2013年10月19日土曜日

作品選定

気がつくともう寒いですね。
秋の期間は少なくてもう冬に向かっている気配です。
ブログ、しばらく更新出来ませんでした。
原点回帰でかなり集中して制作の場に入っていました。
それから、来年の展示の準備が始まっています。

美術館での展覧会はキュレーターもいらっしゃるので、気持ちは楽です。
作品を預ければ良いといった感じで。
ただ、選定作業にしてもまさか何千枚もの作品を見て頂く訳にも行かないので、
その何千枚もの作品の中から、見ていただく作品を選ぶのは僕達の仕事になります。
ここもかなり責任重大です。緊張します。恐れもあります。
今回は東京アトリエから200枚、三重アトリエから100枚、の300枚を、
お渡ししてその中から学芸員の方が選定することになりました。

数千枚の中から200枚の作品を選ぶのは作業的にも大変です。
それから僕達の場合、制作の場でずっと一緒に見てきているので、
ある意味で自分たちのこれまでの仕事を試されてもいる訳です。
特に、ここ2、3年の作品を連続で見るのは、
自分が何をやってきたのか確認することでもあります。
初めて見て、あれっこれで良いのかな?とか作品の質があまり良くなかったりしたら、
これまでの仕事を否定しなければならなくなります。
僕の場合は更によし子が場から離れて、一人で続けてきたところでの仕事でもあり、
一生懸命、切り開いてきた人達を裏切れない訳です。
肇さん、敬子さん、よし子をまず、裏切れないし、
実際に描いて来た作家たちの最良の部分を引き出さなければ、
彼らにも申し訳ない訳です。

何度も書いていることですが作品の質は、関わる人間で大きく変化します。
彼らは本来、優れた感性を持っていますが、それが活かされるかどうかは、
環境次第です。
もし、あんまり良い作品が生まれていなければ、
作家の問題よりも関わる人間の問題が多いと思っています。
彼らが持っていないものを付け足したりはしません。
彼らに何か教えたり、プラスすることもありません。
ただ、彼らが持っている感覚を使ってくれるかどうかは僕達にかかっています。

彼らが本来持っている優れた感性を発揮してくれているかどうか、
それは一回、一回の場でも分かることですが、
作品を通して見て行くと、より客観的なものとなります。

これも前に書きましたが、制作の場で見ているときと、
作品を作品としてみる時とでは、見方が違います。
主観と客観のバランスが違うと言えるかも知れません。
そんな単純には言えないのですが。
まあ、作品を扱う時の方が客観性は強くなければいけないでしょう。
どこをとって、主観、客観と言えるのかは難しいですが。

アール・ブリュットやアウトサイダーアートと呼ばれているものが、
今、世の中にいっぱいあって、ブームとまでは言わないけれど、
見る機会、聞く機会が多くなっている。
正直な感想を書くとつまらない作品も多いし、視点も甘い。
こういうことをやっているとどうなるか、何度も書いて来た。
人からは飽きられる、作家たちは枯れて行く、そんな流れになって行く。
作品を扱う人間は厳しく客観的な視点で、
見る側に何かをしっかり提示出来なければならない。
そして、実際の現場で作家たちと向き合っている人達は、
作品よりも、描く意欲や動機、
もっと言えば作家のこころのあり方をこそ大切にすべきだ。
この2つは違うジャンルで、お互いに協力が必要だ。

こんな状況なので危惧していることも多いし、
アトリエには大きな責任があると思っている。

はっきり言ってしまえば、群を抜いた作品群を見せなければならない。
比較することではないのだけれど、そんなものじゃないよ、というものを見せなければ。
圧倒的な違いを見せる、とまで言っていいのか分からないが。
でも、それくらいの気持ちで挑まなければと思う。

お仕事でお会いする人には、そんな話もしていたので、
選定作業に入って作品が出て来ないとなったらどうしよう、
という恐れもあった。

今、ほぼ僕の作業はめどが立っていて、作品が手を離れ、
頭からも離れて行く日は近い。

東京アトリエは40名弱の作家全員の作品を数点づつ、200枚選んであります。
後は出展の意思確認もあるので、多少、入れ替えたりもしますが。

実は2年ほど前から、少しづつ作品を選んでおいたのです。
ただ、それは制作の場との連続の中でちょっと気になったものをよけておく、
という感じだったので、実際によく見て選ぶ時は、全く違ったりする訳です。

予想どおり、外を歩いていても景色に色や線が重なる。
目を閉じると絵が動き出す、そんな状態で数日を過ごしました。
見すぎると見えなくなるので、いかに作品から離れるかも大切です。

集中して選定を行った日は一日だけだす。
後は準備。
その日は朝5時に起きて、いつもより奇麗にヒゲを剃って、
40分かけてお風呂に入って、部屋も掃除して、そこから始めました。

始めるまで、恐れはありました。もし良いものが出なかったら。
でも、その恐れは別の形になりました。
あまりに作品が凄くて畏怖を感じました。
改めて、彼らの素晴らしさを感じましたし、圧倒されました。
200枚も良い作品てなかなかないと思います。

自分の仕事としても集大成が出てるなと思いました。
作家たちも、場も、みんな、自分の仕事も、肯定出来るなと思いました。
と同時に、全く新しく、次の段階に行くべき時期をやっぱり実感しました。

これらの作品群を送り出したら、今度はまた一から始めよう。
最初からやるくらいの気持ちで仕事に挑もうと思っています。
具体的なことではなく、抽象的なことですが。
ただ、それが具体的な形になって行く部分もあるとは思っています。

視覚を他のことには使わないようにしばらく過ごして、
作品の影響が抜けるまで、かなり音楽に頼りました。

美しいものは良いですね。
ただ、美だけが自分を救ってくれる、そんな気がします。

音楽のことをよく書きます。
でも、実際には数ヶ月、何も聴かないという日々が多いです。
時々、聴くから良いのかも知れません。
聴き始めると、あれもこれもと引っ張って来ていつまでも聴いてしまいます。
辛い思いも悲しい思いも、苦しかった日々も、
楽しかった甘い甘い思い出も、みんな過ぎ去って、
そんな人生のさまざまな場面で美しい音楽が鳴り響きます。
他のすべてが嘘でもまやかしでも、これだけは本当なのではないか、
これだけは信じられる、そんな美しい音楽があります。

美は調和です。やさしさであり、丁寧さです。
美は人に生の輝かしさを教え、希望を感じさせるものだと思います。
ダウン症の人たちの作品も、そのことを語っています。
この作品達が人々に生きていることの素晴らしさを感じてもらえるきっかけになれば、
大袈裟に言えばそんなことまで考えてしまいます。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。