2013年4月18日木曜日

感じるリズム、聴こえるリズム

今日は風が強い。
これを書きながらも、ゴオーゴオという風の音を聞いている。

昨日の夜からゆうたの調子が悪く、明け方から喘息の発作が強くなった。
熱もあったので今回は風邪が引き金のようだ。
食べられないし、眠れないしで、見ていて本当に可哀想だ。
息も吸えない。
病院で吸入。
眠れないのでじっとしていると景色も変わらないから、
外を指差して「ぐう、いぐう」と出かけたがる。
時々、抱っこで外を歩いて気分転換。
よし子も寝られていないので、出来るだけ休ませる。
でも、こんな時だからなおさらおっぱいから離れない。

今は束の間、2人が寝入っている。
今日はまだ、夜中苦しくなるかもだけど、
大分落ち着いたから明日は少し良くなるだろう。
よし子もお医者さんも経験があるから、良く見極めている。
僕はヒューヒューいっていると心配でしかたない。
僕が心配していると、ゆうたがニッコリ笑って僕の頭をよしよししてくれる。
目を閉じて寝そうになりながら笑いかけてくる。
こんな時でも大人を気遣うやさしい子だ。

自分の苦しみならいくらでも耐え抜く覚悟だけはあるけれど、
ゆうたの辛いのは耐えられない。

ここまで書いて、よし子がお風呂に入りにおきてきたので、
ゆうたの様子を見に行ってきた。
まだ息は苦しそうだけど、ちょっと落ち着いてきた感じだ。
それに少し眠れている。
大丈夫だ。

最近、ますます思う事だ。
こういう文章でも、本当に書きたい事、書くべき事を書いて行きたい。

止まっていたくはない。いつでも歩み続けたい。

今、何をどんな風に語るべきなのか。
現場においても、今、新しく何が見えつつあるのか。

これまでのことは、もういいのだ。

しばらく、音楽を聴いていないが、
音楽を聴かない日々の方が頭に音楽がある。
リズム、リズム、リズム、と繰り返してみる。
日々、見つめているいくつもの現場が過って行く。
大切なのはリズムなのだと、今はまだ上手く言葉にできないのだけれど、
何となくそう思うわけだ。

鼓動、とか律動という言葉もうかぶ。
とにかく、制作の場にも、制作そのものにも、生き方にも、
歩き方にも、リズムというものがあって、
正確なリズムということではなく、本質的なリズムというのがあるはずだ。
あるに決まっている。なければ感じないはずだ。
でも人はリズムを感じる。心地よいリズムや不快なリズムを。

なんと言うか本質的なリズムと言ったけれど、
生命体のリズム、宇宙のリズムのような普遍的なリズム。
そのリズムが全てに通じるのではないだろうか。

リズムをつかめば、良い絵が生まれる。
良い場が整う。良い音楽が奏でられる。
良い生が歩める。
リズムに乗って行けば良い仕事ができる。

呼吸や間合いというものは言葉にできないし、説明も出来ない。
でも、それこそが何をするにしても最も肝になることだ。
間を見極められなければ、良い動きは出来ない。
良い仕事も、良い恋愛も出来ない。
良い家族を作ることも出来ないだろう。

人の呼吸や、自然の鼓動を感じとれなければ、
生命として生きていくことが出来なくなる。

この世界がどうやって生まれたのか分からないが、
例えばビックバンと呼ばれる爆発があって、
そこから様々な要素が生まれてきたとして、それは一つの音楽であり、
リズムであると捉えることが可能だろう。

自分自身の内側に自然のリズム、宇宙のリズムがある。

こころの奥に潜ること、場に入り、一人一人の内面を掘り起こして行く、
ということは個を極めるということだけど、
個をどこまでも深く見て行くと、必ず自然や宇宙に辿り着く。

こころをこころたらしめている働きが、
自然を自然たらしめ、宇宙を宇宙たらしめている働きであって、
それを大きなリズムと言ってもいい。
自分のリズムをみつけられれば、宇宙のリズムをみつけられる。

そうしたとき、本当の意味で響き合うことが出来る。
僕の言う場も制作も、やさしさや愛情も、人や社会や美も、
みんなそこを目指している訳だ。

アトリエの作家たちが描く作品から良質のリズムを感じて欲しい。
アトリエの場からリズムを聴いて欲しい。

リズムを感じとって良い生き方をして欲しい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。