2013年4月19日金曜日

感覚を磨く

今日は寒くなった。

昨日はあれからゆうたと一緒に寝た。
時々、ぐずっていたけど、頭を撫でていると落ち着いて良く眠った。
夜中になって授乳になったけど、それまでは僕と寝てくれた。
今日はよし子が人と会うことになっていて、僕もゆうたも一緒の予定だったが、
病み上がりなので、よし子一人で行くことにした。
ゆうたと2人でゆっくり過ごす。
まだまだ完全ではないけれど、一晩でずいぶん良くなった。
ほっとしている。

水曜日にイサが来てくれた。
これからいよいよ彼の出番となる。
プレに関してはほとんど彼に任せる予定だ。
少しづつ絵のクラスもおぼえていってもらう。

場に責任を持つということはかなり大変なことだ。
そうとうな覚悟もいる。

これまでは、ここでの主人公は作家たちなので、
あえてスタッフの仕事の重要性には僅かしか触れないできた。
これからは、もっと伝えることになるだろう。
スタッフを育てる必要もあるし、
他の現場から教えて欲しいという方も良く来るし。
関わる側の仕事や責任についてもしっかり伝えていきたい。

こういった場においてもスタッフには当然、ある意味での技術が必要だ。
職人さんが腕が問われるのと実は同じことだと思う。
腕を自慢してはいけないし、腕におごってはいけないけれど、
腕が必要なことだけは確かだ。

この腕を磨くことが難しい。

僕達の場においてスタッフに最も必要なのは、
制作する作家と全く同じで感覚、感性だ。
感覚を磨くこと、感覚が鈍らないように絶えず手入れすること。
この心がけが全てだ。

僕達のアトリエでの制作の場を見ていただくと分かることだけれど、
ここではいつでも感覚が動いている。
どんな瞬間も。
これがどれだけ大切なことか。

作家たちが自由自在に戯れるように感覚を動かして創造する姿。

これは現代の世界で最も失われてしまった何ものかだ。

生命とは動くものだ。止まってしまったら、生きているとは言えない。
ところが人間には特に現代人にはこころが止まってしまっている人が多い。

生きている実感なるものがないのも、こころが動かないからだ。
こころが動くこと、感覚、感性がいつでも動いていること。
それが生きているということだ。

そしてスタッフと言える人間は、どんな人のこころの中にも、
動きを見つけて、働きかけ、自由にしていく技が必要だ。
動きが止まっているのを見たら、原因となる固まりをどけて、
自発性を引き出さすことが出来なければならない。

今年の夏は岐阜県で公演を依頼されているが、
テーマだけ先に出して欲しいと頼まれたので考えていた。
今回は教育に携わる人達に向けてのものなので、
「感性が開く時」とした。
これまでは、制作現場から見たとか、ダウン症の人たちの世界から見えるもの、
に絞ってお話ししてきたが、
今回は関わる人間がどうあれば良いのか、何を大切にすべきかをテーマとした。
感覚、感性が動く時、開く時、そんな瞬間をみつけること。
その為の条件、環境を創ること。
関わる人間が相手のこころのどこを見ていくのか。
そんなことを考えてみたいと思っている。

実際、教育に関して考えざるをえない日々だ。
人間が育たなければ、人類は危機を迎える。
今はそんな時だ。

今の人達、大人も子供も。
これでいいのだろうか、と思うことが多い。
なぜ、こんなにも比較や評価ばかりを気にして、
何が本当なのか自分でぶつかって試してみようとすることが出来ないのか。
今の若者には希望があるというようなことを言う人が多いが、
本当にそう思っているのだろうか。
僕は自分の同世代も含め、今、若い人達はダメだと思っている。
人のこと周りのことばかり気にして、失敗を恐れているからだ。
それにこころを動かしていない。感性を磨いていない。
だから人のいうことを鵜呑みにする。
誰かが答えを持っていると思い込む。
聞けば教えてくれると思っている。

なぜこうなってしまったのか。
教育に大きな原因があることは確かだ。
学校や家庭での教育に。
人間のもとを育てずに、知識や技術ばかり教え込むから情緒が磨かれない。
結果、学歴があっても、知識があっても技術があってもお金があっても、
ちょっと現実が変化しただけで対応出来なくなる。
ちょっと社会が変われば、今良いと思われている人のほとんどが生き残れない。

ロボット人間を創ることを教育と勘違いしているからだ。
だから、教育に携わる人間こそが教育されるべきだ。

身体のことは医者に聞けば分かると思っている人達。
育児書を読んで子育てする親。
専門家に聞けば一番正しい答えがあると思っている人達。
セミナーや講習会に通う人達。
はっきり言うが、専門家に分かるようなことくらい、
一生懸命考えてみれば自分で分かることだ。
いい加減に自分で考えること、感じることだ。
自分で判断するという基本を忘れてしまうと、生命としての本能が失われる。

教育が理屈に偏って、感性を重視しなかった結果がこうして現れている。

人にはなにより感じる力が大切だ。
感じるから危機を避けられる。
感じるから良いものを創ることができる。

感じて動くことを忘れてはならない。

だから、僕達はなによりもこころが動いていること、
感性が開く時を大切にする。
それは生命力が湧き出るということに繋がる。

では、どうすれば感性を磨くことができるのか。
依存を捨てること。誰も何も頼らないことだ。
何かに答えが書いてあるとか、探せばどこかにあるとか、
誰かがなんとかしてくれる、と思い込んでいる気持ちを捨てることだ。
自分で創る、という構えに変わった瞬間に感覚が動き出す。

専門家が言ったことが正しいと思い込んでいる人達は、
学説が変わる度に右往左往している。
説なんて無限にあるし。
原発の問題でも気がついただろうが、本当のことなんてほとんど誰も言わないのだ。
自分の頭を使って良く考えよう。

信じていても誰も責任は取ってくれない。
信じた自分に責任があるだけだ。

放射能で身体がダメになっても専門家は何もしてくれない。

すべてはそんな風になっているのであって、
生きるということは、自分で責任を負って選択するということだ。

その判断の元となる感覚を磨かずして何が教育だろうか。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。