2013年10月31日木曜日

醒めて見る夢

秋晴れが続いて嬉しい。
ふと思ったのだけれど、僕ももう少しやわらかくならないかなあ。
以前と比べたらこれでも、大分楽に考えられるようになってきた。
こうあるべき、こうでなくては、が少しは減ったと思う。

真面目だけでは人も自分も疲れてしまう。

みんなで力を合わせれば、誰かが一人で頑張らなくても良くなるだろう。
そんな組織にして行きたい。

先日、よしこと仕事のことで、久しぶりに中身のことを話した。
普段は仕事に関しては具体的なことしか話さない。
彼女は何事も全力だから、子育てに入ってすっかり変わっただろうと思っていたが、
やっぱり真剣度は他の人とは違うな、と思った。
ボンヤリしているようにみせている時もあるけど、本当のところは考え抜いている。

イサもそうだけれど、これから新しいスタッフが加わって行ったとき、
どれだけ真剣な意識を共有出来るかだ。

東京のアトリエもここに通って来てくれている人達をまず第一に考える。
この規模にしては人数も多い。
東京は環境もずいぶん変わったし、
ここよりよっぽど手軽に習い事をするところなどいくらでもある。
行く場所がないから来る、という状況ではない。
大きな団体と比べたら、行き届かないところ、不便なところも多い。
特別な活動をしているので、理解していただかなければならないことも多い。
そんな中でここへ通い続けて下さっている方達がこんなにいる。

ただ看板を下げているだけでは誰も来てはくれない。
マスコミに取り上げられたくらいでは、
来てくれたとしても続けて来ようとは思わないだろう。

なによりも作家本人のこころに直接帰ってくることを大切にしてきたからこそ、
そこをご理解いただけているものと信じている。

一人一人のこころと感性という、とてもとても繊細な領域を扱っている以上は、
教育と一緒でサービス業にはなり得ない。
妥協してはひびくのは当人だ。
考えに共感出来ない方は参加していただく必要はない、という姿勢で進めてきた。
なにも人を拒絶するわけではない。
それくらい信頼関係を作らなければ進められない部分を行っているということだ。

だからこそ、僕達は責任を持って、いつでも真剣に仕事しなければならない。
アトリエの根幹である制作の場において、
僕はいちスタッフとして手を抜いたことは一度もない。

部屋を片付けていて、そろそろCDを売ろうかなと思って見ていた。
数年に一回は処分して必要な物だけにしようと思っている。
それでしばらく聴いていないものを、合間合間に聴いてみていた。
ポリーニのショパンがあって、一応上手いことは誰でも認めるけれど、
好きになれない演奏だったから、ちゃんと聴いてはいなかった。
久しぶりに聴いていたら、まず不思議なことに気がついた。
ポリーニは誰よりも正確無比で非人間的で、情感の伴わない機械的な演奏をする、
というくらいのイメージしかなかったのだが、
何か浮遊感のようなものを感じる演奏で、おやっこんなだったっけ、と思った。
そのうち、これがとてつもない音楽であることに気がついた。
精密機器の向うに何かがある。
音楽はもはやクラシックでもショパンでもなくて、
宇宙にいるような、無重力を浮遊しているような気になってくる。
臨死体験のようでもある。したことはないのだけれど。
そんなわけでポリーニを聴き直す気になった。

ポリーニの演奏にある浮遊感は、僕にとっては馴染み深いものだ。
それはいつもながらに言うのだけど、場に入っている時に時々ある感覚だ。
半覚半睡というのか。
ぼやっとしつつ意識を保つ。緩めつつ、パッと張る瞬間を見極める。

ポリーニの演奏は醒めた夢のようだ、と思った。
夢の中にいるのだけど、意識は醒めている。
夢だと認識すればする程、細かなところまで明晰に見えてくる。
見えるから見続ける、見続けているうちに、どんどんどんどん冴え渡って、
ますます醒めて行く。だけど夢は終わることなく続いている。
だから醒めたままずっと夢を見続けている。

もうちょっと詳しく書いてみたいので、また今度にする。

2013年10月29日火曜日

冷たい風

しばらくお客様が多い日が続く。
もう11月になる。早いなあ。

今週は新しいお仕事の打ち合わせ。
僕の外仕事。来年からアトリエとは別の仕事を一つ進めることになると思う。
これからのことを考えて行くと、僕は次に繋ぐことや、
もっと広い視野での仕事を進めて行かなければならなくなって来た。
アトリエの環境を守って行くためにもそれは必要だ。

今日は雨だったけれど、止んでからは暑くも寒くもなくて過ごしやすかった。
風はひんやりしている。

静かな夜に風を感じていると、色んなことが頭を通り過ぎて行く。

一緒にいてくれた人。教えてくれた人。決裂した人。
支えてくれた人。
たくさんの人がとにかく居てくれて、今があるし、この仕事がある。

生きて、何が出来るのだろう。どこまで行けるのだろう。

今は一緒に居られないけれど、よしことゆうたが居てくれる。
三重で2人を支えてくださっている肇さん、敬子さんの存在。

いつでも一人ではない。

それでもたった一人で立っている時がある。

何もかもが変わってしまったという感じと、全く何にも変わっていないという感覚。

見て来たもの、聞いて来たもの、体験して来たこと、
出会った人達、そんなすべてが折り重なって波のように動いて行く。

先の先の先まで来て、まだ先がある。
奥の奥の奥まで行って、さらに奥がある。
もっともっともっとどこまでも行きたいと思う。
沢山の人の思いを自分のこころの深くへ入れて。
何もかもが過ぎ去って行くのだけれど、何もかもがそのままここにある。

何一つ消えていない、と言うのもまた本当だ。
すべてはどんな小さなものも永遠に無くならないのだ、という感覚もある。

こころの中の深い場所には細かな片隅まで全部があって、
複雑な層をなしている。いつでも無限を感じていることが出来る。

冬が近づくと色んなことを思ってしまう。
忙しくなってくるのに、内省的になっている部分もある。

さて、年末に向けてこれまでとこれからを整えて行きたいです。
プロ野球、どうなるんだろう。
楽天のマー君、神懸かってきたなあ。
ああなると個人の力を超えちゃうから不思議。

2013年10月28日月曜日

幽玄

ぼちぼち風邪も流行りだしている。
体調をくずしやすい季節。
秋はよしことゆうたの喘息も心配だ。
なんとか頑張って乗り切ってくれているけれど、大変そうだ。

東京での作品出しは微調整の段階に入っているので、
来客があったり、打ち合わせに出かけたりになってきた。

もしかすると秋が一番季節を意識するのかもしれない。

200枚の作品が集まって、充実した心境だった。
ああ、やりきったなあ、納得出来る。満足出来るなあ、と。
制作の場では絶対にない心境だ。
いつでも、スッキリサッパリした状態とは無縁だ。
制作の場には終わりはないし、答えもない。そう思い込むと流れが止まる。
だから、作品を作品だけで扱うことは全く違う気持ちだ。
久しぶりに、いいなあ、という充実感に包まれてスッキリしていたのだけれど、
まあ、そんなのは3日間くらいのもので、今はもうそんな気持ちはない。
なにバカのこと考えてるんだ、さあ、次の仕事へ向かえ、と言われている気がする。

こうやってすぐに終わって、過去になって行くから新しく何か出来るわけだし。
まあ良いことなのではないだろうか。

もう一つ、
学芸員の方がどんな選定をされるか分からないが、
僕のところでは200枚の作品を出してしまっているわけで、
ある意味で出し切った状態なわけだ。
それで次にどうしよう、という不安を楽しんでいたわけだけど、
もうこの土、日曜日のクラスで良い作品が沢山描かれている。
これは作家たちの奥深さだ。
まだまだ未知の領域がある。

前回のブログで最後のところが上手く書けていない感じで気になってしまった。

つまり、右や左、上や下があるのか分からない、ということなのだけれど、
なにも昨日や今日思いついた話ではない。
ある意味でずっとそんなことを考えている。

凄く単純に言ってしまうと、人は自分というのがあって、
あ、ここに木があるな、と見て、時間が真っすぐに進んで行くと思っている。
過去があって現在があって未来がある、と。
でも、ちょっとでも違う次元に触れた経験があると、そんなことは言えなくなる。

例えば、だけど、僕の仕事と言うか生き方でもあるけれど、
人のこころというものに近づいてみるということをしてみる。
これが一対一の初期的な経験でさえ、相手の気持ちが自分の中で体感される。
少しでも深く入れば、もうどこまでが自分でどこまでがその人なのか分からなくなる。
繰り返すが、これは初期的な経験に過ぎない。
これが場という、もっと複雑な要素で出来ている空間に身をおくと更に、
話はややこしくなる。
身体の感覚が小さくなったり大きくなったり、無くなったりもする。
場は個が集まったものではなく、どの個からも現れない何かが現れるものでもある。
そういう経験を追求して行くと、
自分とか意識とか、世界とか、こころという言葉が何を意味するのか分からなくなる。
厳密に言おうとすれば、無限の動きが流れているとしか言えない。

何か流れて形になっているが、その形も動いていて次の形に向かっている。
そういう、言うに言えない動きだけがある。
自分とか木とか世界といって固定出来る何ものもない。
確かなものはないし手応えもない。
絶えず動き流れている。それが現実なのだと思う。

僕が持っているお能のDVDで名人の舞を見ていると、不思議な気持ちになる。
その名人は身体だけを使って、コマ送り、クローズアップ、スローモーション、
と様々な場面を描く。時間も空間も揺らぎ、確固としたものが無くなる。
身体がバラバラに動いたり、自然に流れたり、
過去と現在と未来は直線ではなくなり、混ざり合う。
すでに舞っている名人は人間ではない気がする。
自然や宇宙がそこにある。

身体を使って世界を断片化しバラバラにして混ぜ合わせて行く。
ある意味で徹底的に自然をいじって作り替えているわけだけれど、
そこになぜか自然さがある。
それは存在しない現実を作り込むわけではなく、
現実の奥にあって普段は見えていない本当の現実をつかんで行く行為だ。
お能が宗教や哲学と違うところは、そういう次元を信じろと言ったり、
言葉で描写したりするのではなく、実際に自分の身体で見せるというところだ。
お能と言うか、その名人がだろうけれど。
世阿弥が幽玄という言葉で表現している世界は、
名人においては具体的に見せることの出来るものだと言える。

そして、舞が終わると夢の後のように跡形なくその世界は消えている。
幻のごとくと謡が入ったりしている。

あの名人が舞っている時にはどんな風に世界が見えているのだろう。
きっと流れる色彩が無限に重なっては消えて行く、
しんじの絵のように見えているのだろう。

2013年10月25日金曜日

消えること、変わること、

寒いですね。
明日の台風、心配です。

年末に向けて、来年の様々な打ち合わせが入っている。

ここしばらく、制作の場と作品に集中していて、
彼らの近くにいて、時には一つになったりしてみて、
ますます確信が強くなる。
今こそ、彼らの作品の出番なのではないか、と。
今こそ、彼らの文化に触れるべき時なのではないかと。
そういうことが差迫って必要になっているのが今なのではないか、と感じる。

僕自身、沢山の痛みを経験して来たし、辛い思いもいっぱいあった。
それは、誰でもみんなそうだ。
そんな中で、何が気持ちを満たしてくれるのか、
見て、聞いて、感じて、そして考えて来た。
確かなものは美しいと思えるものだけなのではないか。

アトリエの場も、そこに流れる時間も、作品も、一言で言えば美しい。

美しいものを知ることが出来れば、どんな時でも生きて行ける。

世の中を見ていると本当に、感覚が麻痺してしまっているのでは、
と思うことがいっぱいある。
自分で感じることも考えることも出来なくなっている人達。

本当に放射能をコントロール出来ると思っている人がいるのだろうか。
とんでもないことが起きていて、避けることも逃げることも出来なくなった時、
せめて現実を見つめるところからしか、何もはじまらない。

見なかったことに、なかったことに、誤摩化そうとする人達。

外を歩いていた。
小走りですれ違った子供のシャツに血がついている。
僕はビックリして子供を追いかける。
近くで見るとその血はシャツの模様なのだった。
血染めの模様でシャレのつもりで作ったものらしい。
なんというセンスだろう。面白くないどころか、正気とは思えない。
このようなものを作る方も作る方だが、着せる親もどうかしている。

人間の感覚が狂って来ている。リアリティがおかしくなってきている。

お店で写真ばかりとる人達。
どこかへ行くと必ず、自分がその場にいることを写真で記録している。
何かを食べているところでさえも。
あれは経験を記録しているのではない。
予め経験を薄めて、処理しやすくしているだけだ。
あれは見ないように感じないようにしているようなものだ。

この現実は編集出来るものではない。記録出来るものではない。

経験することが怖いからああしている。
経験するとは自分が変わってしまうことだから。
もう引き返せなくなることだから。

ヘッドホンで音楽を聴きながら歩いたり、電車に乗ったりしている人たちも。
人にぶつかっても気がつかない。
迷惑なのはさておき、そんなことしても音楽なんか聴こえるわけがない。

本当に音楽を聴いたら、わざわざあんなものをつけなくとも、
どこでも音楽が鳴り響くはずだ。
それどころか世界のすべてがその音楽のように感じられるはずだ。
本当に絵を見たら、どこもかしこもその絵にみえるだろう。
経験するとは、変わること、今が過去になることだ。

知り合いに戦場でカメラを回す仕事をしていた方がいる。
面白い話を聞いた。カメラ越しに見ると恐怖を感じないが、
カメラを持たないと恐ろしくなるそうだ。
さすがはプロという話なのだが、それがカメラや記録という行為の危なさでもある。

僕達はいつの間にやら現実にいながら、現実を追体験してしまっている。
だから何を見ても聴いても、どこへ行っても、経験したことにならない。
それが今の世界だと言える。
どれだけ環境が汚染されていても、遠くの話のように聞いている。
そうやって半分眠ったまま、いつの間にか生命がすり減って行く。

分からなくなったら原点に返れ、とよく言われる。
今こそ、気持ち良いとか、美しいとか、美味しいという感覚を大切にしたい。

価値観が揺さぶられ、生きている世界が変わること。
全く新しい何かが現れ、これまでのすべてが終わって行く。
それが経験することだし、変化することだ。

僕の好きな志ん朝は「芸は消えるから良い」と言っていた。
人生もすべてそうだ。消えるからこそ新しくなる。

志ん朝には軽みがあった。流れるような透明感があった。
滞りがあってはいけない。リズム、リズム。

今、見たり、経験したりしているものがすべてではない。
あるとき、そんな現実がいっぺんに変わったりする。
そんな経験に自分を開いておくことが大切だ。

例えば、芸術表現にしても、絵画や音楽にしても、
あるとき、新しい概念が生まれる。
ダダ、シュールみたいなのもそうだし、なになに派とか。
キュービズム、フォービズム、アンフォルメルでも何でもいい。
もっと言うと四次元とか素粒子とか。
何故、ああいうのが出てくるかと言うと、それは新しいスタイルでも技術でもなくて、
見ている世界、見えている世界が変わって行くこと、
認識や経験が変わることだ。
世界の捉え方が突如として変わる。
その経験がさまざまな概念を生む。

今、見ているものがすべてではない。

談志は落語の中で他の落語を突如入れたり、
それが沢山混ざって来たりといった場面を作ることがあった。
沢山の話の前後が混ざり合ったりして行く。ピカソのように。
それをイリュージョンと呼んだりしていた。

すでに知っていると思って、現実を自分の頭で翻訳してしまうから、
新しい経験が出来なくなる。

評判が悪いようなので誤解を恐れずに言わなければと思う。
先日、見た松本人志監督のR100は傑作中の傑作だ。
やはり彼は天才だと思う。
世の中では評価されるべきものが全くされないことがよくある。

生きていると、習慣が生まれるから、濁って行く。
そこから差別や偏見や思い込みも生まれるし、
いつの間にか偏った見方しか出来なくなる。
フレッシュに物事を見つめてみたくてもなかなか出来なかったりする。

条件反射のように、あ、右だ左だと思って生きている。
でも、本当は何が右で何が左なのかさえも分からない。
上も下もあるのか分からない。

ダウン症の人たちの作品も名付けられないから面白い。
解釈しようにも出来ないところに価値がある。
彼らにはあんな風に見えているのだから。
だから、考えたり解釈したりするより、僕達もあんな風に見えるようになれば、
もっともっと楽しくなるはずだし、豊かになるはずだ。

2013年10月20日日曜日

曇り、雨、

今日も雨。
また台風が近づいているようだ。
最近は本当に多い。

10年に一度の、とか100年に一度のとかという言葉もよく耳にする。
やっぱり地球規模、惑星規模で大きく変化の時期なのかもしれない。

こころでも身体でも健康で調和を保って行くことは大切だ。

良くも悪くも変化して行く時は厳しいものだ。

僕達は毎日、個人のこころを見ている。
たった一人の人間がその場で楽しく笑顔でいてくれること。
そして、何か深く大きなものを自分の中から取り出してくれること。
ささやかな時間であっても、それがどれほど大切なことか。

昨日のアトリエでも、男の子が辛い状況にあることを、
ぶつぶつ呟いていた。時々、怒ったり、悲しんだりしながら、
独り言のようにしゃべり続ける。
言いながらも筆を動かし、絵を描き続ける。
ここで全部吐き出すように思っていることを言葉で出していく。
誰に聞かせるでもなく。
そうして行くうちに、絵に光が射し始める。
言葉も穏やかになり、顔も優しくなる。
「出来たよ」
「題名はある?」
「題名はー、おばあちゃん、ゆっくり休もうね」

どんな状況でも、落ち着いて自分を取り戻す時間は必要だ。
なんとか、そんな場をつくって行きたい。

何気ない瞬間がどれほど大切か。

夜中、しんじから電話。
「サクマちゃん、かいじゅうふうえかわい」(体重増えた)
「そのくらいで大丈夫だよ」
「ちょっこ休む、これいいね」

明日はヘルパーさんとお出かけと楽しみにしている。
早く寝な、と言って電話を切った。まあ寝ないだろうけど。

電話で聞くゆうたの声はどんどんはっきり言葉になっている。
この前の運動会はよく頑張った。
前日に喘息が出てたので心配だったけど、
朝、吸入して、行く、行くと言ったと言う。
かけっこは一番だったようだ。と言っても3人だけど。
でも、年上の子達と走って勝った。
まだ勝った負けたもないか。

今日は静かでずっと雨が降っている。
休みだったら、これも良い日なのだけど。

アトリエに向かってくる人達が心配だ。

少し部屋を暖めておこう。

2013年10月19日土曜日

作品選定

気がつくともう寒いですね。
秋の期間は少なくてもう冬に向かっている気配です。
ブログ、しばらく更新出来ませんでした。
原点回帰でかなり集中して制作の場に入っていました。
それから、来年の展示の準備が始まっています。

美術館での展覧会はキュレーターもいらっしゃるので、気持ちは楽です。
作品を預ければ良いといった感じで。
ただ、選定作業にしてもまさか何千枚もの作品を見て頂く訳にも行かないので、
その何千枚もの作品の中から、見ていただく作品を選ぶのは僕達の仕事になります。
ここもかなり責任重大です。緊張します。恐れもあります。
今回は東京アトリエから200枚、三重アトリエから100枚、の300枚を、
お渡ししてその中から学芸員の方が選定することになりました。

数千枚の中から200枚の作品を選ぶのは作業的にも大変です。
それから僕達の場合、制作の場でずっと一緒に見てきているので、
ある意味で自分たちのこれまでの仕事を試されてもいる訳です。
特に、ここ2、3年の作品を連続で見るのは、
自分が何をやってきたのか確認することでもあります。
初めて見て、あれっこれで良いのかな?とか作品の質があまり良くなかったりしたら、
これまでの仕事を否定しなければならなくなります。
僕の場合は更によし子が場から離れて、一人で続けてきたところでの仕事でもあり、
一生懸命、切り開いてきた人達を裏切れない訳です。
肇さん、敬子さん、よし子をまず、裏切れないし、
実際に描いて来た作家たちの最良の部分を引き出さなければ、
彼らにも申し訳ない訳です。

何度も書いていることですが作品の質は、関わる人間で大きく変化します。
彼らは本来、優れた感性を持っていますが、それが活かされるかどうかは、
環境次第です。
もし、あんまり良い作品が生まれていなければ、
作家の問題よりも関わる人間の問題が多いと思っています。
彼らが持っていないものを付け足したりはしません。
彼らに何か教えたり、プラスすることもありません。
ただ、彼らが持っている感覚を使ってくれるかどうかは僕達にかかっています。

彼らが本来持っている優れた感性を発揮してくれているかどうか、
それは一回、一回の場でも分かることですが、
作品を通して見て行くと、より客観的なものとなります。

これも前に書きましたが、制作の場で見ているときと、
作品を作品としてみる時とでは、見方が違います。
主観と客観のバランスが違うと言えるかも知れません。
そんな単純には言えないのですが。
まあ、作品を扱う時の方が客観性は強くなければいけないでしょう。
どこをとって、主観、客観と言えるのかは難しいですが。

アール・ブリュットやアウトサイダーアートと呼ばれているものが、
今、世の中にいっぱいあって、ブームとまでは言わないけれど、
見る機会、聞く機会が多くなっている。
正直な感想を書くとつまらない作品も多いし、視点も甘い。
こういうことをやっているとどうなるか、何度も書いて来た。
人からは飽きられる、作家たちは枯れて行く、そんな流れになって行く。
作品を扱う人間は厳しく客観的な視点で、
見る側に何かをしっかり提示出来なければならない。
そして、実際の現場で作家たちと向き合っている人達は、
作品よりも、描く意欲や動機、
もっと言えば作家のこころのあり方をこそ大切にすべきだ。
この2つは違うジャンルで、お互いに協力が必要だ。

こんな状況なので危惧していることも多いし、
アトリエには大きな責任があると思っている。

はっきり言ってしまえば、群を抜いた作品群を見せなければならない。
比較することではないのだけれど、そんなものじゃないよ、というものを見せなければ。
圧倒的な違いを見せる、とまで言っていいのか分からないが。
でも、それくらいの気持ちで挑まなければと思う。

お仕事でお会いする人には、そんな話もしていたので、
選定作業に入って作品が出て来ないとなったらどうしよう、
という恐れもあった。

今、ほぼ僕の作業はめどが立っていて、作品が手を離れ、
頭からも離れて行く日は近い。

東京アトリエは40名弱の作家全員の作品を数点づつ、200枚選んであります。
後は出展の意思確認もあるので、多少、入れ替えたりもしますが。

実は2年ほど前から、少しづつ作品を選んでおいたのです。
ただ、それは制作の場との連続の中でちょっと気になったものをよけておく、
という感じだったので、実際によく見て選ぶ時は、全く違ったりする訳です。

予想どおり、外を歩いていても景色に色や線が重なる。
目を閉じると絵が動き出す、そんな状態で数日を過ごしました。
見すぎると見えなくなるので、いかに作品から離れるかも大切です。

集中して選定を行った日は一日だけだす。
後は準備。
その日は朝5時に起きて、いつもより奇麗にヒゲを剃って、
40分かけてお風呂に入って、部屋も掃除して、そこから始めました。

始めるまで、恐れはありました。もし良いものが出なかったら。
でも、その恐れは別の形になりました。
あまりに作品が凄くて畏怖を感じました。
改めて、彼らの素晴らしさを感じましたし、圧倒されました。
200枚も良い作品てなかなかないと思います。

自分の仕事としても集大成が出てるなと思いました。
作家たちも、場も、みんな、自分の仕事も、肯定出来るなと思いました。
と同時に、全く新しく、次の段階に行くべき時期をやっぱり実感しました。

これらの作品群を送り出したら、今度はまた一から始めよう。
最初からやるくらいの気持ちで仕事に挑もうと思っています。
具体的なことではなく、抽象的なことですが。
ただ、それが具体的な形になって行く部分もあるとは思っています。

視覚を他のことには使わないようにしばらく過ごして、
作品の影響が抜けるまで、かなり音楽に頼りました。

美しいものは良いですね。
ただ、美だけが自分を救ってくれる、そんな気がします。

音楽のことをよく書きます。
でも、実際には数ヶ月、何も聴かないという日々が多いです。
時々、聴くから良いのかも知れません。
聴き始めると、あれもこれもと引っ張って来ていつまでも聴いてしまいます。
辛い思いも悲しい思いも、苦しかった日々も、
楽しかった甘い甘い思い出も、みんな過ぎ去って、
そんな人生のさまざまな場面で美しい音楽が鳴り響きます。
他のすべてが嘘でもまやかしでも、これだけは本当なのではないか、
これだけは信じられる、そんな美しい音楽があります。

美は調和です。やさしさであり、丁寧さです。
美は人に生の輝かしさを教え、希望を感じさせるものだと思います。
ダウン症の人たちの作品も、そのことを語っています。
この作品達が人々に生きていることの素晴らしさを感じてもらえるきっかけになれば、
大袈裟に言えばそんなことまで考えてしまいます。

2013年10月8日火曜日

本当のこと

日中はまだ暑い日もある。夜はすっかり秋だけど。

最近は特に現場に集中している。
良い時期だなあ、と思う。

しばらくはこのリズムで行きたい。

こういう時期はあんまり言葉を使うことが難しくなってくる。

深く入らなければならない作業、深く潜らなければならない作業があるので、
それが一段落してからまたゆっくり書きます。

みんなが楽しくなればいい。
みんなが笑えばいい。

少しでも良いものを残せれば。
続いて行く、繋がって行く何かを創ることが出来れば。

外へ出てみると、やっぱり秋だった。
日差しも、空の色も、草木も空気も秋のものだった。

沢山の言葉で語られているもの、見飽きる程、見ているもの、
もう分かったよと、きっとどこかでみんなが思っている世界。
その先に、まだ見たことも経験したこともないものがある。
知らない世界がある。
そこへ向かうことは楽しいことだ。
今後の僕達の仕事はそんなことを経験するきっかけを創る。

今、何かをするということを、僕はけっこう重くみている。
少し前なら出来ただろうけれど、今は何となくのことは出来ない。
今、やるからには本当のものでなければならない。

美しいものが見たい。美しくありたい。美しい場を創りたい。
これからも、みんなと一緒に。誰一人欠けることなく。

シンプルで良い。どこまでもシンプルで。
つつましくひそやかで、丁寧に変わらずに。

2013年10月5日土曜日

場の意味

肌寒くなってきて、今日は雨だ。
しばらくブログの更新が出来なかった。

東京アトリエはいくつか大きめの仕事が始まっている。
これで年末にかけては忙しくなる。

一ヶ月か二ヶ月に一度はゆうたに会うようにしている。

ゆうたの成長を書いて行くといっぱいになってしまうくらい、
今回も変化を沢山、見ることが出来た。

その時、その時がかけがえのない時間だ。

「海、大きいねえー」「いっぱい」「これとー、これとー」「大丈夫!」
「あじー、しゃけー」「これ、うーちゃんの」「パパここ、ママここ」
「こいちわー」「でんしゃんカンカン」

ゆうたの言葉。やさしい声とやわらかい手。

東京での仕事のリズムもすぐに戻って来る。
一人で居る時、フィッシュマンズの「宇宙 東京 世田谷」を聴いている。

色んな機会に色んな場所に行く。
色んな組織やお店と出会う。色んな空間に身を置く。
そんな中で、ここは良いなあ、落ち着くなあ、
とかここへ来るとインスピレーションが湧くなあ、という場がある。

僕達の場もそのように、人に自分に帰ることが出来る空間でありたい。

なんとなく、良い感じ、良い雰囲気、という感覚を人は感じる。
このなんとなく、
は実はかなり自覚的に一生懸命創る人がいなければ発生しない。

場を持ち、守り、維持することに強い責任を感じる。
ここがあって良かった、ここに救われた、そんなことを言ってもらうこともある。

誰かが必要としてくれているから、ここが存在している。
それなくしてはただの自己満足に終わる。
社会に、人に、必要とされる場であることを忘れてはならない。

三重にいる時だったか、ふとした瞬間に自然の大きさに圧倒された。
海と空がわっと迫ってきて、ここにいる、ということが強く自覚された。
僕はその場にいながら、その情景をどこか遠い場所から思い出しているようだった。

いつでもすぐそこに永遠が顔をのぞかせている。
自然は大きい。僕達はあまりにちっぽけだ。
これまでの自分や出来事が相対化されて、
そんなことはどうでも良いように思える瞬間。
ただ、この時だけが尊くて、
それを見るために生きてきたのだと感じさせられる瞬間。

僕のような凡人は絶えず高い自覚を保っていられるわけではない。
日常のほとんどの時間はしょうもないことばかり考えて行動している。
小さなことをああでもないこうでもないと。

だからこそ、本当のことを経験したいし、見てみたい。
そして、時々、そのような経験が与えられることがある。

さて、今日も行ってきます。制作の場へ。こころの奥へ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。