2012年5月16日水曜日

ジグソーパズル

今日は纏まりのない話題になってしまうかも。ごめんなさい。
今は様々なことを同時に進めて行かなければならない。
とにかく、精一杯やるだけ。

一昨日の夜中に悠太のアヒルの玩具が鳴き出した。
お腹の部分を押すとガーガーガーと鳴くのだけど、
それが勝手になるようになってしまって、何度もおこされる。
何となく悠太が呼んでいるのかと、心配になってしまった。
翌日、様子を聞くと何ともなかったので良かった。
それだけの話なんだけど、離れているとこんな些細なことで心配になったりする。
それが親と言うものなのか。

結局、アヒルの玩具は次の日も鳴止まず、仕事場の箱の中に入れた。
声は聞こえなくなったが、少し可哀想な気がして今日は持って帰るかも。

「プロフェッショナル」という番組だけはよく見る。
面白いし、自分も頑張ろうという気になれるから。
「情熱大陸」も良い時はあるのだけど、最近はぜんぜんだ。
この前、見たのは外科手術のお医者さんだった。
本当に頭の下がるお仕事をされている。
病院で仮眠をとって、自宅には日曜日しか帰らない。
ひたすら手術のことだけ考えている。立派な方だった。
改めて、外科とは職人技なのだと思った。
手技と一つ一つの作業を丁寧に続けることでしか、人を助けることは出来ない。
しかも彼らの場合、文字道理命がかかっている。
緊張感の連続は私達には想像もつかないものだろう。
世の中には偉大な人がいるもので、
そういう人を見ると、人間にはもっともっと可能性があるのだなと感じる。

最近、パズルに興味がある。
いったい誰が考えたのだろう。
もともとはあまり好きではなかった。
以前、科学とスポーツは一面的すぎると書いた。
それと同じ印象がパズルにはある。
もっと複雑で立体感が欲しいと。世界はそんなに単純な平面的なものじゃないはず、
と感じていたのだけど、
最近、いやこの世界も人生もパズルのようなものじゃないかと感じだした。

きっかけはやはり、アトリエの作家たちだ。
みんなの話を聞いていると、色んなパーツがランダムに出て来て、
どこかで、あっピッタリ重なったということが多い。
ハルコはいつも幾つかの要素、出来事、名前や、行った場所、
を思いつくままに話す。しばらくくり返していて、
あっそうだ、あれとあれ一緒だということを見つけた時、
とても気持ちよくなるみたいだ。
そうやって物事を理解している。
色別に分けたり、言葉の響きの似通ったものを合わせてみたりして、
最後はみんなぴったり重なる。
ハルコだけではなく、アキにしても、ゆうすけ君にしてもそうだ。

出来事はデコボコした色んな形のものとして現れるけど、
どこかでピッタリ一つの絵のようになる、
その瞬間に世界が感じとれ、満足感がわく。

そうやって自分の周りでおきていることも、見ていくと面白い。

共感の不思議さを前にも書いた。
深い共感にいると、その人の見たものが自分の見たものになる。
ジグソーパズルが楽しいという感覚も実は、てる君から来たものだ。
てる君は実際にパズルが大好きで、
「パズルをしていたよ」という言葉が多い。
それを聞いているうちに、自分の中にパズルが入って来た。

ところで、グレングールドというピアニストがいるが、
彼の演奏もまさしくパズルだ。
正確にパーツを置いていく感じで、音と音が彼の信じる場所に、
置かれて行くと一枚の絵のようにピッタリとはまる。
機械的なまでの弾き方は、そのためにあるのだろう。
個性的にみえて、実は個性を否定している。
聞いていて違和感を感じる人が多いのは、彼が感情を否定するからだ。
多分、彼はパズルのようにパーツをはめていく気持ち良さを追求したのだろう。

ジグソーパズルが気持ちいいという感覚は、
何か人間に共通の知覚に関わるのかもしれない。

「プロフェッショナル」に出ていた外科医も、
「ただ、使命をはたしていくだけ」と言っていたが、
人には使命というものが本当にある。
それもパズルのようにピッタリ収まる場所として。

たくさんのことがおきたし、たくさんの人に出会った。
たくさんのものを見て来た。見せてもらった。
一つ一つがおきるべくしておきたのだなと、今は思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。