2013年5月3日金曜日

判断、決断。

色んなことがあった。
忙しいけれど、充実した時間が流れている。
よし子とゆうたとゆっくりの時間も作ることが出来た。

公園や動物園に通った。

ゆうたはいっぱい、いっぱい笑ってくれる。

ゆうたは三重で保育園へ通う為にアレルギーの検査結果を持って行く必要があった。
検査結果を待っていたので、よし子たちはゴールデンウイークは東京になった。
アレルギーの検査が東京になったのは、
三重では対応してくれる病院が少なかったからだ。
東京でも結構たらい回しだった。
お医者さんによって見解もバラバラだし、対応が不誠実なことも多い。
この件に関しては本当は書きたいことも多いが、今回はやめておく。

ただ言えることは、専門家が何でも知っていると思ったら大間違いだということ。
まあ、これは僕なんかはずっと痛感してきたことだ。
たまたま10代の頃から、精神や知的な障害のある人達と関わってきたけれど、
この世界ほど専門家が何も分かっていないどころか、
間違った見解を広めている世界も珍しい。

ここでも何度も書いているけれど、
自分の感覚と判断を磨いて情報に左右されないことが大切だ。

土、日曜日の絵画のクラスが面白い。
毎日、これを続けたいとすら感じる。
こんな感覚は今までになかった。
もっと時間があればもっといけるのに、と思う。
でも、一方でもっと深いところ、一段二段深いレベルにいかなければ、とも思う。

現場に関してだけ言えば、体力があるうちが一番良いのだから、
いまのうちにもっと沢山の人に関わっておくべきだと思ったりする。
いつかは同じようには出来なくなるのだから、
可能性がある部分はどこまでもやっておくべきではないかと。

同じ次元に留まっている気はない。

ゆうたと色んな公園に行ってみたけれど、
井の頭公園の中にある熱帯鳥温室の風景が忘れられない。
熱帯植物が鬱蒼と広がっていて、本当に南国の森の中に入っているようだった。
熱帯植物が生い茂っている景色。
あの懐かしさと、こころが強く動く感じ。
なにかゾクゾクするような感覚。
僕にとってそういう経験が美を感じさせるのであって、
芸術家が美を作り、美術館へ行けば美に出会えるといった概念とは、
一生無縁だし、そうありたいとさえ思う。

熱帯の森に包まれたまま駅まで歩いた。
駅前に選挙カーが止まっていて演説が行われている。
その党のメンバーには一緒に仕事をしたことのある方の名前もある。
なんて遠い、無縁なところにいるのだろう。
政治によって何かが変わると信じる人はいまだに多い。
やってみて虚しさを悟ることになるのだろうが、
そんなことをしている時間があるのだろうか。

熱帯の植物の生命力がいつまでも頭に残っていた。

政治に惹かれる人達は結局は権力が好きなのだ。
一人の人間のこころがどうあるのか、地道にああでもない、こうでもないと、
積み重ね、ちょっとはまともになったかな、いやまだだな、
とかいう世界とは本当に無縁な世界という他ない。
僕がまだ未熟で分かっていないだけかも知れないが。

それにしても、誰に言う訳でもないが、
たった一回の人生、思いっきり生きた方がいい。
誰に遠慮する必要もないし、人に好かれることにエネルギーを使うのはバカバカしい。
褒められても、よしよしされても、それだけで満足出来るだろうか。
本当のことを貫きたい。

何をするのも専門家だよりとか、教科書に答えが書いてあるとか、
検索すれば答えが見つかるとか、
そんな安直な依存は捨ててしまった方がいい。
答えは自分で探す。
さっきも書いたように美術館に行けば、美が分かる訳ではない。

大切なのは、どんな生き方が可能かということ。
出来る限り、美しく、調和的な生を創りたい、ということだ。

美の問題は生命の問題だ。
何が美しく何が美しくないのか。
何を選び、何を捨てるのか。
生命はあらゆる瞬間にその判断を実行している。
美の感覚とは生命力だ。

誰かが美しいと言ったら美が生まれる訳ではない。
肩書きや能書きに頼っている限り、感覚は動かない。
どれだけ、先入観を捨てられるか、それが勝負だ。

アトリエの近所にお団子屋さんがあって、
そこで甲高い声のおばちゃんがいつも売っているのだけど、
このおばちゃんがマジックでその日に売っているものの名前を書いて、
店の前に貼っている。
歩いているとよし子が、「相変わらずいい字だねえ」と言う。
「あのおばちゃんの文字のファンだから」と。
毎回、見ていて、特に良かった時のはケータイの張り紙にしていたと言う。

流石だ。
当たり前だけど、評論家の語る美の概念に全く左右されていない。

選び、捨てる、判断する。
生きることはその連続で、感覚が弱い人は不安だから、
専門家や誰かの作った基準に頼ろうとする。

感じること、誰にも頼らず、何にも依存せず、
ただ、感覚のみが根拠となるような勇気を持つこと。

僕自身は制作の場に立つ時、自分の最も尊敬している人ですら、
今の自分の感覚より正しく判断出来るとは思わない。
もし、その場にその人がいて「違っているよ。こっちだよ。」
と言われても、僕は自分が感じた方を信じるだろう。
そして、その結果には全責任を負うつもりだ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。