2012年2月28日火曜日

創造性

昨日、プレのクラスで何気なく制作を見ていると、
アキが凄いエネルギーでぐんぐん描いている。
あれっ今日違うなあと思っていると、その波は一日続いた。
やっぱり面白いなあ、と思う。
特にアキの場合は、良い時と悪い時の差が激しい。
これは性格でもあるので、そんなに気にすることはないが、
本当によい時の凄さをスタッフはちゃんと知っておかないと、
いざいいモードに入った時に逃してしまう。
それに一枚上手だなと思うのは、相手を見てこの人にはこのくらいでいいやと、
無意識で察知してしまう。

それはともかくとして、昨日のようなテンションになった時のアキは、
本当に凄みがあるし、同じ一つの色でも違って見える。
ただ塗った時は、赤なら赤なんだけど、良い時はその赤が、
特別に光っていて透明感がある。これは不思議だ。

「見える」「見えない」のような話を書いたが、
これも関係性や時と関係していて、どんな人でも「見える」という瞬間はある。

アキが深い制作をしている時、創造性がもわっとその場に見えたりする。
まあビジュアルで見えるというよりは、感じるのだけど、
普通の人が感じるというよりももっと具体的な感じではある。

何人もの「創造性」にふれていると、何か人間にとっての普遍性を感じる。
普通、創造性はその人の個性とみられるが、違う気がする。
人間のこころの深いところに創造性があって、
それに触れると、動きだし沸き上がってくる、
その時、外に現れる瞬間にその人の個性に濾過される。
そんなイメージだ。

制作の時、じっと見ていると、ここまでは個性、
ここから先は普遍的な創造性そのものだなと感じる。
そこへ入ると、描いている方は本当に気持ち良さそうだ。
誰でもそんなふうに描けたり、生きたり出来ればいいのだが、
私達にはなかなか難しい。
ダウン症の人たちは自我によって固定されている部分が薄いから、
すぐにそんなに深いところまでいくことが出来る。

彼らの制作から見えて来ることとは、
人間にとっての創造性とは何なのかということでもある。

少なくとも人間にはこんな可能性もあるぞ、ということが分かるはずだ。
出来上がった作品からも、そんなことが伝わると思っている。

みなさんも機会があったら是非、触れてみて下さい。

2012年2月27日月曜日

デザインプロジェクト

さあ、そろそろ晴れてくるといいんだけど。

前にもご紹介させていただきましたが、天然生活4月号に、
アトリエ・エレマン・プレザンの記事がのっています。
美理ちゃんの作品が綺麗と言う方が多いです。
案外、同じアトリエに通っていても、別のクラスの人の作品を見る機会がなかったり、
でこういう絵を描く人も居るのかと、保護者の方にも知っていただいています。
記事では「安澤美里」となっておりましたが、「安澤美理」です。
大変失礼いたしました。
それと、佐久間の紹介がアトリエ・エレマン・プレザン東京代表となっておりますが、
正確には佐藤よし子と共同代表、もしくは夫婦で運営しているということです。
すでに、公表されているものでは東京の代表は佐藤よし子となっておりますが、
この体制には全く変化はありません。(アトリエ全体の代表は佐藤肇、敬子)
今までどうり東京代表は佐藤よし子です。
現在は産休をいただいておりますが、仕事に戻って来たらまた楽しみです。
記事や外に出る時は発言した人が、どうしてもアトリエの看板になるので、
気を遣います。

最近の教室では、まいちゃんやあみちゃんの作品が素晴らしいです。
すでに成人した作家達の安定した作風とはまた違った魅力があります。
えいた君、ゆうこちゃん、えいこちゃん、てる君、
それにしんじ君、しゅうへい君、ゆうすけ君のように、
どんな時も自分の呼吸と間合いを持って、自分の文脈に持ち込める、
大人の作品はやっぱり見ていて凄いなあといつも思います。
でも、まだそこへ行く前の若い魅力というのもあって、
今のまいちゃんやあみちゃんにはフレッシュな作品が描けます。
今、目の前で、この瞬間に生まれて来る、新鮮さ、勢いがあります。
こころがダイナミックに動いて、作品に入って調和して行く。
こういう時期が本当に大事だなと思います。
ここで事物を読み取っていく感覚が養われてこそ、
後の安定した制作に入って行けるのだと思います。

これも度々、ご紹介していますが、
作品を使った様々な商品化に向けてのプロジェクトのお話をします。
まずは、フラボアさんとのコラボをお伝えしましたが、
これからその方面からも、このページにアクセスされる方もいらっしゃると
思うので、ちょっとプロジェクト全体の説明をしたい。

今週も新たなブランドの方と打ち合わせすることになっているが、
今回の企画の全体はオーガビッツというチームの方々と一緒におこなっている。
一番最初は溝口さんという素敵な方との出会いがあった。
溝口さんは志のある方で、小さな記事からアトリエの存在を知って、
作品や活動に強く共感して下さった。
綿を扱う豊島株式会社の中で、オーガビッツというプロジェクトが進められている。
オーガニックコットンを広く様々な人達に知ってもらって、
その価値を認めてもらうことで、環境保護に繋げていこうと。
ただ、環境を守ろうではなく、オーガニックコットンという実際の物、
肌に触れることも着ることも出来る物を通じて、
良いものを大切にするこころから、そのものが生まれる背景を守っていく。
良いものが売れていけば、良いものを作る環境や自然が守られる。
オーガニックコットンの魅力を様々な商品や、活動によって伝えているし、
その可能性をどこまでも探ろうとされている。
溝口さんからオーガビッツのお話をうかがって、
なぜ、溝口さんがアトリエに関心を寄せて、
応援して下さろうとしているのかが分かった。
アトリエ・エレマン・プレザンもダウン症の人たちのこころの世界というものを、
作品として、見たり感じたり出来るものを通して、
社会に紹介し、その魅力を知っていただいた人達で、
彼らの文化を守り、この世界に調和と平和を築いていきたいと考えて来た。

オーガビッツとアトリエ・エレマン・プレザンが提案して、
共感し商品化したいと思って下さった、企業とご一緒するという形で、
いくつかのブランドとのお話をすすめている。

そんな流れだ。
何度か書いてもいるが、
アトリエではダウンズタウンというプロジェクトを進めている。
ダウン症の人たちの調和的文化の発信場所を創って、
彼らが無理のない生き方が出来るのと同時に、
その彼らの作品や生き方から、一般の人たちが学んだり、
一緒になったり出来るものにしていきたいと。

このダウンズタウンの一環として、病院や図書館、企業等に、
作品を置いて、環境の中で平和な明るい彼らの世界と社会につながりを
創って来た。
ラッシュジャパンのチャリティー企画でも、ご寄付をいただくだけではなく、
パッケージのデザインにも参加させていただいた。
うおがし銘茶の「こんにち葉」のパッケージにも採用された。

こういった企画は現在のところ、経済的な収益にはほとんどつながってはいない。
でも、もっと大切なのは一つ一つの企画を通じて、彼らの可能性と、
彼らの文化が様々な人につながって来ているということだ。

今回のデザイン企画も、ご寄付にすると、そんなに大きなことにはならない。
正直に書くと、労力と人件費(僕達が動くのでいただく予定はないが)にすると、
採算が合うのかわからない。
当然、額の大小に関わらず、ご寄付は有難いし、ダウンズタウン実現のための、
外での活動費が毎年必要で、たくさんの方のご寄付があって成り立っている。
みんなのために有効に使えればと思う。

勿論、いつかは経済的な問題をクリアしたいと思うし、
ダウン症の人たち自身が正当に経済的に自立出来る仕組みと、
社会にしていきたい。
これにはまだまだ時間がかかるだろう。

今、するべきことは彼らの可能性と価値を広め、
理解し応援したいと思って下さる人を増やしていくことだ。
どんなきっかけでもいい。
洋服やグッズがキレイ、カワイイ。
作品でやさしくなれる。

少しづつでいいから、ダウン症の人たちの存在と作品の力に、
多くの人達が気づき、何だろうと思ってもらえれば。
ここに何か自分達が忘れかけているものがあるのかもしれないと、
感じていただければ。
今の世の中に必要なのはやさしさや、心の豊かさ、
共生、平和なのだとおもう。
そういった大切なものがここにある。

いつの間にか、社会の色んな場所に心地良い色彩感のある造形が浸透していく。
それを創り出している人達に思いを馳せる。
まずはそうなっていきたい。
商品を買った人も、調和のビジョンを共有できて、幸せになって、
一緒につくった企業もプラスになって、
描いている人にも幸福がくる。
そんな循環が出来たらいい。
関わった人、みんなが良かったと思えるものになったら。

2012年2月25日土曜日

本気で追求する時期

今日は雨。浄化されるようで雨はいい。
静かになるし。

今日も良い教室になるように。
雨の日、天気の日、それぞれ場の雰囲気が変わってくる。
その中で自然な良い流れに向かっていく。

少し前にテレビである女優さんが、行き詰まった時に海外に行って、
出直ししたという話をしていた。
1年住んだと言う、その場所を再び訪ねるという企画だった。
過去をふりかえる目線がよかった。
素敵な人だと思った。
自分の過去を大切に扱える人は、過去や記憶に助けられる。

僕も何度も記憶に助けられ、救われてきた。
それと海外に行った時の話も、もう一度訪れる場面も、
休み方の上手い人だなと思った。

しっかり休まなければ良い仕事は出来ない。

もう一つご紹介したいお話があるのだが、
これは本に書いてあったことなので、まず本の紹介をしなければならない。
だからここではやめておく。
僕はなるべく、本と音楽と映画の話は書かないことにしている。
あと、趣味の話。
それをしてしまうと、いくらでも話題はあるけど、
人に言葉を話すことをもっと大切にしたいと思う。
誰でも見られるところに、言葉を書くということは、
ある程度、公共の場での行為とみなされなければならない。
本来は、趣味や日常生活の話は控えるべきだと思っている。
今、世の中で飛び交っている言葉はほとんど意味を失っている。

まあ、横道に逸れてしまうのでここまでにしておくが、
自分がどこの誰だとも名乗らずに、言葉を使っている人も悪いが、
その様な読む価値のないものを読む人も、真に受ける人にも責任がある。
これは、大切な事だが、良くないものは受容する人にも責任がある。
悪いものは見てはいけないし、買ってはいけない。

ここでは本や趣味の話はなるべくしない。
もしくは最小限にとどめる。
ここで書いているのは、僕自身の実体験に関わるものばかりだ。
もし、何らかの使える部分があったら、大切に使ってやって下さい。
前にも書いたけれども、経験にはもとでがかかる。
趣味は受け身でもいいが、実践には血と汗が滲んでいる。
身銭をきるとかいい言葉はいっぱいあるが、実感としてはそんなところだ。
自分に投資するということをいつかも書いた。
だから、その場でのその人の仕事や言葉は、
いったいそこへ行くまでその人がどれだけのものを、
そこに費やし、かけてきたのかというところから、見ていくべきだ。
僕自身も、このブログで書いて来ている様なことを、
知るためには本当に多くのものを使って来た。
勿論、お金だけではなく、たくさんの時間と、命と、思いと。
現場においてマニュアルはないと言って来たし、
方法や理屈を考えてもダメだとも言ってきた。
それは確かなことなのだが、僕自身はそこを徹底的に考え抜いたり、
追求した時期があった。
昼も夜も無い状況で、こうすれば少しはこころが動くとか、
重い病気の人の発作が治まったとか。
必死になって振り回されたり、それでももっと良い方法があるはずだと、
試してみたり。
やっと時間が出来ても夜通し仲間と、
ああでもないこうでもないと議論して寝る時間もない。
それでも知りたかったし、自覚したかった時期も確かにあった。
追求することから逃げ出したい時期もあった。
付き合っていた女性ともほとんど会えない。
なんのためになぜ、こんなことをしているのだろうと思ったり。
やめようかなとか。
一度、ふかふかの布団でぐっすり眠りたいとか、
会いたい人にゆっくり会いたいとか。
ある時、ふと気が付いた。すでに何人も死んでいったように、
僕らっていつか死ぬんだなと。
だったら、ぐっすり眠るなんてその時でいいやと。
死ぬ時に、はい、これから休みでいいかなと思った。
それまでは探求しようと。

でも、そんなに真剣になって何かを追求する時期は必要だ。
若いから、色んなものを犠牲にはしてしまう。
でも、そこで何を大切にするかだ。
普通、人が思うほど、人間という存在はあまくはない。
追求しているテーマや目指していること、
一般的には仕事となるかも知れないが、
例えば、仕事と家族とどっちが大切かとか問われて、
即座に家族と言ってしまえるようではダメなのだ。
最終的には家族とかそういう事にならなければ、それも嘘だけど、
少なくとも、今これがなによりも大事という時期は経験しなければならない。
何を犠牲にしても、そこを追求してみたいと思うくらいの時期は必要だ。
でも、これも勿論、いつまでもそれでは困るが。

その様に沢山のものをかけてこそ、本当の仕事が出来るようになる。
前に、制作の場では一つの言葉でも、どんなふうにでも返すことが出来る、
選択肢は無限だという話をした。
でも、一方で誰が聞いたところで「うん、そうだね」としか言えない様なこともある。
だからこの場合、「うん、そうだね」と言うしかない。
そこで同じ「うん、そうだね」がその人のすべてになってしまう。
つまり「うん、そうだね」という言葉にどれだけの存在感を創れるか、
そこにそれまでその人がどう生きて来たのかが、
大袈裟に言えばすべて表現されてしまう。

最後のところで出て来るものがその人の本質だ。
人間力と言って良いかも知れないけれど、
これだけはすぐに身に付くものではない。
日々の積み重ねで長い時間が刻まれていかなければならない。

今日は最初は「休み方」というテーマの予定だったが、話がそれてしまった。
長くなるのでここまで。

2012年2月22日水曜日

この場に居ない人達

もうすぐ、よし子と悠太が帰って来る。
申し訳ないけど、ほんのちょっとだけ悠太のこと。
最近、送ってくれる写真を見ていると、本当に表情がしっかりしてきた。
顔になったなあという感じ。可愛くて可愛くて今すぐに抱きしめたい。
皮膚に少しアレルギーが出ていて、それだけが心配。
目がすごくいい。自分の子供なんだと思うと不思議な気持ちになる。

一緒に仕事をしていた仲間には、「自分の子供が産まれると、今見てる生徒たちへの愛情は薄れて、やっぱり我が子が一番可愛いって絶対なるよ」と言われてきた。
でも、予想どおりそんなことは全くない。
全く変わらないし、むしろ愛情(愛情だけで出来るものではないが)に関しては、
増していると感じる。
何度も言うが、こころというのは数学ではない。
量が決まっているものでもない。
ここに使っているから、ここの部分は減って行くなんてことはあり得ない。

まあでも、悠太が産まれてこころの変化も確かにある。
正直に告白すると、守ろうとする気持ちが強くなった分、
勢いは落ちているかなと感じる。
昔はなんの躊躇もなかったし、恐れも感じなかった。
今はやっぱり、初めてのことに挑むときは恐れを感じる。
もういいよ、僕はここにいてもう充分幸せだし、と思ってしまう。
ああ、また始めから挑むのかあ、怖いなあ、孤独だなあ、めんどくさいなあと、
感じてしまうことも多くなった。
だって自分の生活、家族、悠太のことだけを考えると、
現状維持に徹して、新しいことをしないのが安全で、安心かも知れないし。
でもでも、そこで恐怖を避け、新しい流れを拒んでしまったら、
もうおしまいなのだ。
僕は現場での力も失うだろう。
目の前で作品に向かう人は、ただ気持ちよく進むだけでなく、
時に自分の避けて来たものと対面したり、
内面の深くへ行くことに恐れや不安、迷い、孤独を経験する。
その時、僕は言わなければならない「大丈夫、もっと行ってみよう。怖くないよ」
その言葉は、自分自身がそこを乗り越える経験を重ねてこそ力を持つ。
そんな言葉が言えなくなってしまう。
自分は逃げているのに、相手には勇気を要求しても、
通じる様な甘いものではない。毎回、言うがこの場ではウソが通用しない。
ごまかせない。だから面白い。
そこで、僕自身もよし、もう一歩飛び込もうとなる。
躊躇もするし、恐れも感じるけど、よし、行くかとなる。
それに、悠太にもその姿は示したい。
逃げる父親ではありたくない。真っすぐに向かって行くところを見せたい。

さて、今回のテーマだけど、本当にこのごろ、
ここに今、居ない人達のことを思っている。
もうじき、イサも東京を離れて行く。
先日はアトリエを手伝ってくれていたミヒロから手紙をもらった。
本当に嬉しかった。
この場に居ないけど、この場を大切に思ってくれている人達がいる。
クリちゃんとも家族のようになれた。
アトリエに少しでもいた人達はみんな、ここを大切に思い続けてくれる。
僕達はそうやってつながっている。
このテーマをたまに出して申し訳ないが、
亡くなった人達も大きな存在感と影響力をもっている。
生徒たちでも、ここ数年でアトリエを離れて行った人達のこと。
自分の選択ではなく、様々な事情で離れざるをえなかった人も多い。
そんな人達の思いが場には残っていく。
僕はよく、居ない人の「意志」を感じる。
もっと言えば、自分の意志なんてほとんどなくて、
自分に残してくれた人、教えてくれた人、見せてくれたひと、
託してくれた人の意志と思いが、僕を動かしている。
だから、最近の若者はやりたいことが無いと言われるが、
実は僕も自分のやりたいことなど無い。
いつも、お前、これをやれ、こうしなさいという声が聞こえるだけだ。
亡くなった人達が増えていくので、自分がしなければならない事も、
どんどん増えていく。
僕がいつも、手を抜けない、中途半端なことは出来ないと思うのは、
一度でもそれをしてしまうと、自分に託してくれた人達に申し訳ないから。
時々、あれ、僕はこんなこと考えないぞ、
とか、そんな見え方しないんだけどなあと不思議に思う時があるが、
気が付く、あああなたかと。
そうやって居ない人の目を通して物事が見えたりする。

今、居る人達のことだけを見てはいけない。
ここでこうしていれるのは、沢山の人の思いがあってこそ。

よく、「今だれだれがいないから、いまのうち」みたいなことを言う人がいるが、
僕の場合は逆だ。
居ない人の方が自分に影響をあたえる。
居ない人の意志の方を大切にしてしまう。

でも、もっともっと強いのは作家たちとの繋がりかも知れない。
一度でもこころの奥深くに一緒に潜った経験があれば、
その繋がりは決して消えることが無い。

自分の中に沢山の人の目を持つことは、自分を豊かにすることでもある。
確かに責任は増えるけど、生きる世界ははるかに豊かになっていく。
僕はこれは幸せなことだなあと思う。
そういう意味でも時にお墓参りもしたほうがいい。

2012年2月20日月曜日

丁寧に

毎朝、寒いですね。
無事大阪での公演を終えました。
みなさま、ご協力ありがとうございました。
好評だった様なのでほっとしています。
僕としては60点くらい。もうちょっと丁寧にお話しすれば良かったと思っています。
ああいった場面で充分に内容を伝えるのに、必死になりすぎたのと、
アトリエから僕1人なのでみんなを代表していることで緊張してしまいました。
でも、重要な部分はお話しできたと思います。
一言で言うと「こちらの視点から彼らの視点へ」ということ、
テーマとしてはダウン症の人たちの世界に耳を傾けようと言うものです。

さて、お知らせがあります。
前に少しお話ししましたが、アトリエの作家たちの作品をTシャツやグッズとして
展開して行き、ダウンズタウンに一歩でも近付きたいと、
進めているプロジェクトの第一弾が動き出しました。
今回はフラボアさんとのコラボで、アトリエの作家の作品がデザイン化された服を
買っていただくと、タグの50円がダウンズタウンプロジェクトに寄付されます。
既にフラボアのHPで紹介されているようです。
アトリエは契約だけ整えれば、後はお任せしています。
商品についてはフラボアのHPをご覧ください。
企画に関しては進めて行く時に、様々な意見があると思います。
でも、可能性を切り開いて行くには、まず動き出さなければならないと思います。
手放しで良いと言って下さる方、違うと感じる方、もっとこうした方がいい等。
色んな思いがあると思いますが、まずは一つでも挑戦していく。
挑んで行くことが大切だと思います。
こういった可能性を一緒に信じて、挑んで下さっている、
オーガビッツやフラボアの方々に感謝です。

もう一つお知らせです。
天然生活4月号に、
アトリエ・エレマン・プレザンの作家たちの作品が紹介されています。
こちらも是非ご覧ください。

昨日の夜、テレビで情熱大陸を見た。
菓子職人が特集されていたが、久しぶりに面白かった。
やっぱり、単純なことだけど、どんな仕事でも真剣にやっている人は、
素晴らしいし、見ていて励みになる。
色んなことを話していたが、一番こころに残ったのは、丁寧にということだ。
普通の人から見たら、本当に細かい部分、ほとんどの人が気づかないような、
些細なところにこそ、その仕事の要がある。
僕自身もそれをいつも実感する。
多分、こんなところそんなに違いは無いだろうと感じてしまうのが素人だ。
技術も才能も大切だけど、もっと大切なのは丁寧さだと思う。
その菓子職人は若いスタッフに「雑なんや」「もっと丁寧に」を連呼する。
本当にその若い人の動きは雑だった。
丁寧に扱う、大切に、繊細に触れていく、という注意力が足りない人がいる。
アトリエの制作の場でも、「佐久間さんだから出来る」と言われることがある。
でも、前にも書いたが特殊な能力が必要なことについては、
僕は語らないことにしている。
もう少し注意力を持って、もう少し丁寧に見ていけば、
必ず出来ることしか僕は言わない。
はっきり言って、みんな能力の差が出て来る以前でひっかかる。
もうちょっと丁寧にと思うことは多い。
それにしてもいいなあと思ったのは、
その雑な若い人のために菓子職人は、誕生日ケーキを作る。
素材選びから、全部丁寧に一つづつ自分ですすめる。
こういう人こそ本当の教育者なのだと思う。
ただ丁寧にしろというだけでなく、自らがその人のために丁寧な仕事をする。

僕は愛情とは注意力だと思っている。
子供が愛情を求める。その時、つまり自分に注意力をはらってくれということだ。
だから注意力が足りないと、悪いことでもする、悪いことの方が、
普通は人の注意をひくことが多い。
悪いことというのは、その行動が出てきたら、あ、注意力が足りてなかったかなと、
思った方がいい。
僕は小学校くらいの子供と遊ぶのが好きで、昔から合宿とかでよく遊んで来た。
彼らは面白かったり、何かを見つけたり、
そこへ向かって行こうとする時、一緒に共有して欲しいと感じる。
そこで注意力が必要となる。もし足りなければ、悪いことをしてでも振り向かせる。
こういう場合、叱っても、注意力を相手に向けたと言うことなので、
悪いことをした目的が実現してしまうだけだ。
ケースバイケースだけど、僕は悪いことをしたら、この場合だと叱らない。
注意力を向けない。そうするとつまらないからやめる。
次に面白いことをした瞬間に注意力を向ける。
そうしていくと、悪い方向に行くとつまらないし、不快な経験しかしない、
良いこと面白いことをすると、みんなが気持ちよくなって、
自分に注意が集まると言うことが本能的に分かって来る。
これは制作の場でも同じ。誰かが他の人の邪魔をしたり、
場を壊す様なことをしたら(本当は行為の前に対処する)、
叱るより、そこに注意を向けずに、制作や良い部分にだけ注意力を使う。
そうすれば、どっちの行為によって自分が気持ちよくなれるのか、
無意識のうちに分かって来る。
絵を書いていても、見ている方が良い流れの時にちゃんと反応する。
悪い流れや濁った動きには、ああ出て来たねとちょっと離れた距離をとって、
見ているけども注意を強くしない。
愛情は力だ。愛情は人のこころを方向付ける。
愛情があると興味がわき、注意力が働く。そして、丁寧に扱うようになる。
愛情、注意力、丁寧は一つだ。

講演から帰って来て、良い事があった。
すぐに日曜午前のクラスを見に行ったが、ゆりあが素晴らしかった。
まさひろ君といる時、特に良かった。
こういう事は説明出来ない。何をしたから良い、何をしたから悪い、
というものではないからだ。
強いて言えば、自然さだ。場と完全に一つになった時、
スタッフはほとんどいない様な雰囲気になる。
でも、消えた訳ではない。消えるとまた、人は不安になる。
ほとんど居ないように、だけど居ると言うことだ。
少しでも不自然さがあってはダメだ。
多分、土曜日はここまで出来なかっただろうし、
また次回、同じようにも出来ないだろう。
でも、昨日の午前クラスでのゆりあはほぼ理想だ。
褒めたからと言って、それが維持出来る様なものではないが、
あえて褒めておきたい。
僕達の仕事は本当に上質な良い場を創ることにある。
それは一回きりの勝負だ。最高のものが出来ても、それでおしまい。
何も残りはしない。消えて行く。誰もその瞬間は憶えていない。
誰も褒めてはくれないし、誰も評価などしてくれない。
また、創る、創り続ける。それしかない。
だから、その覚悟が必要だ。
そんな世界に入って行かなければならないのだから、その前に、
今回はゆりあに良い仕事してたよ、自信もってねと褒めてあげたい。

2012年2月16日木曜日

ゆりあへ

昨日は久しぶりに元学生チーム、赤嶺さんがお友達と教室に来た。
お友達もとてもいい子だ。
それから、長い間、アトリエに通い続け、論文を書いて来た関川君が、
大学院試験に無事合格。おめでとう。
でも、本当に肝心なのはこれからだぞー。

さて、今週末は大阪で公演をするので、1、2日ほどアトリエを空けることになる。
土、日曜クラスはスタッフのゆりあが責任を持ってすすめます。
各クラスのみなさま、よろしくお願い致します。
お手伝いは絵本作家の菅野由貴子さん(久しぶりに)と関川君にお願いしました。
いい教室になると思います。

この10年で土、日のアトリエを離れたのは、この他には後一回あるだけだ。
ゆりあには、これまで内面的な部分を話して来たけど、
ちょっと具体的なことを書くから、頭に入れておいてね。
絵の具は作ってあるけど、何度もよく混ぜて、少し念入りに溶いておく。
底の方でどうしても固まるから、筆を底にあてて何度も混ぜる。
固まりがないか確認する。
作家が紙の上に筆を置いた時、色がバチッと決まるように。
掃除機もかけてあるけど、もし気になってかける場合は、
みんなが来る30分から15分前には終わっているように。
人が着た時に掃除機の音がしていないように。
こころの準備もあるから、15分前にはただ待っている状態がいいね。
描き終わって、保護者の方に絵を見てもらって、
もし着替えとかで、その場にいなくなっても、
基本的には帰るまでは作品は並べて見れるようにしておく。
同じ時間に帰る人達の場合は、なるべく他の人の作品も一緒に見せて。
最後はなるべく見送りに玄関まで。
でも、他の生徒を見ているときは場を離れないこと。
申し訳ないけどその場で見送る。
2人いるので1人が見送りに行けるといいね。
でも、2人ともその場に必要なときは仕方がないので、
生徒の方を優先してね。

時間はきっちり頭に。他の人が時間を忘れられるように、
スタッフは時間配分をちゃんとしよう。
時間が延びて行くと作家にも迷いがうまれるだけ。
混乱せずに充実した場にするためには、時間とルールは厳守する。
他の人はそこを自覚しないでのびのび出来るように、スタッフが配分する。

スタッフが疲れていたり、気が散っていたりして、
エネルギーが不足すると、わざと遊んだり走り回ったりする人が出て来る。
リラックスしつつ、一定の緊張感は保つ。

制作以外のところに逸れて行かないためには、
スタッフが一人一人のリズムを見極めること。

次に繋がる何かをこころに残して帰してあげてね。
あとの、内面的な部分はもうたくさん話して来たから書かない。

お手伝いは必要だけど、その場の責任は必ず誰か1人が持つようにする。
場に責任をもって構成する人は1人でなくてはならない。
そうじゃないと、纏まらないし、曖昧になってしまうから。
今回のクラスの場はゆりあが責任を持つ。

ゆりあにはもう出来るから、自信だけ持って、どっしり構えてね。
緊張や焦りは場を固くするからね。
みんなを不安にさせないように、自分も楽しむことだよ。
自分と、自分の判断を信じて。
出来るとはっきり自覚していいから。
自分でやってみると色んなことを発見するよ。
新しい世界に飛び込んでみよう。

日曜日、まにあったらなるべく早くアトリエに行くよ。
良い経験をして自信をもったゆりあに会えることを楽しみに。
緊張しないでね。僕も講演会、緊張してるけど。
お互い、頑張ろう。

ゆりあさん、よろしくおねがいします。

2012年2月13日月曜日

今、このときを大切に

昨日も雑誌の撮影が入った。
今は調子の悪い人も多い時期なので、いつも以上に気を遣う。
万全とは言えないまでも、作品もいいものが描けているし、
まずまずのクラスをお見せ出来たのではないだろうか。
しんじ君が「サクマさんってこんな人なんだよ」と、
お客さんに説明しているのが面白かった。
僕がふざけているところを、人に誤解されないように配慮している。
いつもそうだけど、彼らは本当に分かっている。
だいたいのことは察知している。

最近はますます思う。
彼らも、色んな場所で無理したりストレスを溜めていて、
辛い思いをして、ずっと我慢している。
そして、このアトリエまで頑張って来て、やっとホッとする。
そんな彼らに、少しの時間でもいい気持ちでいて欲しいし、
自分のリズムを取り戻して帰ってもらいたい。
一回の教室でも、疎かに出来ない。
遠くからはるばる来て下さる方もいる。
ここだけが、行き場所と思っている人も多い。
だから、本当のことがしたい。みんなに活き活きしてもらいたい。
そのために出来ることは短い時間の中であれ、
どんなことでもしなければならない。
エネルギーというものが、目には見えないけどある。
使いすぎると生命が消耗する。
でも、消耗した人が目の前にいたら、
僕は自分の中に蓄えたエネルギーを全部あげる。
それでも、ほんのちょっとだけ、良い流れが出来るだけだ。
人に良い気持ちになってもらうなんていうことは、
たやすいことではないのだ。
だからこそ、やりがいがある。

それにしても、昨日のしんじやしゅうちゃんの存在は素晴らしかった。
こういう人がいて、来た人は「いいなあ」と感じるのだ。

「場」というものは、人が居て初めて良いものになる。
どこかいい場所、もう一度行きたい場所を想像すると、
必ずそこに誰々がいる。あそこにはあの人がいる、と。
そういう人が居て「場」は出来ている。

アトリエでも、てる君やハルコさん、プレでのアキちゃん。
こういう人達が、主みたいになっていて、
「ようこそ。ここはこんなところだよ」と伝えてくれている。

前回、共働学舎のノブちゃんのことを書いた。
彼女もそんな存在だった。
あの場所をイメージする時、ノブちゃんのことを思い出す人は多かったと思う。

人こそ最大の財産。

一回、一回のアトリエをとことん大切にしていきたいと思う。
僕達の一生はそんなに長いものではないのだから。

先日もハルコと何気なくお話ししていると、
彼女が亡くなった人達を一人づつ思い出している。
しばらくして「どんどん減っていくね」とつぶやいた。
僕はすぐに「最後はハルコとドキンちゃん(彼女が好きなゆりあのこと)だけになったりして」と言うと、ハルコは大笑いしていた。
だけど、本当にその時は深く共感した。

単純なことだけど、精一杯、悔いのないように生きなければ。

ここまで会いに来てくれる人達に対しても、
いつも何か持って帰っていただきたいと思う。
何か得てもらいたい。もう二度と会うことが出来ないかも知れないのだから。
いつでも、これが最後かも知れないと思って、
本気で向かっていくようにしている。
見学者に対しても、色々注文をつけるようだが、
すべては少しでも良い場面を見ていただきたいからだ。

ましてやわざわざ、話を聞きに来た人に対しては、
持っているものはみんなあげなきゃと思う。

そんなこと思わなくてもいいのかも知れないが、
「ブログ読んでます」とか言われると、
じゃあ書いてないこと話さないとと思ってしまう。

今、この瞬間はもう2度とやってこない。
だからいつも大切に大切に、慈しむように生きていこう。

2012年2月11日土曜日

ノブちゃん

少しづつ暖かくなりだした。冬ももう少し。

さて、前回までやや専門的な話題にお付き合いいただいた。
そろそろ、一般的なお話に戻していこうと思っていたのだが、
今回は別の次元で、個人的なお話しになってしまいそうだ。

いつも書いていることだが、僕は制作の場を神聖視している。
土、日曜日の絵画クラスの前日は、万全を期すため早く寝る。
夜は出掛けないし、人にも余り会わない。お酒も飲まない。
気持ちも身体もベストで挑みたいからだ。
勿論、万全を期してもいい状態でばかりあれるわけではない。
正直、今の僕であればちょっと位、体調が悪かろうが、
気持ちが沈んでいようが(それはあんまりないけど)、場に入れば、
すぐにモードが変わる。日常には左右されない。
僕にとってとても重要だった祖母が亡くなった時も、
葬儀の後の教室では自分に全く変化はなかった。
そのうえで、さらに備えるために準備をする。
僕にとっての準備は前日は早く寝ることだ。

でも昨日は夜更かしをしてしまった。
何をする訳でもなく、ずっと音楽を聴いていた。
まあ、一言で言えば悲しかったからか。
共働学舎の仲間の1人からメールがきた。
すでに12時を過ぎていたので、何かあったに違いないと思い、
起きて電気をつける。
学舎のメンバーノブちゃん(のぶこさん。あえてフルネームは書かないことにする)
が亡くなった。50才だった。
身体は健常ではないとはいえ、早すぎる気がする。

ご冥福をお祈りします。

去年も1人、仲間を失った。
神様だか運命だかに言いたい。
ちょっとただでさえ少ない登場人物を、これ以上減らさないで欲しい。

亡くなったから言う訳ではない。
ノブちゃんほどのやさしさを持った人を、僕は他に知らない。
彼女は本当に平等だった。
みんなのことが好きだった。
彼女の愛情は記憶すること、憶えていることで表現されていた。
彼女はずっと同じ場所から(物理的意味でも、精神的意味でも)
人を見守り、愛し、見送り続けた。
彼女はどこへも行かず、去っていく人達を見送り続けた。
そして、どんな人のことも忘れることは無かった。
共働学舎にとっても、生きる歴史そのものだった。
あの時、誰と誰がいて、こんな事があった。
この人と、この人は仲が良かった、悪かった。
そんなすべてを記憶して話してくれた。
自分が忘れたことも彼女が憶えていてくれた。
彼女の記憶によって、自分の帰るべき場所が残っている、
という様なことがあったかも知れない。
憶えていることが、その人への愛情であった彼女に、
僕も記憶で返したい。
ノブちゃんのことを、これからずっと憶えていよう。
絶対に忘れないでいよう。

いつも見送る側で、さみしい想いばかりしてきたノブちゃん。
今は見送られる側にたっている。
僕が経験している悲しみ、さみしさや愛情も、
彼女のそれに比べれば、本当にちっちゃいものにすぎない。

ノブちゃん、たくさんの人や思い出を保存しなければならない器の中に、
僕なんかの場所を作ってくれて、本当にありがとう。
何もかもが変化していく中で、消えて行く中で、
変わらずに、ずっと同じようにいてくれて、
人を記憶し、愛し続けてくれてありがとう。
いっぱいさみしい想いをし続けても、愛すること、憶えていることを、
やめなかった、その姿勢はりっぱだった。
誰のことも憎まず、嫌わず、否定しなかった。
みんなに平等に愛情を持ち、どこへ行っても、その人達の幸せを願っていた。
みんなが仲間であると、本当に教えてくれたのは彼女だった。
若さ故、仲間との議論やケンカも多かった僕に対しても、
いつでも変わらず穏やかに接してくれたね。
僕も少しは見習いたいと思う。

ノブちゃん、長い間、ほんとうにありがとうございました。
きっとどこかで、今でも誰のことも忘れずに憶えていてくれて、
思っていてくれるのだろう。

これからも見守っていてね。

2012年2月8日水曜日

あのとき見たもの

ちょっとお知らせです。
2月18日(土)午後2時から開かれる
「弟12回 日本ダウン症療育研究会」(近畿大学医学部講堂)で、
佐久間がお話しさせていただきます。
場所は大阪狭山市大野東377−2です。
僕は特別講演という枠で4時40分〜5時40分までお話します。
テーマは「制作現場から見たダウン症の人たちの世界」となっております。
(日本ダウン症療育研究会事務局 072(368)1566)
関西圏の方でお時間のある方は是非。

実はどんなお話をするか、まだ決めていません。
当日の他の方のお話や、お越し下さっている方達のご興味を感じてから、
決めていこうかなと思っています。

さて、前回まで、
制作の場でのスタッフとしてのやや経験的な話をしてきた。
こういった内容は今回で終わりにして、またもう少し一般的な話に戻していきたい。
この経験だけはちょっと書いておこうと思ったので書こう。

早いもので東日本大震災(3•11)から、一月で一年になる。
この問題はまだまだ続いているし、今後どうなって行くのかは私達次第だ。
ここでは外的な問題や政治にはふれない。
あの時、僕自身は個人的な深い体験をした。
その時、見たもの、感じたこと、経験した世界は、
前回まで書いて来た人間のこころに潜るという行為の一つの結果だ。

制作の場でこころの奥に入って行くこと、
それを深めていくと、様々な経験をするし、たくさんのことが見えて来る。
お互いのこころが繋がる場所とは、お互いのこころが分かれる前の場所。
それを見に行く。無意識を共有するともいえる。
こころは層になっているという話をしたが、
浅い層から、少しづつ深く入って行くと、
表面の意識にある混乱や騒がしさとは別のものが見えて来る。
少し奥に進むと調和やバランス感覚がみつかる。
それを見ていくと人間と言う存在に信頼感覚が生まれる。
一皮剥けば、みんな同じと良く言うが、だいたいは悪い意味で使われる。
善人に見えても、一皮剥けばみんな悪いことを考えているとか。
それは確かに事実だ。本当のことだ。そして、この一皮剥いた状態を知るべきだ。
でも、僕だったら、さらにもう一皮剥くし、それからさらに一皮。
そうすると、みんな同じという同じが、
みんな良い存在で価値があるという事になって来る。

実際に制作に向き合っている時、そんな経験を重ねているのだ。
浅い意識やこころはとらわれていても、
荒れていても、少しづつ、奥へ分け入っていく。
そうすると混沌から調和へ向かっていく。
それで終わりではなく、この行為はくり返される。
バランスは絶えず崩れるし、壊れる。私達が死んでいくのと同じだ。
永遠のバランスがある訳ではなく、
科学者が言っている「動的平衡」というのに近いだろう。
こころも物質も同じ仕組みで出来ていると思う。
だから、一度、調和を見出したから終わりではなく、
混沌から調和へという行為をくり返すことが生きることだろう。
まさしく制作の場では、そんなくり返しをおこなっている。

そういう経験をしているわけだ。
一度、そんな深い経験をすると、
場を離れて、生活していたり、街を歩いているときでも、
その風景は戻って来る。
こころが変われば世界が変わると、僕は感じている。
今、僕に見えている風景、世界は、ダウン症の人たちをはじめ、
沢山の人達が見せてくれているものだ。
もし、そういう人達、存在がいなければ、
僕にはこんな世界が見えることは無かっただろう。
見せてくれて、教えてくれてありがとうといつも思う。

3•11の時、そんな体験があった。
天災と人災は違う。天災はどんなに辛いものでも悪いものではない。
今回は原発による人災をもっと考えなければならない。
でも、そこはもう何度も書いて来た。
今はもっと内面的な話をしよう。
天災であれ、人災であれ、あの日、とてつもなく大きなものが壊れた。
破壊され、崩れ去った。
壊れたものは2度と戻っては来ない。
このことから目を背けてはならない。
悲観すべきではないが、事実を無視してはいけない。
あの日以来、すべては変わってしまった。

あの日、僕は新宿に画材を買いに行っていた。
大きな揺れがあった時、直感した。大変なことが起きていると。
何か違う現実に入って行った感覚がある。
世界が突然変わった。外では太陽の光が輝き、途中明るい中で雨が降った。
人々は立ち尽くし、何も反応出来なくなっていた。
僕は新宿御苑に向かって歩いていた。
ビルがグーオーンと歪む。
不思議な静けさが漂っていた。
新宿御苑の前に立った瞬間に、警備員が来て非常口が開いた。
まるで自動ドアのように、僕はそのまま入って、静まるのを待った。
その日は夜、歩いて自宅まで帰った。
帰ってからも不思議な感覚は続いていた。
自分の感情が動かない。というより自分がいなくなってしまった。
なんらの恐怖心も、混乱もおきない。
どこにも、自分がいない。ただ、見ていた。
この事実、この現実そのものとなって、ただ、その場で見ていた。
テレビから離れなかった。
自分自身が地震や津波、おきている現実そのものになってしまったようだ。
なにも感じないで、ただひたすら現実と共にある。
そんな状態が一日中続いた。
すべては破壊され、すべては変わった。そして破壊は続いていた。
僕はこの世界そのものだった。
朝、目の前に突如、調和とバランスがあった。
世界は美しかった。こころと身体は再び調和へ向かって動こうとしていた。
それはあまりにも自然に動き出した。
調和に向かうのが僕達の本能であり、
この世界の性質なのだと深く実感したのだ。
しかも、このこころの内面の動きと、外の動きが完全に一致していた。
すべては自然だった。僕と言う個人のいないところで、
僕という存在を乗り物として、普遍的な原理が、
混沌から調和へという運動を見せてくれたのだ。

この経験は僕に、アトリエでの日々の実践が、
人間にとって何を意味するのか、どこへ向かっているのかを教えてくれた。

2012年2月7日火曜日

ちょっと深い話

三重県に居るよし子は風邪をひいたり、ゆうたの皮膚に細菌がついたりと、
色々ある中で、周りのみんなに助けられて生活出来ているようだ。
よし子も安心している様子だ。
有難いという気持ち以上に東京で何もしてあげられないのが、申し訳ない。
周りの人達に感謝。肇さん、敬子さん、文香ちゃんがいてくれて、
本当によかった。

そろそろ悠太に会いたいなあ、と思いつつ写真を眺めて仕事している。

さてさて、前回の続きの話で、
僕達スタッフの視点からもっと深い体験のレベルの話をしてみたいと、
思ってはいたのだが、その前に、
最近もまた相談を受ける事が多いので、
もう一段生活レベルのお話から始めたい。
もう、何度も書いて来ている事ではあるが、ダウン症の人たちにとって、
思春期頃(人によって時期はズレる)が一つの変わり目であることは確かだ。
この時期に気持ちが病んでしまうケースは、本当に多い。
お医者さんや専門家がもっと、この事を議論し必要な手助けをおこなう必要がある。
僕らはただ、絵を見て来た人間に過ぎない事をおことわりしつつ、
少し考えていきたい。
これはあえてくり返し書いているのだが、
周りで彼らを見守る人達が充分に自覚しておかなければならないのは、
ダウン症の人たちの場合、言葉や行為からだけ見ていても、
変化に気づきにくい場合が多いということだ。
無理をさせて、ストレスを溜めることが、
普通の人よりはるかに危険度が高いということなのだが、
実は無理させていることや、ストレスを感じている事に、
なかなか周りの人が気づけないという問題がある。
もう一つは無理のない環境で育ててあげようとしても、
今の社会の中で、それを実践するのはかなり難しい。
というより普通のご家族では不可能かも知れない。
もっとみんなで協力し合える社会なら良いのだが。
くり返しが多くなりすぎるのでこれ以上は書かない。
ただ、ご家族の方に一つだけお願いすると、
本人に「無理していない?ストレスたまっていない?」と
聞くのはやめていただきたい。そんな言葉で「無理してるから、もうやめたい」と
言えるくらいなら、最初からこんなことは問題にならない。
それから、言葉に出したり、行動に変化が起きだした時は、
本当はもうすでにかなり遅いのだということを、知っておかなければならない。
このあたりは一般の人達とは少しリズムが違うし、
他の障害の人達とも性質が違うことは認識されなければならない。

天真爛漫、元気いっぱいで自由に見える人ほど、
その様に振舞えなくなる環境にはもろいので気をつけなければならない。
絵にしたって、途切れることなく、なんの不安もない、
自由な世界にいる時こそ、こちらは気を遣う。
その次元は本当はとても繊細でもろいものだ。
大切に大切にあつかっていかなければならない。

制作の場にも最大の配慮がいる。良いものほど壊れやすい。

でも、答えはいつもシンプル。
難しくなることも多い。上手くいかないことも多いけど、
その度に愛情をかけ、あたたかく、大切に向き合っていくしかない。

さて、前回までの話からもう一歩踏み込んでみたい。
本当はこういう話は書くべきではないのかも知れない。
裏話、こぼれ話のたぐいかも知れない。
前回、僕にはある特殊な感覚があって「見える」とか「分かる」ということが、
自然におきるということを書いた。
あれだって、別に書かなくてもいいことではある。
テーマを掘り下げていくと、個人的な感覚や経験が関わって来るので、
そこにどうしても触れなければならなくなることもあるということだ。
言わなくていいというのは、
このてのことは、分かる人には分かる、感じる人には感じられると言うことで、
もし分からないという人には、どれだけ説明しても意味がない。

だから、まあいままでもそうだが、部分的にこういうテーマになったら、
ちょっとご興味のおありの方だけ、お付き合いいただければと思う。
別に関係ないなと思われたら、その部分はお読みにならなくて結構です。

制作の場で一人一人のこころに向き合っていると、
人間のこころは層になっていると感じる。
こころは一人一人違う形をしているが、
ここの層、もうちょっと奥の層、もっと深い層と進んでいくと、
それぞれの段階で同じ様な形があり、
全体の構造はひとつだ。
そういう段階を一つ一つ、手で触るように確認して進めていく。
この作業は本当に繊細な知覚の力を使うが、面白い。
何度か書いたが、共感とか、響き合うとか、あるいは相手と一つになる、
という様なことにしても、こころのどの層に向けたものなのかで、
様々な違いがある。
共感が起きているとき、こころのどの層に共感しているのか。
一つになっているとき、どの層と一つになっているのか。
もっと言えば、相手を理解するというとき、
相手のこころのどの段階の層を理解したのか。

僕自身は深いレベルの層に触れていくことがテーマになっているが、
べつに浅いレベルの層にも魅力もあり、可能性もあり、共感もおきる。
作家との一体感で良い場が生まれる。
それは、浅いレベルの層のでおきた一体感であっても何も問題はない。

だから浅い層を問題にする人と、深い層を問題とする人では、
ただ趣味や傾向が違うというだけかも知れない。
あるいは人生観が違うのか。

僕自身は深いレベルまで入って行くことがテーマだ。
なぜなら、もっと知りたいのかも知れないし、もっと奥まで行ってみたいからだろう。
例えば、絵に関してだけ言うなら、深いレベルまで下りていった方が、
面白い作品に仕上がっていくことは確かなようだ。

深い層を見ている場合、どうやってそこまで行くのか。
僕の場合、目の前に相手が来るまで、どの層まで行くかは決めていない。
でも、行けるところまでは行く。
表面の層に触れてジワジワ、まわりからほぐしていってから、
芯に入って行くのか、いきなりダイレクトに本質に入るのか、
相手の体調とこころの状態次第だ。
悩んだり迷ったりしている人が居たとして、
どのレベルの層によって、そこを癒していくのがいいのか。
浅いところだけの方がすんなりいく場合もあるし、
浅い層でおきた問題でも、一歩深いところから入れば、
浅いところにまったく触れなくてもすぐにバランスが戻ったり。

悩んでいる、苦しんでいる、その人といる。
その層が一段深いところへ下りる。
表面的な苦しさにも触れている。
そのうち自分から、もう少し深いところに動こうとする。
僕はすぐに反応して入口を大きくするために開く。
そうすると、そこから彼は深いところまで入って行く。
途中で怖くなって僕を振り返る。
「大丈夫。もっと進もう。いつでも戻れる」
僕はそんな態度を見せる。
もっと進むと彼から恐怖は消えて行く。
もっと進むと彼と僕は一つになる。もっと進むと一つになった一体感も消える。
もっと進むと、そこには彼も僕もいない。
自然と同じものがある。普遍や調和やバランスがある。
もっと進むとそれも消えて、でも何か得体の知れない大いなる感覚だけがある。

もうこうなると宗教みたいな話になって嫌なのでこの辺でやめておこう。

2012年2月6日月曜日

場を創る側の視点

さて、少し前回の続きの様なお話を。

それにしても、スタッフとしてゆりあが順調に育って来てホッとしている。
いよいよ、卒業。
アトリエにも本格的に来てもらう。
卒業制作、上手くいった?と聞くと、
「うん。やれることは全部やったし。でも、もう終わった感じ。次は違うようにしたい」
と、どうどうとしている。
これくらいの意識で何かに挑めるなら、教室も任せられるようになるだろう。

ゆりあが今の姿勢を貫いていけば、
いずれは僕なんかよりよっぽど良い仕事をするだろう。
勿論、教室での動きは僕から見てまだまだだ。
僕ならここは見逃さないという場面は多々ある。
でも、大事なのは謙虚さと真剣さだ。
それがなければ何が出来てもこの現場ではダメだ。
ゆりあにはそれがある。一番大切なものが。
現時点ですでに場が普通に流れていれば、
任せきれるだけの仕事は出来る。
これから必要になって来るのは、
流れが止まった時や、乱れた流れが来たとき、
どうやって自然な流れに戻していけるかだ。
ずっと見ていると、良い時も悪い時も、
ありとあらゆる場面に遭遇するだろう。
そこで絶えず、狼狽えず、焦らず、安心した空気をもち続けられるか。
人間として強くなることだと思う。

アトリエにはたくさんの学生が来ているから、
その中からスタッフになる人はいないの?という質問を受ける時がある。
正直、それは難しい。
そういう目的で来る人を見ていくのなら可能かも知れない。
この場から、あるいはダウン症の人たちから、
何かを学びたいと思ったり、彼らと居ると楽しいと感じてくれたり、
そういう人達と、「場を創る」という人は要求される能力が違っている。
どちらが良いと言うことではなく、種類が違う。
ここから何かを吸収して成長していく人達は、
貴重な存在だ。だからなるべく受け入れる。
来る条件は「学ぼうとする謙虚さ」だ。
そこが歪んでいなければ、来ていいよと言うことになる。
「場を創る」人となると、もっと別のものも必要だ。
スタッフは選ばれなければならない。

それと場に入ると、よし子や僕との彼らの関係が最初に見えるので、
いいなあと思うと、よし子や僕のマネをしてしまう人も多い。
でもマネはやめた方がいい。
間違った方向に努力してしまう事になる。
大事なのは彼らを見ることだ。
よし子と僕とでは見方も関係の作り方も違う。
人は自分の在り方を自分で見つけなければならない。

場を創る側となると、自分の姿勢を身につけなければならない。
ある意味でいうと強引さ無しで、相手のこころを動かせなければならない。
これは結構、難しいことだ。
例えば、生徒が入って来て最初に「寒いね」と言う。
こちらはどんなふうにもかえすことが出来る。
「本当に寒いね」と共感するのか、「えっ寒くないよ」とずらしてから、
別の場所に行って出会い直すことで、共感をより強く演出するのか、
「昨日もこんなだったっけ」と何気なく、その人の生活に入るのか、
「あっ、今すぐあたたかくなるよ」とエアコンの温度を上げて、
安心と別の場所への切り替えに意識を向けるのか、
これだけでもほとんど無限の選択肢があり、
しかもどこを選ぶのかでその後の流れが変わっていく。
こういう微細なこころの動きに付き合えなければ、
作品に向かう彼らの感性に共鳴し続けることができない。
スタッフが見つめただけでも、座る場所を変えただけでも、
立ち上がっただけでも作品は変化する。

日常生活でこんなことをしていては大変だ。
つまり、彼らと楽しく過ごしたり、生活の面で手助けしたり、
支え合って友情を築いたりすること、そういうことは、
どんな人でも可能だし、必要だ。
だから、それが楽しいことで私達にもプラスになるよということを、
ここへ来る人には感じてもらいたい。
そして色んな環境の中で彼らとの関係を続けてもらいたい。
それと上に書いた様な微細な制作の領域とは別だ。

ある意味でスタッフは友達でも家族でもない。
かといって指導者でもない。

スタッフを育てるということと、
現場から色んな経験をもらって成長していくということは別のことだ。
でも、両方の人が必要だ。
どちらも重要なことだ。

こんな話が面白いのか分からないが、
最近良く話題にあがることが多いので書く。
例えば、僕の場合、相手のこころにどこから入って行けばいいのか、
すぐに感じるし、見える。
隣に座った時に相手に強い母性を感じて、
自分の意識が子供のようになっていった事があった。
そこから彼女の制作はぐんと深くなった。
こんなことは考えては出来ない。
こころのどこに触るべきか、あるいは触れてはならないのか。
いわば、こころの形のようなものが見える。
彼らと初めて接する人を見る。
目の前に立つ。2人の距離と関係。2人が一緒に居るのを見ただけで、
いいとかダメと、その間合いが見えてしまう。
「あれダメだよね」と学生に話しても、みんな分からないようだ。
だから後で上手くいかなかったとなるのだが、
僕には最初の時点で、その間合いではこころが動かないとか、
そこから入ったら止まっちゃうよというのが見えてしまう。
普通に誰かと誰かが話していても、
あれ、そこ入口じゃないよとか、そこつついたら混乱するよというのが見える。
内側の動きが見えたり感じられたりするのは、
訓練した訳ではない。

だから、僕はスタッフやここから学びたいという人に、
僕の様な見え方になれとは言ったことがない。
別に見えなくてもいい関係は創れるし、良い場はつくれる。
なんで見えないの?とかなんで分からないの?とか
そんな事は思わないし、言わない。そんなのは自分のエゴでしかない。

個人的体験で言えば、この「間合いが見える」ということが出来る人は、
僕が出会った中ではよし子しかいない。
勿論、そんな事が出来なくても良い仕事をしている人はたくさん居た。

外面に現れたものをしっかり見ていけば、良い場が出来る。
その人を思い、必要なことをしていけばいい。

目つきを見るように言う時がある。
目を見れば、どんな状態にあるのか分かるので、時々確認するように。
でも、僕自身は相手の目は見ない。
見なくても分かる。

でも、それがいいと言うことではなく、ただそれだけのことだ。
人にはそれぞれの条件があるのだから、人のマネをしてもしかたない。
でも、世の中地位も権力もあって、お金もあって、
しかも才能や能力のある人がいっぱいいるし、
普通はそういう人のマネをしたいと思うのだが、
わけの分からない僕みたいな人間のマネをしてしまう
人達は本当に純粋で可愛くもある。

これから先の事を考える。
ゆりあが重要な人間になっていくだろう。
僕とよし子でも視点は違う。
ゆりあはさらにどんな見方をしていくのだろう。

いずれにしても、今後アトリエではゆりあの出番が増えてきます。
まだまだ至らないところはあるかと思いますが、
新しいスタッフを応援して、あたたかく見守って下さい。

2012年2月4日土曜日

関わる人達

今日も寒いですね。
朝からいっぱいメールがきていて、どこから手をつけようかと、
思いつつもブログもそろそろ書かなきゃということで。

それにしても、仕事も増えたしたくさんの人に会う。
でも、こうして何かしら関心を寄せて下さる方が増えているのは、
有難いかぎりだ。

最近、受ける質問の中には私達スタッフの認識や、
もっと言えば僕個人、佐久間という人間のこと、
アトリエの背景に関するものが多くなってきた。
僕自身はアトリエもスタッフも、あくまで脇役、表に出て行く存在ではない、
と感じている。
もっと、ダウン症の人たちの作品と、こころの在り方に注目していただきたいと。

でも、ある意味で彼らの作品の力が伝わって来たからこそ、
それを見守るアトリエやスタッフの視点にも関心が抱かれるのかも知れない。
制作の場からスタッフとして、経験して来たことや、
身につけて来たことが、ダウン症の人たちを知ることの、
あるいは彼らと近くで接することの、何らかのとっかかりになるなら、
いくらでもお伝えしたいとは思う。

そんなわけで、これまでは誰にでも通じる普遍的で、
客観的な部分しかお話ししなかったが、主観的、あるいは個人的な、
経験や認識のことも、いがいと聞いてみたいと感じる方がいるということが、
最近、分かって来た。

例えば、実際のところスタッフは何を見て、何をしているのか。
作家の創造性にすべてを委ねると言ってしまえば、
それまでだが私達にはやるべきことは色々ある。
なぜ、この道具を使うのか?
なぜ、このタイミングなのか?
私達にとって当り前のことが、説明を要することであったりする。
そんなことは、多くの人達にはあまり関係も関心もないことだと思って来た。
でも、どうしてなの?どんな意味があるの?という質問に答えて行くと、
へー、面白い、と興味を示して下さる方も多い。

僕はおおまかに2つに分けてお話しすることにした。
ダウン症の人たちの世界。感性とそこから見える可能性。
という彼ら側のことと、
ダウン症の人たちの潜在的な力を、どのように引き出して行くのかと言う、
スタッフや関わる側の問題。
勿論、この2つは交わる地点がある。
そこが一番大切なのかもしれない。

確かに、関わる側の問題も重要だ。
彼らが本当に穏やかに暮らして行くためには、
関わる人や環境を整えて行かなければならない。
どこかだけが、あるいは誰かだけが認識を持っていれば良いというものではない。

アトリエでも学生達を多く見て来た。
彼らは社会へ出て、様々な環境の中で生きていく。
そういう人達が少しでも、ダウン症の人たちの世界を知って、
大切に思って、社会の中で繋がりをつくっていけたらと。

僕は、アトリエのスタッフも勿論育てていかなければと思うが、
それ以上に色々な人達が、彼らと出会い、それぞれのアプローチで、
彼らと繋がって行って欲しいと思っている。

可能性や希望を語って来たが、そのための必要条件がある。
みんなで認識していきたい。
ダウン症の人たちは、これまで伝えて来た様な無限の可能性を持っている。
でも、それに気づき、大切にしていこうという人が居なければ、
その可能性は消えて行く。
彼らは無理は出来ない。鍛えれば強くなるとか、
頑張れば乗り越えられるという誤った努力を強いるのはやめにしよう。
彼らには彼らのリズムがあることを知ろう。
それから、彼らは一生を通じて、一定の愛情を必要とする。
大人になったのだから、自立して甘えてはいけないとか、
こういう一般的な常識も一度疑ってみよう。
まずは、一生を通じて愛情を必要とする存在であるという事実を、
冷静に受け入れよう。
これは決してマイナスでも、出来ないことでもない。
むしろ、きわめて人間らしい在り方ともいえる。
問題なのは、人と人がバラバラに切り離されて生きなければならない、
今の社会の中で、どうやって彼らと繋がり続けられるかということだ。

そんなところから、今後しばらく、関わる側の問題や、
スタッフとしての個人的経験についても書いていこうと思う。
やや経験的な話、深い話を書くことになるかも知れない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。