2013年2月19日火曜日

作品と、作品の手前で動くもの。

今日も寒い。
そして、曇っている。

ところで、このブログも僕としては教室と一緒で、
何も考えないし何も決めないでとにかくその場に入る。
とにかくパソコンの前に座ってみる。

今日も何を書くのか分からない。

場においては、いつでも良くしていくこと、
良い意思とこころを保つことが大切だけど、
書く時は場から得た何かによって、
読んでくれる人が感じてくれるようなことを書いていきたい。

もう何度も書いていることだけど、場は本当に不思議だ。
ときに海に潜っていくようであり、ときに山を上っていくようであり、
森の奥へ分け入っていくような感触もある。

やさしさや愛情が高まっていくとき、
こころが純化され、透明感を持ってくる。

そして、すべては消えていく。

瞬間のものと連続しているもの。

僕が人生で得てきたものはすべて、
一人一人のこころの奥から貰ってきたものであり、
場から学んだものだ。

場に入って、深く入っていくとき、どんな感じがするのか、
どんな世界が見えてくるのか。
出来れば書きたいけれど、それを言葉にすることは出来ない。
ただ、どんな人でも、真剣に生きていると見えてくる経験と同じことだろう。

今週は三重から帰ってきて、
前回に続いて保護者の方達がごはんを作ってくれた。
みんなで食事しながらお話する時間も大切なものだ。
日曜日は夜、アトリエに見学に来ている稲垣君の太鼓デビューを見に行った。
赤嶺ちゃんが踊って、稲垣君が太鼓。
レオ君という稲垣君の先生も出演。(レオ君もアトリエに来ている)
3人ともとても良かった。

これからアトリエを見学したいと言う人達にいっぱい会った。

よし子の喘息は今回とても辛そうで、
ずっと心配だったけど、その後ゆうたにも発作が出てしまった。
あんなに小さな身体で可哀想で涙が出る。
良い自然環境で2人の身体が強くなっていけば良いけど。
身内は代われるものなら代わってあげたいと、良く言うけど本当にそうだ。
と言うよりも、何も出来ずに見ているのは辛い。
昨日から特にゆうたの方は大分快復したそうだ。

いつもと少し感じが違ったので、体質も変わったのかも知れない。
でも、もしかして例の中国の化学物質の影響かなと思わなくもない。
時期が重なっているから。
本当に怖いことだし、とんでもないことだ。

よし子と一緒にいると、普段気にしないことも見えてくる。
ああ、世の中こんなに悪いものがいっぱいあるのか、と。
特に喘息の原因になるものはたくさんある。
いつでも小さな子供や、女性や身体の弱い人を優先させる社会であるべきだ。
気がつかないということは恐ろしいことだ。
放射能の本題もそういうところにあるのに、
影響が出る時には自分は死んでいるとかいう理屈で無視する世代もある。
自分のことを問題にするのではない。
どうすれば影響を受けやすい人達を守れるのかと言うことだ。

僕だって10年か15年くらい前だったら、
自分の身体がどうなろうと別にかまわなかった。
この世界から貰えるだけ貰ったのだし、いつ死んでもいいやと思っていた。
ありがたいことに若くしてそれだけ素晴らしい経験が出来た。
でも、今はそうは言っていられない。
ゆうたのために生きて、いっぱい一緒に経験していかなければならない。

なんだか変な話になってきた。
久しぶりに展示された作品を鑑賞したことは書いた。
もう一度、そのことを考えてみる。
僕らはというか、僕はなのかもしれないが、
作品は展示されて初めて見えてくる。
例えば、展示する為に作品選定を行うときと、
教室で制作を見ている時は全く違う意識だ。
というより、眼も全く違う感じになる。
ある意味で、作品を作品として、絵を絵としてみるのはここからだ。
現場では絵を見ていない。絵は見えない。
絵を見てしまうと動いている流れに方向付けしてしまうことになりかねない。
場においては、絵ではなく、その後ろで動いているこころを見ている。
(もちろん、筆の動きやビィジュアルは見ている。)
どんな方向にも変化していける柔らかい流れを見る。
絵には始まりと終わりがあるが、場やこころの動きは始まりも終わりもない。
すべては連続している。流れを途切れさせてはいけない。

絵は動かない。絵は一枚で完結しているし、していなければならない。
でも、描いているこころは絵が出来ても動き続けている。
一つの絵と次の絵との間に境目はない。
作品として完結される前の部分を見ていくことが場を見ることだ。

だから、場ではすべてが渾然一体となっている。

作品を見る時は、そういったこころの目と言うか、
背景を見ている視点をきれいさっぱり捨てなければならない。
ここでは肉眼で見えるものがすべてだ。
作家たちのこころの世界(それは私達にとってはあまりに明白なものだ)が、
一枚の絵画として体現されていなければならない。

作品を選ぶことは、ある瞬間を切り取ることだから、
切り取った部分に一番本質的な何かが現れていなければ意味がない。

そこで、この場を見る視点と、絵を見る視点は両方とも必要だ。
どちらかだけでは分からない。
作品は徹底的に客観的でなければならないが、
客観的とは本質的とか普遍的ということでもあるから、
ここでしか出会えない作家の顔というものが確実にある。
アトリエや制作の場だけ見ていたのではそこが見えない。

場は主観でもあり客観でもあるという微妙なものだ。
追求していくと、やっぱり場が一番難しくも深くもあるのだけど。
そして、僕は場を見ていくことを最も大切にしている。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。