが、
ためし、障害がなかったから産んだという意識がわずかに残らないだろうか。

もっと言えば、子供は自分の所有物ではない。
健常に産まれたからと言って、自分の思いどおりにいく訳ではない。
そんなこと当り前だと言うなら、考えてみて欲しい。
産まれる前に障害があるか、ないかをためし(あえてこんな言い方をするが)、
ないことを確認してから、産もうと決める(勿論、障害があっても産むことを選ぶ人の方が多いことは知っているが)ということが、
すでに自分の思う通りの子供であって欲しいということではないだろうか。
産まれる前から条件を確認していこうという意識は、
生まれてからも、子供を能力で計る意識につながる。
技術がこのまま暴走し、親達がそれに翻弄され続けるなら、
出生前に子供の能力まで判断する時代が来るかも知れない。

こころの準備とは、その子がどんな存在であっても、
受け入れ、育てていこうという覚悟ではないだろうか。

ここでは私達が普段テーマにしている、
ダウン症の人たちの持つ素晴らしい世界についてまでは語らなかった。
本当は彼らの描く作品に触れてみて欲しい。

出生前診断がどのような意味を持つのか、
もしかしたらそれはそれぞれ異なるかも知れない。
命の選択なのか、こころの準備なのか。
それも1人1人、それぞれに違う答えがあるだろう。
ただ、世界的に見ていくと、
これによって残念ながらダウン症の人たちが少なくなっていく可能性は高い。
それは避けなければならない。
止めなければならない。
自分達が何をしようとしているのか、知らなければならない。
文明は絶えず失ってから気がつく。
何を失おうとしているのか、よくよく考える必要がある。

私達は本当はまだ彼らのことを知らない。
知りもしないで、可能性を捨てようとしている。
そのつけは自分達に回って来る。

ダウン症の人たちは私達に様々なことを教えてくれる存在だ。
もし、そのことにご関心を示していただけるのなら、
アトリエ・エレマン・プレザンの活動を見ていただきたい。
作品をご覧になっていただきたい。
このブログの他のページもお読みいただきたい。

ここには大きな可能性が潜んでいる。
そして、そのことに気がつきだした人達がたくさんいる。

2012年11月14日水曜日

関わること。関わり続けること。

たっ君は朝、アトリエに到着すると、
「わっはっはっはっはっはー」と大きな声で笑う。
エプロンを付けて座るとすぐに筆をとって、手が動き出す。
本当に自然にさーっと動き出す。
意志で何かをしている感じがしないくらいに。
自動的に物事が進んでいくように。
ぱっと絵具を飛ばしたり、筆をドンっと紙に叩き付けて、
でも、ぜんぜん乱暴な感じがない。
スー、スーっと色が重なっていき、5分もしないで描きあげる。
途中、全くしゃべらない。合間合間に笑う。
お鮨、マグロ、海、がタイトル。
描き終わるとすぐに立ち上がって、今度は粘土でお鮨をつくる。

出来上がった作品はどれも美しい。
彼の制作を見ていると、即興というものが何なのか良く分かる。

多分、生きると言うことにおいてもアドリブは大切な要素だ。

彼と積み重ねて来た即興の制作の記憶。
色が重なる鮮やかで鮮明な時間の流れ、スピード感。
すべてが皮膚に刻まれているようだ。

たっ君は今月いっぱいでアトリエを離れる。
お父さんが海外に転勤で、家族みんなで移動する。

残すところあと一回。
一緒に場に入って、良いものを残そう。

今年ものこすところ後わずか。

みんなとの場の雰囲気や、一人一人の息づかい。
筆の動き、会話、笑い、流れ、何度も何度も形を変えつつくり返す。
みんなで場に入り、場を創り続ける。
自然な流れの中でかたちが生まれ、変化し、また次の形へ向かう。
去年も今年も来年も。

アトリエでの活動も、このブログも最初のころは説明しなればならない事、
話さなければならない事がたくさんあった。
何事も始まりはそうだ。
今は多くの説明の必要を感じない。

良い流れを見極めて、良い流れに入って行けばいい。
流れていれば問題ない。
止まっていなければ、固くなっていなければ。

流れの中でいろんなことを感じる。
関わって来たすべての人の声が聞こえる。
どの瞬間にも、どの時間の中にも、人や思いや、出来事が一つになって、
いつでも語りかけてくる。
すべての時間が同時にあって、すべての声が同時に聞こえている感覚。
関わるということは人に対しても出来事に対しても一つになるということだ。

創造すること、場に入ること、人と一緒に深めること、
プロジェクトを進めること、すべては関わることだ。
生きることとは関わること。
関わることとは関与し、関与され、変化し流れること。
次の瞬間には違うものになってしまうこと。
決して引き返さないことだ。
関わることは、関わり続けることだ。
一度でも関わったものは、折り重なって一つの流れを創っていく。
たくさんの人の顔や情景が、一人一人の呼吸と、
一つ一つの出来事や景色が、重なって、重なって大きな流れの中で、
見えてくる。聞こえてくる。
すべてが一つの身体の細胞のように。一つの海のたくさんの波のように。

それが見えた時、その地点に立った時、
始めて関わること、関わり続けることが何なのかが分かる。

無機質なコンピューター(物質としてのそればかりでなく、人間の頭の中の、意識の中の
機械的合理性)に閉じこもって、本当の関わりを知らない人達。
関わるという運動体に生命体に飛び込んで、参加した方が良い。
それが生きるということなのだから。

2012年11月12日月曜日

暖める

今週からさらに寒くなるようだ。
部屋をなるべく暖めている。

土、日曜日のアトリエでは、みんな本当に良い表情で作品もいっぱい出てくる。
まずは順調。
これから、寒い中での制作なので、別の意識に切り替えていく。
前にも書いたけど、気候や気圧や気温等、外的な条件は重要だ。
それぞれにあった配慮が必要になってくる。

作家もスタッフもどんな条件でも、それを最大限に活かして良いものを創っていく。
そういう場であり続けている。

だからどんな季節も、その季節の中でしか生まれない作品や場が出来る。
でも、仮にスタッフとしてどんな気候条件がいいかと聞かれれば、
まあ暖かいにこしたことはない。
明るくて暖かい季節や天気が良いことは間違いない。

もし、どんな場所でもアトリエが開けて、みんなが来ることが出来るなら、
やっぱり南の島のような環境でやりたい。
これは思いつきではなく、10代の頃、
様々な障害を持つ人達と暮らしていた時から考えていた。
考えていただけではなく、リーダーの方に「沖縄で始めましょうよ」と、
若気のいたりで提案したこともあった。
「君が責任を持って、そこで一生やる気があるなら考えるよ」
と言われて、そのままになったと思う。

あの頃は純粋に、どんな風にすればより良くなるかだけ考えていれば良かった。
みんなが支えてくれていたから、好きなように出来ていたのだと思う。

場や人のこころを考えると、そういう発想になるのだけど、
根が強い僕のような人間にとっては冬は良い季節だ。
むしろ新潟とか寒いところに行って雪を見たくなる。
実際に暮らしていたらどれだけ大変なのかは、経験があるので知っているのだけど。
豪雪地帯で雪が減っているのも寂しいものだ。

さて、そんなことより、具体的にこの季節はどんな心がけが必要だろうか。
外的環境も、内面的な部分でも、とにかく暖めておくことだろう。
身体を暖めることの大切さは東洋医学の多くのジャンルの方が指摘している。
それから、こころを暖めることだ。
自分のものも他人のものも。
やっぱり寒い季節はこころも冷える。
これは事実だ。
逆に暖かい季節は、それだけでこころを暖めてくれるか、
というとこれは言い切れない、というか多分そうはならない。
でも、寒さはそれだけでこころを冷やす。
良く暖めていかなければ、こころが動かない。

お互いを良く見て暖かい場を創っていきたい。

2012年11月11日日曜日

リズム2

さて、リズムについて書きたいが、
前回書いた西洋から生まれた考えの一番深くにあるものについて。
「部分は全体であり、全体は部分だ。」というものだったが、
この思想の凄さについて充分に書くことが出来なかった。
未だに現代アートとか現代音楽と呼ばれているものに、
多くの人が魅力を感じられないで、
ある時代のものには一定の愛好者がいるという事実がある。
それは、この思想が信じられていた、無意識に共有されていた時期の、
芸術、科学、他の様々なジャンルにあった秩序の美しさに由来している。
でも、ここではあっさり書くことしか出来ないが、
その世界観はすでに終わったものだ。
確かに強固な魅力はあるが、まだ意識中心、言語中心の世界観であり、
もっと奥に踏み込まなければ本当のものは見えてこない。

リズムについてだ。
自由について考えて来た、そこで抑圧や既成が自由を歪めていると書いた。
前回から書いている西洋型の秩序も合理主義も、
自然や物事を加工して理性のもとに配置することでバランスを保って来た。
リズムも、そんな中で解釈されている。

でも、本当はリズムこそが自由でありつつ普遍的秩序へいたる道具かも知れない。

リズムについて、これまでも何度か書いてきた。
リズムって何だろう、と考える。
あるリズムに乗っている時、あるリズムを感じている時、
それは確かに目の前に存在している。
でも、捕まえることは出来ない。メトロノームで計ることは出来ない。

音楽にだけリズムがある訳ではない。
リズムは生命体のすべてにあるし、もっと言えばこの宇宙のリズムだってある。

音楽を勉強しても、練習しても、それだけではリズムを見つけることは出来ない。
なぜなら、本当のリズムとはそれぞれの固有のものだからだ。
それは自分の中でしか見つけることは出来ない。

ダウン症の人たちが絵を描く姿をずっと見てきた。
彼らはそれぞれ自分だけのリズムを持っていてブレることはない。
しかも集まった時にそこに秩序がある。
これが本来の自由であり個性だ。
個性、オリジナリティとは人と違うことをしようという努力とは無縁だ。
ちょっと変わったことを考えてみようとか、
そんなレベルの話ではない。
もっと生命体の尊厳のようなものだ。

これも誰かから聞きかじったことだけど、
ボクシングでは打つ引く、フットワークやステップがあって、
リズムがとても大事だそうだ。
そして、普通の選手は相手によってそのリズムが変わるが、
強い選手はリズムが一定でどんな相手と戦っていてもリズムは変わらないという。
これも自分のリズムを持つという形だろう。

生命体は自然界から生まれている以上、この宇宙に通じていないものなど一つもない。
そして、どんな存在も、そこにしかないリズムを持っている。
自らの本来のリズムに忠実であれば、普遍へ通じる。

ここでも教育の問題だ。
学校だけのことではなく、家庭から社会からすべてが無意識でおこなっている教育。
そこでは、はいこの時間にはこれを始めましょうという、
ある一定のリズムを仕込んでいく。
その結果、人は本来の自分のリズムを忘れていく。
ここまで書いて来た人間中心の秩序だ。

本当は自分のリズムを知らなければ、他人や自然のリズムをつかむことは出来ない。
本当の秩序や調和に至ることも出来ない。

リズムを手放してはならない。
妥協したり安売りしてはならない。
それは自分だけのものであり、自然界が与えてくれたものなのだから。

まずは内面的にでも時計を捨ててみることだ。
時計などで時間は分からない。
時間は一つではないからだ。
それはみんな体験的には知っているはずだ。

リズムと時間は多様だ。
生命体一つ一つに与えられている尊厳だ。
リズムは呼吸だ。間でありテンポであるもの。

良い音楽を聴いていると、世界中がその音楽で満たされる。
見えるものすべてが、そのリズムで生まれて来ているように感じる。
それは錯覚ではない。
1人の人間に固有のリズムを通じて、
この宇宙の普遍的なリズムが感じられる。

ある時期、僕はセロニアスモンクとグレングールドの演奏を聴き続けていた。
モンクが頭になり続けているときは、どこを歩いていても、
モンクの間とテンポで世界が感じられる。
グールドの時はまた生きているものすべてや、そこにあり、
流れている事物のすべてがグールドのリズムで見える。
どこにいてもリズムがある。
風邪をひいて寝込んでいる時、ちょうどそのころ重労働が続いて、
身体もあちこちが痛かったり重かったりした時だった。
意識もぼーっとしている中で、音だけは明晰に聞こえていた。
窓の外から見た景色があまりに美しかった。
モンクやグールドのリズムがいたるところにあった。
そのリズムを通じて、生命や宇宙のリズムを聴いていた。

今でも僕はアトリエで一人一人のリズムを感じとることを大切にしているし、
場全体のリズムの重要性も知っている。

お互いを大切にしよう。
環境や自然の声をしっかり聴き取ろう。
そんなことをリズムが教えてくれる。

2012年11月10日土曜日

リズム

年末に向けての作業が始まっているので、
このブログではなるべく大きなテーマや纏まった話は扱わないようにしている。
でも、こんな時期に限って言わなければ、という話題が出てくる。
その一つは出生前診断なのだが、またいずれテーマにあげたい。

それからまたテレビが情報源で申し訳ないが、
先日、インターネットの危険性を訴える番組を見た。
具体的に脳にどのような影響をあたえるのか、という部分まで話していた。

コンピューターに対して消極的な話をすると、すぐに年寄りじみた見解にとられる。
だが、昔は良かったというレベルの話題ではない。
危険性、リスクを考えないで無意識化していくと原発と同じになる。

当然、僕達もパソコンを使っている訳だし、このブログもそうだ。
先日お伝えしたフェイスブックも赤嶺さん、稲垣君の努力で好評だ。
しっかりとした目的の為にビジョンを持って使っていく。
使い方次第だ。

出生前診断にしても、インターネットにしても、
その背景にどんな考えがあるのか見極めた方が良い。
一言で言うなら合理主義だ。
合理主義は地域的に言うなら西洋から生まれた最も強い思考法で、
はっきり言って際限なく暴走する。
すべてに整合性を見つけ、管理し把握出来るものに纏める。
その際、その思考法にとって無駄と思われるものは排除される。

今や西洋だけではなく世界中の人達が、
この思考法を無意識のうちに身につけている。
すべては知ることが出来るし、
分かることが出来ると思い込んでいるのはこのためだ。
こういう考えに毒されていくと、人間はどこまでも自分勝手に暴走する。
便利さのために環境を破壊して来たのはその一例にすぎない。

合理主義的な世界観の中では、
この世界のすべてがその中に収まっているように見えてしまうが、
それは人間の脳みそ、頭の中だけの世界だ。
近代の文明は脳の中に閉じ込められて、その外に出られなくなっている。
その場所で自滅していこうとさえしている。

もう一度、考えてみよう。
今、ここで見えている世界がいかに多様に見えようと、
それは人の創り出した物にすぎない。
本当の自然や世界は私達が知り尽くせるほど小さくはない。

合理主義は西洋から来たと書いた。
だが、東洋人の合理主義の方がはるかに危険だと言える。
なぜなら、西洋の合理主義には背景となる考えがあるのに対して、
東洋にはないから、はどめがきかなくなる。

ここで西洋型合理主義の根幹にどんな世界観があるのか考えてみたい。
それを知っておくことで、この考え方の可能性と限界を見る必要がある。
そして、それを超えて行かなければならない。

ここまで書いて来てふと思うのだが、
ダウン症の人たちや作品となんの関係もない話題だと思う方もいるだろう。
それは違う。
私達からなぜ、ダウン症の人たちのようなこころが失われているのか、
という問題と直結している。
私達が合理主義に毒されていなければ、
ダウン症の人たちのようなこころの在り方がもっと理解出来る。
もっと言えば人間が合理主義によってこころの機能を失う前の、
こころのありようを示しているのが彼らの存在だ。

さて、合理主義の背景にある世界観だ。
これを西洋の思考法の極意と言っても良いかも知れない。
それは西洋型の芸術、科学、宗教、すべてに行き渡った、
ある種、神秘的な世界観だ。
西洋型の芸術、科学、宗教の一番奥にはこの世界観があるし、
すべての道はここへ通じている。
西洋の偉人や天才はすべてここに到達している。
やや難しい考え方だけど、一言で言おう。
この世界のすべてのものは全体へ繋がっている、と言うことだ。
これを最も上手く表しているのが、西洋の生んだ音楽であるクラシックだ。
僕自身も実はクラシックを聴いているときに、このことに気がついた。
だが、クラシックについてそういう角度から語られることはあまりない。
評論家ではただ一人、許光俊という人がこのことをはっきり自覚している。
彼の本はみんないいが、ここに書いたような考え方を分かり易く書いているものに、
「クラシックを聴け」という本がある。
ここで、彼はクラシックの世界観を纏めている。
「部分は全体であり、全体は部分だ」という風に。

クラシック音楽では、曲の中に様々な主題が登場し、
その都度、耳に印象づけるが、意味は分からない。
そういう様々な主題が分からないまま、何か繋がっているなと感じながら、
心地良かったり謎めいたりしながら、音楽はどんどん進んでいく。
そして、最後のクライマックスに至って、すべての謎は解けて、
今までの主題のすべての意味は明らかになる。
すべては一つの絵のパーツだった。その絵の部分だった。
部分が集まって全体の絵になって、その絵が最後に見える。
ここで聴いている人は気持ち良くなるわけだ。

これはかなり深い世界観なのだけど、限界があることを忘れてはいけない。
最後に見える絵が、どれだけ神秘的に見えようと、
実は人知を超えていない。
一つに繋がった宇宙がどれだけきれいでも、
それは人間が創り出したものにすぎない。
完璧な秩序と調和があるが、どこか理性的で人間中心的だ。

前回、自由について書いた。
そことも繋がって来るが、ここにある人間の頭脳が創り出した秩序には自由はない。
自由はこの秩序を壊すだろう。
だから規制する必要がある。
ところが、自由について書いた時にいったが、
この秩序を壊しておくに進んでいったとき、実はもっと本当の秩序がある。
個性についても同じことが言える。

クラシック音楽に現れているような秩序とは、
あらかじめ、自由や個性を抑制し、すべてをパーツにして、
扱いやすくした上で全体を作って繋げていく。
きっちり整合性がとれるように、自然を変形させている。
人間によって創られた秩序であり調和だ。
音を12音階によって把握することも(倍音等、西洋以外のほとんどの音楽で重視されている要素が排除されていることは言うまでもない。絶対音感とは世界中の人間が英語でしか話せなくなっている状況に近い。)、色を補色や色彩論でくくることも、
人の手で扱いやすくするためだ。
勿論、それらはこの宇宙の原理の一部ではあるだろう。
でも、本来の自然界はもっと奥深い。
人間が創ったものではない本物の秩序が存在する。
それは合理的でもなければ、人から見た整合性がある訳でもない。
もっと揺らいでいたり、裂け目があったり、ぶれていたりする中に、
本当の一体感も秩序も存在している。

そんな訳で、人間中心の全体ではなく、一人一人の固有のものがある。
その固有性がリズムだ。

今回も長くなってしまった。
リズム2を書くかも知れない。

2012年11月7日水曜日

自由について2

よし子とゆうたは風邪。
少し喘息もでているので心配。

アトリエも年末に向けて準備やら打ち合わせやら、いろいろ。

朝、ゴミを出しに外へ出ると霧で真っ白だった。
本当に白という色があって神秘的な光景だった。
準備をしてアトリエへ向かう為にもう一度、外へ行くともうあの景色は消えている。
当り前だけどあらわれたものはやがて消えて行く。
美しいものもそうでないものも、いつか消えてなくなることだけは確かだ。

さて、自由について2となっているが、都合上そうなってしまったわけで、
前回はテーマを決めておきながら横道に逸れてしまって終わった。
だから1がある訳ではない。

先日、雑誌の取材の際もお話ししたし、
ラジオでは高橋源一郎さんもお話しして下さったが、
本当の自由にはある種の秩序があるということを、
もう一度、書いていきたい。

あえて本当の自由と書いたのは、自由という言葉は使われすぎていて、
誰しも何度も聞いているのに、その実態を知る人は少ないからだ。
よく勝手気ままにふるまっている人に対して、
「自由の概念をはきちがえている」というが、
では正しい自由とは何なのだろう。

僕自身は人間のこころというものの、様々なタイプの形を見て来た。
それが正しく機能しているときや、歪んでしまった場合、
どのように変化していくのか、ずっと向き合って来た。
そして、結論として人のこころを自由にすること、
自分のこころを自由にすることだけに徹底的に集中したいと思うようになった。
人を不自由にさせてしまっているものを、とことん取り除きたい。

もう一つ、いつも言うようにダウン症の人たちの持つ世界は、
私達の生き方にヒントを与えてくれる。
これまで見てきてそう感じることがおおい。
彼らの世界とは私達が本当に自由になった時、どうなるのかを示している。

なぜ、彼らはあのような絵を描けるのか。
あのようなバランス感覚を持っているのか。
習いおぼえた訳でもなく、色彩や造形の仕組みと言っても良いものを知っているのか。
それは彼らが自由であるからだ。

自由になった時、人は自然界の法則の一部になる。

多くの人は自由を恐れている。
それも気づかず、無意識に恐怖している。
さらには小さな頃からずっとずっと、刷り込まれて来ている事がある。
ああしてはいけない、こうしてはいけない。
大人が子供に限界をつくっていく。

社会も自由を恐れている。
それで、制限をつくり、縛っておこうとする。
既成をつくることで、自由にさせないようにしている。

そのような循環の中で、自由は怖いもの、
自由になることはいけないこと、という無意識の刷り込みが出来あがる。
その結果、本当はどうなのか誰も知らない。
自由になってみなければ、自由が分かる訳がないのだから。

では本当に自由は危険なのだろうか。
もしかして、私達がつくっている限界や制限の方こそ、危険なのではないだろうか。

私達はまず自分を縛り、それから人を縛っている。
お互いを拘束し合っている。
ある意味で催眠術を掛け合っているようなものだ。
よくマインドコントロールという言葉を聞くが、
人のこころと向き合っていく時、
マインドコントロールされていないこころになんて、ほとんど出会うことはない。
それくらい強固に自分と周りをがんじがらめにして限界を作っているのが、
普段の人のこころのありようだ。

すべて取り払って、すべてを元に戻してみること。
すべてを解放してみること。
そうやって本当に自由になった時、実はそこには秩序や調和といったものがある。
考えてみると当然で、
この宇宙がこんなに丁度良いバランスで成り立っているのだから。

言葉にしてしまうと簡単なことだけど、
自分や他人を自由にしていくのはなかなか難しい。
でも、少しづつ、自分にかけているブレーキに気がついていけばいい。
固くなってしまっているこころを、ゆっくり解していくことが大切だ。
自分が自由になれた時、人や周りの環境への見方や関わり方も変わる。

僕達の場合は制作という時間の中で、
一人一人のこころが解放されて、自由になっていくプロセスに夢中になっている。
これは本当に面白い。

2012年11月5日月曜日

自由について

ずいぶん寒くなってきた。
少し早めにエアコンをつけてアトリエをあたためている。

アトリエ・エレマン・プレザンの活動をフェイスブックでも、
発信していくことになりました。
こちらはダウンズタウンプロジェクトとしていますが、
展覧会やイベント等の情報ものせていくことになります。
ボランティアチームの赤嶺さん稲垣君が担当します。
2人のアトリエやダウン症の人達の良さを伝えていきたい、
という気持ちに期待しています。
新しいツールで、新しい視点でこれまでのアトリエや、
これからの情報を発信していってくれるそうです。
アトリエを応援して下さる皆さま、是非ご覧下さい。

日曜日のアトリエでは午前のクラスで、
なつみちゃんの表現がぐんと深くなってきた。
昨日、特におっと思ったのは、まあゆちゃん。
初めからいつもと集中の度合いが違っていたのだけど、
出来上がり間近で、作品に入り込み一体化していく。
色使いや、構成はこれまでいくつかのパターンがあるのだけど、
それが一つになっている。
こうして見ていると、やっぱりくりかえし重ねている行為が、
自己を深めていくということが分かる。
上手くいえないけど、染み込んでいくというか。

ダウン症の人達から、たくさんのことが見えてくるといつも言っているが、
その中でやさしさとか平和とか、
そういう要素は特に何度も触れてきた。
彼らのやさしさは物事に触れる時の手触りの繊細さにあらわれる。
ほとんど毎日、そんな場面を見ているが、
先日もてる君が「佐久間さーん。ドクブリが、ね。ドク、ブリですか」と
僕の後ろから話しかけてくる。
「ん。ドクブリ、あ、ゴキブリいた?」
「あっちに」
少し離れたところでよし子が笑っている。
よし子はずっと見ていたようで、話を聞くと、
てる君がずっと独り言を言っているので見てみると、
彼はずっと陰に隠れているゴキブリを覗いて話しかけていた、という。
「ドクブリなの。ドークーブリですか」と何度も何度も。

そんな訳でアトリエでは今年始めてのゴキブリを発見し、
僕がすぐに退治した訳だけど、
てる君のおおらかさにはみんな感動していた。

以前もアトリエが代々木にあった頃、
ベランダにゴミ袋を出していたらカラスがあさりに来た。
すぐに追い払おうと、立ち上がると、
窓ごしにてる君がカラスと話しだした。
僕達はしばらく見守っていたけど、10分くらいずっと話していた。
にっこり笑いながら「なーに、もってくの、泥棒カラス」。

昨日のクラスでも、描き終わった後で一生懸命、
何度も何度も絵の題名をくりかかえしつぶやいている。
自分で考えたタイトルだけど、忘れてしまうので、
何回も確認している。
「海、山!階段、サッカー!NHK!お家で見たところのNHK!」、と。
「お母さん、今日はこむかえ(おむかえ)こられないから、教えてあげないと」
といって僕の顔をみる。
とてもとてもやさしい目をして考えている。

みんなが帰った後で最後はすぐる君と2人になったのでお話していると、
いつもより考えながら話しているので、何か聞きたいことがあるのかな、
と思っていると、しばらく話してから、
「佐久間君は何か食べるものは、なにが好きですか」と
ゆっくり聞いて来た。
「うーん。何でも好きだよ。」
「じゃあしいたけは好きですか」
「しいたけ、すきだよ」
「今度、学園祭に行くから、佐久間君にしいたけ買ってこようと思って」

そんなすぐる君は昨日、凄いテーマの作品を描いた。
タイトルは「離れた空」。
地球を上から見ていて、横にも前にもいくつかの惑星がある。
ただ単に上というよりは、複雑な角度で描かれていて、
いったいこれを見ている人はどこから、見ているのだろう。
しかも、地球や他の惑星の上に(これも上と言えるか分からないが)青い空がある。
色んな角度から同時に見ているような感じでもあるが、
角度とか、そういう次元を超えてしまっている。
これがシリアスに描かれていたら、また印象が違ってしまうが、
すぐる君お馴染みの可愛くて、ちょっととぼけた、
そして、少し奇妙な感じの作品として描かれている。
これを見ている時、描いている時、いったい彼はどこにいるのだろう。
どこから見ているのだろう。

人に何かをしてあげたいとか、喜ばせたいという気持ちはみんな共通している。
でも、言葉ではなく、行為ですらもなく、
彼らのやさしい気持ちは気配のような感じで、透明感があって、
それに触れた時は切ないような感動がある。

おっと、今日のテーマは自由についてだった。
長くなってしまうので本題は次回にします。

2012年10月31日水曜日

難しくしないこと

このブログのページなのだけど、知らない間に機械の方が新しくなっていて、
デザインも変わっているし(読むページは変わっていない)、
新しい機能も加わっている。
こちらは紙に書くように書いているので、
性能が良くなっても逆に書きにくかったりする。
変わらないのがいいのになあと思う。
それで、新しい機能としてブログを何人の人が開いたのか分かるようになった。
知りたいような、知りたくないようななのだが、横に数字が出てしまうので、
ついつい見てしまう。
見るとやっぱり気になる。
有難い話なのだけど、本当に多くの人達が読んで下さっている。
そんなに良く書けていない回のページがたくさん開かれていたりすると、
申し訳ないし、恥ずかしいかぎりだ。
もっとも良く書けている回などあるのかと言われれば、返す言葉もない。
もう少ししっかりしたことを書いていきたい。

一つ一つのテーマにしても、実はもう少し深めてみたいのだが、
毎回、最後のところは時間切れで終わってしまう。
ただ、時間が来たから今日はこれくらいという方が、
長くなって複雑になっていくより良いのかも知れない。

以前、友人から「あんな時間がない中でよく毎回、濃い内容が書けるね。いつ練ってるの?」と聞かれた事がある。
答えは簡単で練っていないからだ。
ただもう書いているだけだ。
練った文章とは、やっぱり白州正子のような文章だろうと思う。
そして、本当の文章とはああいうのをいうのだろう。
言外に含むというのか、言わないで、言う。
書かないで、感じさせる。それがおそらく本当の文章だ。

そういうレベルのことが出来ないから練る必要もない。

時々、ああいうのを読むと、
ただ書きたいことを書くということが恥ずかしくなる。

さて、週に5日はダウン症の人たちと過ごしている。
そして、他の時間では様々な仕事の方とお会いしてお話しする。
違う世界を行き来するような感覚だ。
どっちが本当の世界かというのは、
やっぱり僕達の見解では作家たちの世界と言いきってしまうが、
でも大事なのは繋ぐことだと思う。
理解し合うこと。お互いの価値を認めて尊重出来なければならない。

ここへ来る人たちにしても、お仕事でお付き合いする人達にしても、
ダウン症の人達の世界にふれ、扱う時に、難しく考えてしまうことが多い。
問題を複雑にしてしまうことがある。
今の社会や人の生き方がそうさせてしまう。

でも、本来はもっと簡単なことだ。
ダウン症の人たちは、人間の生にある、単純で力強いリズムを教えてくれる。

作品が美しければ、素直にきれいだなあと感じることが大切だし、
楽しければ、楽しむ。笑いたい時は笑う。
自然に創造性があふれ、みんなが仲良く繋がることが出来る。
こんな穏やかでやさしく、そして力強い世界があることを認めれば良い。

彼らの世界は本当に分かり易い。
そこに入ればすぐに何かを感じることが出来る。
この感じる何かが大切だ。
これは一つの生き方だといえる。
こういう可能性を知って、活かしてみられたら、
僕達はもっと豊かになるし、もっと色んなものが見えてくる。

彼らは僕達の世界に語りかけている。
こんな風に生きてみようと。

私達が未だ使っていない人間の能力や感覚がある。
それを見てみたいと思えば良いし、
その可能性を素直に喜んで、試してみれば良いのではないだろうか。

物事を難しく考えたり、難しくしてしまうのは人間の癖だ。
そこにたくさんの力を使ってしまっている。
だから、感性が動かなくなる。

難しくすること、複雑にすることをやめて、
単純に簡単にしてしまえば、感性が動き出す。
そうすれば、人間としての本当の力が発揮出来る。
そんな、生き方をダウン症の人たちが示している。

2012年10月30日火曜日

こころが動くとき

急に寒くなって来た。
今月もブログの更新が少なくなってしまって反省。
ちょっと年末まではこれくらいのペースになってしまうかも。

さて、先日はラジオでもご紹介していただいた。
高橋源一郎さんにはご理解いただいた上に、本当に熱心に伝えて下さって、
感謝以外に言葉がない。

多くの方が関心を示して下さっている。
ご期待に応えられるよう、変わらない良い場を創り続けたい。

ドキュメンタリーの取材も入っている。
長期での撮影なので、まだまだ先になるのだろうが、
今度はどんな風に取り上げられるのだろうか。

映像も音声も、残念ながら本来の場を再現することは出来ない。
そこに確かにあったはずのある大切なものが消えてしまう。
それは本当に不思議なことだ。

例えば先日のラジオの場合、言葉を交わしている人達の表情は見えない。
でも、映像でその表情を撮影すればそれで再現される訳ではない。
大切なのはどのような方法も、
そこにある一部の要素をのみ拾うことが出来るということを自覚すること。
一部でもそれが何らかのヒントになるし、
そこから伝わる部分も大きい。

今回の場合は会話に焦点が当てられていたので、
その部分を切り取っていただいた訳だ。
当然のことだけれど、制作においては会話がすべてではない。
むしろ、言葉を必要としないことの方が多い。
ラジオで登場しただいすけ君とのやりとりにしても、
大事なのは彼が別にしゃべる必要がないということだ。
その場では彼の表情で気持ちが通じ合っていて成立している。
何か言ってよみたいな会話があったのは、
あれが彼とふざけ合う時に良く通じるからだ。
別に何かを言って欲しい訳ではない。
彼がテレて笑って、喜んでいるのをみんなも見て、
そこでそれぞれが楽しい気持ちになっている、というだけだ。
あの日は結果、彼から言葉が出た。
だからといって、それを目標にしていた訳ではない。
こころが動いていればそれでいい。
その意味では最初から彼のこころは動いている。
こころが動いていれば、良い関係が生まれ、良い場にもなる。
こころが動けば必ず良い作品が出来る。
みんなに聞こえる言葉が出て来たのもこころが動いていたからだ。
アトリエに入ったら、最初から最後まで楽しく、
そして深く制作して過ごす。
ゴールを目指して試行錯誤することはない。
どの瞬間もそこで完結している。

普段のアトリエでは静けさも大切な要素だが、
そこにある気配のようなものは映像にも映らない。
全員が一言も言葉を発しないで、深い創造性に浸っていることもある。
そんな時の彼らは、本当に凄いが誰も見たことがないと思う。
是非、知ってほしいが、見せることは出来ない。

まずはどんな一部でも良いから、彼らの魅力に出会って欲しいと思う。
そのために次は安定した場所を創っていくことから始めたい。

こころが動いているという表現を使ったが、これは重要なことだ。
人のこころは止まることがある。動かなくなることがある。
固まったとか、凍りついたとか。
恐怖や緊張、怒りや悲しみによってこころの動きが止まる。
固まるから、滞るから、動きが止まる。
だから、必要なのは解していくことだ。
固いものは動けない。やわらかくしていく。
こころが動いていれば、難しい事があっても解決していく。
例えば、感動というのも、つまりこころが動いたということだ。

人のこころも自分のこころも、動いているのか固まっているのか、
良く感じてみることが大切だ。
特にこころが動かなくなっている時は、そのことに気がつかないから。
こころが動く為には良いものに触れる、良い場に入るしかない。
でも、それさえしていればこころは動く。

2012年10月24日水曜日

出会いは真剣勝負

昨日は風も雨も激しかったが、今日は良く晴れて気持ちいい。
さて、お知らせです。
月刊誌GQに作家の高橋源一郎さんが、
アトリエ・エレマン・プレザンのことを書いています。
これまでの取材中心の記事とは違って、ご本人がアトリエを訪れ、
感じたことを書いて下さっています。
是非、お読みいただいてアトリエの空気を感じて下さい。

今週の金曜日(10月26日)にNHK第一放送「すっぴん」の、
源ちゃんの現場というコーナーでもアトリエのことをお話して下さるそうです。
こちらも、是非、お聞き下さい。

色んな形で、
ダウン症の人達の感性が注目されていくことに繋がって行けばと思います。

昨日のプレでハルコが外を見ながら、
何度も何度も「夢っぽいなあ」とつぶやいていた。
外の景色は、強風と雨と急な日射しで怪しげな淡い雰囲気。
ハルコのつぶやきを聞きながら景色に溶け込んでいくと、
本当にどんどんどんどん、夢の中にいるような感覚になっていく。
前に夢の中のような感覚になることが重要だと書いた事がある。
その時に、夢のような感覚とは現実感のないことではないとも書いた。
場を見るとき、細部を明晰に見過ぎない方が良いという話もした。
全体をぼやっと捉えると。
この2つ全体を固定せずにぼやっと捉えていることと、
夢の中にいるような感覚を持つことは、
言ってみれば創造的な場を創るための極意のようなものだ。
全体をぼやっと捉えることは、ぼーっとする事ではないし、
細部を見逃すことでもない。
夢の中にいるような感覚も、現実離れしたものではない。
あくまで自覚を持っていることが必要だ。
私達は普段、自分で作り上げてしまった世界の中でがんじがらめになっている。
知らず知らずの内に、自分も他人も制限して抑えている。
こんな状態では自由など想像もつかない。
抑えているものを全部取り払って裸になっていく為には、
ここで言う全体をぼやっと捉えることと、
夢の中のような感覚が必要だ。
それは自由にこころを動かす為のプロセスでもある。

ところで、最近も色んな方とお会いしているが、
人との出会いというのは本当に大切だ。
残念ながら、こういう活動をしていて、
深く通じ合える人と出会えることは滅多にない。
先日は久しぶりに、そんなお付き合いをさせていただいている方と再会した。
その数日後にはフラボアとの打ち合わせで、
デザイナーの佐々木さんとお会いした。
深く理解し合える方とは多くはお話しないが、大事なことはすぐに共有出来る。
そういう方とお付き合い出来る事は本当にありがたい。

普段着の付き合いみたいなことも良いけど、
やっぱり大切な人とはある程度、自分を引き締めてお会いしたい。
少しの緊張感は大事だと思う。
僕は出会いを大切にしたいから、出会いに備えることを忘れたくない。

僕がお会いする人の多くは、その後、
アトリエやダウン症の人たちに関心を示して下さる。
その可能性は自分次第でつながるどうかが決まってしまう。
長い間付き合っていけば、理解し合うことが出来るだろう。
でも、今の社会では時間は限られている。
どんな人とでも付き合っていくという風には出来ないだろう。
だから、真剣に仕事している人ほど、相手を見極めようとするし、
ある意味で付き合うにたる人間かどうか試しても来る。
出来る人ほど、相手がどのあたりの意識で動いているのか、
確かめ、確認しようと敏感になる。
その一回の出会いがすべてだ。そのとき、通じ合わなければおしまい。
あるいは、甘く見ていたり、こちらへの誤解や、認識に間違いがあった場合、
それを変えてもらえるかどうか、というところも重要になってくる。

試して来た方ほど、その後、ご理解いただいた時は、
深い関係になれる。

今でも思い出すとそんな方が数人いた。
勝負を恐れず、しっかり挑んでよかったと思っている。

もし、僕と会ったとき、こいつはつまらないなと思われてしまったら、
その後、ダウン症の人たちや活動に興味を持ってはくれない。
こいつ結構面白いなと、思っていただければ、
どんなことなのかな、と興味を持ってもらえる。
やり直しは出来ないのだから、勝負に備え、出会いに備えて挑むことが大事。

しっかり準備ができていれば、お互いにこの人はここを見ているな、
ということが通じて、深く繋がって行ける。

2012年10月15日月曜日

あきらめないこと

今日も色々と打ち合わせがある。
ここでも書くべきことはたくさんあるのだけど、
今日は何よりも優先してこのテーマで書く。

良い意志を持ってここに来てくれる人、
真っすぐに何かを求めてこのささやかな場までたどりついた人。
純粋な志を持った人達と出会うことが多い。

そんな将来有望な人達が、途中で挫折したり失望したりすることがないように、
出来ることなら応援していきたい。

人はどこまでも強くなる可能性を秘めているけれど、
脆く弱い存在でもある。
1人の人間の可能性は計り知れないが、
1人の人間では乗り切れない場面がたくさんある。
手を取り合って協力していくことが必要だ。
せっかく良い意志を持って歩み始めた人が、志なかばで諦めてしまわないように。
孤独を感じていまわないように。

良い意志はどこかで繋がっている事を忘れないで欲しい。
いつかはつうじることを忘れないで欲しい。
人に左右されず、古い習慣に足を引っ張られず、
自信を持って突き進んでいくこと。
批判や非難や無理解や、人の噂や誤解に、気をとらわれないこと。

そして、正しいことをおこなおうという人達に必要なサポートをしていこう。

少なくともその意志が強固なものになるまでは、
強い協力者や理解者が必要だ。

そういう人達を応援する気持ちを忘れてはならない。

一方で真剣に作り上げて来た場を、覗き半分で見に来る人達もいる。
悪い気持ちが場を汚すので、入れないことも多いが、
分かった上で見せる時もある。
そんな気持ちで見て真似しても、何も出来ないことはめにみえている。
外から情報を集めて考えだけ真似しようとする人達もいる。
こういう人達は結局のところ、やってみるしかないのだと思う。
やってみれば、分かるだろう。長く続けてみれば分かるだろう。
何かやっているように見せかけようとしても、いつかは分かる。
人はそんなに愚かではない。例え騙せたとしても、自分が楽しくはなれないだろう。
だから、こんな人達はほっておいていい。
言うまでもないことだが、現場は真似出来ない。
嘘だと思ったら試してみればいい。
それから、こんな人達に騙されることがないようにご注意いただきたい。

人のこころを相手にするのだから、責任はしっかり持つことだ。
間違ったものが普及することは人の魂を傷つける。

前にも書いたが、本当に真摯に学びたいと思う人には、
全部教えていいと思っている。

あるとき、こんなことがあった。
ワークショップの時に知り合った保護者の方と話していると、
子供が小さな頃はとても良い絵を描いたのだけど、
学校へ入って絵を教えられてから、まるで描かなくなってしまった、
という。作業所へ入ってからも絵の時間に描くことはなかった。
そんなある日、その作業所へ絵の指導に新しい人が入ったという。
その人がきてから、彼は再び絵を描くようになった。
その人と出会えて本当に良かったというお話だった。
それくらい、人は大切だ。
そして、続きだけどその指導者は僕達のアトリエにずっと前、
訪ねて来た人だった。
絵の指導をする事になったのだけど、
作業所の方針とズレがある、描く人達にとってどうしてあげるのが適切なのか、
というような相談を受けた。
やさしくとても良い人に見えたが、自信がなさそうだった。
アトリエを見せて、作家たちが活き活きと制作する姿から感じとってもらった。
色々とお話もした。

もし、あのとき彼の見学を断っていたら、と考える。
良い人間がいても、その人を応援する人がいなければ次に繋がらない。
種があっても、誰かが水をあげなければ実らない。
私達の社会はみんなで協力して水をあげることをしていない。
そとにいる子供達をたくさんの大人の目で育てるという、
当り前のことをしていない。
長い目で見ると、将来そのつけが回ってくる。
今すぐに役にたたないことでも、10年、20年後、
何かになることはいっぱいあるはずだ。

良い志を持った人達は決して諦めてはならない。
今、自分のしていることが理解されなくても、いつか伝わるはずだ。
時間はかかるし、時間はかけるべきだ。
続けること。ブレないこと。

あきらめないでほしい。
仲間はたくさんいる。そしてこれからも増え続けるだろう。

2012年10月14日日曜日

悠太のように

またしても鼻炎で鼻がムズムズする。

あんまり子育日記のようにすべきじゃないということと、
家族の報告みたいにならないように、しばらく悠太のことを書かないでいた。
でも、その間にも彼は毎日成長し変化している。
それ以上に親として自分が変わって行く部分の方が大きい。

ずっとずっと、「場」から学び、自分を変えて来た。
今は本当に悠太を通して学ぶことが多い。

こんなに可愛いものかと驚く。

今朝、アトリエに来る前に悠太が早起きしていたので、
布団の方へ行って、悠太の顔に近付くとニッコリ笑って、
両手を大きく開いて僕の顔を包み込んだ。
2人でごろごろ寝ていると、悠太が僕の顔を舐めたり撫でたりしてくる。
休みの日だと本当にすぐに時間が経ってしまう。
こうしている悠太の存在は凄いと思う。

もちろん、親として自分の子供が可愛いというのもあるけど、
それ以上に人間として、これが理想だと思う。
これは実は僕のたどりついた答えでもある。
つまり人間としてここに全部あると。
全身で抱きしめるだけで人を癒し救うことが出来る。
そんな存在は赤ちゃん以外になかなかいない。
もし、大人でこれができたら。
自分が追求して来たことのテーマでもあるのでつい、考えてしまう。
何回か書いているが、僕は足し算より引き算で考える。
教育はゼロの状態の人間に色んなものを+して行くことで、
成長していくと考えるが、僕は逆だと思っている。
今、悠太達の持っているものが一番大切なもので、
そこから色々プラスされて本来の力を失っていく。

制作の場でも同じだ。
僕達は教えないし、プラスしていこうとはしない。
むしろ、色々入って来てしまっているものを取り払う。
本来の力を邪魔しているものをとっていけば、その人の本当の姿に出会う。

制作において求められるのは、裸になることだ。
そうすると作家たちは見違えるような力を発揮する。
そこから、果てしない世界が見えてくるのだが、
彼らに本当の力を発揮してもらうには、いつも言うように、
スタッフに相応の現場力が必要だ。
これは小手先のテクニックではない。
極端に言うと目線を会わせた瞬間に、座った瞬間に勝負は決まっている。
言葉でどうこうしようと思っても遅い。
だから一瞬の為に僕たちは存在の力を磨いていく。
ある意味で絶えず勝負に備えている。

僕はたくさんの場に入って来たし、自分でもたくさんの場を創って来た。
たくさんの人間に会って来た。
現場での存在力を備えた人はまれだ。
さっきも書いたが足し算なら、いろいろ着飾れば地位とか権威とかで、
あたかも何者かであるように見せかけられるかも知れない。
でも、場ではその人の裸の存在に力がなければ、何も動かない。
場に入った瞬間から、何も持たないその人そのもので勝負しなければならない。

不思議なもので立っているだけで、存在の力の有る無しが分かる。
漫画のように「むむ、できる」とか、そんな世界だ。
だから騙せない誤摩化せない。
自分にはまだまだ他の部分があるんだと言っても無駄で、
そこに立っているその人が、その人の全てだ。

残念ながら、「むむ、できる」、みたいな人とはほとんど会わない。

悠太の実力に遠くおよばないということだ。

本当の僕を知っている人は、佐久間なんかどうしようもないと分かっているけど、
学生や若い人は僕を理想化していることもある。
場において僕が教えられたことは、いつでも全部あげるけど、
その先に行って欲しい。佐久間なんていらないというくらいのところまでは。
「佐久間さんには人間力があるから」と言ってもらったことがある。
これは滅相もない、とんでもないことだ。
当り前だが謙遜ではない。
僕をきっかけとして場から学び、もっと高い人間と出会って欲しい。
本当に人間力のある人に数人だが会った事がある。

そういう人達はただ何もしないでいるだけで、
人に良い影響をあたえる。場も良く出来る。
以前、お世話になっていた場所でマザーテレサと共に仕事をしてきたという、
男性とお会いした。お会いしたと言うとおこがましい。
見ることが出来た。
ああいう方が人間力があると言える存在だ。

もう1人はチベット人のお坊さんだったが、講演を聞かせていただいた。
人間はこんなにやさしくなれるのだと、感動した。

2人とも、キリスト教や仏教という宗教的な背景がある訳で、
宗教を持たない僕達が理想と出来るのかどうかは分からない。
でも、彼らが存在することで与える影響は大きい。
こんな人達には一生かけても足下にも及ばないだろうが、
日々、少しでも努力していくことは必要だ。

未だにこんなところにいる。
10年後にはもう少しましになりたいものだ。

2012年10月13日土曜日

先週のこと

朝晩は風も冷たく、肌寒くなって来た。
ここから体調をくずしやすいシーズンになる。
年末に向けて仕事と引っ越しの準備がいっぱい。

一年を通して制作の場を見ていると、季節と人の意識の変化はかさなっている。
秋、冬はやっぱり意識は冴える。空気が乾いてくると明晰な意識になる。
反対に湿った空気の中では、もう少し穏やかで場全体が渾然一体となっている。
一枚の紙を前にこころを開いていくとき、そこに様々な意識の層が現れる。
どの状態が良いということではなく、それぞれに相応しいアプローチがある。

環境とこころを活かしきること、それにつきる。

先週のプレクラスはいっぱいお客さんが来て、賑やかに過ごした。
いつも様々なかたちで応援してくれている、トキちゃんはパンを持って来てくれた。
みんな、おいしい、おいしいと言ってたくさん食べた。
ほんとに美味しいパンなので、アトリエでも紹介のチラシを置いています。

クリちゃんも久しぶりだった。どんどん成長しているフクちゃんとも会えて、
みんなは一日、楽しく笑いがたえなかった。
この場で少しでも時間を過ごした人達は、
彼らにとって仲間であり家族のような存在だ。

最近のアトリエでは稲垣君が熱心に通っている。
赤嶺さんとその友達モーリー(もりもとさん?)も来てくれた。

いつも書いていることだけれど、繋がりというものが一番大事だ。
場とはつながる場所だといえる。

辛いこと、苦しいこと、悲しいことはたくさんある。
生きているかぎりは。
どんな時も繋がれる人や場所があることは大切だ。
誰も力になれないことはある。でも、つながっていることは出来る。

つながることで、少しだけ何かが変わる。
何かが動き出す。そんなことをずっと経験して来た。

繋がる為にすべき事がある。
感じることだ。繋がりを感じること、場を感じること。
いつでもそこにある最良のものを感じること。

感じる為に今ここにいる。

2012年10月7日日曜日

雨続きの毎日

雨が降っている。
傘をさしながら道の途中に落ちている枯れ葉を見る。
枯れて、赤や黄色や茶色の混ざった葉っぱが雨に濡れて光る。
色と色の間にあるかすれた線や色と色が混ざり合った間を見ていると、
何度も何度も見て来た、アトリエの作家たちの作品を思い出した。
昨日も見ていたし、今日も見る。この感覚を。
雨は静かで人通りもなく、全ての音がとてもよく聴こえる。
鳥の声、虫の声。自然の音には「間」がある。そして空間の奥行きがある。
人がつくり出した音楽には何故かそれがない。
それでも私達は人が創るものを欲する。簡単に良い悪いはいえない。
風が吹き、木の枝が揺れ、葉が擦れる音がする。
ここにも音を発しているものより、静けさの方が強調される。
音の奥に空間があり、「間」があるからだ。
てる君の絵が浮かぶ。彼の描くものにも奥行きと「間」があって、
それは色や線以上に多くを伝えてくる。

静かなので音がよく響く。
歩いている自分の足音が聞こえる。
ハルコが「地球の音するね」と言ったことが思い出され、
まさしく地球の音を感じる。
僕達はこうやってつながっている。
みんなの見ているものを僕もこうして見ている。

突然だけど、私達が生きているこの世界や、日々見ている景色は、
一枚の絵と同じだと思う。
ここで言う絵というのは、ダウン症の人たちの作品をさしているのだけど。

ずっと絵を見ていると、世界中が絵の様に感じられたり、
外を歩いてみても見えるもの全てに、あの作品の息づかいや、
色や光や溢れ出る波が見える。
それはいっぱい作品に浸ったからではないような気がする。
つまりはもともと僕達の生きている世界はこんな風で、
それが感じられなくなることが多いのだけど、
ダウン症の人たちはいつでもそこに居て、しかもそれを絵に描くことが出来る。
だから、あの絵を成立させている秩序と、
自然界や宇宙にある原理とは同じものだ。

東北で紅葉を見た事がある。
それまで僕は枯れたものは好きではなかった。
紅葉より、新緑の生命力や単純さが好きだった。
でも、東北で本物の紅葉を見たとき、考えが変わった。
枯れることによって始めて見えてくる生命の本質があった。
あの色の多様性を見続けて、いかに生命は複雑なものが響き合うかに驚かされた。
そして、その中のどんな小さな些細な部分をも見逃してはならないのだ、
と強く感じた。多様なものが複雑に絡み合う。
音楽だしリズムだと思う。
絵もリズムだし、生きていることも生活もリズムだ。
アトリエで単純な動作をするとき、紙を貼る、絵具を溶くとき、
1人の時より、場でみんなといる時、そこにリズムがある。
良いリズムで行かなければ良い場にならない。
多様さが豊富であるほど、響き合う。
教育では一人一人の個性を尊重するというが、
本当の意味で個性とは何か分かっているのだろうか。
個性とはその人のリズムだ。
個性を尊重するには相手のリズムを感じとる必要がある。

響き合う場を創っていきたい。
ダウンズタウンはそんな場にならなければならない。

2012年10月6日土曜日

大切なものに触れる時の感覚

今日も教室以外にいくつか仕事が入っている。
なかなか書く時間がない。
でも読んで下さっている方が結構いるようなので、少しでも書いていきたい。

これからは、作品を見てみたい人は三重に行ってもらう、とうい流れにしたい。
東京ではきっかけをつくる。
もっと深く知りたい人、触れてみたい人は三重に行っていただく。
そんな風に出来る様に環境を整えたい。
伊勢志摩の自然環境の中でダウン症の人たちの調和の文化を体験していただきたい。

僕自身、自分の仕事はきっかけをつくることだと思っている。
幸い、たくさんの人達がこの場で良い出会いを得ている。

ダウン症の人たちとつながる事で、人間の本質的な生き方を考え直す。
その入口を創っている。

ここで出会う人はみんな何かしらを持ち帰って下さる。
いつか、それが広がって行く。

場に入る人は、みんな学んでいる。
作家たちも、僕達も。

本当の生き方が見えてくるはず。
ここではいつもいつも当り前なことが行われている。
だから難しく考え過ぎない事だ。

最近はアトリエに長期の撮影が入っている。
皆さんのご協力があってすすんでいる。
最終的にどんな作品になるのか、楽しみだ。
僕自身はその辺の事は何も考えない。
場を創ることがこちらの仕事なのだから。
場から必ず何かが伝わる。
監督は良い方だし、いつも謙虚に配慮して下さる。
見学の方であれ、取材の方であれ、場に配慮さえしてもらえれば、
後はお任せする。
僕達は精一杯良い場にするだけだ。他には何も出来ない。
そこから、何かを得て下さる方がいれば良い。
僕は映像の力というものをそれほど信用していない。
一番大切なものは映らないと思っているからだ。
それを覆していただけると有難い。

本当の生き方と書いた。
僕達は学んでいるとも。
ここではいつも当り前な事を大切にして来た。
今の世の中では何が当り前な事なのかすら見えなくなっている。
本当にこころから笑ったり、楽しんだり、真剣になったり、
人とつながったり、やさしい気持ちになったり。
そんな当り前な事を日々体験しているだろうか。

探しまわらなくても美しいものなんて、
目の前にいっぱいあるのに。
それを見つけるのには感性を磨く必要がある。

ダウン症の人たちの様に敏感に生きてみよう。
例えば、誰だって大切にしているもの、宝物があるはずだ。
服でも車でも何でも良いけど。
愛着のあるものを使っているときの自分の振舞を観察してみて欲しい。
職人が道具を扱う手つきと同じはずだ。
大切なものに触れるとき、消耗させない様に、壊さない様に、
かつそのものが一番輝く様に扱うはずだ。
つまり、大切なものを扱うとき、人はそのものに適した動作が自然と出来る。
技術ではない。
どのように振舞うべきか、どのように動くべきか。
テクニックにはしらないことだ。
ただ、大切に思う気持ちをやしなうことだ。

最も適切な無駄のない、理にかなった動作を行う為には、
細心の注意を払って大切なものに触れる気持ちになれば良い。
これをものだけでなく日常の中に流れている様々な状況に向ければ良い。

注意を払えば色んなことに気がつくはずだ。
僕達はこうやって制作の場を創り、こころとこころで響き合っている。
お互いを大切に思う。場を大切に思う。
そうすることで感性は磨かれていく。

見聞きすることは大切な事だけれど、
本当に大事なのは実際に見ること聞くことよりも、
見ようとするこころ、聞こうとするこころの方だ。
見るだけでは、見えないものは見えない。
聞くだけでは聞こえないものは聞こえない。
見ようとする感性、聞こうとする注意力が、
見えるものの奥を見せる。聞こえないはずのものが聞こえてくる。

今この瞬間を見逃してはならない。

2012年9月26日水曜日

調和の文化

今日は晴れて光がとてもきれいだ。
アトリエの近くの小学校は運動会の練習を続けている。
賑やかで静かで不思議な雰囲気。
すっかり秋だ。空気も乾いて来たし、空も高くなった。

このブログもなるべく更新していこうと思うが、
またしばらく書けないかも知れないので今日は再びメインのテーマにしてみた。

アトリエの活動をすすめる中で様々な視点と向き合い、付き合って来た。
複雑に入り組んでいて、本来の目的が見えにくくなることもあった。
対象となるテーマには本当にたくさんの問題がつきまとうから。

私達の目的とするものや、視点はきわめて明晰でシンプルなものだ。
時にこのシンプルさが人々には分かりづらかったりもする。
なぜならみんな複雑な問題に囲まれているからだ。

福祉の問題。社会での権利の問題。教育の問題。
芸術の問題。経済の問題。価値観の問題。
その都度、様々な立場の方と意見を交わす。

僕達は一つの文化を問題にしている。
本当はそれにつきる。
権利や平等を主張したい訳でもなければ、
今の社会の経済原理に彼らを適合させたい訳でもない。
教育の問題も芸術の問題も、彼らの世界が知られることで、
何かしら新たな可能性を提示出来るはずだとは考えているが、
それだけがメインだとは思わない。
それらはあくまで結果ついてくるものにすぎない。

私達はただ一つのことに目を向けてもらえればと願う。
それはここに一つの文化があり、そのことに誰も気がつかずにいるということだ。

それは障害うんぬんの問題とはベクトルが異なる。
ただたんに彼らにはすぐれた才能があると主張したい訳でもない。

一つの文化があり、世界があるという事実。
そして、私達は未だその事実を知らず、ある意味で無視し続けている。

現代社会が作って来た文化は頭の文化と言っても良いし、
言語の文化といっても良いかも知れない。
ダウン症の人たちは、そこに適合しなければならない存在ではなく、
もう一つの別の文化を持って生きている人達だといえる。
誰しもが少しづつ気がついて来ていることだが、
今ある文化はいきづまっている。至るところに限界が見えている。
他の原理を排除し続けて作って来たものが、
自らをも排除せざるを得なくなって来ている。

異なった価値があり得るということ。
もっと平和な文化を創ることが出来ると言うことを私達は感じ始めている。

ダウン症の人達に学ぶことが出来るはずだ。
彼らの文化は調和の文化と呼ぶことが出来るだろう。
頭や言語中心の文化とは異なり、情緒と感覚を中心とした平和的な文化だ。
ここに私達が真に求めている、安らぎと人と人の繋がりがある。

虚心になって見てみたいと思えば、いつでもこの文化は語りかけてくれる。
ダウン症の人たちは私達にとって大切な事を教えてくれる。
思い出させてくれる存在だ。
そんな世界を否定したり、見逃したりしてはいけない。
障害の問題や、異なった領域のこととして片付けてはいけない。

出生前診断でいったい何が分かるのだろうか。
産む、産まないを決められるほど、私達は知っているのだろうか。

意味なく存在するのもなど何もない。
でも、意味は読み解かなければならない。
意味を読み解けないからと言って無意味としたり、
ないことにしてはいけない。
決定的に大切な何かを失ってしまうことがあり得る。

今の時点で僕のような人間に言えることは、
この文化には途轍もない価値があり、私達はまだまだ学ばなければならない、
ということだ。
この文化に学ぶことは、この世界が生き残っていくための、
必須条件であるとさえ思える。

みんながみんな同じようには思わないのは当然だ。
でも、存在しているものをちょっとでも知ってみることは、
誰にとっても必要なことではないだろうか。

2012年9月25日火曜日

自分を離れる癖

雨の日が続いている。
台風が来ているのでよし子の喘息もあり、ゆうたもぐずっている。

よし子とゆうたが今年いっぱいで三重へ移動するので、
荷物の整理と掃除をすすめなければいけないが、今は埃が出る作業が出来ない。

ところで、職業病というものがあるが、
そのことを生業として続けていると、心的、身体的に偏った癖がついてくる。
どこかに過剰に敏感であったり、逆にどこかが機能しづらくなっていたり。

僕の場合だと、他に似たようなことをしている人がいないので、
なかなか理解してもらうことが出来ないだろう。
意外な部分が偏ってくる。
ただ、人それぞれ生活しているので、どこかで調整するすべも身に付いている。

僕は10代の頃から、人の心がある密度で凝縮された場というものを、
自分の働く舞台としてきた。
その場には人のこころ、気持ち、感情、闇や光や、本能や野生といったものが、
猛烈なスピードで行き来する。
そういった場には失敗が許されない。
失敗すると人も自分も傷を負い、下手をすると命にも関わる。
それは身体と精神両面での話だ。
自然とかなりの集中度というか緊張感が持続していく。
かといって力を抜ききる技術がなければ、どうにも動かない。
こういった場にいながらも、場を自覚する人としない人がいる。
更には場が見えるという人がわずかにいる。
僕の場合は早い時期から場が見えた。
ある部分は手に取るほど明晰に、なんの努力も必要なく認識出来た。
でも、それはつらいことでもあった。

場の中で自覚を持つ前に失敗し、身動きとれなくなる人、
逃げていく人、中にはこころか身体に怪我を負う人。
色んな人を見て来たけれど、場で失敗する時、最後のところでは、
自分が自分を追い込んでいる。いわば自滅といった感じだ。
自分の心と身体の動きが見えなくなるから失敗する。
多くの場合、それは自分を捉えられない、
自分を客観視出来ないことに原因がある。
つまりは自分にとらわれてしまうことがすべての原因となる。
そこで自分を即座に離れるということが一番大事だ。
特に感情からある一定の距離を置くことだ。
感情は癖になっているから、見えにくいし、捉えにくい。
スピード感が必要だ。即、見抜いて距離をとる。
感情から離れる。自分から離れる。
場においては自分や感情に無意識であってはならない。
それらは適切な場所に置くことが大切だ。
そのためには捨てるのではなく、一旦距離をおく。
これがしっかり出来ると場において自滅することは無くなる。

何となくでも伝わるかな。

僕の場合はこの場における、自分を離れるということが癖になっている。
いつの間にか普段の生活にもそんな癖が出ている事がある。
勿論、普段は個人としてのわがままな部分も出しているのだけど、
大切な時にふと、自分や感情に距離をおいてしまう場面がある。

それで誤解を受けることもあったし、最近は見直さなきゃなと思っている。
例えば、人間的な感情が感じられないとか、嬉しいとか悲しいということを、
素直に表さないことが、周りを不安にさせたり、
共感を感じられなかったりさせることもあった。

僕自身は大切に思うことはあえて言わなかったりもしていたし。

一方で場を離れた普段の自分は子供のままで、
ぜんぜん成長していないのではないかと思えることもある。

これからは人間佐久間の部分を素直に出していければ、と考えるこの頃です。

2012年9月23日日曜日

かさたりつえたり

あんまり時間はないけど、今は書ける時にはなるべく書きたい。
今日は雨が強い。

ダウンズタウンも積極的に協力して下さろうとする方もいて良い動きが生まれそうだ。

昨日のアトリエでけい君が「さくまさーん。おとうさんーん」と言いながら爆笑。
何度もゆうたの顔と僕の顔を見て笑う。
僕が父親なんて本当に不思議で可笑しいようだ。
みんな、本当に分かってるなあと思う。

てる君もよく僕がみんなとふざけているとき、
「さくまさん、お父さんでしょ」と制してくれる。

みんな、僕のことを大丈夫かなあ、と感じているようだ。
そういうところに、大人の意識を感じるし、やさしさもあるし、
長い時間、彼らと時を重ねて来て良かったと思う。

制作の場にしても、いつの間にか揺るがないものが出来上がっている。

最近、お客さんが入ったり、カメラが入ったりしても、
以前よりは気を遣わなくなった。

スタッフや手伝ってくれる方にしても、
僕はしっかり育てなければ、という意識が強かったが、
最近ではちょっとやそっとのことでは場は壊れない。
作家たち自身が自分のリズムを知っていて、来る人に教えてくれる。
勿論、まだ守らなければならない意識は必要ではあるけれど。

場がここまで熟してくるのには10年かかった。
続けることはやっぱり大切だ。

分からないから、知らないから出来ないとか、怖いと言う人がいる。
でも、分からないとか、知らないという自覚は大切だ。
分かっているとか、知っているという錯覚が油断を生む。
僕も分からないし知らない。

分からないもの、未知のものに適切に触れられるかどうか。
考えて把握してから、分析してから何かしようとすると、実はもう遅い。
分からない時、分からないまま、何か出来なければならない。
自分のものにしろ、とか自分のもにしたということを言うが、
僕は自分のものにしない方が良いと思う。
自分のものにすると弱くなる。
自分のものにしなくても、技や状況は必要な時にやって来てくれる。

分からないと言うことも、自分の範囲にすべてをあてはめようとするからだ。
意味不明に思えることも、本当は意味を持っている。

この前ハルコが「傘たり、つえたりだね」と言った。
これは「雨が降ったり止んだりだね」という意味。
彼女は傘を持って来て、雨が降らなかったときは、杖代わりと言って、
傘を杖のように使う。たりはだったりの略。
それで、雨が降ったり止んだりだから、傘になったり杖になったりする、
と言っているのだけど、これだって前後を知らないで、
最初の言葉だけ聞くと何が何だか分からない。
これは、単純に言葉のことだし、彼女だって「雨が降ったり止んだりするね」、
くらいのことは言えるし、普段は言うのだけど、
たまたま僕だから分かると思っていっただけの話。

でも、これが様々な行動となると、世間の常識では分からないことに対して、
意味不明ととる人は多いし、自閉症の人が怖がられたりもする。
忘れてはならないのは、かさたりつえたりと一緒で、
どんな行為にも何らかの意味があるということだ。

僕の友達の自閉症の人はある時、1人で手をグーにして、少し上から降ろす瞬間に、
人差し指をさっと出す動作を、何度も何度もくり返していた。
時々、真剣な表情になったり、ニコッと笑ったりする。
「なにしてるの」とわざと常識的な質問をすると、
我に返ってこちらを振り向き、「やめてよ。集中してるんだから」と。
これなんか、僕には凄い話だ。
分かる分からないではなく、あの作業が集中を要するということが、
面白くも深くもあって、時々思い出す。
あの世界はしかも多分、彼にしか分からない。
でも、こういうことから僕達はかいま見ることが出来る。
自分達の意味にだけとらわれていると見えない何かがあるということ。
そういう世界に意味がないと言うなら、
僕達の言う意味にもはたして、どれほどの意味があるだろうか。

2012年9月22日土曜日

ダウンズタウンの話

急に涼しくなった。
今日も教室前なのであまり時間はない。
上手く書けるか分からないが、ダウンズタウンの話しの続きをしよう。
三重での話し合いの場ももたれている。
東京のアトリエがあるので、僕はなかなか顔を出せずにいる。
ビジョンとイメージを共有していくことはとても大事だ。

応援してくれる人も、少しづつ増えて来ている。
色んなイメージや考えを持つ人がいる。
どの考えも間違ったものはないと思っている。
みんなの夢と想いが集まって形となっていく。

助け合うことさえ出来ていけば問題はないだろう。
助け合うこと、協力し合うことさえ続けていけば。

本当の意味では、よし子や僕のイメージは、特に身近な人達に
そんなに伝わっていないような気がする。
でも、大きなところではかさなってくるはずだ。
言葉でいくら説明しても伝わるものではないだろう。
それより、何か少しでも環境が良くなっていくことを通して、
具体的に出来上がっていく場の雰囲気の中で、
みんなに伝わっていくのではないかと思う。

具体的に言うのなら、まずは掃除から始まる。
掃除はものだけでなく、意味や価値もどの部分をどこに置くのか、
整理し直すことでもある。
ギャラリーでの展示を考えて、美しい自然環境の中で静かに作品を見ていただく。
より深く作品と出会うことが出来るだろう。
まずは作品と出会うために、三重の環境まで足を運んでもらえるような、
環境と情報発信の仕組みを創っていく。
ゆっくり味わってもらえるようにカフェスペースを創りたい。
少しづつ人の流れと動きが生まれて来るだろう。
それからゲストハウス、という順番になっていくだろう。

遠回りに見えて、これが一番浸透していく方法だと思う。

ダウンズタウンはダウン症の人たちの文化を発信するという、
ほとんど唯一の場所だ。
だから障害うんぬんの問題とは関わりを持たない。
でも、あえて言わなければならない事は、
障害を持っている人達のための環境を作ろうとするほとんどの組織が、
良いものにならない現状がある。
この仕組みをしっかり分析して、違うものを創る必要がある。
例え社会的には成功していても、良い環境になかなかなっていかないのは何故か。
一つは関わる人達の勉強不足だ。
良い場を創るために、私達は日々、センスを磨く必要がある。
ただ、勉強の必要もセンスを磨く必要も感じている人は少ない。
そこがポイントだが、こういった環境の場合、
困っている人、必要としている人が需要していて、身内や業界(のようなもの)
だけで成り立ってしまっているからだ。

保護者の方達が組織している場合も多い。
そうすると、こういうものがどうしても必要というものにならざるをえない。
でも、大切なのは自分達が必要なものという視点ではなく、
他の人達が必要とするものという視点だ。

僕は外の人達、まったく関係を持っていない人達が関心をよせる場、
と言うことを何度も強調して来た。
何故なら、必要とされない場は結局のところ、いつかは無くなってしまう。

目先のこと、自分達だけのことを考えて行くと、
視点が内側に向かって、ちょっとづつ関係のある人だけにしか通用しないものになる。
外の人達は触れてみたとしても、何となく入りづらい雰囲気になっている。

ダウンズタウンは福祉施設ではない。障害を持つ人を養護するだけの場でもない。

彼らの文化を知ろうとする人達。関心をよせる人達。
作品に触れてみたいと思う人達。
積極的にこの文化を学びたいと思う人達。必要とする人達。
そんな人達に対して開かれた場であるべきだ。

そして、東京でこうしてやってきて、
そんな人達がたくさんいると言うことを知っている。
障害を持っている人を助けようではなく、
ダウン症の人達や作品に惹かれ、面白い、もっと知りたい、と思う人が、
ここにたくさん来ているではないか。

外から来た人が、何か居心地良くないなと思ってしまってはおしまいだ。

人に必要とされる場であること。
わざわざ行ってみたいと思うだけの魅力があること。
来た人をがっかりさせないこと
そのためには、みんなが本当のところで何を求めているのかを知らなければならない。

もう一度だけ言うが、こういうプロセスは遠回りに見えるが、
これが本当の部分では、最も彼らのためにもご家族のためにもなる方法だと思っている。

ゲストハウス以降の話しだが、人が集まる場が出来てくれば、
その近くに住みたい、生活したいと思ってくれる人も出てくるはずだ。
周りに人が移り住んできて、より村のようになっていく。
そして、それぞれが自分の出来ることで協力する。

一つ何かが整うと、次に必要な要素が見えてくる。
そうやって丁寧に積み上げていく以外、近道はないと思う。

ダウンズタウンが社会にとっても必要とされるものなら
(僕達はそう思っているが)、それは実現し、無くなることはないだろう。

一人一人が自分の出来ることを通して協力していけば、
可能性はどんどん広がって行く。
誰かだけの力では難しくても、みんなが協力すれば変わって行く。
そして、それが社会にまで浸透した時に始めて、
普遍的な場としてのダウンズタウンとなる。

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アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。