2012年11月21日水曜日

もの忘れ

昨日も、とても良いお仕事をなさっている方とお引き合わせいただいた。
教室が終わった後だったので、出来立ての作品を少し見ていただいた。
これから良い繋がりができればと思う。

土、日曜日の絵画クラスにいる時と、平日のプレクラスにいる時では、
意識の使い方はずいぶん違っている。
自分自身も何か違うものになっている。変ないい方だが。
そこに流れる時間と一つにならなければならない。
だから、そこに流れる時間がその時の自分だ。

もの忘れっていったい何だろう。
時々、もの忘れする。
しまったすっかり忘れてた、というものから、他愛のないものまで。
この前は犬の散歩中に、アレっ自転車がないぞ、確か乗って来たはずなのに、
どこに止めてここまで歩いて来たのだろう、と思って、
ゆっくり思い出しても分からない。
はっとして気がつく。
いやいや、アトリエに自転車を止めて犬だけ連れて来たんだ。
これは、だから何も忘れて来た訳ではなく、勘違いだ。
でも、物忘れのときの感覚と同じ感じがする。

同じように犬の散歩をしていて、帰って来くると、
持っていたはずの散歩用バックがない。
いったいどこに置いて来たのか。手から離すような場所もなかったはずなのに。
自転車に乗って散歩したコースをそのままたどってみる。
やっぱり途中のどこにもない。そう、あの時は持っていたもんなあと思い出すだけ。
ところが最後の方、本当にアトリエの近くまで来て、
曲がり角においてある。
いくら思い出そうとしても、そこの記憶だけない。

忘れてしまっている時、いったいこころの中で何がおきているのだろう。
そもそも、なぜ忘れてしまったのだろう。

言えることは、忘れていたことに気づいたときと、
忘れていたときでは違う時間の流れの中にいたということだ。

何か連続して流れている時間がどこかで切れている。

だからもの忘れをしてしまって、気がつくと、
何やら不思議な感覚になる。
懐かしいような、帰って来たような。
何もない見知らぬ世界にぽんと放り出されてしまったような。

でも、僕はこんな感覚に浸っている時の方が、
本当の世界にいるような気がする。
なぜなら、すっかり染み付いてしまったものの見方を手放せた感じがあるからだ。

ダウン症の人たちが教えてくれていることの一つに、
知っているものとしてではなく、知らないものとして、
この世界を見てみるということがあるような気がする。

場に入るということは、自覚的にもの忘れしてみようという感覚かもしれない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。