2012年4月7日土曜日

夢のような感覚

本日、4月7日発売の雑誌LEE最新号に、
今回のオーガビッツ×アトリエ・エレマン・プレザンのプロジェクトと、
アトリエの活動が紹介されています。
是非ご覧下さい。

前回、ヴィジョンの力について書いた。
少しだけ補足したい。
ヴィジョンと幻想や妄想の違いについて。
幻想や妄想もヴィジョンも今この場に現実には存在していないものを見ている。
でも、この2つは違うものだ。
幻想や妄想は現実と関わりのないものだが、
ヴィジョンはまだ現実になっていないとしても、
現実の奥に潜んでいて見える人には見えるものだ。
ヴィジョンは現実をよく見ることから生まれて来る。
それは、客観的で普遍的なものだ。
だからこそ、誰かが1人で強く願ったとしても実現されない。
現実はみんなの思いが一つになってこそ変化する。
その時期が来るまで、諦めずに動き続けられるかどうかだ。
まだ実現されていないヴィジョンは、まだ本当には望まれてはいない。
でも、望まれてもいないのに、
あるいは幻想や妄想であるのに実現されてしまうものがある。
独裁者の夢がその一つだ。
なぜ、そういうことがおきるかと言うと、力でねじ伏せるからだ。

ヴィジョンは力で強引に実行してはならないものだ。
強く願ったからといって、現実を思い道理にしようとしてはならない。
そのヴィジョンが本物なら、力を使う必要がない時が来る。
流れを無視したり、現実をねじ伏せようとした時、
ヴィジョンは幻想や妄想と同じものになる。

僕は本当に、ダウン症の人たちが持っているような感覚を使うと、
世の中がもっともっと良くなると思っている。
でも、普通に考えたら彼らのように感じたり見たりすることは出来ない。
科学的に言うと多分、人の内面を見ることは出来ないはずだ。
それでも、実際にはそういうことはあり得る。
その人が感じている事が分かってしまう時だってある。
それは不思議なことではあるけれど事実だ。

たとえば、アトリエでのこころの使い方についてはいつも書いている。
相手のこころと一つになること。
これは本当はそんなに特殊な能力ではなくて、
日常的に人が使っている能力を少しだけ発展させたものと言える。
誰でも日常的にあることだ。
体験にのめり込んでいたり、人と深く共感したり、
強い愛情が動いているとき、みんなが経験していること。

何気ない日常の中にある感覚。
この前、ゆうたの髪を筆にしてもらいに行ったのだけど、
丸坊主になったゆうたが可愛くて、頭をなでたりして一緒に遊んで過ごした。
夜、ゆうたをお風呂に入れて、先にゆうたを出して、
自分の頭を洗おうとしていたとき、あれっと驚いた。
自分の髪がいっぱいあったから。
いつの間にかゆうたの頭が自分であるような感覚になっていたようだ。
あれ、そうかあっちはゆうたの頭だったと。
ささいなことだけど、僕の言っている共感とはこんなことの延長にあることだ。

さて、もう一つ大切な感覚がある。
良い場が流れているとき、ここがはるか過去のような、
現実ではないような夢のような感覚になる時がある。
その時は共感もおきやすいし、境界もあまり感じられないので、
みんなが自分のこころに向かうのに最適な場になる。
そういう時の教室の一場面は必ずおぼえていて、忘れない。
夢のようといっても、リアリティがない訳ではない。
むしろ普段の現実の方がガチガチに固まっていて、
夢のような柔らかさを失っている。
だから、夢のような感覚の方がリアルといえる。
前に書いたことで言うと、普段の固まった現実というのは、
細部をじっと見つめ過ぎていて、全体が見えなくなっている。
自分で流れをせき止めていることに気づけない状態。

さっきの話しも一緒だけど、力に頼ってはいけない。
力技は良いところには行かない。
思いが強いから、固まるのだし、
何かを必死にやろうとするから出来なくなる。
見ようとすれば見えない。
例えば、明るくすれば何でも鮮明に見えると思う人は多いが、
暗い方がそのものを捉えることが出来ることだってある。
見るよりも聞くこと、聞くことよりも、感じること。
感じることよりも、夢の中にいるように漂っていること。

何かをするとき、しようと思い過ぎないことは大切だ。
何かを選択する時も、どちらが自然かをみればいい。

それにしても、毎年、桜がきれいになっていく。
花が変わったのではなく、こちらの見え方が変わっている。
日に日にきれいになっていくなんて幸せなことだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。