2013年3月22日金曜日

クリント・イースト・ウッド

毎年、いつ見ても桜はきれい。
この時期がすぐに終わってしまうのが残念なのも毎年一緒だ。
暖かくなって身体も緩む。
さくら、さくらで、道の色んなところにピンクが顔を出している。
もやっとした日差しは夢の中にいるようだ。

最近、夕方は景色が青くなる。
青い世界も夢のようだ。

いったい僕達はどこに居るのだろう。

今年の夏は合宿の後、岐阜で公演をする。
毎度の反省点として、アトリエの成り立ちで時間が終わってしまうので、
今回はその辺は省略させて頂いて、もう少し先の話をしたい。
まあ、教育関係の方達の前なので、教育に繋がるテーマで行こうと思う。

色々とお話しする機会は多いけれど、中身は一緒だ。
僕達はずっと制作の場を見ているだけで、その経験は限られたものだから。
どのような環境が感覚を開くのか、人のこころにどんな可能性があるのか。
喜び合う場づくり、そんなところがテーマの中心だ。

それにしても毎日やっていても、
みんなで場を良くすること、感覚を動かして絵を描くこと、
その中に無限の可能性を実感している。
日々、瞬間瞬間に新しいものが見えてくるのだから、終わりがない。

暖かい空気の中、街を歩く。
自転車で買い物へ行く途中や、散歩している時、
頭の中で宇多田ヒカルの音楽がなっている。
最近、ずっと聴いていたせいか。
しばらく前に赤嶺ちゃんが貸してくれたのだけど、
なかなか時間がなくて聴けていなかった。
最近、夜になるとこれをずっと聴いていたので、
メロディーや言葉が入ってきた。
特に動いている時、スピードにのっている時に彼女の音楽が聴こえてくる。
宇多田ヒカルにはスピードというか、疾走感のようなものがある。
どこにも辿り着けないことが分かっているのに、
ただ走りつつけなければいけない。ただスピードをあげていかなければならない。
どこにも行くことは出来ないし、これ以上なにもおきない。
でも、ひたすら走る。孤独で切ない疾走感。
いつでも、人にはそんな部分がある。

桜の淡い色や匂いも、自分の中に入って行く。
うとうとしていると、いろんな感覚が蘇ってくる。

朝5時から、DVDを2本たてつづけに見た。
2本ともクリント・イースト・ウッド監督作品。
稲垣君に進められていて、これもずっと見ようと思っていて、
昨日、ツタヤで借りてきた。
「ミスティック・リバー」と「ヒア アフター」という作品。
これで、クリント・イースト・ウッドは見なきゃ、という人になった。
2作とも良かった。
ミスティックリバーは残酷で救いがない感じが強いし、
ヒアアフターは穏やかになってはいるけど、あの世や霊能が入っていて、
物語としてはやや破綻している。
でも、印象としては2作とも全く変わらないのが不思議だ。
同じことを描き方を変えているに過ぎない。
それにしても、クリント・イースト・ウッドの世界観は凄い。
どこであの世界観をつかんだのだろう。謎だ。
ミスティックリバーのトラウマや暴力も、
ヒアアフターの霊能やあの世も、実は本当は何でも良かったはずだ。
あんなのはあの世界を書くための小道具にすぎない。

では、何が描きたいのかといえば、
まあ、「むこう側」の世界といえるだろうか。
むこう側と言っても幻想でもなければ、あの世でもないし、
見えない世界のようなことではない。
あらゆる芸術が問題にしているのは、そのむこう側しかないだろう。

むこう側というのは、一つのリアリティとして実在する世界だ。

例えば形が形になる前に、ものがものになる前に、
そのものを生み出す動きのようなものがある。
今、僕達が見ている世界の奥に、この世界をこの世界たらしめる動きがある。
それがむこう側の世界だ。

制作の場について、よく言っていることだけど、
僕達は絵が絵として成立する以前の創造性の運動を見ている。
言葉を聞くときは、言葉の奥にあるこころの動きを見る。
あるいは言葉になる以前の思いを感じる。
音を聴く時、音にならない音を聴く。
色や形を見ていても、色の奥にあるもの、形の奥にあるものを感じることだ。

クリント・イースト・ウッドはおそらく、
この世界の奥に、この世界を創っているもっと大きな無限のような、
一つの世界を見ているのだろう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。