2012年12月22日土曜日

教えること、教えられること。

今日は小雨のようだ。
さて、土、日曜日の絵画クラスは今年最後のクラスとなる。
といっても、5日から始まるのでいつもと変わらない。
でも、年の区切りというのは何故か意識してしまう。

1人で過ごすときに聴こうと思って、少しCDを整理した。
ビリーホリデイは3枚あった。
一枚は中古で300円で買った、
1935年から37年までの2年間の録音を寄せ集めたオムニバスみたいなの。
もう一枚は晩年の枯れきったもの。
そして、定番の「奇妙な果実」。これは37年と44年の録音。
「奇妙な果実」が最高傑作と言われることが多い。
でも、僕はこの中では35年からの2年間の録音が一番好き。
これはだいたいそうだけど、良い表現者は初期のものが一番良い場合が多い。
天才は特に早い時期に完成してしまう。
完成してしまうと、あとはアレンジを加えて行く以外にない。
いじればいじるほどつまらなくなって行く、ということもあるが、
それより、何事も完成されたら、それ以上はどうすることも出来ない。

今、これを書きながら、「奇妙な果実」を聴いている。

木曜日に少しゆっくりゆうたとよし子と3人の時間を過ごした。
恥ずかしながら、こんなに幸せを感じたことはない。
ゆうたはどんどん可愛さを増して行く。

やっぱり佐久間さんってちょっと違う角度から考えますね、と言われる。
別にわざわざ、常識に反抗しようとしている訳ではない。
ただ、僕は決まり文句や常套句というのが嫌いだ。
思ってもないことを言うのは論外だが、
無意識のうちに何も考えずに使っている言葉にも気をつけたい。
実感の伴わない言葉は言ってはいけないと思う。
例えば、ある施設の人と話していた時、
その方が障害を持っている人とのことを、
「むしろ、こちらの方が教えられます。」と言うのだが、
こんな言葉を鵜呑みにしてしまう人は多い。
はっきり言うけど、この方はそんなこと思ってませんよ。
嘘をついているのではなく、もう無意識に言ってしまうのだ。
なんの実感もないし、その言葉の意味についても考えたことがない。
だから、どこかで聞いた事があるような言葉しか出てこない。

もちろん、こんなことを言ってはいけないと言っている訳ではない。
僕だって時と場合によっては言うこともある。
だけど、考えて実感したことを言って欲しい。
突っ込んでも仕方がないが、「こちらの方こそ」という表現に、
実はあらかじめこちらが上という視点があるから、
逆転させたようなことが言える訳だ。

言葉は時と場合によるから、あえて軽い表現が必要な時もある。
だから、こう言ってもいい時もある。
あんまり、こだわると普通の会話が出来なくなるし。
僕がお世話になっていた宮島先生は頑張るという言葉を嫌っていた。
頑を張るというのは良くないと。
それはいいのだけど、先生の前で誰もその言葉を使わない。
こうなると宗教だ。
僕は平気で頑張るという表現をしていた。
その人の哲学で○○という言葉が嫌いというのがあって、
そこまでは分かるけど、周りにいる人がここでは○○という言葉は使わない、
というような場所が結構あって気持ち悪い。
会社とかでもそういうのがあるらしい。

問題なのはどういう意味で使うかだ。

こういう言葉を使ってはいけませんという話ではない。
実感を持って話しましょう。
人の言葉を盗んでばかりではいけません、ということだ。

さっきの方に話を戻すと、その後の会話も常套句の連続で、
最後には「あの人達(障害を持つ人達のこと。この方は利用者さんと呼んでいた。この言葉も何だか気持ち悪い)と一緒にいると癒されますよね」と言う。
お前らが癒されてる場合か、と思うのだが、それはもういい。
この言葉だって、学生や外から来た人が言う分には素直な良い感情がこもっている。

「奇妙な果実」を聴いていると、1937年以降のビリーホリデイは、
何かを失ってしまったのだと思う。
でも、そこに深い魅力がただよっている。
失ったことによって何かを得るということが本当にある。
今の僕にはこっちの方が響いてくる。
音楽にずっと浸りたくなる。

それでも、すぐに失われてしまうからこそ、37年以前の2年間に、
計り知れない魅力を感じてしまう。
誰でも一番良い時期は長くは続かない。

こちらの方こそという話だが、
あれこれ書いたが、それでも、相手から教わると言うことは、
障害を持つ人を対象にした場合のみならず、子育でも教育でもすべてにおいて、
とても大切な事であることは事実だ。
お世話してばかりいては、受け身な人間にしかならない。
教えてばかりいては相手は小さくなって行く一方だ。
人はお世話されるより、お世話することで成長していく。
教わることより教えることで学べることの方が多い。

普段大人から教えられてばかりいた人に、教えてよとお願いすると、
その人がとたんに活き活きしてくることは良くある。
何でも出来すぎる大人が近くで見ていることは、
実は教育上あまり良くない。

僕は特に作家たちにとっては、あんまり出来ない人だ。
だから、彼らはいつもサクマさん大丈夫かあ、とかばってくれるし、
面白いこと教えてあげる、とか、綺麗なものみせてあげるよ、
という態度で僕の前に自分の世界を出して来てくれる。

ゆうたと一緒にいてもそうだ。
僕が帰ると自分はもう食べ終わっていても、「まんまんまん」と言って、
僕に食べるように伝える。スプーンを僕の口に突っ込む。
食べ終わると僕の頭をよしよしとしてくれる。

飼っている犬でも僕の面倒を見ているつもりでいる。

みんなが心配してくれたりやさしくしてくれる。

これは自然とそうなるので、わざとしている訳ではない。
僕の場合は特に、自分の追求して来たことと関係している。
相手のこころが動き出してくれなければ、僕の仕事は成り立たない。
相手のこころがどうやったら動いてくれるのか、ということを追求して来た。
そこで、特に動きが固くなっている場合、
僕自身が相手のこころの深いところまで入りこまなければならない。
ちょっと入れてと言っても、怖いから入れてはくれない。
気配を弱くして、自分を小さくして行く。
やわらかくして行く。
敏感になっている時はこちらから相手に触ってはいけない。
相手から触ってもらえるように、こちらは無防備になる。
何をされても抵抗出来ないほどになる。
そうすると相手は入りな、と言って入れてくれる。
少しづつすすんでいって奥深くにたどりついた時には、
こちらは赤ん坊のように小さく無防備な存在になっている。
その時、自分のこころの深くにいる赤ん坊に対して、
相手は親のようにふるまい、守ってくれる。
そして、内側から様々な自発的な動きがわき起こる。
そうなったら赤ん坊である僕はすぐに消えなければならない。
今度は自然を相手にするように、波を見極め、気流に乗って、
流れの中でどこを活かし、どこを落ち着けておくべきか判断する。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。