2013年3月27日水曜日

突き抜ける

なんだか、すっきりしない天気が続く。
毎日、曇っているし気温も低い。
今日は少し雨も降っている。

昨日は夜だったのでちょっとの時間だけどお花見した。
どこまでも続く桜の色を見ていると、この世の出来事に思えないのは不思議だ。

桜の景色も、新緑も、紅葉も、そして真っ白な雪景色も、
自然が見せる四季の姿を見ていて、絵を思い出す。
というより、自然の奥から絵が見える。絵の奥から自然が見える。
もちろん、ここで言う絵はダウン症の人たちの描く世界だ。

やっぱり、どこまでも突き抜けて行きたい。

これを書こうと思って、アトリエのページを開いたら、
よしこがブログを更新していたので読んだ。
僕らは普段は滅多なことでは、現場の話しはしない。
お互いに今、どう感じて、何を見ているのかは察知するしかない。
だから、時々ブログを読むと、そんな風に感じてるのかあ、と気がつく時もある。

話題に上ることがあるとすれば、
作家たちの調子や、準備するための条件を話すくらい。

時には、今、制作の場でどんなことを感じているのか、
話したり共有したりしてみたいと思う時もなくはない。
でも、そんなことが出来るほど、甘くはないことはお互いに知っている。
制作に関わることは、深く入って行けばいくほど、孤独なことだ。
たとえ迷ったとしても、(僕は迷わないが)出口は自分で見つけるしかない。
答えは自分しか持っていないし、誰も手出し出来ない。

ある地点までいけば、同じようなものが見えてくる。
同じものを見ているけれども、みんなたった一人で見ている。
孤独にならなければ繋がることも出来ない。

そんなわけで久しぶりに、ブログを読みながら、
よしこの見方の深まりを感じた。
やっぱり愛情も強くなっているのかな、と感じる。
ずっと昔から変わらない部分と、更に穏やかになっている部分と。
愛の強さというものがあって、よしこという人はそれが本当に凄い。
僕はどこまで行っても客観視する視点は捨てないが、
よしこの場合、瞬間に相手に入り込んで包みこんでしまう。

作家たちに対しても、学生たちに対しても、
一緒に進めてきた仲間たちに対しても、切実な想いで愛情を持っている。
誰もいないとき、一人一人を思って彼女が涙を流す場面を何度も見た。
そんなとき、「泣いたらだめ。出来ることをするのが僕達の仕事」と、
分かり切ったことしか言ってあげなかった自分を反省している。

お互い本気すぎてぶつかる場面も多かった。

そして、繰り返しになるが、僕達の使命は、
たとえ一緒にすすめて行っても、どこまでも一人で挑まなければならない。
誰も立ち入ることは許されない。
入ってはいけないとさえ言える。
助けてあげられないのは辛いことではあるけれど、
お互いに自分の力で出口を見つけて、出てくる。
その場所でまた会える。

彼女が切実な思いで、みんなのための場を考えている。
そこを実現させて行かなければと僕は今思っている。

でも、僕はよしこの言う病んでしまった人を受け止める役割、
という部分に共感はするけれど、
一方で僕達の仕事はそこから先のことであるという気もしている。
これはまだ、答えは出ていないけれど。
どういうことかと言うと、本来はアトリエでなくても、
その役割は果たせているべきなのではないか、というケースも多い。
学校や職場や作業所や家庭で、もっとしっかり対応出来ていれば、
こんなことになるはずがないのに、という思いもある。
勿論、困った人を受け入れないということでは全くない。
そういう役割も出来るだけ果たしてはいきたい。

健康で何の問題もなく生きていて、
そこから先に感性を開いて、みんなと繋がって、
もっと、もっと奥があるのだから。
せめて、みんなの健康をしっかり守っていてくれる環境があれば、
僕達はそれから先の部分が出来る。

これは良く話題になることだけれど、
病んでしまっている人に少しでも笑ってもらったり、
楽しいと感じてもらったりするために、使うエネルギーと、
調子が良く感覚が開いて行く人と向き合っていくときとでは、
実際的には絶好調の人と向き合う方がエネルギーを使う。
単純には言えないけれど、悪い状況を少しでも良くすることより、
良いものを更に良くしたり、よい流れを途切れさせないようにする方が、
はるかに難しいことで、その価値を認める人が少ない。
病院は病んだときに行く場所だけど、
実際は病まないようにすることの方が大切だ。
僕達が一番エネルギーを注ぐべきはそこにあると思っている。

一人の作家を見ているとき、健康でも病んでいても、
僕達にはやることはいくらでもあるし、
作家の奥には無限の世界が広がっている。
どこまで、そこに入り、タッチ出来るのか、日に日に深めて行かなければならない。

僕が最近強く感じるのは、
やっぱり原点である、彼らの凄さ、というか素晴らしさに、
もっともっと注目して良いのではないか、ということだ。

もっと突き抜けて行きたいと感じる。

2013年3月26日火曜日

希望

朝は少し寒かったけど、今日は良い天気。
まずは洗濯。

今日のプレは良い時間になりそうだ。

よしこから送られてくるゆうたの写真を見ていると、
本当に幸せになる。
ゆうたが可愛くて仕方ない。
一緒に遊びたい。一緒に過ごしたい。
でも、自然の中で笑っているゆうたを見ていると、
彼にとっても今の生活はベストなのだと思う。

あんまり、こんな言い方はしないようにはしているけれど、
僕には使命がある。

使命を果たしていくためには、個人的な幸せを超えて行かなければならない。
いつか、両方が一つになれば素晴らしい。
きっとそんな方法がみつかると信じている。

家庭も大事だし、仲間たちも大事だし、仕事も、みんな大切だ。

さて、4月はよしことゆうたが東京へ来る。
この期間に夏の合宿や来年の展覧会の打ち合わせをおこなう。

こんな時代の中で、少しでも可能性を示す活動をしたい。
社会に意味のあるものを生み出したい。

これからは本当に希望に繋がる何かを発信して行かなければならない。

どんな時でも問いかけ続けること。
ここでおこなっていることが、何を示し、どんな意味を持つのか。
ここだけが良ければ良しではない。
この場が良くなることが、社会全体に繋がって行くような場でありたい。

みんなで創る意識を高めて行きたい。
良いもの、良い環境を生み続けたい。

アトリエの活動が何か大きな流れの中で、
良くあろうとする人々の意識に響き、繋がりを創るものでありたい。
人と人、場と社会が響き合い、僕達は調和へ向かって歩く。

2013年3月25日月曜日

絵の光

今日は冷えますね。
桜がきれいで、時間が止まっているようだ。
昼の光で見る桜も奇麗だけど、夜はひときわ怪しくて良い。
土曜日だったか、夜、雨が降って、僕は傘をさして家の裏の桜を見に行った。
きれいできれいで、そこだけ違う世界だった。

体力的には厳しい時期だ。
そして、僕達は制作が一番のってくる、この期間は本当に神経を使う。

睡眠時間もなるべく多くとる。

一瞬の判断が重要だから、瞬発力が必要だ。

それにしてもこの3週間ほどのところで、作家たちは途轍もない世界を見せてくれた。
美の純度が高まっていくなかで、一体どこまでいくのか、と思う程だ。

作家たちと一緒に深め、のぼりつめて行く。
どんどん純粋になって行く。

そんな中で、低レベルな話題に付き合っていくのは正直、きつい。
こんな言い方をして申し訳なく思うが、
最近、やらなくても良い、何の効果も期待出来ないイベント事で、
ダウン症の人たちのため、とか障害者のため、という活動が多い。
関係ないからほっておけば良いのだけど、そういう人達は絡んでくる。
良いと思っているのだったら、勝手にやっていればいい。
残念ながら、僕はそんな活動を良いとは思えないので仲間にはなれない。
お互い一生懸命、信じた道を進んだ方がいい。
もっともあの人たちに信じるべき何かがあるのか分からないが。

なんだってそうなんだけど、何でもやれば良いというものではない。
前にも書いたが何のために、何をするのか、一度でいいから考えてみることだ。

僕が一番、腹が立つのは、ダウン症の人たちがなめられていると感じることだ。
目線がなめているのだ。
そんなレベルの話ではない、と言っても理解はされない。
だから、淡々と良い仕事をして、良いものを残して、
形で見せて行くしかないのだろうけれど。
僕は未熟で至らないから、レベルの低いものには怒る。
本気でやっているから腹が立つ訳で、適当にやっていれば、
僕だってもっと穏やかかも知れない。

昨日もついつい撮影中の映画監督に怒ってしまった。
撮らないでと言っているところを、撮り続けたというまあ、よくある話なのだけど、
僕には撮られているということよりも、
そんな次元の問題じゃないんだという苛立ちがあった。
「なに撮ってんだ」とつい言ってしまったので、
後でちゃんとお話ししてお互い確認し合ったから、もう何のわだかまりもないが。

見解が違う、立場が違う、それは良いとおもう。
でも、僕がいつも孤立してしまうところは、本気度の違いだ。
お互い本気だったら、みんな本気だったら、いろんな違いが出てきても、
一緒にどこかまでいけるはずだ。
本気になればなるほど、周りとのギャップが生まれてしまう。

それはまだ、僕が未熟だからだ。至らないからだ。
まだ比較しているからだ。
まだ、みんなについてきて欲しいと思っているからだ。
理解されたい、仲間になって欲しいと、どこかで思っているからだ。

本当の世界はそのような甘えを許さない。
真の孤独がそこにある。
僕はまだそこにはいけていない。
だから、人と対立することもある。

ただ、作家たちがいる限り、僕は孤独にはならない。
彼らこそが本当の意味での仲間だ。

昨日のしんじの凄さ。
魂が絵になっている。
この一週間前にまた家で暴れていたとは思えない、平和な美だ。
なぜ、あんなところまで行けるのか、それは誰にも分からない。

予備クラスのすぐる君も良かった。
どんどん透明感が増して行って、やわらかい幻想的な作品が仕上がった。
その時にはこの場所全体がすぐる君の作品の風景になっていた。
あのような世界が描けるのは、あのような世界が見えるからだ。

土曜日のアキ、よしてるも良かった。
よしくんは桜を描いたのだけど、アングルが凄い。
彼の空間把握は特殊なもので面白い。
ゆれながら歩いている、彼の姿とも重なる。
アキの繊細な筆遣い。やさしい色。大胆さと繊細さ。
いつも紙はテープで貼付けて固定してあるのだけど、
試しに時々、テープを貼らないで紙を置く。
アキの場合、それでも紙が全く動かないので、
本人は固定されていないことに気がつかない。
これは手の動かし方に無駄な力が入っていないからで、
素材への適合力を表している。強引さがまるでないのだ。
素材にそって自然に描いて行くから、物を傷つけない。
仕上がった作品も丁寧でやさしい雰囲気だ。

みんなの絵は今ひときわ崇高になっている。
純度も高いし、透明感もある。
そして神秘だ。絵の美しさは、この世界のつくしさ。
世界を見る、目とこころの美しさだ。
色の光り方が違う。

桜も絵も奇麗だ。
怪しいぐらいに色づき、咲き誇り、そして散って行く。
今が一番大切。今しかない。
意識のスピードが上がって行く。

夜は寝る前にまた宇多田ヒカルを聴いた。
孤独な疾走感はこの季節にもあっていて、散って行く桜の淡いピンクがちらつく。

2013年3月22日金曜日

クリント・イースト・ウッド

毎年、いつ見ても桜はきれい。
この時期がすぐに終わってしまうのが残念なのも毎年一緒だ。
暖かくなって身体も緩む。
さくら、さくらで、道の色んなところにピンクが顔を出している。
もやっとした日差しは夢の中にいるようだ。

最近、夕方は景色が青くなる。
青い世界も夢のようだ。

いったい僕達はどこに居るのだろう。

今年の夏は合宿の後、岐阜で公演をする。
毎度の反省点として、アトリエの成り立ちで時間が終わってしまうので、
今回はその辺は省略させて頂いて、もう少し先の話をしたい。
まあ、教育関係の方達の前なので、教育に繋がるテーマで行こうと思う。

色々とお話しする機会は多いけれど、中身は一緒だ。
僕達はずっと制作の場を見ているだけで、その経験は限られたものだから。
どのような環境が感覚を開くのか、人のこころにどんな可能性があるのか。
喜び合う場づくり、そんなところがテーマの中心だ。

それにしても毎日やっていても、
みんなで場を良くすること、感覚を動かして絵を描くこと、
その中に無限の可能性を実感している。
日々、瞬間瞬間に新しいものが見えてくるのだから、終わりがない。

暖かい空気の中、街を歩く。
自転車で買い物へ行く途中や、散歩している時、
頭の中で宇多田ヒカルの音楽がなっている。
最近、ずっと聴いていたせいか。
しばらく前に赤嶺ちゃんが貸してくれたのだけど、
なかなか時間がなくて聴けていなかった。
最近、夜になるとこれをずっと聴いていたので、
メロディーや言葉が入ってきた。
特に動いている時、スピードにのっている時に彼女の音楽が聴こえてくる。
宇多田ヒカルにはスピードというか、疾走感のようなものがある。
どこにも辿り着けないことが分かっているのに、
ただ走りつつけなければいけない。ただスピードをあげていかなければならない。
どこにも行くことは出来ないし、これ以上なにもおきない。
でも、ひたすら走る。孤独で切ない疾走感。
いつでも、人にはそんな部分がある。

桜の淡い色や匂いも、自分の中に入って行く。
うとうとしていると、いろんな感覚が蘇ってくる。

朝5時から、DVDを2本たてつづけに見た。
2本ともクリント・イースト・ウッド監督作品。
稲垣君に進められていて、これもずっと見ようと思っていて、
昨日、ツタヤで借りてきた。
「ミスティック・リバー」と「ヒア アフター」という作品。
これで、クリント・イースト・ウッドは見なきゃ、という人になった。
2作とも良かった。
ミスティックリバーは残酷で救いがない感じが強いし、
ヒアアフターは穏やかになってはいるけど、あの世や霊能が入っていて、
物語としてはやや破綻している。
でも、印象としては2作とも全く変わらないのが不思議だ。
同じことを描き方を変えているに過ぎない。
それにしても、クリント・イースト・ウッドの世界観は凄い。
どこであの世界観をつかんだのだろう。謎だ。
ミスティックリバーのトラウマや暴力も、
ヒアアフターの霊能やあの世も、実は本当は何でも良かったはずだ。
あんなのはあの世界を書くための小道具にすぎない。

では、何が描きたいのかといえば、
まあ、「むこう側」の世界といえるだろうか。
むこう側と言っても幻想でもなければ、あの世でもないし、
見えない世界のようなことではない。
あらゆる芸術が問題にしているのは、そのむこう側しかないだろう。

むこう側というのは、一つのリアリティとして実在する世界だ。

例えば形が形になる前に、ものがものになる前に、
そのものを生み出す動きのようなものがある。
今、僕達が見ている世界の奥に、この世界をこの世界たらしめる動きがある。
それがむこう側の世界だ。

制作の場について、よく言っていることだけど、
僕達は絵が絵として成立する以前の創造性の運動を見ている。
言葉を聞くときは、言葉の奥にあるこころの動きを見る。
あるいは言葉になる以前の思いを感じる。
音を聴く時、音にならない音を聴く。
色や形を見ていても、色の奥にあるもの、形の奥にあるものを感じることだ。

クリント・イースト・ウッドはおそらく、
この世界の奥に、この世界を創っているもっと大きな無限のような、
一つの世界を見ているのだろう。

2013年3月21日木曜日

ハピネス

今日も書こうかな、と時間を確認。
風が強くて、少し寒い日だった。
気がつくと桜も咲いている。

何かが新しく変わって行く。
新しい季節に入る。

先日、海外からのお客様とお話をしていると、
「あなたのお話の中で、ポイントとなる言葉はハピネスだと思いますが、あなたはそこに独自の意味をこめているようにみえます。その意味を教えて下さい」
というようなことを言われて、自分が無意識に使っている言葉に気がついた。
通訳の方を介しての会話なので、細かいニュアンスはお互いに難しい。

確かに僕はアトリエの活動をお話しする時、
一番良く使う言葉に「みんなの幸せ」がある。
幸せという言葉を無意識に、誰もが共有しているものとして使っている。

そう言われて考えてみれば、アトリエでの実践から見えてくる幸せというものと、
一般的に使われている幸せという言葉が同じ概念とは限らない。

なぜ、経済優先ではないのか、なぜ個人の自立だけを第一におかないのか。
更にはなぜ、福祉的な方向性や、治療や教育という方向へ行かないのか。
それらの要素は必要ではあるけれど副次的なものだからだ。
そして、一番目指したいのは「みんなが幸せになること」だ。

でも、このみんなの幸せというのは、いがいと分かりにくいことだ。
幸せということを、誰しもが願っている。
その幸せだけど、人は無意識の内に自分の、個人の幸せを幸せと解釈している。
だから「幸せ」に「みんなの」と付けただけで、
これが特殊な意味を持ったものになってくる。

建前やきれいごとですませてしまえば簡単だけど、
ここを本気で考えて行くと実は結構難しい。

言葉としてならみんなの幸せを考えられるだろうけど、
実感としてみんなの幸せが自分の幸せと感じられるようになるには、
色んなことが分かって来なければならない。

すぐに実感出来るのは自分の幸せだから。
自分が喜ぶこと、嬉しいことが、
他の人を全く犠牲にしないで実現することは難しい。
これは本当だ。
だから、自分だけの幸せを獲得しようとすると、取り合いになる。
競争になる。
そこから先は絶えず比較の世界だ。
誰よりも持っている、誰よりも持っていないという比較が価値基準になってしまう。
そうして行くと終わりがないから、
みんないつまでたっても満たされない。
結局、幸せになれない。

やっぱり、みんなの幸せが、幸せに至る唯一の方法だ。

こんなことはアトリエで絵を描いている人達を見ていて分かることだ。
場が良くならなければ、個人の絵は良くならない。
場が良くなれば、みんなの絵が良くなる。
本当に不思議なくらい。
アトリエの中で誰かだけが笑っているという状況はない。
笑うときはみんな笑う。
みんなが楽しくなれば、一人一人に帰ってくることを、
ここにいる人達は本能的に知っている。
誰も一人で他の人より良い絵を描いて、自分だけ評価されようという人はいない。
みんないつでも一緒で、比較や評価から全く自由になっている。
だから、競うことも争うこともない。

この原理を社会の中で実現出来た時、それが幸福の本当の形だろう。

そんなことを思った。
僕自身もまだまだ自分が満たされることを考えているからこそ。

言葉で言うほど簡単ではないからこそ、みんなの幸せを目指したい。

愛とかやさしさだってそうだけど、
本当はそういう感情が強くなれば、それだけ悲しみも深くなる。
人を深く愛すということは、存在する悲しみを受け入れるということだ。
深く愛して、一人一人の幸せを本当に願っている時、
そこには生きることの悲しさや切なさがあるはずだ。
そこから逃げないことが強さだ。
そういう強さを持ちたい。

2013年3月18日月曜日

食べ尽くす

春になって、教室以外の仕事が増えてきた。
最近は久しく連絡をとっていなかった方達とご一緒する機会も多い。

人生は難しいもので一番会いたい人とは、そうそう会えないことになっている。
相手を大切にし過ぎてしまう、ということもある。

この季節は絵の方はとても良いのだけど、
身体に負荷がかかりやすいので、調子を崩す人も多い。

夏に向けて合宿の準備が始まる。

土曜日も日曜日も本当に良い時間が流れていて、作品も抜群だった。

稲垣君と映画を見に行った。
大島渚の「御法度」。
描かれているテーマも、描き方も色々思うところがあって、
やっぱり流石だなあと思うけど、
それよりも、最後にあそこまでの気力と体力をもって仕事に挑めるということに驚く。
すべてのシーンに気迫が漲っていた。
ラストで切られた桜がゆれていて、そこにそれまでの全部があった。

表現者の執念というのは凄まじい。
すごいなあ、と思う。

仮に自分が最後の仕事として場に入った時、
これまでで一番の気合いが出せるだろうか。

僕の場合だと体力も気力も、基本は衰えるものだと感じる。
だからこそ、今出来る最大のことをしなければならない。
前のようには出来なくても、その時に行けるところまでいく。
もうこの次は出来なくなっているかも知れないのだから。

こんなことを言ってもピンとこないだろうが、
一番エネルギーがあった頃の僕は、誰かの背中に触れて「ねっ」と言うだけで、
状況ががらっと変わることがあった。そんな間合いをつくることが出来た。
これはある意味の気合いだ。

今はそこまで一瞬に力を凝縮することは出来ない。
その分、流れが自然になっているけれど。

土曜日の夜は、また保護者の方達にご馳走になった。
恒例になりつつあって楽しい時間だ。

御法度の色んなシーンが頭を過る。
この前から、何度も見たお能の舞もこころの中でリフレインされている。

ゆうたが生まれた時にほとんど処分したので、
今は本棚はすっきりしている。
あんな本もこんな本もあったなと思い出す。
ずっと昔、小林秀雄や白洲正子の本を読んでいた。
それから、色んなプロセスを経て中沢新一の本に出会った。
他にも何人かいたけれど、もう忘れてしまった。
哲学の池田晶子さんにはよく手紙を書いていた。
毎回、ご丁寧にお返事を頂いた。
何か見えない世界があって、この人達は知っているのだろう、と感じていた。
だから、彼らを神秘化していた。
色々あって、自分が経験するようになって行くと、
いつの間にか神秘は消えていた。
彼らが見たり書いたりしている物事はむしろ当たり前になっていた。

だから、本も食べ物だとおもうのだ。
食べてしまったら、自分の細胞に入ったら、もう必要ない。
というか、執着してはいけない。形は変わって行くのだから。
本だけでなく、絵も音楽も、経験も何もかもがそうだ。
みんな食べてしまって、自分の中に入ったら、もうそれでいい。
次に進んだ方がいい。

出来るだけ、本当のものに触れて、
本物の感覚を身につけて行けば、自分が本物になる。
そうなったら、良い仕事をすればいい。

本当は何もいらない。
何もいらないということを知るために、色々経験するだけだ。

暖かくなったら、りんけんバンドを聴くことが多くなった。
今の気候にこの明るく切ない音楽がとても良く合う。

さらに先へと進んだ時、そこに何があるのだろうか。
とにかく、いつでも思いっきり生きて行きたい。

2013年3月15日金曜日

言葉

朝は寒かったけど、日中は日が射したし暖かくなった。
明るい時間も長くなった。

木曜日はお客様がみえた。
久しぶりにかなり真剣にお話しした。

最近は来客者も多いし、お話しする機会も増えている。
そして、理解して下さる方、応援して下さる方も増えている。
有り難いかぎり。

身近な方達はご存知のことだろうけど、
僕の悪い癖はお話し過ぎてしまうことだ。

もともとは決してそんな人間ではなかった。
むしろ人と話すのは苦手だった。
今でも話す時はやっぱり少し緊張してしまう。

言葉がいかにつまらないもので、不正確なものであるかは分かっているつもりだ。

それでも、僕は言葉を話すとき、真剣に挑む。
強く集中するので疲れる人もいるかも知れない。

こころの中にあるものや、経験してきた真実。
ずっとずっと追求している本質。
そういったものに、何とか言葉で迫ろうとする。
慎重に言葉を選んで、リアリティにいたろうとする。

話しているとき、僕はかなり集中している。
見えているけれど、まだ形になっていない何ものかをつかもうとしている。
掘り起こそうとしている。

言葉はときに人に影響を与えすぎる。

でも、伝えることがどれだけ重要なことであることか。
言葉を通して、言葉を超えた何ものかが伝わればいい。
そこから先は感じて欲しい。
絵に対する時や、場に対する時と同じように。
そして、生きることとは、全身で感じ、味わうことなのだから。

2013年3月13日水曜日

今日はまた強い風が吹いている。
ゆるい日差しと白っぽい空。
子供の声。小さい女の子かな。
金槌を打つ音。風の音。

昨日のメンバーはだいちゃん、ゆうすけ君、てる君、ハルコさん、アキさん、
それからあきこさんと稲垣君もいて、そして僕。
みんなでこうして制作を基本にしながらも、何気なくお話ししたり、
一緒に過ごしていられることが嬉しい。

いろんな意味でここは良い場所だ。

日々の出会いや、経験や、みんなと交わした会話、
繰り返し繰り返しやって来る素敵な時。
何度も何度も見た映画、一枚の絵画の前に30分も立っていた記憶。
繰り返しきいた音楽。
美しいものの形。
呼吸して、食べて、すべてが血となり、肉となる。

深く深く、本当に深く眠る。
目がさめると全く新しい何かがある。
過去のすべてはどこかへ消え去ったように。
全く新しい景色。
でも、それはどこかで見たことがあるようなものでもあり、
どこかでその時間を生きていたような気もする。

風が吹いている。
時々静かになって、光がゆれる。
光は波のようにも、粉のようにもなって、どこへでも行く。
キュー、キュキューーーと遠くからの音。
どこかのドアの音なのか。
他には風の音しかしない。

何にもないのにすべてがあって、
そしてここが全部なんだと分かる。

春という季節の生々しさ。

風はどこか遠いところから吹いていて、
そして僕達を遠いところまで連れて行く。

いつかどこかで見た景色。

アトリエで僕達は何をするのか。
もちろん、制作に関わるのだけど、
では、絵を描くことで何をしているのか。
ここでみんなが集まって一つの良い場を創ろうとする。
一人一人のこころの奥へ潜って行く。
未来へ抜け出ようとすることでもあり、遥か過去へ遡ろうとすることでもある。
そして、逃げないでどこまでも本質を見極めようとする。
最後のところまで行こうとする。
最後のものまで見ようとする。
そうやって、ここで何が本当なのか、みんなで知ろうとしている。

毎日そうやって、この場で自分を磨いて行く。
何をしているのか。
ひとことで言うなら、僕達は今をつかもうとしている。
今を知ろうとしている。
今を生きようとしている。
そして、この今にこそすべてがある。

今日は強い風が吹いている。
日差しはとてもとてもやさしい。

2013年3月12日火曜日

美しい形

チイ、チイ、チチチチ、と鳥が鳴いている。
良く晴れて少しづつ暖かくなる。

洗濯機を回しながら、お茶漬けを食べる。
今年も始まったと思ったらもう3月。
お客さんも多いけど、やるべきことも沢山ある。

よし子が送ってくれる、ゆうたの写真や映像。
見ていて本当に救われる。
どんどん大きくなって行くなあ、と寂しくもあり、嬉しくもあり、
そして、やっぱりどんな時も一緒にいてあげたいという気持ちもある。

離れていても思い合うことは出来る。

そして、今はゆうたが生きていることが、一番の喜びだ。

絵画クラスはここ1ヶ月くらい制作が素晴らしい。
春になってきて光が出てきて、色が豊穣になっていく。
自然の変化に、やっぱり彼らは敏感だ。

あきこさんと赤嶺ちゃんが絵本を貸してくれたので読んでいる。
17ひきシリーズは、大好きになった。
森の中でみんなが一緒に暮らしている。
ただ、自然とかわいい家があって、そこで料理したり遊んだりしているだけ。
それなのにぐんぐん引き込まれて行く世界観がある。
ここにある共同体みたいな感じは、
誰しものこころの中にある原風景と重なるのだろう。

僕達の場もずっとずっとそうありたいと思っている。

この前、買い物の帰りにブックオフへよった。
お能のDVDが700円。
それが以前から興味のあった役者がシテをつとめていたから買ってみた。
映像ではほとんど伝わらないものではあるのだろうけれど、
それでも本物の名人というものは凄い。
みたままに凄い。
すべての動きが自然で、流れに滞りがなく、どこにも力や緊張がない。
かといって間の抜けた動きも、つなぎの動きもない。
すべてが完璧なのに、完全さのもつ窮屈さがない。
全く自由で透明な水のような動きだ。
ただ立っているだけでも美しい。
人間はこうまでなれるのか、と感動した。
流れる動きと存在の神聖さをただじっと見ていた。
そこにはもはやお能など存在しなかった。

寝る前にうとうとしながらも繰り返し見たので、
夢でも名人の舞を見ていた。
どこまでが夢でどこまでが現実なのか。

名人は手を上げたり下ろしたりするだけで、宇宙のすべてを感じさせる。
森や海のように存在そのものとなっている。

物の美しさって何だろう。形の美しさって何だろう。
完成された形という物があって、それはどこかの石ころかも知れないけど、
その姿形を見ていると、他ではあり得ない、こうでしかあり得ない、
最後の最後の、奥の奥のものが見えてくる。
その形が見せてくれる。教えてくれる。

生きてあることの神秘を感じさせてくれる。

ただそこに居ること、深く居ることに徹しられる人間になりたいものだ。

2013年3月9日土曜日

同時ということ

すっかり暖かくなった。
僕のいる二階は日当りが良くて暑いくらいになる。
こういう気候になってくると散歩がしたくなる。
でも、花粉も多いようだ。

木曜日はアトリエの仕事で原稿を書いていた。
ブログの文章ならいくらでも書けるのだけど、
こちらは久しぶりに書いているので、なかなか言葉が出て来ない。
気分を変えてコーヒーをドリップしたり音楽をかけたりする。

割合に場に入っていて、その残像の様なものを反芻している時期がある。
これは僕がいつも言う、場を離れればもう何も残らない、
ということと矛盾するのだけど。
でも、言葉で書くと矛盾は避けられない。
場での経験や感じが、何度も細胞の中で生き返ってきて、
無限に折り重なって行く。
経験と経験、場面と場面、音や空気や匂い、それらが無限に重なって行く。
すべてが呼吸し、すべてが輝き、すべてが響き合う。
そんな情景がはっきり見えるところまでいくと、何か場にも良い影響がある。

こういう状況にある時は、なかなか文章を書くのが難しい。
話をすることや文章を書くことは、ある意味で纏めることだから。
纏めるとは、多様で複雑な現実にすじをつけることなので、
当然、ある部分は捨てて、どこかだけをピックアップしてクローズアップする。
話や文章はそれによって、分かりやすくエッセンスを抽出することが出来る。
でも、そのかわり単純化してしまうことになる。

先に書いた場の残響を細胞の中で蘇らせている時は、これの全く反対だ。
そこではピックアップやクローズアップをいっさい行わない。
すべては多様で複雑なまま、無限に戯れている。
目的もなく答えもない。
すじもなければ、纏まりもない。
分かろうとすることは、ここでは意味がない。

場での残響だけではなく、場に入っているその時も、
大切なのは方向付けではなく、多様な要素に気づいていることだ。
どんな小さな物事にも注意力を注ぐが、決してどこかだけを切り取らない。

前にも書いたことがあるけれど、「同時」に多様な次元にいることだ。
現実にも、こころの状態にも、そして言葉にも一つの要素にいくつもの層がある。
そのどの層にも注意を向けている。
この同時に行う。同時に扱う。同時に経験するということが大事だ。
普段の私達は現実を単純化しすぎている。
例えば、僕は沢山の人達が自分の中で生きているし、時に経験が再現される、
ということを書いた。
でも、これも一つ一つが順番に起きる訳ではない。
すべては同時に起きている。

なぜわざわざ、このような複雑な話を書いたかと言うと、
これは何も私達の日常生活とかけ離れたことではないからだ。

震災から2年。
あの頃も書いていたことだけど、
悲観するか、忘れるか、どちらかだけになってしまうと、
現実を適切に見て行くことも生きて行くことも難しい。
矛盾とも書いたけど、現実は矛盾しているものだ。
注意しつつ希望を捨てない。
明るく前向きに生きながら楽観しない。
恐ろしい現実に目を背けないで、しっかり直視するけど、恐れない。
矛盾の中で最善をつくしていくこと。
悲しみながらも笑い、笑いながらも悲しむ。

僕達の場ではどんなにつらい状況にある人でも笑う。
笑っていても、その人の中にある悲しみを忘れない。
どんなに泣いていても、その人の中にある笑顔を忘れない。

すべては同時にあり、同時に起きている。
その中でバランスを保ち、適切な判断をして行くためには、
多様な要素を同時に見つめる視点を養うことだ。

そんなことを思いながらも、文章をまとめることが出来た。
色々、音楽をかけてみたけど、最後はセシルテイラーを聴いていた。
「ライヴ・アット・ザ・カフェ・モンマルトル」というアルバム。
もしかしたら、これを聴いていたから、こんなことを考えたのかも知れない。
ここでのセシル・テイラーは、かなり複雑な音を重ねて行くが、
多分、一番本質は、すべての音を同時に出すような感覚だ。
複雑で無限にある音同士が同時に重なり、響き合う。

そうかあ、と気がつく。
なぜ、同時でなければならないのか、それは響き合うためだ。
響き合うことでそれぞれが活きていくのだ。

やっぱり場は人生だと思う。
だから良い悪いだけでなく、良いものも悪いものもバランスだ。

2013年3月6日水曜日

散歩

春は太陽の光の感じが違う。
昨日、ゆうすけ君は外の景色を「白っぽい緑、黄緑系」と言っていた。

朝はわりに寒いことが多いけど、柔らかな日差しもあり、良い季節だ。
気持ちも静かになる。

昨日、アトリエの時、ハルコが最近では珍しく
「久しぶりに佐久間さんと一緒に帰りたいなあ」と言っている。
別に本当にそうするつもりではなさそうで、独り言の様な感じで。
それからしばらくして、「むかしとき、佐久間さんと散歩してたね」と言ってから、
色々と思い出すことを話していた。
「ジルー(犬)と歩いてたとき、大っきい犬にほられたね。(ほえられたね)」

終わりの時間頃になると、もうそんなことは忘れたのか別の話題になっていた。

アトリエが終わって、だいちゃんを送り出してから、
まだ追いつけるかな、と思いついてちょっと走ってみると、
すぐにハルコの後ろ姿が見つかった。
「あっ、サクマさんだあ」
「一緒に帰ろっか」

久しぶりにハルコと2人でゆっくり歩いていく。
以前より忙しくなったこと、ハルコ自身が自立したこと、
とか様々な理由で最近はこんな時間もなくなっていた。

夕方の景色の中で、歩きながら、呼吸を確かめながら、
浄化されていくことを感じる。
こんな時が僕にとってもとてもかけがえのない大切なものであったりする。

浄化と書いたけど、ハルコのリズムを共有していると、
存在が純化されていく感覚がある。
街を歩く学生たちの声も遠いところから聴いているようだ。
こころは静けさを増し、気配が消えていく。
透明に透明になっていく。景色の中に溶け込んで、なんにもなくなって、
でも、鮮明に一つ一つの場面が見えている。
美しいなあ、と思う。生きてるって素晴らしいな、と思う。

ハルコが見ている世界の、豊かさ、やさしさ、深さ、広さ。
僕達は時々立ち止まって、呼吸して、確認する。
大いなるものの前でゆっくり、ここにいることを感じる。

空と空気と重力が守ってくれている。
いつの間にか世界に包み込まれている。

ハルコの家の前まで来て、「じゃあ、また明日ね」と駅の方へ歩き出す。
もう見える風景も変わっている。
僕はハルコの目を通して見ている。
そうやってゆっくり街を歩いていた。

さて、今日はアトリエでどんなものが見えてくるのだろう。

2013年3月4日月曜日

おだやかな風景

寒いですねえ。
冬の寒さとは違うけれど、まだまだ寒い。

昨日のアトリエでは午後クラスのみんなが絶好調で、
そのためかスピードも速かった。
みんな、パッと描いて帰っていったので、最後はてる君と2人になった。
いつもはすぐる君が残っていて、終わった後にお話することが多い。
昨日はすぐる君がお休みだった。

久しぶりにてる君と長く話した。
絵もいっぱい。なんと8枚も描いた。
どの絵も奇麗だし、連続して一つの世界を創っている。
色々と理屈ばかり言う人にはこんな作品を見てもらいたい。
この世界はほとんど無限だ。

てる君は相変わらずやさしく穏やかだ。
ゆっくり、いろんなことを話す。
最近あったこと、昔の思いで。
ディズニーランドやパズルのこと。
カラオケのこと。
昨日の作品は「豪徳寺駅」「経堂の駅」「千歳船橋」というタイトルがついていて、
それぞれに思い出が入っている。
ゲーム屋さんや学校やデニーズの話をしながら、
てる君のいるやわらかい世界に案内してくれる。

てる君が見ている、現在も過去も、本当に透明な空気に包まれた風景だ。

僕達もこんな風に世界に対したい。

平和と言うけれど、人間一人一人がこころを平和にしなければ実現しない。

本当のことを目指して、妥協せずに突き進むと、
様々な困難に向き合わざるをえない。
戦うことはまだまだやめられない。
無理解にさらされることも多い。

でも、こうして立ち向かい続けることが出来るのは、
ついてきてくれる方達のおかげだ。
保護者の方々にも感謝の気持ちでいっぱいだ。
気がつくとお掃除してくれてあったり、差し入れまで頂いたりと、
ここ最近もお気遣いいただいてばかりだ。
アトリエを大切に思って下さるだけで充分なので、
なるべくこちらでしっかりやって、ご心配をおかけしないようにしたい。

いつでも信頼してくれて、
自らの最も大切な内面の世界を開いてくれている作家たち。
いつも一緒だし、いつでも手をつないで進んで行きたい。

2013年3月3日日曜日

本当のもの

最近、ますます頭の中がからっぽだ。
こういう状態は一般的な認識と違って、僕らにとっては良いことだ。
制作の場でも他の部分でも考えに支配されてはならない。

毎日のアトリエもある意味でどんどん良くなっている。

いつも、ゆうたのことが頭にうかぶ。
ゆうたが幸せでいてくれたら、あとは何もいらない。
これからは、ゆうたがどう育ってくれるか、彼の心に何を残せるのか、
そこに賭けていかなければ、と思う。

ここしばらく、何度かメキシコ料理を作ってみた。
まだベストの味は出せていないが、回を重ねるうちに美味しくなっている。

こうして毎年、作家たちと笑いながら季節が変わっていく。
暖かくなれば、また、見えるもの感じるものも変わってくる。

春のアトリエ、夏のアトリエ、秋のアトリエ、冬のアトリエ。
すべてが身体の中に、細胞の奥深くへ入っていく。

一瞬が永遠であるということが比喩ではなく分かる時がある。
どの瞬間も僕の中では生き続けているし、今もある。
本当に美しい場面は、美しい絵と一緒でなくなることはない。


東京のアトリエに来る人達も様々だ。
福祉や教育関係の人達。絵画や芸術表現に関わる人達。
関心にも多様なレベルがある。
作品を見たいと思う人、制作の場を見学したいと思う人、
作家たちに会ってみたいという人、ただ僕と会って話したいという人。
色々だ。
でも、最近は実は一番多いのは、本当の生き方を探している若い人達だ。

僕はずっと場を通して見てきたし、生きてきた。
場から見たもの、教わったものについてしか知らない。
そんな話でも聞きたがる人達がいる。
これまでは、一番深いところまでは言わないようにしてきた。
最後のところにあるものを、見ることが出来る人は実は限られていると思っている。
それに、そんなことを望む人もそう多くはない。
僕が教えても、それはきっかけにすぎないことを理解してほしい。
本当に見るのは自分しかいないのだから。
お話ではなくて、その世界を実際に経験しなければ意味はない。
そこへ行けるのは自分だけだ。
行くかどうかは、自分で決めることだ。
進む以上は後悔しない。自分で決めたことは全部、自分で責任をとる。
その厳しいルールを守れば、世界が何かを見せてくれるだろう。

このささやかな場からでも、人間の本質や世界の根源が見えるのだから、
どんな場所で何をしていようと、
その行為を真剣に謙虚に続けていけば、必ず辿り着くはずだ。

最後には本当のものが見えてくる。
それを見るために僕達は生きているのだろう。

だから、何が見えるの、どんなことが分かるの、と聞いて学ぶことも良いけど、
最後は自分で見るということだ。
そこまで行くのも、見るのも自分なのだから。

そして最後は、「ああ、きれいだねえ」「本当に素晴らしいねえ」と、
美しいなあ、世界も命も、ありがとう、と、
そんな風になれたらいいね。

2013年3月1日金曜日

無作為

今、これを書き始めて雨が静かに降り出してきた。
今日は暖かかった。
春一番が吹いて、家が少しゆれていた。

アトリエを離れても、みんなとの時間に経験しているやわらかな景色が見える。
どこへ行っても、そこで場にあるような情景に出会う。
誰も彼もがやさしく思える。

ようやく本当のことに少しだけ近づけた気がする。

これだけ汚染物質が飛び交うと困ってしまう。
放射能もそうだけれど、いったいどうすれば良いのだろうか。

でも、どんな時も最善を尽くす以外に道はない。

今日は休みになったので、外へは出ないことにした。
窓からみていても外は本当に静かだった。

DVDで映画を何本か見た。
久しぶりだなあ。
大好きな小津安二郎の中でも一番、二番に好きな「晩春」と「麦秋」。
そこで流れていく景色も「場」で体験しているものと一緒だ。
晩春と麦秋の全体を貫いているのは、慈愛の眼差し。
あるいは、もののあわれ、だろうか。
一つの場面も無駄のものはない。どんな一瞬もかけがえのないものとして、
慈しむように描かれていく。
流れは穏やかでやさしく、でも、その背後には透徹した厳しい眼差しがある。
やさしさと厳しさは一つだ。
繋がりと孤独は一つだ。
小津作品の視線は僕が場に入っている時に見えている景色に限りなく近い。
そこにはあらゆる物事や情景に対する愛と、
消えていく一瞬に対する慈しみと、流れ全体を見通す澄んだ意識がある。
一歩も動かず、動きと一つになる。
流れを見ている眼差しは、命や運命や人生や世界といったものを捉えている。

先日、久しぶりにずっと尊敬している方とお話しした。
違う業界の方だし、ちょっと名前もある方なので、
ご迷惑にならないようにどなたであるのかは書けない。
話題は主に最近の動向についてだったが、
結局、人間にとって何が本質なのかというところまで行ってしまった。
最後は素とか自然とそこから離れてしまっている私達の意識について。
やっぱり、同じようなことを考えられているのだなと感じた。

いつも書いているが、僕達は文明の中にいるのだから、自然には帰れない。
赤ちゃんの頃が一番素晴らしい存在だけど、そこへ戻ることも出来ない。
だからといって失っていって良いという訳でもない。
大切なのはバランスだ。

僕はダウン症の人たちはほぼ理想型に近いと思う。
みんながあんな風になれたら良いとさえ思う。
でも、僕らと彼らの違いは明らかにあるわけで、
そこを一緒にしてしまってはいけない。

僕達がダウンズタウンを創って行きたいと思うのは、
彼らと僕らの理想的な関係を提示したいからだ。
どちらかだけが良いということが言いたい訳ではない。
どんな関係を創れば、人類にとって良い形が見えるのか、それが問題だ。

彼らの魅力を一言で言えば無作為だ。
そして、私達は作為をもってしまっている存在だ。
さて、作為を否定しないで無作為をどう取り入れるか、ここが楽しいわけだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。