2012年9月23日日曜日

かさたりつえたり

あんまり時間はないけど、今は書ける時にはなるべく書きたい。
今日は雨が強い。

ダウンズタウンも積極的に協力して下さろうとする方もいて良い動きが生まれそうだ。

昨日のアトリエでけい君が「さくまさーん。おとうさんーん」と言いながら爆笑。
何度もゆうたの顔と僕の顔を見て笑う。
僕が父親なんて本当に不思議で可笑しいようだ。
みんな、本当に分かってるなあと思う。

てる君もよく僕がみんなとふざけているとき、
「さくまさん、お父さんでしょ」と制してくれる。

みんな、僕のことを大丈夫かなあ、と感じているようだ。
そういうところに、大人の意識を感じるし、やさしさもあるし、
長い時間、彼らと時を重ねて来て良かったと思う。

制作の場にしても、いつの間にか揺るがないものが出来上がっている。

最近、お客さんが入ったり、カメラが入ったりしても、
以前よりは気を遣わなくなった。

スタッフや手伝ってくれる方にしても、
僕はしっかり育てなければ、という意識が強かったが、
最近ではちょっとやそっとのことでは場は壊れない。
作家たち自身が自分のリズムを知っていて、来る人に教えてくれる。
勿論、まだ守らなければならない意識は必要ではあるけれど。

場がここまで熟してくるのには10年かかった。
続けることはやっぱり大切だ。

分からないから、知らないから出来ないとか、怖いと言う人がいる。
でも、分からないとか、知らないという自覚は大切だ。
分かっているとか、知っているという錯覚が油断を生む。
僕も分からないし知らない。

分からないもの、未知のものに適切に触れられるかどうか。
考えて把握してから、分析してから何かしようとすると、実はもう遅い。
分からない時、分からないまま、何か出来なければならない。
自分のものにしろ、とか自分のもにしたということを言うが、
僕は自分のものにしない方が良いと思う。
自分のものにすると弱くなる。
自分のものにしなくても、技や状況は必要な時にやって来てくれる。

分からないと言うことも、自分の範囲にすべてをあてはめようとするからだ。
意味不明に思えることも、本当は意味を持っている。

この前ハルコが「傘たり、つえたりだね」と言った。
これは「雨が降ったり止んだりだね」という意味。
彼女は傘を持って来て、雨が降らなかったときは、杖代わりと言って、
傘を杖のように使う。たりはだったりの略。
それで、雨が降ったり止んだりだから、傘になったり杖になったりする、
と言っているのだけど、これだって前後を知らないで、
最初の言葉だけ聞くと何が何だか分からない。
これは、単純に言葉のことだし、彼女だって「雨が降ったり止んだりするね」、
くらいのことは言えるし、普段は言うのだけど、
たまたま僕だから分かると思っていっただけの話。

でも、これが様々な行動となると、世間の常識では分からないことに対して、
意味不明ととる人は多いし、自閉症の人が怖がられたりもする。
忘れてはならないのは、かさたりつえたりと一緒で、
どんな行為にも何らかの意味があるということだ。

僕の友達の自閉症の人はある時、1人で手をグーにして、少し上から降ろす瞬間に、
人差し指をさっと出す動作を、何度も何度もくり返していた。
時々、真剣な表情になったり、ニコッと笑ったりする。
「なにしてるの」とわざと常識的な質問をすると、
我に返ってこちらを振り向き、「やめてよ。集中してるんだから」と。
これなんか、僕には凄い話だ。
分かる分からないではなく、あの作業が集中を要するということが、
面白くも深くもあって、時々思い出す。
あの世界はしかも多分、彼にしか分からない。
でも、こういうことから僕達はかいま見ることが出来る。
自分達の意味にだけとらわれていると見えない何かがあるということ。
そういう世界に意味がないと言うなら、
僕達の言う意味にもはたして、どれほどの意味があるだろうか。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。