2012年7月7日土曜日

これまでを超えていく

今日は梅雨が戻って雨。
悠太がほんとうにかわいい。
最近、父親が好きなようで、家へ帰ると凄く嬉しそうに笑う。
僕の顔を両手でつかんで抱きしめる。鼻をかじって笑う。
まだ、何も分からないはずなのに、この子は優しい子だなと感じる。
一緒にいるとすぐに時間が過ぎていく。
人生で初めての経験をしている。

子供の未来を思うと環境の事は避けて通れない。
現実から眼を背ける訳にはいかない。
子供の事は誰も責任はとってはくれない。
放射能のことはずっと続くのだから。
東京も数値が上がってきていると言う。
残念ながら住む場所では無くなってしまったのではないか。
そんな中でもすすめていかなければならない仕事が残っている。
責任を投げ出す訳にはいかない。
ここが考えどころだ。

僕の周りでも移住を考えたり、実際におこなったりする人が増えている。
実家のある人は帰ったりしている。
当然少しづつそうなっていくだろう。

東京での役割についても深く考える。
すべてが良い方向に行けば良いが。
最善の選択というのがなかなか難しい時代だ。

そんな中で東京アトリエの仕事は増えている。
時代の要求があるのなら答えていかなければならない。
誰かの為にある活動なのだから。
人手不足に悩む日々だが、スタッフを雇う経費が無い。

そんな中で先日、ボランティアでアトリエをお手伝いして下さる、
という方と出会った。
子供も2人いて、主婦としてお忙しいところなので、
時間が許す時だけのお手伝いだけど、有難い限りだ。
同じ学校の出身でちょっとクリちゃんのような雰囲気の方だ。

そのクリちゃんとも久しぶりに昨日会った。
フクちゃんも大きくなった。
アトリエで一緒に働いて来た仲間達は、学生も含め家族のようなものだ。

困難な時代ではあるけれど、僕達はどんな場所からでもつながっていきたい。

制作の場で自分自身が見ている事を、実はあんまり書いていない。
僕はきっかけをつくることが仕事だと思っている。
僕自身が見て来たもの、見ているものは書くことが出来ない。
何故なら、今も変化し続けているからだ。
昨日と今日では見えることが違っている。

ブログも現場と同じだと感じる事がある。
もっと良く書けたのにとか、次回はもっと深く書きたいと感じたり。
毎回、良くしていきたいとは思っているが、満足出来たことはない。
更新が結構早いと言われるが、伝えたいことが多いこともあるが、
実を言うと毎回、あれではなあ、と後で気になってまた更新ということがある。

見方が変わると書いた。
今日はそれをテーマにしたい。
僕達は変わっていくべきだ。満足してはならない。

深い経験をする事は、ある意味でこれまでの在り方を否定し、
もう2度と戻れない地点までいくことだ。
本当の経験がある時、それ以前のような見え方や感じ方が出来なくなる。
絶えず生まれ変わるようなものだ。
それくらい強烈に生きなければ、生まれて来たかいが無い。

本当のものを知ったら、嘘のものには触れられなくなる。
あるレベルを経験したら、それ以下のものがバカバカしくなる。
そのような経験は滅多に出来る事ではないけれど。

制作の場に向き合っていても時々、そんな経験がある。
それがあるから次にいける。

思い出や経験の大切さを書いて来た。
それらは過去ではなく今も、これからもずっと生き続けるものだと。
しかし、思い出や経験が過去になる瞬間がある。
それ以上を知った時だ。
その時、私達は脱皮する。もう戻れない。
そんな経験をする為にこそ生きているのかも知れない。

コンサートで良い演奏を聴くと、家にあるCDを全部捨てたくなる。
しばらく他のものが聴けなくなる。
美しいものに触れるとはそんなことだ。
読書でも絵画や映画の鑑賞でも同じだ。
日々の経験すべてにあてはまること。
過去になってしまったものには、もう魂が動かない。

僕にとっては音楽が一番休まるものだ。
仕事以外では絵は見ないようにしているし、色の強いものも身の回りに置きたくない。
(先日、フェルメールの真珠の耳飾りの女を見た。絵の前から動けなかった。ああいった美はどんな時でもこころを動かすことは間違いないが。)
映画にしても視覚を使うものは、普段はあまり触れたくはない。
毎日、作品に向かい合っているからだ。
もちろん、制作の場では視覚だけを使う訳ではないし、
むしろ視覚に頼っていては見えないことだらけだ。
でも、1人になって眼をつぶると色でいっぱいになっているのは事実。
何もないところに、ぼやっと赤や黄色や、いろんな色が滲んで見えたりする。
だから普段は視覚を休めたい。

音楽は本当によく聴く。
聴かなくなると何ヶ月も聴かないが、聴き始めると止まらない。
特にクラシックを聴くが、あくまで演奏家が好きなのであって、
クラシックというジャンルが好きな訳ではない。

また脱線してしまって申し訳ないが、
これも大事なことなので書く。
むしろクラシック音楽というジャンルは嫌いだ。
なぜ嫌いかと言うと自分達をクラシックと名乗っているから。
そこになんの疑問も持っていないからだ。
クラシックと呼ばれている音楽は、全くクラシックなものではない。
ヨーロッパのある地域と時代に限定された偏ったジャンルだ。
人間と音楽の関係を考えると、むしろ特殊なジャンルだろう。
特殊であることが問題なのではなく、クラシックを主張してしまうことが問題だ。
これは絵画も含む芸術と呼ばれるもの全体の問題だ。
科学も同じ。
グローバルスタンダードなるものが、みんなアメリカであれというのと同じだ。
私達は普遍とか平等にこそ気をつけた方がいい。
それらはただたんに一つの世界観によって他を排除しているだけかも知れない。
現在の芸術と言う概念も、
さまざまな犠牲の上に成り立って来たことを忘れてはならない。

アウトサイダーアートと呼ばれるものがあるが、
そもそも前提としているインサイダーこそが問題だ。
それらの言う芸術とは何なのか、考えてみることの方が先決だ。
人類の歴史から見るなら、
クラシックやインサイダーこそが、アウトサイダーかも知れない。
と言うより、自分達の前提としている価値観の背景を知れば、
もっともっと可能性のある世界が見えてくるはずだ。
その時にこそ、クラシックもインサイダーも本来の価値を取り戻す。
平等とは違いがないことではない。
違いの意味や豊かさを尊重し合えることだ。

話が逸れてしまった。
少し前にある指揮者のワーグナーのCDと出会った。
あまりの凄さに他のワーグナーが聴けなくなった。
何度かくり返し聴いたが、驚きは変わらない。
もう10年も聴き続けた音源があったが、もう聴けなくなった。
その演奏は過去となった。
いつ聴いても新たな発見があり、ワーグナーに関してこれ以上はないと信じた演奏が、
今では全く響いて来ない。
これを知ってしまった後では。
上には上があるという言葉だけでは片づけられない。
生きていると面白いことがたくさんある。

ついでに言うとこの指揮者はそんなに名前もない人らしく、
インターネットで検索してもこのCDの情報はなかった。
ネットが信用出来ない理由はこんなところにもある。

本当のものとはそうなかなか出会えるものではない。

仕事の中でもこのような体験をしていきたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。