2012年12月10日月曜日

名付けようがない世界

今日はAEPニュースの準備。
パソコン関連の作業や名簿の整理は、
よし子、稲垣君、あきこさんに頼りっぱなしだったので、
三つ折り、封入れ等のアナログ作業で力を発揮しなければ3人に示しがつかない。
しっかり存在感を出せないと、みんなに申し訳ない。

三重での合宿の時も、学生達に協力し合う意味を語りながら、
結局、こちらはみんなの姿に感動するのみで終わった。
アトリエに集まってくる人達は相手を思い、
みんなの為に何かをすることが出来る人達だ。
僕としては愛想を尽かされない様に努力するだけだ。

色んな人達と一緒にいるから、勉強になる。
本も随分読んだ時期があったが、
人がさり気なく教えてくれることから学んできたことの方が多い。
夏になるとよし子の友達の中田君のスイカが届く。
中田君は無農薬でかなりこだわった野菜を作っているが、
なかなか徹底していて信頼出来る。
本当の野菜はこんな味かあ、と改めて感じる野性的な味。
中でも特に凄いと思うのはスイカだ。
本当のスイカは接ぎ木をしないで直接育てる。
普通に売られてるのはカボチャや何かに接ぎ木しているそうだ。
本当のスイカを作ると、同じ畑では8年間もスイカを植えられないという。
それくらい、スイカはエネルキーをもっている。
勿論、味もぜんぜん違う。
食べるだけで、本当に勉強になるくらいだ。
そのスイカを食べていて、僕は「凄い」としか言えずに、
ずっと感心していたのだけど、その時、一緒に食べていたクリちゃんが、
「これ、肉みたい」とつぶやいた。
そうだ、本当にそうだ、と思いつつ、ああこれもいい言葉だなあ、と勉強になった。

最近はテレビを見なくなった。
悠太の寝る部屋の隣にテレビを置いたので、起きない様にあんまりつけない。
でも、ほんの少しの時間、見たらフィギアで浅田真央が滑っていた。
絶えずレベルを上げているのだなあ、と感動。

テレビと言えば、悪い習慣と、だらしなさの現れなのだけど、
少し時間があると、だらだらと見てしまう。
別に面白くもないというより、むしろつまらないことを確認している。

この前、あきこさんとの会話で
「テレビ、結構見ますか」
「あ、つい見ちゃうかな」
「子供の頃、家でテレビ見られなかったとか」
「そうそう。テレビなかったなあ」
「そういう人が反動でみるんだよ。だから子供に、あんまり禁止するのもよくない。」

これもクリちゃんから教わったことだけど、
人がテレビを見てしまうのは、あれは火を見る習慣からだと言う。
かつて、人類は焚き火の火を見つめ続けていた。
そのなごりで光っているものを見てしまうらしい。
こういう話は大好きだ。

信州にいたころは、冬には槙で火をおこしていたし、
陶芸で寝ずの火の番もしていた。
一晩中、槙を入れて1000度以上を保つ。
火をずっと見ていると時間はすぐに過ぎていく。
確かに火に魅かれる。ずっと見ていたくなる。
あれは遠い昔が蘇ってくるのか。

この前から思い出すタルコフスキーの映画も、火と水のシーンがいっぱい出てくる。
火と水が世界にあふれ、世界を包む。静かに。
あるいは火と水にまで遡り、分解されていく。最後には透明なイメージだけが残る。

季節の変わり目は、作家たちも少しペースを崩すのだけど、
冬なら冬になってしまえば、また良い流れに戻る。
という訳で今はまたとても良い。
冬の方が深さが出る。明晰さや迷いのなさは冬の方が発揮される。
冬は内側に集中するようになる。夏は外に開かれていく。
全体的にそんな感じが強い。
絵を見ているとつきることがない。
そとから見学に来る方で、よっぽどの時は注意しているが、
絵に説明を求める人が多い。
特にやめて頂きたいのは作家本人に質問攻めをすることだ。
下を向いて苦笑いしている表情を見たら、すぐやめることだ。
言葉にしないと理解出来ないのは自分達の責任であり弱さなのだから。

ちょっと急だけどちょっとだけ深い話までしよう。
本当に本質的な深い表現には、意味も目的もない。
言葉や解釈である程度読み取れる作品もあり、
そこから理解しようとする人は多いが、
そういった筋やストーリーがあるものはまだ浅いものだ。

これはこころというものに関係していて、
こころの浅い次元では筋があり整合性があり、理解出来る世界がある。
何故なら、自分の意識が世界を解釈して位置づけているからだ。
ここしばらく書いている話で言うなら、
人は無意識のうちに見たいものだけを見て、聞きたいものだけを聞いている。
それ以外のものはないことになっている。
いいかえれば、この世界を絶えず解釈し、自分の範囲に納めている。
時々、違う要素が入って来て混乱するが、そのうちにまた何とか整合性に戻る。
このこころの仕組みが、霊をつくり、気やオーラや宇宙人をつくっている。

人のこころとずっと向き合っていくと気がつく事がある。
それは普段こころというのは完全にパターン化されているということだ。
自分が現実だと思っていることは、自分が無意識のうちに切り捨て、
解釈した世界だと言うことに気がつかない。
見えないものや、経験したことのないものを前にしても、
それを一つの概念によって実体化してしまう。
それが霊とかオーラとかいう解釈になる。
でも、そんなのはみんな、「解釈不能なこころの動き」だ。
これを言うと怖がる人が多いが、意味も目的もない。
ただ、なにものでもない動きそものもがあるだけだ。
こころというものの一番奥には、そういう領域がある。
機嫌がいい人がその領域に触れれば、楽園とか妖精とかに見えるのだろう。
もっと言えば神だってそうやって生まれるのだろう。
反対に不安や恐れがある人が見れば、それが得体の知れない霊とかになる。
でも、どちらも解釈が入ってしまっている。
その後はこころがパターン化した世界に持ち込むだけだ。

生きている以上は何らかの解釈が必要であり、
パターン化も必要ではあろう。
でも、それに縛られてしまって、身動きがとれなくなっている人は多い。
僕達は一度、元をたどって、解釈しない本質にこころを解放しようとする。
そうすると、こころは元気を取り戻す。
意味も目的もない、解釈も出来ない、何ものでもない、ただの動きというと、
怖がる人が多いが、それを本当に経験すると自由になれる。
解放されてもっともっとやさしい存在になれる。
時に本質を思い出すことも私達には必要なのだ。
そんなとき、ダウン症の人たちの作品の力は様々なことを教えてくれる。

絵に関しては美しければそれで良い。
感じることを大切にしよう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。