2013年6月9日日曜日

水の如し

さて、今日もがんばろう。

暑くなりそうー。

やるべきことはただ一つ。単純で変わりないこと。
気持ちをこめて、思いを込めて、良い場を創って行く。

昨日は無意識について書いた。
母性についても以前、書いた。
こういう感情や心性はとてつもない可能性を持っていると同時に、
飲み込まれて行くと自己を失いかねない。
自己が肥大化している人達は少しはそういう経験も必要だけど。

僕はすべてはバランスだといつも考えているし、書いているが、
バランスと言っても、誰が見ても奇麗な安定した地点がある訳ではない。
この人にとっては良くても、あの人にとっては良くないとか、
この時期には良いけど、この時期には良くないとか。
こころを扱う仕事をしていると、
綱渡りのようなギリギリのところにいつもいて、
答えを次々に変えて行かなければならない。
だから、僕は絶対の答えを信じない。
答えとは今の状況の中ではこれが、かろうじて最善、
もしくは一番まし、というか落ち着きどころということだ。
それも、時間や場所や人によってどんどん変わって行く。
落ち着く場所などどこにもない。
すべては仮の宿のような状態だ。
僕が所有や安定に興味が持てないのも、
こころというものをテーマに生きてきたからかも知れない。

ゆうすけ君のよく使う言葉に「ぎりぎり完成」「ぎりぎりセーフ」がある。
僕にとってはいつでもそんな感じだ。

それは身体と同じかも知れない。
健康と言うけれど、老いない身体はあり得ない。
生まれてから、ずっと死に向かって少しづつ進んで行くのが生命だ。
死の時まで、多少不具合があっても、上手く使って行くことが出来ればベスト。
つまり、だましだまし。

こういうことは、何にでも言えることで、もたせる、
保たせるということが大切で、絶対に壊れないように完璧を目指すと、
逆にすぐに壊れてしまったりする。

善悪や損得では計れないものがあるというか、
ほとんどはそういうものだと思う。

人間には部分的に見る癖があるから、どうしても近視眼になるのだけれど、
全体のバランスで捉えると、そう簡単に良いか悪いかははかれない。

どこか悪いところや、欠点があるとそこを集中してみてしまったりする。
そうすると、単純にそこにエネルギーが集まる。
コンプレックスというものもこうやって出来る。

以前、書いたけれど、ぼやっと全体を捉えて、
動きの中で何処にでも行ける柔軟さが大切だ。

こころも身体も、最終的に大切なのは軽さだと思う。

僕もいつでも「場」に「軽さ」を求めている。
もっと軽くもっと透明感のある場になって行けたら。
僕自身もすきとおるような存在になっていきたい。

すべては水のように、どこまでも滞ることなく流れて行かなければならない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。