2012年8月13日月曜日

感覚を信じる

東京のお盆は本当に静かだ。

倉庫に作品を取りに行って、いくつか準備する仕事がある。

悠太はハイハイから、掴まり立ち、最近はつたい歩きが出来そう。
それから、ちょっと言葉が出そうな感じにもなってきた。
まだ時間はかかるのだろうけど。

いつも、一番大切な事を書いているつもりだ。
ダウン症の人たちを通じて書いて来たけど、別に彼らを特別視している訳ではない。
ただ、彼らを通して人間の普遍的な何かが見えるはずだと感じて来た。
ここで、ずっと感じてきたことは本当に大切な事だと思うし、
増々、現代の課題となってきている。

今こそ、これまで取り上げて来たようなテーマが重要になってくる。

これから先、私達は本当に危機感を持って生きていかなければならない。
何がおきてもおかしくない、そんな時代だ。
価値観も変わっていくだろう。
信じられるものは少なくなっていく。
これまでの、家も仕事も生活も、いつまでこのままでいられるのか分からない。
何もあてに出来ない。

私達はもう一度、裸になって何もないところから始めるしかない。

ダウン症の人たちや、このアトリエの場や作品の力が、
本当の意味で役立つ時が来たのだと思う。

すべてを前向きに捉えてみよう。
感覚や感性の力を取り戻すチャンスとして。
人間にとっての本質的な生き方に立ち返る機会として。

信じられるもの、信頼出来るものが一つだけある。
それこそが感覚の力だ。
これまでは感覚の力を妄信するなということを、言い添えて来た。
何故なら自分の感覚というものは、狂いやすくもあるからだ。
でも、そんなことを言っている場合ではない。

少なくとも、我々が大事にしすぎている頭よりははるかに正確なのが感覚だ。

考えて上手くいくことなんかほとんどない。
その証拠が今の文明だといえる。
考えによって、頭で作られているのが今の文明だ。

考えることやめること、頭を使わないこと、
全身の感覚だけになること、このことほど重要なことはない。
それを忘れてはならない。
頭と計算という保健をかけていては、感覚の力は機能しない。
感覚だけになってしまえば、必ず本能が強く働く。

感覚を信じて、信頼することだ。
制作中の彼らのように。

頭を使いすぎるから、感覚が死ぬ。
持ちすぎているから、武装しているから、守りすぎているから、
感覚が動かない。

作品に向かう作家たちばかりではない。
スタッフとしての役割も同じだ。
本当に難しいケースや、どこへ行っても、何をやっても心が閉ざされたまま、
という人を前にした時、どうすべきか。
考えて何かが出来るはずがない。
方法論や技術が何かを出来ることもない。
経験すらもことを難しくするだけだ。
僕なら何も考えない。直にその人に入って行くだけだ。
それで確実に何かが変わる。

生きると言うことは本当はそういうことだ。
僕達は何も持たずに、感覚だけを頼りに世界へ向かっていく。
たくさんのものを貰うだろう。
もらったら、返していけば良い。
そうやってグルグル回っていく。

こんな時代だけど、感覚を取り戻していけば、まだまだやり直せるはずだ。
新しい環境を創っていけるはずだ。
次の時代はまた何もないところから始まらなければならない。

例えば、僕は昔のことに興味がある。
古代の人はどんな世界を生きていたのか。
そういうことは学者が研究している。
僕もかつてはそういう本をよく読んだ。
でも、自分がその領域に入って行った時、全く違うものが見えてくる。
その領域とは古代の人とかそういうことだが、
彼らがどんな風に生きていたのかは、学者や学問では分からない。
感覚はそれを捉えることが出来る。
そして、感覚の方が遥かに正しい。
科学で分からないと言われていることはたくさんある。
それは、その方法では分からないということだ。
人間は本来、感覚を通してすべてが分かる。

人のこころの領域にふれ、それをテーマに実践して来たから、
僕にはその確信がある。

裸になることだ。そうすればすべてが見える。
でも、裸になることはとてもとても難しいことだ。

本当の生き方を見つけよう。
こんな風に生きられるということを、これからの時代を創る人達で証明しよう。

ダウンズタウンを創る。
それに共鳴する人達がいるということは、
みんなが何かを感じ始めているということだ。
人類はこっちの方向へ進むべきではないのか、と。
感じよう。感じたことを信じよう。
そして力を合わせ、繋がりを創ろう。
みんなで創ろう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。