2013年4月30日火曜日

心をこめて

4月も終わりだ。
準備することはいっぱいだ。

この一月はゆうたに本当に多くのものをもらったし教えられた。
一生のうち、何度もない時間だ。

今週の絵のクラスでは、いつになく深く場に入っていた感じがする。
流れやこころに響く感触が忘れられない。
それにそんな時期は良く眠れる。全く夢も見ないし。

場が上手くいかない場面というのが、僕にはうかばない。
制作が流れなかったり、絵が生まれて来ないという状況を想像すら出来ない。
無駄なことをしなければ、流れは良い方向へ向かう。
少しでも改善出来ない場面というものはない。
迷っている情景を僕は描くことが出来ない。
だから、場においていつでも何をすれば良いのか見える。

「今度は家族3人でピザパス!」とあみちゃんが言う。
「えっ?なに?ピザパスって」
「ピザを食べてパスタを食べることだよ」

日曜日は午後のクラスの前半がみんな、精神面、体調面も含めて、
場全体が重かった。
流れが少し淀んでいた。
ところが、後半、全員がいっぺんにもちなおして、色彩に溢れ出した。
場も筆も流れるように動き始めた。
こんな瞬間を見るのは本当に楽しい。

この辺のエリアで一番好きだったお店が引っ越しをするそうだ。
とても丁寧な仕事をするお店だった。
小さな、こころの通った良い場だった。
勉強になった。
こういう場所や物を作ることが出来る人を僕は尊敬する。

いろんなことがあって、いろんな出会いや別れがあって、
寂しい気持ちもいっぱい感じて、最後に残るのは感謝だ。

僕達も良いお店と一緒で、形に残って行くものよりも、
一人一人の記憶の中に刻まれていく良いものを創って行きたい。

大切なのはこころをこめること。
手を抜かないこと。
丁寧に時間をかけること。手間隙を惜しまないこと。
そのお店はそんなことを教えてくれた。
単純だけど、本当に実行している人は少ない。

2013年4月26日金曜日

ぱっぱ

ゆうたは葉っぱを「ぱっぱ」と言う。
自然や動物や電車が大好きなゆうただが、一番好きなのは木と葉っぱだ。
風で葉っぱが揺れているのを飽きもせずずっと見ている。
眼差しは真剣そのものだ。
歩いていても、ぱーとかぱっぱと言うのでゆうたの指差す方向を見ると、
一角にはっぱがあったり、建物の中にプランターが置いてあったりする。

ゆうたと歩いていると、こんな都会の喧噪の中にも沢山の自然を見つける。
というより、どんな場所にいても大きな自然に包まれているようだ。

制作を追う中での話として、自然は外にあるばかりではなく、
私達のこころの中にも自然と同質の原理が動いているということを書いてきた。
僕達はへその緒のように自然や宇宙との繋がりを持ったままだ。

よし子達がもう少しで三重へ帰らなければならないので、
ゆうたの洋服を買いに行った。
それから、ずっと歩いて「ぱっぱ」を追い続けた。
様々な場所で多様な姿のぱっぱに出会った。

まるで森の中にいるようだ。
そして夢の中を歩いているようだ。

こころの奥深くであり、夢の中であり、森を分け入るような感覚で、
ぱっぱを追いかけ、ぱっぱを見つめ、ぱっぱに包まれていた。

この果てしなく広い森の中で、僕達はどこまでも歩いていた。

新緑の緑はひたすら鮮やかだった。
僕達はどんどん小さくなって、大きな大きな木々に囲まれていた。

緑、緑、空に向かって高く高く伸びて行く樹木。
ぱっぱに溢れた世界。
走馬灯のように流れて行く景色。それぞれの時間。
深い森の中。

ぱっぱに語りかけ、ぱっぱに語りかけられる世界は、
制作の場において見える情景と重なっている。
そうやって柔らかな場所でリフレインされる人生。

土の感触が蘇る。
裸足の感覚、裸の感覚。
包まれる時間。

いったいここは何処だろう。
ゆうたと一緒に何処まで来たのだろう。

明日から絵のクラスが3日間ある。
充実した場になるだろう。

2013年4月25日木曜日

しんじの絵

今週はよし子もゆうたも、そして僕も体調をくずしぎみだったけど、
充実した良い時間だった。
懐かしい仲間達に会えたのも嬉しかった。
日曜日に吉川さん(NHK)の撮影が入ったので、
ミヒロにゆうたのベビーシッターを頼んだ。
ミヒロとは久しぶりだったけど、
やっぱりアトリエを知ってくれている仲間は安心する。
イサが帰って来て、本格的に月曜日から現場に入ってもらった。
その月曜日は栗ちゃんが来てくれた。
フクちゃんも大きくなった。
あきこさんも稲垣君もいて、以前からの仲間と新しい仲間が出会って、
アトリエの場を大切に思ってくれる人達がいっぱいだ。

いつもいつも書いていることだけれど、ここでの絆は本当に深い。
僕達はいつでも繋がっている。
今いる人達も、別の場所で頑張っている人達もみんな。
誰のことも忘れたことはない。

なによりも嬉しかったのは、イサの成長だ。
この調子で自分を信じて突き進んで欲しい。
彼には情熱と努力がある。これがあればあとは大丈夫だ。
技術的なことはそんなに問題ではない。あとでついてくる。
僕やよし子の方が時間的に長く続けてきたというまでで、
実際に場に入ってしまえば、そんなことは関係ない。
遠慮は無用。とことん進んで行って先の人達をおいて行くくらいでちょうどいい。

吉川さんの撮影も三重を中心に始まったが、
僕はテレビ関係が苦手で台本のあるような世界を信じない。
でも、他の誰でもなく長い付き合いの吉川さんなら、
こちらも一歩譲ってもいいかという気になる。
大切にしていることは確かに守りたいが、
大好きな人が一生懸命何かをしようとする時は、こちらも賭けてみる勇気が必要だ。
イサに思い切って任せる部分や、吉川さんに託そうというところがある。

相手を信じなければ何も変わらない。
相手を本当に愛していれば、失敗しても一緒にすすむ覚悟が出来る。

これまで、随分書いてきたつもりだけど、
まだまだ不十分なところもある。
書かないできたことの方が多いのかも知れない。
本当に核心にあることは、例えばしんじ君の絵を見て感じて欲しい。
彼の作品の世界に入ってしまえば、ここで書いているようなことなど、
ほんの些細なことにすぎない。
あのように描かれている世界は、誰しものこころの奥深くに実在する。
それこそ、世界の根源であり、本質であると思う。
ただ、そこまで辿り着くこと、その情景を見ることは、
容易なことではない。

僕らのように関わることを生業とする人間は、
どんな人であれ制作に向き合うときは絶えず、
あの地点へ共に向かおうとしている。
触れる感触や手触りを磨いて、
どうすれば相手の懐深くに入れるか感じとらなければならない。
一歩一歩、ゆっくり浸透して行くように入って行く場合もあれば、
一瞬でぐっと入って行く場合もある。

しんじの絵の様な情景は、彼には確かに見えているのだけど、
僕達も同じように見えなければ、作家たちは外に表してはくれない。
彼には見えて、なぜ僕達には見えないのか、知らなければならない。

あのように見え、あのように感じることは難しいことだ。
なぜなら、何度も書くが頭、知性や理性が邪魔をするからだ。
恐れや怒りや抑圧が、感覚を麻痺させているからだ。
人が感覚だけになりきった時、全身で感じているとき、
あのような世界に入ることが出来る。

意識が完全に澄んでいなければならない。
自分の身体からもこころからも遠く離れて、どこまでも研ぎ澄まされた感覚に。

言葉の通りに受け取らないでもらいたいが、例えるなら、
何も見えない真っ暗闇で、数キロ先の砂粒の落ちる音を聴くような感覚だ。
遠くで枯れ葉が擦れる感触を味わうような。

あるいは海の底を感じているような、
森の奥の気配のような、
あらゆる音が全くバラバラにそれぞれが自立して、それぞれで鳴り響いているのを、
同時に一つとして、自分の皮膚で感じ、毛穴の開くことさえ自覚しているような。
そんな、全身、全世界の感覚をもって立っている瞬間。

こんな風に書いてきたのは、勿論、全部比喩なのだけど、
そんなふうにしか言うことが出来ない世界がある。

それは、場に入って行く時、経験することであるし、
ここで生まれる絵の世界に見えることでもあり、
物事の本質にある何ものかのなのだと思う。

2013年4月19日金曜日

感覚を磨く

今日は寒くなった。

昨日はあれからゆうたと一緒に寝た。
時々、ぐずっていたけど、頭を撫でていると落ち着いて良く眠った。
夜中になって授乳になったけど、それまでは僕と寝てくれた。
今日はよし子が人と会うことになっていて、僕もゆうたも一緒の予定だったが、
病み上がりなので、よし子一人で行くことにした。
ゆうたと2人でゆっくり過ごす。
まだまだ完全ではないけれど、一晩でずいぶん良くなった。
ほっとしている。

水曜日にイサが来てくれた。
これからいよいよ彼の出番となる。
プレに関してはほとんど彼に任せる予定だ。
少しづつ絵のクラスもおぼえていってもらう。

場に責任を持つということはかなり大変なことだ。
そうとうな覚悟もいる。

これまでは、ここでの主人公は作家たちなので、
あえてスタッフの仕事の重要性には僅かしか触れないできた。
これからは、もっと伝えることになるだろう。
スタッフを育てる必要もあるし、
他の現場から教えて欲しいという方も良く来るし。
関わる側の仕事や責任についてもしっかり伝えていきたい。

こういった場においてもスタッフには当然、ある意味での技術が必要だ。
職人さんが腕が問われるのと実は同じことだと思う。
腕を自慢してはいけないし、腕におごってはいけないけれど、
腕が必要なことだけは確かだ。

この腕を磨くことが難しい。

僕達の場においてスタッフに最も必要なのは、
制作する作家と全く同じで感覚、感性だ。
感覚を磨くこと、感覚が鈍らないように絶えず手入れすること。
この心がけが全てだ。

僕達のアトリエでの制作の場を見ていただくと分かることだけれど、
ここではいつでも感覚が動いている。
どんな瞬間も。
これがどれだけ大切なことか。

作家たちが自由自在に戯れるように感覚を動かして創造する姿。

これは現代の世界で最も失われてしまった何ものかだ。

生命とは動くものだ。止まってしまったら、生きているとは言えない。
ところが人間には特に現代人にはこころが止まってしまっている人が多い。

生きている実感なるものがないのも、こころが動かないからだ。
こころが動くこと、感覚、感性がいつでも動いていること。
それが生きているということだ。

そしてスタッフと言える人間は、どんな人のこころの中にも、
動きを見つけて、働きかけ、自由にしていく技が必要だ。
動きが止まっているのを見たら、原因となる固まりをどけて、
自発性を引き出さすことが出来なければならない。

今年の夏は岐阜県で公演を依頼されているが、
テーマだけ先に出して欲しいと頼まれたので考えていた。
今回は教育に携わる人達に向けてのものなので、
「感性が開く時」とした。
これまでは、制作現場から見たとか、ダウン症の人たちの世界から見えるもの、
に絞ってお話ししてきたが、
今回は関わる人間がどうあれば良いのか、何を大切にすべきかをテーマとした。
感覚、感性が動く時、開く時、そんな瞬間をみつけること。
その為の条件、環境を創ること。
関わる人間が相手のこころのどこを見ていくのか。
そんなことを考えてみたいと思っている。

実際、教育に関して考えざるをえない日々だ。
人間が育たなければ、人類は危機を迎える。
今はそんな時だ。

今の人達、大人も子供も。
これでいいのだろうか、と思うことが多い。
なぜ、こんなにも比較や評価ばかりを気にして、
何が本当なのか自分でぶつかって試してみようとすることが出来ないのか。
今の若者には希望があるというようなことを言う人が多いが、
本当にそう思っているのだろうか。
僕は自分の同世代も含め、今、若い人達はダメだと思っている。
人のこと周りのことばかり気にして、失敗を恐れているからだ。
それにこころを動かしていない。感性を磨いていない。
だから人のいうことを鵜呑みにする。
誰かが答えを持っていると思い込む。
聞けば教えてくれると思っている。

なぜこうなってしまったのか。
教育に大きな原因があることは確かだ。
学校や家庭での教育に。
人間のもとを育てずに、知識や技術ばかり教え込むから情緒が磨かれない。
結果、学歴があっても、知識があっても技術があってもお金があっても、
ちょっと現実が変化しただけで対応出来なくなる。
ちょっと社会が変われば、今良いと思われている人のほとんどが生き残れない。

ロボット人間を創ることを教育と勘違いしているからだ。
だから、教育に携わる人間こそが教育されるべきだ。

身体のことは医者に聞けば分かると思っている人達。
育児書を読んで子育てする親。
専門家に聞けば一番正しい答えがあると思っている人達。
セミナーや講習会に通う人達。
はっきり言うが、専門家に分かるようなことくらい、
一生懸命考えてみれば自分で分かることだ。
いい加減に自分で考えること、感じることだ。
自分で判断するという基本を忘れてしまうと、生命としての本能が失われる。

教育が理屈に偏って、感性を重視しなかった結果がこうして現れている。

人にはなにより感じる力が大切だ。
感じるから危機を避けられる。
感じるから良いものを創ることができる。

感じて動くことを忘れてはならない。

だから、僕達はなによりもこころが動いていること、
感性が開く時を大切にする。
それは生命力が湧き出るということに繋がる。

では、どうすれば感性を磨くことができるのか。
依存を捨てること。誰も何も頼らないことだ。
何かに答えが書いてあるとか、探せばどこかにあるとか、
誰かがなんとかしてくれる、と思い込んでいる気持ちを捨てることだ。
自分で創る、という構えに変わった瞬間に感覚が動き出す。

専門家が言ったことが正しいと思い込んでいる人達は、
学説が変わる度に右往左往している。
説なんて無限にあるし。
原発の問題でも気がついただろうが、本当のことなんてほとんど誰も言わないのだ。
自分の頭を使って良く考えよう。

信じていても誰も責任は取ってくれない。
信じた自分に責任があるだけだ。

放射能で身体がダメになっても専門家は何もしてくれない。

すべてはそんな風になっているのであって、
生きるということは、自分で責任を負って選択するということだ。

その判断の元となる感覚を磨かずして何が教育だろうか。

2013年4月18日木曜日

感じるリズム、聴こえるリズム

今日は風が強い。
これを書きながらも、ゴオーゴオという風の音を聞いている。

昨日の夜からゆうたの調子が悪く、明け方から喘息の発作が強くなった。
熱もあったので今回は風邪が引き金のようだ。
食べられないし、眠れないしで、見ていて本当に可哀想だ。
息も吸えない。
病院で吸入。
眠れないのでじっとしていると景色も変わらないから、
外を指差して「ぐう、いぐう」と出かけたがる。
時々、抱っこで外を歩いて気分転換。
よし子も寝られていないので、出来るだけ休ませる。
でも、こんな時だからなおさらおっぱいから離れない。

今は束の間、2人が寝入っている。
今日はまだ、夜中苦しくなるかもだけど、
大分落ち着いたから明日は少し良くなるだろう。
よし子もお医者さんも経験があるから、良く見極めている。
僕はヒューヒューいっていると心配でしかたない。
僕が心配していると、ゆうたがニッコリ笑って僕の頭をよしよししてくれる。
目を閉じて寝そうになりながら笑いかけてくる。
こんな時でも大人を気遣うやさしい子だ。

自分の苦しみならいくらでも耐え抜く覚悟だけはあるけれど、
ゆうたの辛いのは耐えられない。

ここまで書いて、よし子がお風呂に入りにおきてきたので、
ゆうたの様子を見に行ってきた。
まだ息は苦しそうだけど、ちょっと落ち着いてきた感じだ。
それに少し眠れている。
大丈夫だ。

最近、ますます思う事だ。
こういう文章でも、本当に書きたい事、書くべき事を書いて行きたい。

止まっていたくはない。いつでも歩み続けたい。

今、何をどんな風に語るべきなのか。
現場においても、今、新しく何が見えつつあるのか。

これまでのことは、もういいのだ。

しばらく、音楽を聴いていないが、
音楽を聴かない日々の方が頭に音楽がある。
リズム、リズム、リズム、と繰り返してみる。
日々、見つめているいくつもの現場が過って行く。
大切なのはリズムなのだと、今はまだ上手く言葉にできないのだけれど、
何となくそう思うわけだ。

鼓動、とか律動という言葉もうかぶ。
とにかく、制作の場にも、制作そのものにも、生き方にも、
歩き方にも、リズムというものがあって、
正確なリズムということではなく、本質的なリズムというのがあるはずだ。
あるに決まっている。なければ感じないはずだ。
でも人はリズムを感じる。心地よいリズムや不快なリズムを。

なんと言うか本質的なリズムと言ったけれど、
生命体のリズム、宇宙のリズムのような普遍的なリズム。
そのリズムが全てに通じるのではないだろうか。

リズムをつかめば、良い絵が生まれる。
良い場が整う。良い音楽が奏でられる。
良い生が歩める。
リズムに乗って行けば良い仕事ができる。

呼吸や間合いというものは言葉にできないし、説明も出来ない。
でも、それこそが何をするにしても最も肝になることだ。
間を見極められなければ、良い動きは出来ない。
良い仕事も、良い恋愛も出来ない。
良い家族を作ることも出来ないだろう。

人の呼吸や、自然の鼓動を感じとれなければ、
生命として生きていくことが出来なくなる。

この世界がどうやって生まれたのか分からないが、
例えばビックバンと呼ばれる爆発があって、
そこから様々な要素が生まれてきたとして、それは一つの音楽であり、
リズムであると捉えることが可能だろう。

自分自身の内側に自然のリズム、宇宙のリズムがある。

こころの奥に潜ること、場に入り、一人一人の内面を掘り起こして行く、
ということは個を極めるということだけど、
個をどこまでも深く見て行くと、必ず自然や宇宙に辿り着く。

こころをこころたらしめている働きが、
自然を自然たらしめ、宇宙を宇宙たらしめている働きであって、
それを大きなリズムと言ってもいい。
自分のリズムをみつけられれば、宇宙のリズムをみつけられる。

そうしたとき、本当の意味で響き合うことが出来る。
僕の言う場も制作も、やさしさや愛情も、人や社会や美も、
みんなそこを目指している訳だ。

アトリエの作家たちが描く作品から良質のリズムを感じて欲しい。
アトリエの場からリズムを聴いて欲しい。

リズムを感じとって良い生き方をして欲しい。

2013年4月15日月曜日

学び続ける

日曜日の午前クラスでのりょうちゃん発言。
「夏と言えば裸踊りですね」

相変わらず、みんな凄いなあ。

来週からイサが帰ってくる。
今年は彼に本格的に次期スタッフとして育ってもらう。
僕自身も本気で挑んで行く。

僕達にはやるべき事は無限にあるのだから、これから仲間が必要だ。

人のこころが変化して行く、成長して行くということは、
簡単な事ではない。

僕も結構強気で批判を書いたりもするし、
周りに物足りなさを感じたり、意識のズレを感じたりする事も多い。
でも、自分自身はどうなのか、と考えてみると反省もする。

こんな話を書いてみよう。
僕が17の頃、自分の人生のテーマをほぼ発見した。
ここを追求して行けばいい。この他にはないだろう、という核心に触れた。
そして、行くべき奥深い道の入り口に立った。
見えていた。後はゆっくり自分の芯に刻めば良いと思っていた。

あれからもう20年近くも経とうとしている。
正直、こんなはずじゃなかった、という思いがある。
もっともっと先まで行けると思っていた。
あの時、見えていた道のほんの一歩二歩先を歩けたくらいだろう。
僕には遥か向うに、もっと本当のものがあることが見える。
自分の成長の遅さに愕然とする。

これは一つの例だけれど、どんな道を歩むにせよ、
そうそう簡単にはいかないということだ。

それでも諦めずに進んで行く事が大切だ。

2013年4月12日金曜日

生き方を創る

東京にいる間はとにかく、毎日ゆうたと遊ぶ。
空を指差したり、木や葉っぱを指差して僕に教えてくる。
ゆうたが見つめる方を見ると、そこには新鮮な風景が広がっている。
特に木を指差して、ゆうたと一緒に見上げると、
大きな大きな存在が目の前に迫ってくる。
一瞬、世界がスローモーションになって、
それから、どこまでも大きな自然に包まれる。

そう言えば、以前、制作が終わった後にみつあき君がゲームをしていて、
ちょっと見せてよと言って、色々教えてもらってビックリした。
今のゲームは本当に進化している。
画面の動きも立体的だし、リアルだし、スピードも凄い。
場面の変化が早く、パッパッと変わる。クローズアップで迫る時の感触も凄い。
この光景はどこかで見た事があるぞ、と感じてすぐに思い出した。
自閉症の人の見方と同化している時の光景と一緒だった。
ゲームの世界は自閉症の人達の内面の見方に近づいている。
それが良い事なのか悪い事なのかは分からない。
多分、その両方なのだろう。

大きな大きな樹木。
ゆうたと見ている景色。
本当の世界は、もっと豊かでもっと大きくて、
もっと深いという事実を思い出させてくれる。

子供といる時間は大切だ。

生きる事はもっともっと可能性に満ちたことだ、ということを、
アトリエの活動の中からも示して行きたい。

今年、予定している夏合宿と来年の展覧会は、そこがテーマとなる。
絵を描くこと、感覚を開いて、調和を見つけること、
そこにどんな意味があるのか、明らかにして行きたい。
大切なのは美しくあること、美しく生きることだと思う。
そして、私達、一人一人が美を、調和を見つけ、創りあげて行くことが出来る。
人と人、人と自然が繋がる。
作品は調和へ向かう運動の痕跡を残したものだ。
だけど、プロセスすべてに実は美や調和がある。
プロセス、調和へ向かう動きこそが最も大切なものだ。
本当の意味では完成や完結はない。
どこまでもプロセスがあるだけだ。
一つの環境を創造して行くこころの動き。
一人一人が繋がって行く平和な作業。
そういったプロセスにスポットを当てて、作品以上に大きな流れを示そうと思う。

夏合宿では、今回、借りられるようになった建物(元集会所)を、
参加する作家たちでつくりかえて行く。
メインは外観と中に絵を描いて行く。
この作業はカメラを回して撮影してく予定だ。
建物が全く違ったものとして命を与えられる瞬間が見えるはずだ。

来年の展示ではこの映像も流して、
更に会場そのものもつくりかえて行くプロセスを見せる。

今はこれ以上のことは言わないが、こうした流れで進めて行きたい。

これまでエコールやプレでやってきたことと同じことだ。

これから三重でダウンズタウンの環境づくりを公開して行きたいと考えている。
カフェもゲストハウスも手作りで、彼らの感性に寄り添ったものとなる。
そこを訪れる人達にとっては癒しとなり、インスピレーションの源となればいい。

良い過程を歩むこと、そこをみんなで共有して行くことで、
創ること、生きること、喜ぶこと、そこに新しい可能性を見いだしたいと思う。

美は芸術家だけのものではない。
創ることも、繋がることも、喜ぶことも、
一人一人が自分自身で、見つけることだ。
それが集まって一つに調和して行く。

私達はもっと平和で豊かに生きることが出来るはずだ。
ダウン症の人たちの感性が示していることとは、
実はそういう普遍的なことだと思っている。

私達は新しい生き方を模索している。
どんな風にそれを見つけ、創造して行けるのか、
このプロセスを多くの人に見ていただきたい。

2013年4月10日水曜日

生命体のリズムと尊厳

今日はNHKの吉川さんと打ち合わせ。
ダウンズタウンを中心とした撮影がいよいよスタートする。
よし子と三重での活動が中心となった取材だ。
それなので、よし子が東京にいる間に教室にもカメラが入る。

今年の夏合宿を撮影することになるけれど、
来年の都美術館での展覧会と連続させて、
新しい希望に満ちた可能性を提示したい。
近いうちにその中身も少し書いてみたいと思っている。
今回は別の話題だ。

これは何度も書いて来たことだし、もういいかなという気もしているけれど、
一度、論点を絞って纏めておきたいと思っていたことだ。

このタイミングであえて書くべきではないかと感じている。

皆さんも新聞やニュース等でご存知だろうが、
出生前診断が開始された。

ダウン症の人たちを取り巻く環境は明らかに悪くなっている。
命の尊厳がここまで否定されて行くことを許してはならない。
守るべきだし、戦うべき時だと思う。
このことに無関心であってはならない。
何が行われつつあるのか、よくよく考えてみる必要がある。

世の中に向けて警告を発することは、分不相応であるし、
僕はなるべくしないようにしてきた。
でも、今はもう黙っている訳にはいかない。
だから、はっきり言いたい。
これは警告として書いておく。

僕自身はダウン症の人たちと生きてきたし、
彼らの内面の深い部分をずっと見てきた。
その立場から、この先どうなって行くのか、予想がつく以上は黙ってはいられない。

問題は大きく2つあると思う。
1つは言うまでもなく、ある人達が生まれてくる権利すら失われて行く可能性だ。
生命が否定されようとしている。
そんなことが許されて良いはずがない。
このことに対しては、繰り返し言うが断固として戦うべきだ。

だが、もっと複雑な問題として、
生命を守ろうとする人達が作り出してしまう問題がある。
僕はこのことはあえて言っておく必要を感じる。
いわば、内部から生まれる問題だ。
ここは出来るだけ多くの人に冷静に考えていただきたい。
そうしなければ、これから僕の言う予言が的中してしまうだろう。

つまり、ダウン症の人たちを守ろうとする人達が、
逆に彼らを傷つけ、壊してしまうことになりかねない。
これはメディアやマスコミ、それにお医者さん達にも多いに責任があると思う。

具体的な例を挙げよう。
テレビ関係がよく取り上げるストーリーがある。
もはや有名なので名前までは言わないが、書道やダンスの活動の紹介の仕方。
「障害があっても、努力して頑張って鍛えれば、人間として認められる」
という筋だ。
そもそも、この考え方自体が無礼この上ないが、
それはおくとしても、これはダウン症の人たちに対してはかなり危険なアプローチだ。
こういうことをメディアが煽ることで、
迷っている保護者達がまた誤った判断をおかす原因になる。
何度も書いてきていることだけど、
彼らにとって最も危険なことは無理や我慢をさせることだ。
これが続くと、その時には結果は現れなくても、
もっと先で必ず結果が出る。確実に。
我慢し過ぎた結果、こころが壊れる。
頑張って成功したストーリーを演出している人達は、
最後の最後まで結果を追うべきだ。
マスコミに言いたいが、もし、取り上げている人達が病んでしまったら、
そこも取材して行くべきだ。
我慢の結果、こうなりました、というところまで報道する責任があると思う。
これは仮定を言っている訳ではない。
いつか、そんな結果が出てしまうと思うから書いている。

ダウン症の人たちを取り巻く人達によく考えていただきたい。
保護者の方達。支援している人達。関わる人達。
頑張って成功するストーリーに踊らせられないように気をつけましょう。
そのストーリーを作っている人達は結果に責任を持ってはくれないのだから。

生命の尊厳を考えよう。
一方では生きることの可能性すら否定されてようとしている。
そして、もう一方では彼らの人権を守るために、
彼らに過剰な努力を強制している。
この2つの行為は実は反対に見えて同じことをしているのだ。

生命体の尊厳とは、その生命に固有のリズムが認められることだ。
そういう意味では健常者の勝手に作り上げた筋書きによって、
本来のリズムを傷つけるのなら、守っているつもりになっていても、
その人達も同罪なのだ。

最近は海外での状況も耳に入るので、おおよそ分かってきたのだが、
ダウン症の人たちに意味のない努力を強制する流れは世界的におきているようだ。

ここで警告したい。
この結果がどうなるのか。誰が責任を取るのか。
彼らのリズムを知らずに、健常者の理屈で勝手に無理させて行けば、
結果は壊れて行くだろう。
この流れが広がって行けば必ずそのような結果が出てくる。
早く気がついて、彼らのリズム、すなわち生命体の尊厳が守られることを願う。

以前に障害者アート(この言葉自体変だが)ブームなるものは消える、
と予告したけれど、
その後に震災や経済の問題もあり予想以上にブーム自体もたいした事にならなかった。
ただ、流れはだいたい予想道理で、少しづつ飽きられて行っている。

よく考えればわかる事なのに、みんなすぐに飛びつくから踊らされる。

今回はしっかり考えて行かなければ、結果はもっとひどい事になるのだから、
関わる人達は真剣に考えるべきだ。

2013年4月9日火曜日

嫌われてもやらなければならないこと

サクマブログ、久しぶりの更新です。

金沢と三重へ行って来ました。
土曜日はアトリエ、日曜日はいつもお世話になっている、
トキちゃんと寺田君の結婚式に出席しました。
月曜日は来年度開催予定の東京都美術館での展示に向けて、
中原さんと打ち合わせ。
今日はチェチェンから映像作家の方がいらっしゃいました。

一つ一つ、色々と書きたいこともあるのだけれど、
今回は長くなるのでやめておこう。

よし子とゆうたは無事、東京について、3人家族の生活が戻って来た。
今月いっぱいはこうして過ごす予定だ。
ゆうたの成長ぶりに驚く。
一緒に公園へ行ったり、毎日、自然観察をしている。
ゆうたは動物と植物が大好きだ。
それから、食べ物を人の口に入れて食べさせたり、
頭をなでたりして可愛がるのが好きだ。

もし、東京でこうして3人で生活する道を選択していたら、
どうなっていただろうか、と考えてみる。
でも、そんな選択肢はない。
進むだけだ。

金沢では地方で質の高い仕事を目指している人達に出会えた。
ほとんどは都会から来た人達で、外の目を持っている。
そのものの良さを活かすには外の目が必要だ。

これからは環境を自分たちで選択する時代になるし、
おそらくならざるをえないだろう。

金沢から三重に向かっていて、名古屋を超えた辺りから、風景が一変する。
日本海の湿ったどんよりした気候から、
太平洋の温暖でからっとした明るい気候へ。
人の性格も文化も、その土地の気候と深く関係している。

金沢にいていつも息苦しいのは、家族といるからなのか、金沢にいるからなのか。
それでも金沢は好きだ。とくに最近は。

さて、今日は簡潔に行こうと思う。
最近、仕事に対して思っていることを書こう。
社会的にも色々と難しくなっているし、
一人一人の選択が問われている時だと思う。
何度か書いたが、もう真剣勝負以外にないと思っている。

だから、僕は今後は嫌われることを厭わない。
一言で言えば、そんな生き方、仕事の仕方で行きたい。
少し前まではそんなこともなかったけど、
もうなりふりかまっていられる程の時間はないと思う。
世の中、人に好かれるために、本当に多くの無駄な努力が払われているし、
嫌われたくない人が多すぎるせいで、いいかげんなものだらけになっている。
つまらないものは、つまらないと言うべきだし、
無駄なことはもうやめたい。
そんなに暇ではないのだ。

同じレベルの努力と敬意と洞察を持った人達と仕事したい。
そのレベルにない人達には、もっと努力を要求しても良いと思う。

甘い、とかバカにするなと感じる時ははっきりそう言おう。

本気で勝負するから、それ故に嫌われるのなら、全くかまわない。
そんな気持ちだ。
僕も以前は多少は人から好かれたいという気持ちはあったし、
少なくとも嫌われたくはないと思っていた。
でも、今は嫌われることなんかまったく気にならない。
それより妥協したくない。

そろそろ本気で行こうよ、と呼びかけたい。
いったいいつまでつまらないことを気にして、そんなところにとどまってるの、と。
やってもやらなくてもいいようなことは、もうやらなくていい。

この社会に必然性のある仕事をして行きたい。

中には本気で生きて仕事している人も多くいるだろうが、
多くの人に問い直してみて欲しいことだけど、
今やっていることが何に繋がるのか自覚を持っているだろうか。
もし、明日、世界が滅びるとしても今日、その仕事を行うだろうか。
その時にそれでも、その仕事なり、生き方なりを続けるというものであれば、
それは本物だと言えるだろう。
僕は明日すべてが終わるとしても、この1日を場を創ることで過ごすだろう。
場にはそれだけの価値があると信じられる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。