2013年5月31日金曜日

善悪

今日は暑くなった。
明日のアトリエの準備をして、今日はお休みにさせてもらいました。

久しぶりに喫茶店へ行ったら、バーバーのアダージョが流れてきて、
思わず聴き惚れてしまった。
やっぱり奇麗なものに触れていたいと思った。

最近は何かとああでもない、こうでもないと葛藤があって、
簡単で明晰だったころとは変わってきたなあ、と思う。

もっと素直になりたい。

そんなことを書きながらも、最近思うことがある。

無意識に無自覚に生きることにノーと言ってきたけれど、
ここのところの社会の思考停止状態は凄い。

僕のところに相談に来る人の話を聞いていてもそうだ。

障害や差別の問題にも触れてきたけど、
何となくそうなっているから、触らぬ神にたたりなし的な状況はおおい。

みんな、そうやって育ってきてしまったのだからしょうがない部分もある。
でも、考えてみよう。
この世界に絶対に正しいものも、絶対に間違ったものも存在しない。
仮にあったとしても、自分で経験してみないと分からないはずだ。

条件反射で良い悪いを言って騒いでいる。
特に悪だと言われている物事に対しての過剰な反応は危険なレベルでさえある。

無条件に良いことだと思い込んでいることにも気をつけた方がいい。
福祉や教育やボランティアが必ず正しいと思うのは間違いだ。

むしろ正しいとか善だと思われているものが逆の効果を生んでいるケースは多い。

人助けは絶対の善だろうか。
ありがた迷惑というものも存在している。

無条件に良しとされる、健康とか長生きとか、それに何の意味があるのだろうか。
極端な話で申し訳ないが、そういった価値を否定している訳ではない。
絶対なのかということを問うている次第だ。

僕は人生がまだ始まってもいないような年齢から、
身体に気をつけて無理をしないようにしている人を見ると、
何なんだろうと思う。

僕自身は健康も長生きも、それ自体が価値となることはない。
何のための健康かということが大切なのではないか。
時にはそんなものを犠牲に出来る程の、何らかの価値を見つけているだろうか。
それを見つけることの方が先決だ。

身体のことなんかもっと疲れ果ててから考えれば良い。
長くもない人生、安息は死んでからで充分。

この前、オーガニックコーヒーを飲んだら、不味さに驚いた。
知り合いのお茶屋さんが無農薬や放射能不検出をうたうお茶に関して、
「あんな美味しくないお茶を飲むくらいなら、安全なお水を飲めば良い」
と言っていたことを思い出した。
安全とか安心とかって、それ自体が目的化されるのは可笑しい。
あくまで手段であったり、プラスアルファの部分の話なはずだ。

矛盾なく葛藤なく、さっぱりして生きたいのは僕も同じだけど。

現実はしっかり見て行かなければならない。
ほっこりなんかしてる場合じゃないし、癒されてどうするつもりだろう。

幸せについても書いてきたけど、
僕は自分が幸せになることなんか興味ない。
自分を見つめる暇があったらもっと仕事したいし、
自分のことを考えるエネルギーをもっと他へ向けて行きたい。
癒されている時間なんかない。

身体に悪いから、これをしないとか、
身体に良いからこうするとか、無意識に言っているけど、
問題なのはその身体を何の為に何に使うのかではないだろうか。

誰がなんと言おうと、どのように見られようと、
こう思うから、こっちへ進んでみる、という勢いが必要だ。
僕達は誰かに命令されて生きてるのでもなければ、
誰かの機嫌を取るために生まれてきたのでもないはずだ。

自分で考え、感じ、判断し、責任を持つ。
今、こうなっているからこうではなく、
良いものを創って行く。
そのプロセスでみんなと繋がって行けたら素晴らしい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。