2012年3月12日月曜日

母子一体の時期

今日は良く晴れている。
アトリエの庭の木のはっぱの緑がとてもきれい。
光のあたり方で、無限のバランスの緑がある。
ここに風と空気という要素が加わって、動きもある。
それから鳥の声。
自然を眺めていると、景気に入り込んで行って、自分が自然になったように感じる。
春の日射しはやさしい。
自然さについて描いたが、制作の場も自然そのものになる時がある。
不思議なものでそんな時、鳥が自然に中に入って来ようとしてガラスにぶつかる。
ガラスだから時々はそんなことはあるのが普通だが、
ここでは一日に何度も何度もそんな事がある。
そして気がつくと場の空気が本当に自然だった時が多い。

一つ一つの季節はやがて過ぎ去って行くのに、
一瞬の情景に無限と永遠を感じてしまう。

日曜日のアトリエでは途中、久しぶりによし子と悠太がみんなと会った。
絵をみて悠太は何を感じているのだろう。
生徒たちは子供を凄く可愛がってくれる。
その姿がまたかわいい。
本心で人と接する彼らと触れ合って、悠太はどんな気持ちなんだろう。

毎日、変化して大きくなっていく悠太を見ていて、凄いことだなあと思う。
昨日は驚いた。
夜、いつものように泣き出したのだけど、
僕がいくらあやしても泣き止まない。
どこをどんな風にしてみても安心してくれない。
ようやくよし子にバトンタッチ。するとすぐに泣き止む。
想像はしてみたことはあるけど、そうかあとビックリ。
今は母親にしか本当の安心は与えられない。
よし子が近くにいれば、僕があやしていてもニッコリ笑っている。
母子一体である時期なのだろう。
そこには立ち入れないものすら感じる。

そんなこともあったので、改めて思うこともあった。
つまり、男が何をすべきかということだ。
僕自身は子供を見ること自体が好きなので、
何でもしてあげたいという部分が強い。
でも、これは制作の場でも同じだが、手を出してしまうほど簡単なことはない。
入ってはいけない領域というものもあって、そこを感じとることも必要だ。
最近では何でも手伝うということがいいことのように言われている。
でも、そもそも子育てを「手伝う」という言い方自体がおかしい。
自分の子供なのだから、母親も「育てる」だし父親だって「育てる」でいい。
どちらも手伝いなどではない。
それと手助けすることを男は勘違いしやすい。
特に最初の母子一体である時期は大切だと思う。
子供を見ることよりも、母親が子供と一緒に居れるように、
家事や周りのことをこそ手助けすべきなのかも知れない。
勿論、そんな時期であっても父親として関わり続けること、
子供の世話をする事は続ける必要がある。
一緒に遊んだり触れ合うことで親も子も成長するし。
さらにそれ以上に大事なのは、これは自分自身一番出来ていないので、
反省の意味で思うのだが、やっぱり母親の精神的な支えとなれるかどうか。
そこにつきると思う。どれだけ共感を持って安心感を与えられるか。
これは、仕事より難しい。

誰かが「母は孤独だ」と言っていた。
男には本当の意味ではそれは分からないのだろう。
だからこそ、どれだけ想像出来るかだろう。

それにしても、今日のアトリエの庭の緑を見ていると、
まるで夢の中にいるようだ。
今日は平日のプレ•ダウンズタウン。
どんな一日になるか。良い時間をつくりたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。