2012年11月24日土曜日

川の流れのように

模倣すること、というタイトルにしようと思ったが、やめておこう。
今後は少し書き方を変えていきたいと思う。
何かついての考えをちょっと纏め過ぎたかな、と思っている。
体系をつくって、そこから物事を見ていきたくはない。
それより、その時々、日々の出来事や思ったことを、
結論は見えなくても今の考えに忠実に書いていってみようかな、と。

考えてみれば、答えも結論もない、こころや生き方をテーマにしているのだから。

模倣というのは、最近、環境についてやあれやこれを考えたりしているので、
以前このブログでも書いたが、
人はなぞる、くり返すということを、考え直してみたいと思った訳だ。
1人の人間のこころは周囲の環境や、そばにいた人達の思いをなぞる。
模倣する。
だからこそ、環境が大切だ。

変奏曲というジャンルがある。
同じ主題が様々な形に変奏されていく。
上手く出来ている曲だと、本当に自然な流れで、
一つの主題が多様な姿をとって、でもやっぱり同じ主題だと納得する。

ダウン症の人たちの描く世界も変奏曲のようだ。
いつも最初に現れる主題は一つでそれが変奏されていく。

それから、
同じフレーズがリフレインされながら、変化したり、
突如、インスピレーションがわいてきて、他のフレーズと重なり、
渦巻き、新しいフレーズがまたリフレインされ、次の閃きをさそったり、
という感覚ではジャズのようでもある。

模倣と言っても、反復といっても、くり返すことで、
他の要素が次々に加わって来て発展していくことは確かだ。

でも、リフレインされる部分、反復される部分なくしては、
その後の無限の展開もまたないのだろう。
模倣し続けることも大切だ。
良い感覚なり、心地良いリズムを見つけたら、くり返し何度も浸っていればいい。
そのうちに自分の中に刻み込まれてくるものがある。

いつも、客観性や冷静さを重視して書いているが、
それは実は僕自身が主観を信じきらなければならなかったり、
対象と一瞬にして一体化しなければ成り立たないような仕事をしているからだ。
客観性や冷静さを捨てて、深く入って行かなければ出来ないことをしているから、
そこから一度離れたらバランスをとる必要がある。
そういう意味で、人一倍、客観性や冷静さが大切になってくる。

いつも書くがどちらかではいけない。バランスだ。
男性性と女性性とか、みんなバランスだ。

そういう意味では、今の時代は、
むしろのめり込むほどの主観性のほうが欠落しているのかも知れない。
すべてが情報として処理されているような気がする。
上手く整理整頓しても分からないことはたくさんあるはずだ。
これしかないという強烈な体験をした方が良い。
分析なんて後ですれば良いのだし。
騙されまいとしすぎていないだろうか。
体験とは、間違いをおかしやすいものだ。
だからといって間違えまい、騙されまいと思っていてはどこにも行けない。
一度、騙されても良い、間違えても良いくらいの入り込みは必要だ。

これ以外にないという思い込み。
一度、そこから見てみることで、実はその後の客観性も深くなる。

惚れ込むという体験。
惚れ込んだ人であれ、音楽であれ、絵であれ、本であれ、
一度はそれに浸りきってそれ以外なくなるところまで同化してみる。
ここは良いけど、この部分はあんまり良くない、という入り方はしない。
惚れ込んだら、丸ごと取り込む。
何度も何度も、そのものに見を浸し、寝ても覚めても、そればかり。
くり返し、反復し、模倣する。
いつか対象と一つになって、同じ呼吸をしている。
その対象から物事を見たり感じたり出来るようになっている。
そういう経験をしてから、そこを離れていく。

尊敬する人が居たら、その人がこのことにはどう判断するか、
どんな場面でもその人がどう考えるか、まで感じてしまう。
息づかいまで体感してしまう。
そんなところまでいってみること。

同じ絵を何度も見た。同じ本を何度も読んだ。
同じ音楽をくり返しくり返し聴いた。
そんな日々に見えていた景色はきっと、自分に刻み込まれている。

この世には良いもの、美しいものはたくさんあるから、
それらを刻み付けて、それらを模倣していく。
でも、人間にとっての模倣のおおもとはやっぱり自然だろう。

何もかもどうすることも出来なくなったら、
自然に帰れば、再び立ち上がれる気がする。
分からなくなったら、自然に立ち返るのがいい。

森の中に入っていって、全身で自然に浸って、
全身で感じること。自然を感じ、自然の奥で何が動いているのか感じとる。
そうするだけで、何度救われたか分からない。

川の流れのように。
言うまでもなく美空ひばりの曲だ。
美空ひばりをそんなに聴いた訳ではないし、全く詳しくはないが、
確か最後の方の曲だろう。だから、歌声は全盛期ほどではないだろう。
別にこの歌を思い出したり、聴いたりした訳ではないが、
急にこの言葉が浮かんで、そうするといつも聴いていた川の音を思い出した。
ただそれだけだ。
川の流れのようにと言っても、川の流れは一つではない。
でも、すべての川は自然のリズムを体現している。
何かリズムが狂って来たら、海や川の音を聴き続ければ良い。
無意識のうちにそのリズムを模倣し、静かで深い呼吸になってくるだろう。

僕の聴いていた川は、怒濤のように激しい流れだった。
ごうごうと強いうねりを伴って、石にぶつかりながら、
勢いを全くおとさず流れ続ける。
その川の音の激しさで、始めてその場所に来た人は眠れない。
僕はその土地を離れて始めて、あの音に気がついた。
あれ、音がしないぞ、となって始めて、音を聴き続けていたことに気づいた。
それ位、その音と流れと一つになっていた。
いくかわのながれはたえずして、という方丈記の文章は、
その言葉自体が川の流れのようなリズムだ。

人は環境を模倣するから、荒れた環境、無機質な環境を変えなければならない。
自然を模倣して、バランスと調和を取り戻したい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。