2012年1月30日月曜日

勝負

昨日も取材を受けた。
今日は、ボランティアで何かお手伝いしたいと言ってくれている方と会う。
名刺を数えると、今年に入ってからもう40人近くの新しい人と会っている。
これから繋がりが出来て来る方が、この中にいるのだろう。

さて、前回の続き。
私達の持つ思い込みについて書いてみた。
何かを専門にしていると、普通の人では分からない様なことが分かったりする。
そのかわり、普通の感覚がいつの間にか分からなくなる。
プロゆえの思い込み、専門家ゆえのとらわれと言ったものがある。
人間にとっての基本的な条件は、どこで何をしていてもかわらないはずだ。
本当は素人には分からないという様なことはないと思う。
ましてや、教育や子育を勉強して何になるのだろう。
福祉を専門に勉強して来た人達が、例えば障害を持った人とこころをが一つになる、
という経験がいかに難しいか、
僕は近くでたくさんの例を見て来た。
勉強や訓練や知識がかえって邪魔になる。
相手のこころとの距離が生まれてしまう。
知的障害と言われる人達を、発達心理や治療の観点から、
あるいは福祉的にどれだけ勉強しても、彼ら本人のこころを知る事は出来ない。
僕にははっきりとそう言うことが出来る。
では、僕には彼らのこころが分かるのか。
あまりにもはっきり言う人がいないので、あえて言わせていただくと、
多分、専門家と呼ばれている人達よりははるかに分かるし、
彼ら自身も僕を分かり、お互いに繋がることが出来る。
僕自身、人生のほとんどの時間を彼らと共にして来たのだし、
そろそろ、こういう事ははっきり言っていこうと思う。

それはさておき、人は訓練して自分の限界を作っていく。
社会の仕組み、教育の仕組み自体がそのように出来ている。
いつの間にか、出来ない事だらけ、限界だらけになっている。
そして、分からないから専門家に聞いてみようと。
でも、限界をあえて作ってしまっているシステムと同じもので、
専門家も作られている。

気がつかないうちに、みんな自分の限界の中で生き、
そこからしか、ものを見ようとしなくなっている。
以前に書いた、あるのに無いことにされている世界というのは、
こうして出来て来る。

僕自身も30代前半の若僧にすぎないが、
10代、20代の人達と接していても、若さを感じない。
僕の方が若いと思ってしまう。
彼らは若くして歳をとってしまっている。
歳をとるとは、知ってしまうこと、あきらめてしまうこと。
一言で言えば世界を固定してしまうことだ。

世界を固定しなければ、精神はどこまでも若い。
若いとは固まっていないことだ。
柔軟さ、やわらかさがあるということ。
動きに順応していくことだ。

はっきり言って、私達の生きているこの世界は、
私達の思っている様なものではない。
私達の見ているものではない。
何故なら、世界は絶えず動いているからだ。

だから、何に関してもこうだと決めつけてはいけない。
狭い世界に閉じこもってはいけない。

限界は絶えず自分で作り出してしまう。
ある意味でそれはしかたがないことだ。
だから、絶えず自分で創り出してしまったものを超えていこうとする事だ。

逆境に強い人でも、ツキとか幸運に弱い人がいる。
つまりツイている時の方が、逆境にある時より精神力が試される。
こういう事は言う人がほとんどいない。
でも、僕はこんな場面によく直面する。

その反応は無意識におきている。
「こんなに上手くいくはずがない」と思ってしまう。
あるいは「これだけいいと、次は悪くなるだろう」とか。
そうやって自分の限界に戻ってしまう。
同じ世界しか見えなくなる。
ツイている時、流れが良い時、あり得ないほど上手くいく時がある。
自分が自分を超えて、全く未知の領域に直面する。
そこの手前で人は無意識の恐怖を感じてしまう。
その流れに乗るためには日頃から、世界を固定しないこと。
絶えず超える覚悟と勇気を持つこと。
たぶん、何かを極めた人が行き着く場所。
極みとか至芸と呼ばれる場所は、それに近い。
ギリギリまでは訓練でそこまでいくのだが、
そこから一歩超えなければならない場所、
もう一段深い、ある意味で次元が違うところがあると思う。
そこがただの名人とか一流という、上手さ技の頂点にいる人と、
そのさらに上の「極み」と言うものの違いで、
たぶん、私達から想像出来る一歩先があると思う。

決めつけて、人間はここまで、
人生とは世界とはこういうものだと思って生きていると、
一生自分の枠の中に留まり続ける事になる。

さっきの良すぎる流れだけど、
実は僕達のアトリエでは、そんなことは良くある。
もし、作家がその次元に行ったら、スタッフはその瞬間を逃してはいけない。
上手く行き過ぎても、まだ奥あるだろうというくらいの度胸はいる。
どこまででもいけるところまでいく、という勢いが欲しい。

逆境に強いプラス、ツイている時に強いという部分が必要だ。
どちらにしても、迷いや不安が限界を作ってしまう。
どこに行くのか分からないから、迷ってしまう。
何度も書いたが、分からないことを楽しめるようになろう。
操作出来ないもの、予想出来ないものに、適切に触れられるようになろう。

アトリエで制作を見ているダウン症の人たちは、
迷わない、悩まない。色を置いたら、次の色や線を即座に見つける。
消さない。描き直さない。失敗もない。
これが「流れ」だ。流れは途切れさせてはならない。
例えば偶然、絵の具がこぼれる。しまったと思うか、わーキレイと感じるか。
これは人生と一緒だ。
何かがおきる、次々事態はかわっていく。
その偶然をどう受け止め、配置していくか。調和して行くか。
一度、引いてしまった線は、消すことができない。
やり直すことは出来ない。
だから、その横に何を置くか、次にどうするかだ。

そう言う意味で、彼らの制作へ向かう姿勢から、私達が学ぶことは多い。
瞬間、瞬間が勝負だ。
超えていくこと。限界を超えて、あたらしい場所に行くこと。

逃げることも、失敗したからやり直すと言うことも出来ない。
だから勝負しよう。
気持ちよく、人が幸せになるための勝負だ。

2012年1月29日日曜日

本当にそうなの?

今日も寒いですね。

土曜日のクラスを見ていても、どんな季節の中でも高い水準の感性を、
維持し、働かせているみんなに改めて驚く。
素晴らしい人達だ。

ところで、思い込みと言うものがある。あるいは固定概念。
出版社の方、編集をされている方達ともお付き合いがあるが、
大きな出版社ほどこういう本が売れる、こういう本が売れないという、
固定概念がある。読者はこうだというイメージができているからだ。
でも、案外そうじゃなかったりする。
だから、名もない小さな出版社が、素人の様な人に書かせた本が、
いきなりベストセラーになったりもする。
勿論、様々なジャンルのプロの判断は無難なものなので、
その枠にとどまっている限りは、ある程度は売れたりもするようになってはいる。
つまり、大当たりはないけど、極端にはずれる事もない。
みんなそういう仕事をするから、なかなか面白いものはできない。
少しづつ読者とずれていく。
普通の人、一般の人はこうだと、思い込んで、ある意味でなめている。
一番分かりやすいのがテレビだろう。
もう、誰だって面白いと思ってはいない。
それなのに同じ様なものを作り続ける。
こういうの作りたいけど、見る人は分からないだろうしとか、
わかりやすく、一般の人は‥‥等と言っているが、
実はすでにそのイメージする一般の人の意識とズレてきている。
なんの世界でもそれは一緒だと思う。

案外、人は無難な事を嫌っている。
意外と分からない事や、あたらしい事を面白いと感じる。
最初はえーっと思っても、あれ、面白いかもと思ったりする。

このブログでも、
ある人が今年は前より穏やかすぎてひと味足りないと言ってくれた。
結構、ここまで書いたら反発されるかなというところも、
正直に書く事を続けて来たが、あんがい、批判よりも、
はっきり言う人がいてスッキリしたという意見の方が多かった。
まあ、僕のまわりの人だけの声しか聞いていないので何とも言えないけど。
それに「敵をつくるな」とか、純粋に僕のことを思って、
心配してくれる方も居るので、それは有難いと思って、今年は書き方も変えている。

話がそれたが、こんなの普通の人は面白いのかなと、思うことでも、
いがいにつうじる事はいっぱいある。
美術雑誌の編集の方と話していた時も、
現代アートのある作品について、なんのために何をしているのか、
本人も自覚していないし、面白くもないものをわざわざ見る必要もないと、
という話になった。わりと僕が思った事を言っていると、
「そう。本当に私もそう思っていたんだけど、ずっと言っていいのかと迷ってて」
と。実はみんな本当はそうなのではないだろうか。
そんなのつまらないし、付き合ってる時間がない、
あるいはもっとこっちの方が面白いと思っていて、
誰も言わないから、なんとなく言ってはいけない事になってしまっている。

プロが作り出すものでも、多くのものは、もうそんなのいらないと、
みんな思っている。

ある人から聞いた話。
どこかの大学で実験された事。
子供はどんな色に反応するのか、調べた人が居るらしい。
結論を言うと、すべての色に同じくらい反応する。
つまり子供らしい、子供が好きな色というのは、
大人がイメージする子供の色に過ぎない。
こういう事は、本当にいっぱいある。
絵本でも親が選ぶので分かりやすい、教育的なものが多い。
絵が綺麗な外国語の絵本がいいなと思っても、
子供には分からないと決めつける人がいる。
本当は子供はそっちの方が好きに決まっている。
それに、分からない、分かりたい、分からないけどイメージが伝わる、
そんな経験ほど子供にとって大切なのものはない。

本題に入る前に前置きで長くなってしまった。
教室の時間が来るので、続きは次回。
この話は、少しでも新しいものの見方を見つけて、
自分の限界を超えていこうという内容の予定です。

2012年1月28日土曜日

あるべき場所

寒いですね。
アトリエも部屋を暖めるのに一時間くらいかかるようになりました。
冷えると身体もこころも動きが固くなります。
今日も内面的にもあたたかい場を心掛けます。

さて、前回は雪のことを少し書いたけど、あくまで東京での話。
ちょっと反応がオーバーだな、と思って。
雪は化け物じゃないし、自然はいつでも予測不能のものとして、
私達の目の前にあり続ける。
でも、日本海側は本当に豪雪になってしまった。
北の雪がどれほど過酷かは、僕自身二十歳まで、北陸や信州にいたので、
身にしみて分かっているつもりだ。
雪で命を落としそうになった人を、ギリギリのところで救助したこともある。
雪は怖い。
でも、必ず春は来る。

ところで、「ものにはあるべき場所がある」「人には居るべき場所がある」
ということを、あまり自覚しないで生きている人が多い。
私達の生活を少しでも豊かにするためには、このことをしっかり自覚した方がいい。

あるべき場所があると言うことは、逆に言うとあってはならない、
あるべきではない場所もあると言うことだ。
物だけではなく、人にも出来事にも、あるべき場所、
ふさわしい、適切な場所というのがある。
それが、適切でない場所にあると、本来持つ力が発揮出来ないどころか、
かえっていろんなことに悪影響を及ぼす。
以前、人間は快、不快でできていると書いた。
快を感じる力がいかに大切かに触れたのだが、
もう一歩踏み込むと、不快を感じることも大切だ。
つまり不快を感じるからこそ、悪い物を避けられる。
だからここでも、あるべきでない場所に敏感でありたい。

この前、イサと話していたら、彼が「アトリエでかかっている音楽がいいから、聴きたいと思って買ってみたら、家で聴くとぜんぜん良くない」
という様なことを言っていた。おっ、それが感じられるようになったなと思った。

そういうことは良くある。
良い音楽だったら、どこで聴いても美しいと思うのは、
実は凄く情報社会の影響を受けている。情報は場所によって変化しない。
私達は知らず知らずの内に、何事も情報として捉えてしまっている。

以前も書いたが、美術館に仏像が展示されても美しくはない。
居るべき場所に居なければ、そのものの力は無くなってしまう。

物事にはふさわしい時期と場所がある。
仕事や日常生活の中でも、そのことはとても大切だ。

ダウン症の人たちの作品についても、
どこに置かれるべきか、どこに行ってはいけないのか、見極めなければならない。
お断りする企画も多いが、決してこちらに悪意は無い。
ただ、時期と場所がそこではないということだ。

この様な微細な違いに鈍感な人も結構いる。
どこにでも持って行って、どこででも何かをすればいいと考える人も多い。
でも、その様な発想はあさはかという以上に危険ですらある。
世の中の悪い物は大体、置かれるべき時期や場所を間違ったためにある。

特に好意で誘っていただいた場合、お仕事でもお断りしなければならないのは、
こちらもきつい。出来ることなら、お受けしたい。
気難しいとか、偉そうとか、お高く止まっているとか、
プライドが高いと勘違いされることもあるが、
少なくとも仕事に関して個人的感情の入る余地はない。
ただ、いっていの敬意を抱けない人と仕事することは危険だ。
アトリエや僕に対しての敬意では勿論無い。
作品やその背景に対する敬意だ。つまりは人間のこころに対しての敬意。

お断りしなければならない事や、
注意事項、条件等、アトリエとして相手に要求する部分は確かに多い。
でも、それはお互いにとって良いものを作る為、良い関係を築くためだ。

だから、ある意味で作品や人や名前を動かさないで、
僕自身の頭と言葉だけ持って行けばいいという、講演や会合のお仕事は、
気を遣わないし楽だ。
何も持たずに話しにいくと、
いつもより穏やかでですね、とかやわらかくなりましたねと言われる。
本当は何も変わっていない。ただ、守る必要がないだけ。

さっきの音楽だけではなく、アトリエにある道具や物は、
すべてここに持ち込んでもいいと判断した物だ。
そうじゃない物はしばらく置いてあって、ここにあるべきじゃないとなって、
違う場所に行く。
そういう感覚はとても大切だ。
言っては悪いが、病院や保育所の美意識の低さは考えものだ。
あのような雑な感覚で、人のこころが育ったり、癒されたりするだろうか。

例えば一流の店や仕事と、そうでないものの違いは、
あるべき場所にあるべき物があると言うことだ。
もう一つ、あってはならない物が無い。違和感のあるものが無いということ。

あることが、ないことより良いと思うのは間違いだ。
仕事でもやってはいけない仕事はあるし、
物でもなくてもいい物は、実は無い方がいいと言うことだ。

人でも、ここにいるより、あっちにいる方がふさわしいとか、
適切な場所と状況がある。
そのものや人の本来の姿を見極めて、
ふさわしい環境に配置する。
あるべきでない場所と感じたら移動する。

ちょっと変な話かも知れないけど、
僕も昔「あなたはもうここに居るべきじゃないよ」と言われた事がある。
その言葉は僕にとって大切なきっかけとなった。
その人は女性だったけど、昔はそんなことを言ってくれる人が居た。

あの○○が東京にとか、名店の味が自宅でとか、
良くあるけど、背景から切り離されたそのものはいったいなんなんだろう。
その場を離れて、そのものがあるとは考えられない。

これも変な話だけど、どこかの島に行くと魔術師がいて、
雨を降らせたり、人に呪いをかけて動けなくさせたりすると言う。
迷信だという人が多いだろうが、そこへいくと本当にそういう事がある。
僕は迷信ではなく本当だと思う。
だけどその魔術師とかいう人が、東京に出て来て同じ事が出来るかと言ったら、
多分出来ない。そこを離れた瞬間に彼の能力は発揮出来ない。

そういうことだと思う。

それはともかく、本来はすべての物事には価値があって、
すべての人間には役割があると思う。
もし、その様に見えないときがあったら、それはふさわしい、
あるべき場所に無いからだと思う。

だからあるべき物はあるべき場所に置かれるべきだ。
ここはちょっと違う、あっちにあった方がいいとか、
この人はあの環境の方が力が出せるとか、
そういう感覚はとても大切だ。

あるべき場所を見つけ、あるべき場所に置こう。
あるべき場所に行こう。

2012年1月25日水曜日

もとをつくる

実は昨日、雪のことを書いたのだが、機械の調子が悪く、
どこかに消えてしまった。
雪くらいで騒いでいるのは馬鹿げていると書いたのだが、
いつの間にか消えてしまって、しばらくすると、みんなが来た。
みんな、雪に滑って危なかったという話をしていたので、
そうかあ、怖いけど一生懸命歩いて来たんだなあと思った。
やっぱりあんな書き方はしなくて良かった、消えて良かった。

だから、決してあのくらいの雪がどうしたという話でなくて、
あくまでそこから見える都会の人達の危うさを指摘したい。
冬なのだから雪が降って当然。
昨日は、街中でガリガリ雪をはがしていたが、
今日はほとんど溶けている。
あの程度の雪で雪掻きすると、気温がまだ低い場合、かえって水分が凍って危ない。
みんなでコンクリートをすべすべにしている様なものだ。
表面にあるサラ雪を適度な温度のある足が踏みしめていく。
それが一番安全な道をつくることだ。
もっともらしく滑らない靴をとか言っている人がテレビに出ていた。
靴の問題ではない。歩き方だ。
今にも転びそうな歩き方をしている人が多かった。
学生服を着た子が自転車で転んでいた。
雪があるのにいつもと同じように動くからだ。
雪があるのだから、それに応じた動き方をしなければならない。
そもそも、ヘッドホンで音楽を聴きながら歩いている人は、
雪があるという自覚は無い。いや、見えるからあると言うだろうが、
本当には自覚出来ていない。
歩きながらタバコを吸っている人、音楽を聴いている人、
電車の中で食べ物を食べたり、化粧をする人。
マナーがどうとか言うこと以前に、「外に世界がある」という、
当然のリアリティを感じて欲しい。
インターネットもメールもこのようなブログも、
世界には自分しか居ないと錯覚させる危険がある。

時には大雪でも降って、自分達が自然の中にいる事を自覚した方がいい。

実際に歩いている人を見ていて、
人にぶつかっても誤りもしない人が居る。
というより、身体もこころも外の事物に反応出来ていない。
怖い事だ。
電車に乗っていて、お年寄りや妊婦に席を譲らない人。
これらもマナーというよりは、
単純に彼らが気づかない、見えない、反応出来ない、
心と身体になってしまっていると言うことだ。
その原因は、「外に世界ある」「他人も自分と同じように心を持っている」
という当り前のことが自覚出来ていないことにある。

悪いというよりは可哀想だ。
毎日、退屈だろうなあ、つまんないだろうなあ、と思う。
自分しか居なくなっているのだから、新しいことなど何もおきない。
自分が大きくなればなるほど、世界は小さくなる。
謙虚になろうとはそう言う意味だ。
自分が小さくなればなるほど、世界は大きく深くなる。
そうすると楽しくてしかたなくなるだろう。

早期教育についてよく聞かれるが、
僕は何でも早ければいいと言う考えに反対だ。
むしろゆっくりの方が深みが出る、人間味が出る。
例えば、人のこころを動かす音楽は技術だけでは生まれない。
技術の前にもとになるものを養う方が遥かに重要だ。
陶芸の話を聞いた事がある。
今は機械で大量に土を練っているが、
昔は弟子入りすると何年も何年も土練りしかやらせてもらえなかったそうだ。
今は早い時期から形を作る訓練をする。
そうすると、やっぱり良い形の陶器は土練りを何年もしていた時代のものだそうだ。
つまり、土練りの手つき自体がすべての基本になっている。
そこが身体に刻まれている人は、土をどんなふうにも自在に扱えるということだ。

早期教育といった時、英語なら英語、音楽なら音楽、
それだけを磨こうとする。
早くおぼえれば良いと思っている。

本当に大事なのは土練りの様なすべてに通じる、基礎、基本をつくることだ。
方々に連れ回って、色んなことをさせる時間があったら、
人間としてのもとをつくる方がいい。
もととはその人が小さな頃に見ていた世界。
皮膚で感じていた景色。呼吸。
あたかい愛情、人間や自然に対しての基本的な信頼感。
こういったものがすべてだ。
それを吸収していれば、何をしてもいいし、
そのもとが出来ていなければ何をしても意味が無い。
小手先のテクニックだけあっても、世界と言う広大なものには歯が立たない。
親がこうすれば楽に生きられるよと言う。
親の人生観がそこにあらわれる。楽がいいと思っているのだなと。
こうすれば得だと教える。得することがいいことだと思っているのだなと。

私達は何を大切にすべきだろうか。
生きていければ、それでいいのだろうか。
ただ、評価されて、良い地位に就いて、お金を手にして、
こうやっていけば安心というのは、もう誰も信じてはいない。

幸せになって欲しいのなら、どんな環境の中でも幸せを見つけられる人、
人を喜ばせようと出来る人間に育てたいはずだ。
もとをつくることが一番大切。
早期教育よりもっと、やらなければならない事があるはずだ。

2012年1月23日月曜日

みんなのこととして

昨日、アトリエが終わって家に帰って、ぼんやりテレビをつけると、
南方熊楠の特集をしていた。
俳優が熊野の森に入って行く。森は本当に深い。
特集は熊楠が明治政府と戦って、森を守ったという部分に焦点を絞っていた。
森と一体となって思考した熊楠の姿が素晴らしかった。

ものの見方って大切だなと感じた。
例えば「森」と一言で言っても、そこに何を見ているのかは人それぞれ。
だから、森は勿論かけがえのないものだが、森を見る見方が大切だと思う。
単純に言うと、熊楠は森に無限を見たのだろう。

森を守るとか、エコロジーとか、そんな次元ではなく、
彼は自身と一体である無限を豊かに生きていた。
森が破壊されるとは、自分の心と身体を引き裂かれるに等しかった。
そういうことだと思う。

守ったり、保護したりというのは、外から見た見方だ。
自分も自然の一部だという、当り前なことを忘れて、
外から守ろうとしても、それは観念でしかない。

熊楠の見ている「森」があれだけ深かったから、
必然的に戦うことにもなったし、守ることにもなった。
だから、見方が一番大事だ。
観察力といってもいい。

眼をこらす、耳を澄ます、じっくり静かに観察する。
そこに何があるのか、深く感じとる。
やっぱり、今一番必要なのはそういう態度だと思う。

世の中の見方がどんどん荒くなってしまっている。
私達はざるのように、多くのものを落としてしまっている。

熊楠が「森」に見、感じとったもの。
無限と言ってみたが、実はそれはこの世界の至るところにある。
今、ここに、目の前にあるのに、無いことになっている。
気づかない。豊かさが、無視され踏みにじられている。
人のこころが、この豊かな世界と生を見落として、
貧しい生き方しか出来なくなっている。
こんな状態にならないために、熊楠は森を守ろうとしたといえる。

あるのに、それに気がつかない。あるのに無いことにされている。
そういう世界が私達の目の前にある。
例えば蝶には蝶道というのがあるという話を聞いた。
蝶が飛んでいるのは良く見るが、上に行ったり下に行ったり、
フワフワ、ひらひら、ランダムに飛んでいるように見える。
でも、あれにはパターンがあって、さらに言えば道が決まっていると言う。
蝶道といって、その道を通って飛んでいるらしい。
そして、昔の人は蝶道を知っていて、
家を建てたり、生活の様々な組み立てをする時、
必ず蝶道に配慮し、その道を塞がないようにして来たと言う。
この話は、昔の人が蝶にまでやさしかったと言う様な浅いものでは無いと思う。
彼らの観察眼と生の豊かさ、世界の大きさを表している。
もっと言えば、蝶道を知っている時代と、それに気づけない時代とでは、
まるで生きている世界も見えている景気も違うものだとさえ言っていい。

森にしても、蝶にしても、そこに興味を持つ人だけの問題ではない。
私達全員の世界の話なのだから。

そういった目の前に存在しているのに、気づかれることの無い豊かな世界。
もう既にお気づきの方も居るかも知れないが、
僕がここで問題にしてきたのは、ダウン症の人たちの内面世界のことだ。
みんなでもっと良く知っていった方がいい。
そうすれば、森や蝶の話と一緒で、私達自身が豊かになれる。

今年は講演もおこなうが、以前にも研修会や色んな会合でお話した事がある。
僕はそういった場でも最初に問題提起するのは、ここに書いたように、
みんなのこととして、考えたいと言うことだ。
何度もくり返し、書いたが、ダウン症の人たちは1000人に1人の割合で、
必ず産まれて来る。原因は無い。母体に原因がある訳でもないし、
遺伝によるものでもない。
だから、誰のところにいつ、産まれて来てもおかしくない。
このことは何を意味するのか。
1000人の人が1人のダウン症の人のことを考え、思うべきだ。
社会全体が気づくべきことなはずだ。
ダウン症の人たちを知り、その役割を考えることは、
私達全員の問題であるはずだ。

こういう単純な事実が見過ごされている。
実はここの部分を一般の人以上に、
彼らに関わる人達や専門家により深く自覚して欲しい。
関わる人や考える人に偏りが無いだろうか?
そういった講演や研修会を聞きに来られる方は限られている。
本当は誰にとっても必要な話題だ。
僕達も含め、ダウン症の人と関わって生きている人達は、
もっと開いた視点をもって、何も知らない初めて彼らに触れる人達に、
語りかけ、少しでも関心をもってもらうように努力すべきだ。

アトリエでは様々なイベントをおこなったり、
学生達や見学者との交流をつくったり、
作品をデザインとして使用出来るように考えたり、
病院や図書館に作品を飾ったりといった活動をしている。
そこで、全く初めてダウン症の人たちのこころと出会う人が居るからだ。

興味を持つ人だけに伝えるのではなく、
どうすれば人が興味を示してくれるのか、
面白いと感じてくれるのか、考えていく必要がある。

一部の人間だけが関心を持ち、関わっていくのでは問題は解決しないし、
不自然だ。
人も自然も一つだし、みんなのことなのだから。

2012年1月21日土曜日

私達に出来ること

昨日は本当に寒かった。久しぶりの雪。
一日休むことにして、ゆっくり過ごした。
今、パソコンを開くとメールの山。土、日に入ってしまった。
まあ、順番にいこう。

ここからは冬が終わるまで体調管理が大切。

時間がなくてもブログは書くと決めている。
さて、今日も教室前なのであまり時間はない。
そろそろ本題に。

ある時、学生の1人と話していた時、
「どうしてあげたらいいのかな?」と聞かれた。
友達が悩んでいる、苦しんでいるという状況の時だ。
どうしてあげれば、という素直な質問にはっとした。
そうかあ、と。どうすることも出来ないという経験をまだした事が無いのか、と。
「本当に大変な状況にある人には、なんにもしてあげられないよね。
ただ、一緒に居てあげる。それしかないよね。」と答えることしか出来なかった。

でも、僕はこのことを考え抜かなければならない時期があった。
そして、ただ、一緒に居て、その人の気持ちを全身で受け止めようとする事、
それがなにより大切だと思っている。
ただ、一緒に居ることは、本当はかなり力を持つ行為だ。
その確信がなければ、このアトリエでの現場もやっていないかも知れない。

実際のところ、目の前で何も出来ずに苦しんでいる人を見るのはつらい。
僕もそんなことがたくさんあった。
何も出来なかった。してあげられなかった。
自分の力で立ち上がった人もいた。死んでしまった人もいた。
どこかへ行ってしまった人もいた。

本当のことを言うと、人は人を救うことは出来ない。
もし、その人が救われたとしたら、その人自身が立ち直ったということだ。
人は人を変えることは出来ない。
すべてはその人自身にかかっている。

人助けをしたいと思っている人は、このことを深く考える必要がある。

では、何が出来るのか。きっかけを作ることだろう。
その人が救いを見出すきっかけ。

目の前に苦しんでいる人がいる。
私達に何が出来るのか。
本気で、その人と一緒にいる。全部を受け止める覚悟で。
何も出来ないけど、今、分かっている人間がここにいて、
一緒にこうやっている。それを少しづつ実感してもらう。

私達は少しだけ、人のためになれる。
少しだけ何かのためになれる。少しだけ役立つかも知れない。

その時、必要なのは、
実は「なにもしてあげられない」という自覚をしっかり持つこと。
自分の無力さと、目の前にいる人の苦しみを受け止める覚悟。

私達は謙虚にならなければならない。
大きなことが出来ると思ってはいけない。

政治や社会運動が世界を変えることなど出来ない。

私達に出来ることは、謙虚に小さな自分で精一杯、
目の前の人や事物を愛し、一緒になろうとすること。
お互いを認め合うこと。

何かをしてあげるより、出来なくてごめん、でも、今だけでも一緒に居よう、
という気持ちが、どれだけ人のささえになるか。

その人に寄添う。少しでもこころを一つにする。
そういうことが、実は凄い力を持っていたりする。
僕はそういう経験をして来た。
だから、こんな小さな場所で、毎日、人のこころと向き合っている。
そして、たいしたことは出来ないけど、
小さなことなら少しは人に喜んでもらえる。
この小さな喜びが、世界にとってどれだけの価値があるのか。

僕は政治より、1人の人のこころが、一ミリでも動くことの方に、
遥かに大きな価値を見出している。

2012年1月16日月曜日

「動き」に順応する

寒い中でもみんな体調もくずさず制作に励んでいる。
最近はアトリエでの取材、撮影も多い。
撮影される方がそれぞれ配慮して下さるので、お受けすることが出来ている。
良いかたちですすめられれば、プラスになるのだからご理解さえいただければ、
何も問題はない。
でも、分かって下さる方が多くなって来たなあと思う。
少し前までは、「人が入ると場が変わる」「制作は微細な変化が重要」
という様なことは、お話ししてもフーンとは思ってもピンと来る人は少なかった。
よくよく考えてみると、私達のやっている様な事はかわっているのかも知れない。
ほとんどの人はなんの事なのかサッパリ分からない、ということかも知れない。
隣に座った人がどんな気持ちでいるかによって、
相手の気持ちも表現も変わる。
いい表現が出て来たので、深くみつめると、2人の間で密度が高まって、
より良い表現へと進んでいく。
今は動いてはいけないと感じたり、
今は少し場をやわらかくしなければ、と感じたり。
お喋りするときもあれば、静かにしようと言う時もある。
スタッフがどんな判断にもとずいて動いているのか。
作家のこころにどんな動きが現れているのか。
作家が表情を変えずともどれだけ多くの事物と対話しているのか。
普通の人がただ見ただけでは分からないだろう。
でも、例えば現場では実際に僕が座る場所を変えただけで、
表現にぐんと動きが出たり、迷っている人に笑いかけただけで、
迷いが消えたり、ただ隣に座っただけで作家の目付きが変わったり、
といったことは日常だ。
学生達にしても何度も何度もそういう場面を目にして来た。
私たちにとっては、こころの世界の微細な動きは明晰に見えるものだ。

前回、人が吸収する時間について書いた。
それも、こうしてこころの動きを観察して来た結果分かったことの一つ。
人のこころは長い時間の中で蓄積されていくもの。
勿論、その瞬間に起きたいいもの、悪いものが全く影響しないということではなく、
短い時間で経験したものと、長い時間かけて浸透して来たものとでは、
影響の強さが違うということだ。
言い忘れたけど、どこかで医療関係の専門家が言っていたことなのだが、
夏のエアコンの害について。夏でも身体を冷やしてはいけないという、
よくある話だったけど、その理由が面白い。
つまり夏場の暑さは熱として身体に温存されている。
それを寒い冬に少しづつ外へ出していくのだそうだ。
だから、夏の熱が残っていれば風邪もひきにくい。
勿論、それ以上に身体に熱を残し、冬に出していくということには、
もっともっと色んな意味と仕組みがあるはずだ。
身体もこころも同じだ。
夏の暑い時に人は、その暑さと身体の関係や意味を考えはしない。
身体は環境に順応していくが、頭はそれが出来ない。
何事も短いスパンでものを見ることの害は大きい。
現代社会はものを見るまなざしが極端に短距離的だ。
短いところで、みんな必死になって何も見えなくなってしまう。
もっとゆったりと全体を見る視野が必要だ。

さて、先ほどのこころの動きにも関係するが、「動き」は特に重要だ。
この世界は動いているということは、みんな知っているはずだけど、
実は知ったつもりになっているだけかも知れない。
人間は「動き」「動くもの」に弱い。
すべてを一度止めてから理解しようとする。
と言うか、そもそも理解とは動きを停止しないと出来ない。
だから理解してから何かをするというのは、決定的な弱点でもある。

社会の問題も、私達の個人的な問題も、「動き」に順応出来ないところから来る。
私達のアトリエにも学校や養護学校の先生が来る事があるが、
その方達と話していて感じるのは、人のこころを「動き」として見ていない、
ということだ。「動き」が見えないから、どうしようかと迷う。
良く聞く話に良くなったのに悪くなったとか、
ここまで伸びたのに戻ったとか、これがダメだったからこうしてみたとか。
教育は人のこころを直線で見てしまう。
真っすぐ前に進むだけだと。
成長は直線ではない、行きつ戻りつ、波や螺旋のようなものだ。
こころは絶えず動いている。あの時、ああだったとか、昔は良かったとか、
そんな事を思っても何の意味もない。
今動いているこころを見てあわせていく。
悩んだり迷ったりというのはその状態がずっと続くと思ってしまっているから。
すべては動きの中にある。すべては絶えず変化していく。
そこに順応出来るかがすべて。

何度か僕も彼らの深い世界とか、深いことを良いことのように書いて来た。
でも、それはあくまでその時による。
僕も絶えず、深いレベルばかり見る訳ではない。
その人がもっと浅い日常的なことがこころにあるのに、
自分だけ深いものを相手にしても、共感はおきない。
目の前にある動きが大事なのだ。
時には浅いものの方が大事にもなる。
そこが理想主義や宗教や思想と違うところだ。
例えどんなにレベルが低かろうが、それが人の心から出て来ているなら、
とことん付き合っていくことが大事だ。

人間には静止した状態でものを捉えようとする癖がある。
たしか養老さんの本にそんな様な言葉があった。本当にそうだ。
頭は動きを掴むことができない。世界は動きそのものなのに。
だから、考えることを基本としている「文明」は必然的に危機に向かっていく。

僕の前には制作に向かおうとする人がいる。
今、ここに。もうこころは動いている。一瞬も止まらない。
理解してから、分かってから何かしようとしたら、もうついていけない。
分からない、理解不能な無限に向かって飛び込んでいって、
流れを感じ取りながら、順応していく。
制作に向かう作家も当然同じだ。
彼らも頭で、こんな絵にしようとか、こんな色を重ねようと考えてはいない。
頭ではあんな絵は描けない。
彼らは目の前の紙と色にまず、入って行って、そこでどうすれば気持ちよくなれるのか、
直感でつかんで、無限と戯れる。
本当は生命体はそうやって生きるものだ。

このブログでも調和とかバランスとか書いて来たが、
そういったものも静止したものではない。
調和もバランスも絶えず、崩れ、もう一度生み出される。
絶えず創り続けられる行為だ。
質を保つとか、現場のレベルを同じようにするというのもそう。
同じ質やレベルを保とうとしたら、同じようには出来ない。
何故なら条件は絶えず変化しているから。
だから質を保つとは、その質を創り続けるということ。
調和も創り続けるものだ。

分からない、理解出来ないものに適切に対応出来るということが大事だ。
頭は理解してからしか判断出来ない。
頭は動きを捉えることが出来ない。
では、どうやって理解出来ないものに適切に対応し、
動きに順応していけばいいのか。
頭以外を使う。つまり感覚を使うことだ。
現代人は感覚を使うことが苦手だ。
ここでもダウン症の人たちの制作に向かう感覚を見習う必要がある。

感覚と言っても目や耳、いわゆる五感を部分的に使うだけではダメだ。
かといって第六感みたいなことでもない。
例えば共感覚というのがあるらしい。
それを持つ人は音に色が見えたり、色に音が聞こえたりするという。
これは何を意味しているのか、つまり感覚とはもともと一つだということだ。
ダウン症の人たちを見ていると、この共感覚ともまた違う、
ある意味、全感覚、全身感覚とでも呼べる様な、感覚がある。
すべての感覚が解放されているということが必要だ。
だから、理想はもうこういう呼び方はしてはいけないのだろうが、
土人とか野人のような感覚ということ。
そういう、感覚を取り戻すことが我々に必要なのだろう。
断っておくが、何も狩猟する感覚を取り戻すとか、
原野で原始的生活をする能力を取り戻すと言うことではない。
もっと、内在的な意味で全体、全身で生きようということだ。
原始といったのは、おそらく原住民の様な人達は、
感覚が単純に出来ているはずだからだ。
感覚を単純にすれば、それは力強く動く。
単純なものより複雑なものの方が高等だと思ってはいけない。
僕は逆だと思っている。

単純でシンプルな存在になって、力強く全感覚を働かせれば、
うまく「動き」に順応していける。
それが、困難な時代を生きるヒントともなるのではないだろうか。

2012年1月15日日曜日

吸収する時間

今日は午後のクラスに雑誌の撮影が入る。
制作の場に人が入る時は気を遣う。
いつもと同じようにしていても、いつもの様な雰囲気にはならない。
場に他の意識が入ってくるからだ。
それを見極めつつ良い場にしていかなければならない。
みんなを緊張させないことが一番。コツがあるが、上手く言えない。

昨日のクラスはゆりあがお休みで、久しぶりに1人で現場を見た。
1人で向き合うと言うことも、僕達にはとても大切な事だ。
責任は重くなるが、得るものも大きい。

よしことゆうたは次の検診まで三重にいます。
よしこは東京での疲れが出たのか、風邪をひいているようだ。
少しでも休めるといいけど。

前回、周りのものや、付き合う人や環境を変えれば、自分は変わると書いた。
人は環境と関係で出来ていると。
歴史を見たり、様々なジャンルの成り立ちを見ていると、
偉人が密集している時代がある。
スポーツでもレベルの高い選手が多い時代がある。
しばらくそうでもない時代が続いたり。
科学でも凄い発見が連続する時期と、小さな変化しか無い時期がある。
偉大な人物が多く輩出される時代。
なぜ、まばらに分散して平均的にならないで、密集するのか。
やっぱりこれも、人は響き合う存在だということの例だと思う。

「動きに順応する」というテーマで書こうと思っていたが、
多分、これを書くと時間が足りないので次回にする。

今回は人が物事を吸収していく時間の大切さを考えたい。
これは制作を見守る時も深く自覚しておく必要がある。
それに制作そのものが、人にとって時間の意味に気づかせてくれる。
時間をかけることが必要で、短縮しては意味が無いと何度か書いて来た。
そこと当然関係してくる。
実は経験なんてすべてかかった時間分しか吸収されないと思う。
例えば劇的な体験をしてがらっと変わるとか、本当はそんなことはあり得ない。
もし、そんなことがあったとしたら、それはその体験以前のその人の、
蓄積と関係している。
何かをきっかけに良くなったり、悪くなったり。
人は本当に難しい。
でも、きっかけはあくまできっかけだ。
ガラッと人が変わって良くなったとかやさしくなったとか。
それは、それまでに実はいろんな経験が蓄積されている。
逆に何かのきっかけで心が落ち込んで、病気になってしまう人もいる。
実はそれも、その前からの長く蓄積されて来たものがある。
心にも身体にも癖がある。
その時は力でカバー出来ていたのが、長く続いていくと壊れてしまう。

人間は自分が呼吸するリズムでしか吸収出来ない。
良いものに触れようが、悪いものに触れようが、
良い経験をしようが悪い経験をしようが、それが続いていかなければ、
自分の中には入って来ない。
長い目で見るとよく人は言うが、
このことを本当に自覚して生きている人は少ない。
私達が気をつけなければいけないのは、
瞬間的な体験や経験ではなく、
長く続いていくくり返される時間の中での物事だ。

僕の様な仕事をしていると、「こういう怖い事があって精神を病んでしまいました」
という様な相談はたくさんある。
でもその人を見ていくと、長い間、怖いという経験が積み重なっている。
怖い事があっても、もしその時だけなら、あー怖かったで終わる。
あービックリしたという様な出来事でも、
ずっとくり返し植えつけられていると、ある時にきっかけになってしまう。

良い経験にしても、その時、良かっただけで終わってしまうものがほとんど。
一昔前で言えば、インドに行って人生観が変わったとか。
帰って来てみればすぐに元に戻ってしまう。
修行したとか、臨死体験したとか、あの時凄い体験をしたとか。
みんな、美味しかったで終わり。
でも、もしそれが持続的に長い時間くり返されていたら、
やがてそれは自分に吸収されていく。
大事なのは経験と、その中味を自分のものにする事は違うということだ。

こういう事は、自覚していくと良い人生が送れる。
良いもの良い経験を自分に刻み付けていけばいい。
やがてそれが滲み出てくる。

制作の場でも僕達が見ているのは、良かった、悪かったではなく、
その先にあるもの。それが持続していくとどうかというところだ。
良いものも、悪いものも、自分に入って自分のものになるのには、
長い時間が必要だ。

悪いものでは、そんなに悪くないじゃんという意識を警戒する。
その時はたいして悪くなくても、続けるとどうなるか。

良いものも、すぐにあらわれはしない。
よく効く薬は副作用が強いものだ。
良いものには時間がかかる。焦らず気長に、良いことを続ける。

2012年1月11日水曜日

上手くいかない時

前回、健康な美しさに目を向けてみようというテーマを書いた。
その一つとして、このアトリエの作品を紹介した。
少しだけ付け加えると、ダウン症の人たちの作品の順応性の高さ。
例えば、私達は展覧会以外でも、様々な環境の中に彼らの作品を置く事がある。
病院や図書館、企業の休憩室等。
それらの環境の中に作品を入れることは、
作品を見に来ること自体が前提になっている、美術館等に展示するのとは、
意味が違ってくる。
まず、第一にその環境には目的があって、その邪魔をしてはいけない。
例えば図書館なら、落ち着いて本を読むことが目的だ。
作品自体に魅力があっても空間とのバランスが悪いものが多い。
ダウン症の人たちの作品がこれまで、様々な環境の中で、
利用する人達から好評をいただいて来たのも、
彼らの作品の明るさ、やわらかさ、健康的な美しさにある。
そして彼らの作品は環境に調和し、その場の空間を活かす力がある。
前回の話でいえば、病院に闇の美では救いが無い。

彼らの作品同士も、お互いを活かし合う。
1人の作家より、何人かで連続で見た方が美しい。
それが健康的な美の特徴かも知れない。

味でも、お祭りの焼きそば、お好み焼き等の、健康的ではない美味しさと、
出汁をとった丁寧な健康な美味しさがある。
音楽にもそれはある。
健康的な美しさとは、丁寧に時間をかけたもので、ゆっくり自分の中に入ってくる。
一方で闇の美、あるいはお祭りの味。
それは瞬間的に自分に侵入する。強い刺激だ。
今は美よりも刺激が求められる。
くり返すが、良いものはゆっくり入ってくる。刺激は弱い。
でも、飽きない。
刺激の強いものは瞬間的な快楽を与えるが、すぐに消える。
だから、より強い刺激を求めるようになる。
刺激は実は感覚を麻痺させている。
単純に言って静かになればなるほど、感覚は敏感になる。

健康的な美は、ゆっくりと自分の中に入って来るので飽きない。

刺激を求めるより、落ち着いた普遍的なものを求めよう。
ダウン症の人たちの作品が、そのきっかけになるかも知れない。

さて、今回は上手くいかない時、
いきづまった時どうするかということを考えてみたい。
制作の場から見えることがある。もしかしたらそれで何か言えるかも知れない。
人生、何をやっても上手くいかない時や、
理由も無く流れの悪い時がある。周期もあるだろう。
それから、伸び悩むという事がある。
ある地点で止まってしまう。もっと別のところまで行かなければならない事は
感じていても、どうしていいのか分からない。
そういう時、どうしたら良いのだろう。

すべてには流れというものがあって、それに逆らう事は出来ない。
逆らえば、余計に悪くなる。
でも、何かしなければならない時はある。
制作の場での実践を考えてみると、どんな時でも良くする工夫が必要だ。
流れが悪い時はある。良い時は本当にみんなが良いのだから。

具体的な例はあげられないが、あくまで例えだけど、
席替えをするとか、使っている道具を換えるという発想は良いと思う。
経験的に言えば、これだけで何かが変わる事は確実だ。

その事を日常生活で言えば、今までと全く違うものに触れてみる。
使ってみるということだろう。
服や身につけるものや、使っているもの、もっと大きなところではすむ場所。

それで、流れは変わる。
何故なら、何度も書いて来たが、人は響き合う存在だから。
人は環境と関係で出来ている。
個性やオリジナルという事に拘りすぎると、それが見えなくなる。

難しい問題だけど、放射能が心配でも土地を離れられない人がいる。
それは仕事や生活だけの問題ではない。
外から見ていれば、安全な場所に避難すればいいと思うだけだろうが、
当人からすればそうはいかない。
人がその土地に住んでいると思っていても、
実はその土地がその人を作っていたりもするからだ。
お断りしておくが、だからその土地にいるべきだと言いたい訳ではない。
土地と人を切り離して、単純に議論出来ないと言うことだ。

良くなろうと思ったら、良いものに触れる事。
レベルを上げたければ、高いレベルのものを見たり聞いたり、
体験する事。尊敬出来る人と過ごすこと。

もし、自分が人に対して何か少しでも良いことができたら、
それは自分が良いものや環境に触れて来た結果だ。
だからおごることも無い。
反対に能力が足りなくても、自信をなくすことも無い。
まだ出来ないのは、そういった環境や人に自分が出会って来なかったから。

そうやって人は響き合って循環している。
良いサイクルを生み出すことこそ私達の使命であるはずだ。

僕自身の話だけど、制作の場において、
少しは人に良い影響を与えることが出来る。
それは、僕自身が良いものを人や環境から与えてもらい、
見せてもらい、経験させてもらって来たから。
いっぱいもらったからだ。
良い経験を重ねることで、現場での自分が少しだけ良くなる。

上手くいかない時は、自分より遥かに上のものや、人や環境にふれ、
学ばせてもらう。

極端に言えば、靴を替えるだけでも生活は変わる。
歩き方や感触が変わり、見える景色が変わってくる。
作った人の技や人間性から、自分にない世界が見える。
その結果、食べるものへの意識も変わり、人に接する姿勢も変わる。

だから、自分の仕事にしても、どんなに小さなことでも、
良いものに変えるきっかけになっている。
それを自覚して良いものを作る。場を創る。

それが今すぐに出来ること。いつでもどこでも出来る良いことだ。

2012年1月10日火曜日

健康な美

今日からプレのクラスもスタートです。

今年もまずは教室を充実させていこう。
ずっと制作の場を見て来ているが、毎回新しい経験がまっている。
スタッフも動きが止まってはならない。
いつも初めてという状態で挑みたい。

制作の場、このアトリエの実践は特殊なものかも知れない。
でも、その中でなにかしら普遍的なもの、
どんな人にも通じる何かが見えてくる。
勿論、この場でしか通用しないような事もある。
それはそれで大事なことであったりするが、
やっぱりどんな人でも、こうすると気持ちよくて幸せだねという、
テーマを考えて行きたい。
今年もこのブログでは、アトリエの実践の中から見えてくる、
みんなにとって良いこと役立つことを考えて行きたい。
思想というか、考えのような部分は去年までのブログで、
だいたい書いて来た。
お時間のある方は読んでみて下さい。あるいは読み返してみて下さい。
今年はさらに分かり易くしていきたい。
ちょっとでも試してみるか、と思ってもらえるものにしたい。

ところで、「美」、美しさってなんだろう。
美術館に人がなかなか行かない時代だそうだ。
美術館に行けば、美しいものがあるのだろうか?
それはともかくとして、このアトリエに通う人達を見ていて、
彼らは本当に美しさに敏感だと思う。
美を見つけ出すのも、創り出すのも上手だ。

ある意味で時代が病んでくると、美を見出すセンスも変わってくる。
何故か人は闇にひかれる。混沌や狂気や腐敗に。
闇を美しいと感じる。
それ自体が悪いとは思わない。闇が無ければ光も無いのだから。
でも、美の感覚の基本にあるのは健康な美しさだ。
そこを忘れてはならない。

現代では健康なものは一段浅いものに見られがちだ。
確かに浅さを健康さややさしさと勘違いしている人も多い。
健康で深いものもある。健康で美しい、それが美の本質だ。

絵画も音楽や映画や、様々な表現も、
闇の深さばかりに目がいっている時代が長かった。
そろそろ、明るいもの、健康な美しさにも目を向けたい。

例えばアトリエ・エレマン・プレザンの作家たちの作品。
みんな健康的な美しさがあると思います。
どうでしょうか?どのように感じられるか、みなさんのご意見を聞きたいです。
まだご覧になったことの無い方、今年もどこかで展示すると思いますので、
機会があったら是非、見て下さい。

2012年1月7日土曜日

明けましておめでとうございます

本年もよろしくお願い致します。

皆さま、お元気でお過ごしでしょうか。
お正月は、個人的なお話で申し訳ありませんが、悠太とゆっくり過ごしました。
ほとんど家からでなかったので、外の空気が新鮮です。
悠太も表情が増えて、笑ったり、ウー、アーと何かを言おうとしたり、
手を握って来たり、鼻をつかんできたりと、
かなりコミニケーションがとれる時間が増えて来ました。
毎日、楽しいです。
ニッコリ笑ってこちらを見つめてくる顔を見ていると、
この子のためなら何でもしてあげたいという気持ちになります。

あっという間に今年も始まりです。

今月は取材と打ち合わせが続きそう。

さて、今日は今年最初の教室だ。
一週間ほど、時間が空くと最初のクラスは楽しみだ。
何事も始めが重要だから面白い。
流れが出来てしまえばそんなに難しいことはないが、
最初の流れを作るのが難しい。
始めに淀んだ空気、濁った空気を場に残したらおしまいだ。
始めの流れを作る。そのために自分を整える。
例えば文章だって最初の一行が出てくれば、後は流れで書けるけど、
最初の一言がなかなか出て来ないという経験は誰にでもある。
制作の場では特に最初の流れを良い空気にしておかなければならない。
かといって、やたらと明るく元気な雰囲気で行けばいいというものではない。
元気に行ってしまうと、出しているエネルギーが強すぎて、
場の中で異質なものになってしまって、反発が起きる。
だから、ここでもあくまで自然な良い流れが必要。

今年も自然な良い空気に満ちた場を創っていけるか。
最初の一日は本当に大切だ。
難しくもあるが楽しくもある。

良い場を創って、広げていきたい。
今年も様々なイベントが予定されている。
それぞれの活動を通じて、「平和」と「調和」の風が、
社会に浸透していけばと願う。
一つ一つ、一生懸命、挑んでいきたい。

今年も応援宜しくお願いします。
みなさんと想いを共にして、明るい未来に向かっていければと思います。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。