2013年12月23日月曜日

また1月に

今年最後のブログです。
読んで下さっている皆さん、今年も有り難うございました。

後半は深めの内容が多かったですが、
今はちょっとそんな部分にも触れて行った方が良い気がしています。

土、日曜日と最後に相応しい良い場になり、充実した時間だった。
土曜日も日曜日も保護者の方達がみんなでケーキを食べる時間を作って下さった。
いつも感謝です。
制作の場の事ばかり考え続けている僕を支えて下さっているのは、
こういうお気持ちのある方々なのだと思う。

毎回、この場で書いているようなことを深められるのは、
こうして共感して下さり、一緒に歩んで下さる方々が居るお陰です。

明日まで教室はありますが、
今年を締めくくるにあたり、どうしても短くても良いから、
この1回を書きたいと思いました。

来年は実践面をより充実させて行きたいです。

言葉ではよく言われますが、本当に本当に激動の時代です。
とんでもないことになっていると思います。
今の社会の中で、もう救いなど何処にもないのではないかと思わされます。
良くなる要因はほとんど無いのに、悪くなる条件は増えて行く一方です。
真面目に考えれば、もう無理なのでは、という諦めムードになって当然です。
絶望しなければ嘘だとさえ思います。
個人のこころの中も、自分や自分の家族さえ良ければという狭い、
悲しい考えが蔓延しています。

だからこそ、今こそ、立ち向かい続けなければならないと思います。
僕が場から教わって来たことの一つ。
自分のことなど忘れてしまえ、ということがあります。
何かの為に、誰かの為に、動くこと。

良く見ていると、若い人ばかりではなく大人達もこのごろ、
ちゃんと見ること、しっかり聞くことを忘れてしまっています。
物事を筋道立てて考えることや、考えや思いを丁寧に言葉にして伝えることを。
そういった当たり前のことさえ省略されています。

しっかり自分の頭で考えるべきです。
自分で感じるべきです。
その結果、必要を察知して動くべきです。
そう言うことを全く忘れてしまっているのです。

僕達自身の仕事にしても、関わる以上は絶えず、探求をして、
もっと上を目指す意思や覚悟が無ければ、やめてしまった方が良いのです。

今後に向けて気を引き締めています。

最近、特に気になるのは、巷に溢れた映像や音楽や食べ物や、
何やかやが、みんなギラギラ、ピカピカしている、ということです。
キラキラしていっけん奇麗そうですが、中身はスカスカです。
デジタルカメラにしてもハイビジョンにしても、
ただ光度をあげているだけのようなコッテリした画像を奇麗と思う人がいます。
色を見る感覚も麻痺して行きます。
画材屋を見ていても、そんな傾向は強くなっています。
普段、見る色が自然ではなく、あんなにギラギラしているのだから、
絵を見るにしても描くにしても変わって行かざるを得ないでしょう。
濃いだけの味の食べ物のようなものです。
音楽にしてもそうです。
やたらに音をいじくってべっとりさせています。
確かに、昔からそういう傾向はありました。
名前を出して申し訳ないですが、クラシックで言うと、
カラヤンとか小沢征爾があれだけ人気があると言うのは、
否定はしませんが、コカコーラが飲みたいという感覚なのでしょう。
まあ、分かりやすいということが一番にあるのでしょうが。

否定はしません。
でも、もっと繊細なものがあることにも気がついた方が良いと思います。
それから教育にはギラギラした画像や音楽は良くないでしょう。
眼も耳も簡単にやられてしまいます。

CDにしても10年位前のものと、最近のものとでは音の傾向がことなります。
専門的なことは分かりませんが、デジタルリマスタリングというので、
音を磨いているのですが、磨くにしても、どんな音を理想とするか、
という感性の問題が入ってくると思います。
勿論、作る方は売れるように作っているので、
分かりやすくピカピカにしたギラギラな音を好きな人が多いのでしょう。

身近なものを例にしましたが、
こういった傾向は文化だけでなく、
人のこころや行動にも現れて来ていると思います。

本当のもの、本物を知るための努力を忘れてはならないと思います。

土曜日の午前のクラスで、ちょっと最近気になっている男の子がいました。
絵がちょっと自由を失って来て小さくなっていました。
ここ数ヶ月のことです。

僕は一度、こころの深い部分まで一緒にすすんで行って、
共有した人に対しては、ある程度の距離感を保ちます。
これはルールのようなもので、分かり合っている者同士の暗黙の了解です。
大人のテレのような感じもあります。
とにかく最初は一緒に深い関係まで行って、
そこで一体になったら、それからはある距離でお互いを尊重するわけです。
僕も彼らもそのことは良く知っています。
だから、関係の深い人ほど、距離感があるように見えたりもします。
お互い分かっているので正面から行くことはありません。
そして、こういう深い関係にいたるまでには、そんなに時間をかけません。
まあ、長くても数ヶ月、1年はかからないです。

そんな訳で、その男の子にも、もう正面から行く場面は無かったのですが、
ここ数ヶ月の様子を見ていて、
ほうっておく訳には行かないかな、と考えていました。
土曜日の朝、最近の彼の絵を思い浮かべていました。
あんな色づかいでも構図でもなかったはずだ、もっと自由にのびのびしていたはずだ、
と感じて、よし、今日は久しぶりに正面から行ってみようか、と思いました。
勿論、それで何か変わるとは限らないのですが。
そう思って彼を待ちました。

彼はいつものように来て、椅子に座った時、僕を見て、ちょっと間をおいて、
「始めてアトリエに来た時、おれ、さくまさんと無意識が繋がったんだ」
「うん、そうだね」
そして、彼は紙を見て、すぐに筆をとりました。
すらすらと描きだすと、
すでに彼ならではの自由で伸びやかな絵が戻って来ていました。
僕は何もする必要がなかったのです。

どんな風に解釈しても良いと思いますが、
これが僕達が日々経験している世界です。

言えることは、ただ一つ、ひたすらより良くということと、
相手の良さから目を逸らさないで行くということです。
たとえ、本人が自分の良さを見失ったり、疑ったりすることがあっても、
ここに居る僕はそこを見続ける、ということをやめないということです。

目の前に居る存在は、ほとんど無限の可能性を持っています。
僕らは無限を相手にしているのです。
逃げてはならない、と思います。
いつまでも、どこまでも、深く突き進むことを、やって行きたいと思います。

さて、来年はすぐです。
アトリエは5日の日曜日クラスからのスタートです。

2013年12月20日金曜日

悲しみだけが美と真実を教えてくれる

この2日間、雨が続きました。
寒くて外は薄暗くて静かな冬です。

もうすぐクリスマスですね。

会員の皆様にお届けしております会報につきましては、
来年の4月の発行とさせて頂きます。
宜しくお願い致します。

このブログもあと、1、2回書きたいですが、
今回が今年最後となるかも知れません。

水曜日にプレクラスが今年最後だったので、みんなとゆっくりおやつを食べた。

絵画クラスは、明日からの土、日、月の3日でおしまいだ。
良い時間をみんなで創って行きたい。

そして、来年も更に新しいことに挑み、これまで以上の活動をしたいと思う。

ダウン症の人たちの持つ豊かな文化を正しく位置づけるべくやって来たが、
まだまだ本当の理解には程遠いと実感させられる日々だ。
福祉にせよ、美術にせよ、他のどんなジャンルにせよ、
彼らの持つ可能性はまだまだ伝わっていない。
悔しい思いも沢山して来た。
だからこそ、これからも諦めずに挑みたい。
現状に全く満足していない。
決めつけられて、たかをくくられている視点を覆したい。
覆して行ってこそなのだから、
これまでどこかであったようなアプローチはしたくない。
何故そうまで思うかと言うと、当然、日々彼らの凄さを見ているからだ。
本質からブレてはいけない。本当のところを知ってもらわなければ。
そんな想いで来年も挑みたいと思っています。

映画 かぐやひめの物語、気になっていたけど、なかなか行けず、
でも、ようやく見ました。
良かったです。

切ない悲しいお話です。
懐かしいやさしいお話です。
そして、人生や世界や生きることの深い部分が描かれています。

この映画版にしても原作の竹取物語にしても、
何故、こんなに人を惹きつけるのだろうか。
以前も書いたけれど、それは僕達、
一人一人のこころの奥にある記憶に触れているからだろう。

かぐや姫は去って行く。去って行く為に来たようなものだ。
だから、短い時間、一緒に過ごした誰もが悲しい思いをする。
そんな悲しい物語に何故、魅力を感じるのか。
それはその悲しみの中にこそ、美しさもやさしさも、輝きもあるからだ。
直視するには辛すぎるものがある。
その一つが孤独や悲しみだろう。
でも、孤独と悲しみだけが自分を浄化してくれる。
悲しみだけが人を純化し透明な認識の高みを教えてくれる。
孤独と悲しみだけが真実へ至る手段だ。

ただし、それは個人的な感情としての孤独や悲しみではない。
もっと普遍的な、人間が人間として存在していることの大本にある悲しさ。

かぐや姫の物語はそんな人間の真実に触れている。

かぐや姫を取り巻く人達。それは私達自身だ。
おじいさんもおばあさんも、彼女を射止めようとする男達も。
みんな私達自身だ。
それは何処までも過ぎ去って行く時を前にしている人間の姿だ。
誰一人、かぐや姫を自分の元に留めることは出来ない。
かぐや姫は誰のものにもならない。
何故ならかぐや姫とは美そのものだから。
そして美とは消え去るものだからだ。
でも、誰しもが最後には自分の元から去って行くであろうことに気がついている。
だから一人一人が切ないまでに一生懸命だ。
おじいさんもおばあさんも、男達も切なく悲しい真実に真っ正面から向き合っている。
去って行くであろう存在をみんなが逃げることなく直視している。
本当に生きるとはこういうことだと思う。

何もかもが消えて行く。何もかもが過ぎ去る。
何もかもが儚い。
やがてはすべてが流れて行く。
それを直視することは辛いことだけれど、そこにこそ美や真実がある。

やがて失われるからこそ、美しい。
悲しみを知らなければ、本当の美しさは分からない。
そんな美を体現している存在だからこそ、誰しもがかぐや姫に惹かれていく。

そしてこの儚い美はを前にした人々の視点と、
かぐや姫自身の視点はほとんど同じものだ。
だからその意味でかぐや姫を失う人々も去っていくかぐや姫も、
真実の美というものの前で一つになっている。
同じところを見ている。

かぐや姫とはこれもまた僕達自身なのだ。
どんな人のこころの中にもかぐや姫は存在している。

確かにかぐや姫はスーパースターだし、一般の人間ではない。
でも、そこには普遍的な認識が横たわっている。
僕達はいつの間にかかぐや姫に共感してしまう。

かぐや姫は一つの記憶を失わなかった人の象徴と言える。
自分が何処から来たのか。
月であり無限である場所から僕達はやって来た。
そしてやがては立ち去らなければならない。
ここはかりそめの場所だから。
出会うもの、人々、すべての瞬間が輝かしく、
あまりに悲しく、あまりに美しい。

すべては過ぎ去り、無限の彼方へと帰って行く。
そしてかぐや姫である僕達自身も、やがてはここから立ち去る。
そのことを誤摩化さない、忘れないということが大切なのではないか。

人は誰でもかぐや姫なのだ。
素直さとやさしさ、慈しみ、輝く美、すべてはあの透明な悲しみからやってくる。

今というこの時の中で、この瞬間、全力で生きていたいと思う。

彼方からの視線、無限の眼差しをもって見つめ認識の深みを生きていきたい。

制作の場はそのような自覚の中で、
大切に大切に動いて行くということが必要だ。

2013年12月16日月曜日

身も心も

何度も言ってもしかたないですが、寒いですねえ。
ゆうたが電話で声を聞かせてくれるのが嬉しい。
本当にやさしい子で、「パパ、大丈夫?パパ疲れた?」
「パパ、東京、お仕事?頑張ってね」とかいっぱい言ってくれる。
「パパ、さみしない?」
間違えて途中で電話が切れると、すぐにかけてきて「パパ、ごめんね」と言う。

それにしても恐ろしいことに気がついてしまったが、
今週中に仕事を全部終わらせておかなければならない。
間に合うのだろうか、と言っている場合ではないが。

今度の土、日、月曜日が今年最後の教室になる。

1、3週日曜日クラスは昨日が最後だった。
保護者の方達が準備してくれて、
少しの時間みんなでケーキを食べて過ごすことが出来た。
亡くなった方、今一緒にいられない方を思って、
こうして過ごせる時間を大切にしたいと感じた。
みんな、本当に良く憶えていて、あの時はああだったと振り返る時がある。

今週も土、日曜日は充実していた。
僕らの醍醐味は場が活き活きと動いている時。
透明で何処にも滞りがなく、軽やかで迷いも不安もなく、
スーっと気持ちが行き交い、作品は気がつくと出来上がる。
全部が見えているのに、あまりにも自然で遮るものが何もない。
ああー、今日は流れてるなあ、と感じる時。
物質に重力を感じないし、何の限界もないような感覚になる。
こういう次元に行く為にこそ、日々、一生懸命挑んでいる。

これからスタッフもより育てて行かなければならない。
場のピークの状態をよく知っておくことが大切だと思う。

僕達の仕事は簡単そうで難しく、難しそうで簡単だ。

僕はスタッフに対しては割に厳しいのかもしれない。
でも、僕自身はもっともっと厳しく育てられて来た。
誰からというわけではなく場からだけれど。

僕にとって場の要求は絶対だ。
場の要求には絶対服従してきた。
真剣にやり過ぎていたこともある。
何故そこまでするのか、聞かれることもあった。
僕にはそのようにしか出来ないから。そんな風にずっと教わって来たから。

場に従う。
これは僕にとって掟のようなもの。
場に入って僕が自分のしたいように振る舞ったことはない。

どんなに悲しくても悲しむなと言われれば、その通りにする。
場が必要とするように動く。
動作も内面のこころの動きであってすら場の命ずるままだ。

それを操り人形とかロボットとか表現してみたけれど、
それでも場の要求に身を任せている時こそ、僕は自由を感じる。

場は多くのものを要求してくる。
だから身軽であろうと思った。そして、すべてを場に捧げる覚悟をした。
身も心もというやつであろうか。
言い換えれば、場に魂を売った。

その結果、とても素晴らしいものを沢山与えられた。
それは今でも与えられ続けている。

何人もの人が「あなたはみんなと居る時が一番良い」と言った。
「みんなと居るときだけ」とも。

ある意味ではそこにしか場所がないというところまで、
ある時期、自分を追い込んで行ったのかもしれない。

でも、言えることは、すべてを捧げた者だけが見える世界がある、ということだ。
(当然、こんな書き方をちょっと恥ずかしいと思ってますが、
今日のところはお許しを)

そんな生き方をする人間がいても良いのではないかと思っている。
勿論、これからのスタッフにそこまでの在り方を要求しているわけではない。
人にはそれぞれ自分の道があるのだから。

ビリーホリデイの声がずっと耳に残っている。
様々な音楽を聴くけれど、人の声はやっぱり良いですね。

2013年12月14日土曜日

美しい時間

土、日曜日の教室も来週で今年最後になる。
制作の場に居るときが一番良いなあ、とつくづく思う。
それは緊張感もあるし、エネルギーも使うのだけど、
しばらく離れていると、場に入りたいという欲求は強くなる。
多分、1月にはまた帰ってきた、という充実感に包まれることだろう。

前回は悪いものだからといって、
潔癖性のようにすべてを排除しようとすることは危険だという話をした。
これとちょうど同じように最近よく見るのは、
これは絶対に良いとか、正しいと決めつけてみるということだ。

一例に過ぎないがいつの間にか農業や自給自足が偉いということになっている。
そういう扱いを目の当たりにした時、正直おどろいた。
偉いと思われているだけならまだしも、
偉いということにしておかなければ、という雰囲気を感じる。
そして、今の世の中、偉いと思われていることには、誰も意見を言わないようになる。
言わないと言うか、触れると自分が疑われると思うらしい。
そう言う時に人は偉いですね、といって黙る。
このままでは農業も福祉と同じになってしまう。

別に農業もボランティアも偉くも何ともない。
どんなことも問題意識を失うと間違った方向に行く。

特別に偉い仕事も偉くない仕事もあるわけがない。
ただ、真剣に生きているかどうか、それだけではないだろうか。

こういうことは書き出したらきりがないので今日はやめておこう。

最近、テレビで人のこころの傷を扱った番組がある。
ある意味、見せ物のように扱うことがどうか、とか色んな議論が成り立つと思う。
だけど、ひとまず、良い悪いはおいておこう。

芸能人が過去の辛い経験を始めて告白する、というのが多い。
それを見ていると、中に小さいときの経験が登場して、
やっぱり人生の原点というか、幼い頃と家族、その時期の環境。
それがどれほど、その人を決定づけているのか、考えさせられる。
本当に出来過ぎている程、家族との関係やそこでされたこと、言われたことが、
ずっとずっとその人を操って行く。

上手く出来過ぎている話を聞くと多くの人は、本当に?と感じるだろうが、
拙い僕の経験から言っても、割にそういう感じを抱かせるものの方が真実なのだ。

こころに傷を受け、それを何処までも持ち続けたまま、
影響を受け続けて生きている人達の生い立ちを見ていると、
その人達の少年、少女時代が本当に可哀想だ。

子供達がその目でどんな世界を見、どんな世界を感じているのか。
もっと良く感じてみる責任が大人にはある。
今の僕達に見えているよりも、遥かに大きく壊れやすく動いている世界。
そういうものを大切に出来るかどうかは、大人の生き方にも影響してくるだろう。

僕自身の話をすると、実はあまりに過酷だった生い立ちや、
そこで見たり経験して来たことの数々はほとんど語ったことがない。
言ったとしてもほんの一部、断片的なものでしかない。
振り返るのが辛いわけではない。そこから逃げ出したい訳でもない。
ただ、それを聞いた人が受け入れきれないだろうし、
聞く方が耐えられないような、あんまりプラスの影響を与えない話だからだ。
だから、今後もそう言うことは話さないだろう。

確かに人生もこの世界も偶然の連続で、次に何が起きるか分からない。
一寸先は闇とも言えるし、だからこそ面白いのだとも言える。
でも時々、全てが完璧にぴったり決まった、と感じることがある。
何もかもが決まっていて完璧に配置されていて、あるべきものがあるべき場所にある。
最初から最後までずっとその連続で。
そんな景色の中に自分が埋もれて消えて行く。
そう言う感じを持つ時、つくづく生まれて来て、生きられて、良かったと思う。
それは一枚の絵を眺めているようでもあり、
映画館で一本素晴らしい映画を見ている時のようであり、
そして音楽を聴いているようでもある。
それもそれぞれの作品をすでに知っていて、
大好きな内容を繰り返し経験しているような感じかもしれない。

ただ何気なく外を散歩している時、
空を鳥の群れが飛び、遠くの方から光が射し、風が葉っぱを揺らす時。
足音のリズムと世界の呼吸が重なる時。
その瞬間に同時にすべてを感じる。
そして、すべてがあまりに美しいのだと思う。

制作の場において、ひと時ひと時がそのような時間となることが理想だ。

2013年12月13日金曜日

こころという不確かなもの

本当に寒くなりましたね。
この時期の日本海側はまた過酷です。
最近はそんなでもなくなりましたが、小さい頃の雪に覆われた景色を思い出します。

ここ数年でどんどん加速して来ていることがあります。
僕はこの流れは本当に危険だと思っているのであえて書きます。

しょっちゅう起きていることですが、世の中の不正や失言が問題になります。
勿論、悪を認めたり肯定する気はありません。

でも、一方で一度、悪であるとか悪いとみなしたものに対しての攻撃は、
あまりにも暴走しています。
極端なまでに硬直したものの見方や抑圧や弾圧に危険を感じます。

こうした流れは必ず個人のこころに歪みを生じさせるからです。

攻撃している人達も、そう言う態度をとらなければ、
自分も悪の側に入れられるのではないか、という無意識の恐れがあります。

一方で今の社会は精神的に病んで行く人が増えています。

この現象は繋がっています。
こうあらねば、こうであってはならない、という縛りが人を病ませるのです。
強く抑圧されている人は、他人に対しても抑圧します。
強い圧がかかればこころは壊れます。

僕はこれまで個人と向き合って来ているので、
こころと言うものが一般の人達が考える程、単純でないことを知っています。

絶対の善とか絶対の悪など存在しません。
絶対を作り、固定するところに圧が生まれるのです。

社会全体がヒステリックなまでに絶対的な善を押し付け、
悪を存在さえしていないものとして、もしも生まれたら、
即座に潰すということを続けるとどうなるか。

一言で言うと、人が病んで行くか、作られた偽善が円満するだけです。
悪を全く無いようにしようとすることは、実は歪んだ形で悪を増やしてしまいます。
人のこころの中を見てみるとそのことはよりはっきりすると思います。

無菌状態が免疫力を退化させるのと同じです。

勿論、人が生きるうえでは決めつけることは必要で、
絶対にこうだ、ということにしておかなければ社会は纏まりません。
だから決めつけることは必要です。
ただ、それが極端になると危険だということです。

人のこころはそんなに理屈通りに出来ていません。
めまぐるしく揺れ動いているのがこころです。
良い状態にも悪い状態にもなります。
病むことだって、そんなに珍しいことでも特殊なことでもありません。
そう言うものとして大きく捉えなければならないと思います。

悪いものとか、汚いものを無いことにしないことが大切です。
認めること、それにつきる、と思います。

人のこころと付き合って行く時、
性急にこうなれば良いという答えを出すのは最も失敗する方向です。

決めつけなければ社会が成り立たない、と書きましたが、
だからこそ理想は定期的に外す、
解放するということでこころの弾力性を保つ必要があります。

こころの専門家やお医者さんなんかは、治したり良くしたりするのが仕事ですが、
僕なんかの仕事は外すこと、解放することです。たとえその時だけでも。
言い換えれば、お医者さんには答えがあるのですが、僕には答えが無いのです。
ゴールも無い。
でも、そこで自由になったこころはちょっとでも良い方向に向かうことは事実です。

僕はよくこころが動いている状態ということを書きます。
こころは決めつけや方向づけをすると固定され、止まってしまいます。
社会や教育はこの止めてしまう方向に向かい安いのですが、
止めているだけなら良いのですが、強い圧がかかりすぎると、
動くことが出来なくなってしまいます。

僕のいう制作の場とはこころが動いている場所です。
そう言う状態に場や人がなってくれる為には、
一度、全ての決めつけを外してしまいます。
だから何がなんだか分からない、何一つ定かなものがない状態でいます。
良く書いているように、自分も他人も分からないくらいに。
右も左も、上も下も無いような状態で居るわけです。
それはもう夢の様でもあるし、真っ暗闇で何も見えないようでもあるし、
光り輝く渦巻きのようなものに包まれているようでもあります。
音の響き、倍音の膨らみの様でもあります。
すべてが流れているけれど、何処にも固定した形として定着しないような状態。
自分は誰だろう、ここは何処だろう、と言ったような感覚です。
こうしていると、こころは自由に動きだします。

面白いのはそこから必ず何かが生まれ、結果として、
バランスはちょっとでも良い方向へ向かうということです。

だから、僕達は自分のことも他人のことももっと恐れずに信頼して良いと思います。

2013年12月12日木曜日

スローモーション

今週は打ち合わせが続いたので沢山の人に会った。
年末はいつもそうだけど、そうこうしているうちに事務仕事が滞る。
スケジュールを間違える。
人の迷惑にならないように、それだけは気をつけてはいるのですが。

そして、あっという間に時が過ぎている。
いつもこの時期にそれを実感して書いているけれど、
なんでこんなにすぐに時間が経ってしまうのだろうか。

これまで何度か触れて来たが、ダウン症の人たちのリズムや時間を考えている。
彼らはゆったりとした時間を生きている、と僕は言って来た。
僕達の生きている時間がすべてではなく、他の時間もあり得るのだと。
でも、本当は追求して行けば、そんな単純な話では無くなる。
本当のことを言うなら、彼らの時間のあり方こそが本来のもので、
僕達が日々、感じている時間の流れは人為的に作られた世界だとすら思う。

難しいテーマなのだけど、相変わらずさらっと書きます。
何故、時間が早くなって行くか。
それは僕達が現実を切り取ってその部分しか見ないようにしているからだ。
これは時間以外のすべてのことに当てはまる。
僕達は本来の現実を歪めて、便利に使う為に部分的な現実だけを切り取っている。
勿論、生きて行く為には切り取るしかないのだけれど、
切り取った現実がこの現実の全てだと思い込んでしまうから、
様々な問題が生まれてくる。

時々、スローモーションで映される映像を思い浮かべる。
あれは一応、現実をスローにしたものだ。
だけど、あっちの方が現実に近いのではないかと思う。
スローにした時、何がおきるのかと言ったら、
そこのある事や、動きに対して一つ一つ気づき、認識している状態が持続する。
本当は存在しているのに、見えていない様々な瞬間に出会う。
現実には僕達は多くのことを見落とし、見失うことで生きている。

何か事故にあった人や、
特殊な体験をした人達はその瞬間がスローモーションに見えたと話す。
僕自身も深く場に入っている時、そのように見えることが多い。
そうすると、人はそういう特殊な状況でおきたことが、特別な経験だと思うわけだ。
でも、実際には普段の僕達の見方の方が特殊なのかも知れない。

僕達は自分の考えていたり、必要としている要素だけを見ようとしているし、
機能的に使おうと、無意識に思っているので、自動的に現実を切り取ってしまう。

もう一つ、スローモーションを見ると、
現実が一つに繋がっていて、何処にも強弱や凹凸が無くなっている。
大切なものと、そうでないもの、必要な物とそうでないもの、
それらを瞬時に識別して切り取るからこそ、凹凸や強弱と言うものが生まれる。
スローモーションではそうではなく、どこか特別な箇所と言うものがない、
何処までも繋がっている現実があるだけだ。

特別なものや、特別な瞬間や、意味や価値がないとということは、
逆に全てのものが特別な価値を持つということでもある。

こうしたすべてが重要で大切なものとして、見え、経験される世界においては、
どこかだけが、特別でどこかだけが大切、という切り取りが無くなる。
その時、感じられるのは実際には時間がゆっくり流れるということではなく、
あるいはスローモーションは時間をスローにしたものではない。
つまり、そこでは時間が存在しない、ということだ。
時間が消えてしまっている。あるいは止まっていると感じるはずだ。
野球の名人級の選手がかつて、「ボールが止まって見える」と言ったという。

時間という存在自体が、現実を切り取ることによって始めて生まれるものだと言える。
どこかだけを強調し、大切にすることで、強弱、凹凸が生まれ、時間が生まれる。

夜、DVDで見たいお能の映像を映すのだけど、
毎回、途中で寝てしまう。どこから寝てしまったのかも思い出せない。
でも、夢うつつの中でも思うのだけど、
お能の世界はスローなのではなく、時間が存在しないのだ。
極端に凹凸や強弱の無くなった空間の中で、すべての存在があるかなきかの、
朧げな動きを続けて行く。
全ては人もものも消え入るギリギリのところで存在している。
僕にはお能の描く現実こそがリアルに思える。

自然の中の生き物や植物を見てみると、みんな風景や環境に溶け込んでいる。
つまりはその中で目立たない、いないように見える。

良い動きとは、自然な動きであり、自然な動きとは目立たない動きだ。

自然界においては目立つものは滅びる。

日本の作曲家の音楽が聴きたくて、早坂文雄という人のCDを聴いていた。
特にピアノコンチェルトは本当に素晴らしい。
名曲中の名曲と言って良いだろう。
たまたま解説書を開くと、片山という批評家がかなり長文を載せていて、
それだけで何か強い思いを感じたのだけど、文章も良かった。
特に勉強になったのは、日本には昔、色を示す言葉が少なかったという話だ。
そこでは明るいか、暗いかという濃淡でしか色が表現されていなかったと言う。
光の強さから無限のバリエーションの色が存在するだろうが、
そこで強調されるのは色どうし連続のほうだっただろう。
西洋のコントラストに対して日本のグラデーションというようなことが書いてある。
この指摘は面白い。

以前にも何度かダウン症の人たちの色彩感覚に対して、
色と色のコントラストより、色と色の近さだ、と書いたことがあった。

部分と部分が対立することで、凹凸、強弱、時間が生まれる。
対して、それら全ての連続する動きから見て、現実全体を認識することで、
あるかなきかの、目立たない存在となることを理想とする在り方。

時間が消えたように静かな世界。
そこには全てがあって、全てが意味を持つ。
特別な何かがあるわけではなく、全てが特別で掛け替えがない。

ダウン症の人たちの感性を、自然と調和すると言っているが、
自然と調和するとは、自然の中で目立たない、ということだ。
それが自然界においての本来の在り方ではないだろうか。

2013年12月7日土曜日

美と生命

さて、今日も教室前なので短めに書きます。

本当に色んなことを書いて来ましたが、
美の問題は生命に直結している、
というシンプルなことが核心にあるように思います。

だからこそ人は美を求めるのだし、
美はふざけたお遊びでもなければ、単なる個人の趣味の問題でもないと思います。

美は生命を成立させている厳粛な仕組みなのだと思うのです。

美には創る人も鑑賞する人も境がなく、ただ経験だけがあります。
それは切実なものであるべきです。

世の中が偽物で溢れ、本気になることから逃げているからこそ、
本物に触れる機会を創りたいと思います。

美は人を本当の意味で高め、幸せにするものであるはずです。

来年の展示に向けて東京からは200枚の作品を送り出しました。
選定を行っている学芸員の方から作品の感想を頂きました。
ありがたい、言葉の数々です。
本当に作品の核心を理解して下さる方は少ないです。
今回は得難い出会いだと思っています。

核心に触れる人が少ないのは、作品が難しいからではありません。
人は逃げも隠れもせず、
甘えを断ち切って、まっすぐに向き合うことが怖いからです。

本気で来る人には本気で答えるしかありません。
それは制作の場でも、外での仕事でも一緒です。
お互い真剣になるしかないという出会いが、高め合うことに繋がります。

先日は講義を行いましたが、学生達は真剣に聞いてくれました。
真剣になる場面の少ない世代かも知れないけれど、
本当のところでは人間は変わってはいないはずです。
すぐにメールをくれた人もいました。

教育の問題は、大人が本気を見せるかどうかにかかっています。

最近、外で帽子をかぶったまま食事している人をみかけます。
みっともないし、身体に悪いだけでなく、作っている人や場所に失礼です。
横で子供がみている。その子供が椅子の上で立ち上がる。
注意するのもかなり遅かったですが、相手を見もせずに言葉だけで注意している。
それに帽子をかぶったままの、
そんな態度の大人の言った言葉など子供に聞こえるはずがないのです。

美を経験するとは生命の本質に触れることです。
そこには豊かな味わいと、畏怖と敬意が生まれます。

作品だけではなく、日々の制作の場もそのような美しいものでありたいと思います。

ところで、羽生君、素晴らしかったですね。
君なんて言ってはダメですね。
羽生選手、真っすぐですね。フリーはミスもあったけど、感動しました。
真っすぐだし、勝負勘もあるし、勢いもあるし、何よりも度胸がありますね。

浅田真央選手も素晴らしかったです。
採点はともかくとして、羽生選手以上に感動したかも知れません。
今日はどうでしょうかね。
ミスがなくても高い点をとっても、
今回のこの2人のように素晴らしくなることはまれだと思います。

2013年12月3日火曜日

始まり

すっかり冬で、寒い寒いと思いながら暮らしているが、
外を歩くと本当に空がどんどん高くなっている。

そうか、忘れていたけど冬の空ってこんなに遠かったっけ。

昨日はイサが論文発表のため大阪だったので、
ぼくは久しぶりにプレでずっとみんなと過ごした。
稲垣君も久しぶりの登場だったので、いろいろ話した。

今日はイサとも少し話したけど、論文頑張ってるみたいだ。
彼とも7年の付き合いだけど、これまでの集大成の論文だ。

明日、女子美でお話しするので、ちょっと作品を画像で見せてあげたいと思って、
秘蔵というか、大切なものをいくつか見てみたが、
ダウン症の人たちの作品はやっぱり圧倒的だ。
こんなに良いものはなかなかないと思う。
絵画以外のジャンルでもそうそうあるものではない。

やっぱり作品につきるなあ、と何度も確認していた。

それと同時に何でも簡単に見せるべきではないなあ、とも思う。
大切に扱うこととか、敬意をはらうという態度が欠けている時代だからこそ。

作品は美しいと同時に、その美しさに人間や宇宙や生命の秘密が現れている。
そんな気がして仕方がない。

前回も型と即興について書いたが、ものを創るとか、表現するということが、
何処から来ているのか、その根源を示しているのが彼らの作品だと思う。

宇宙や生命がこのような現象として現れているのは何故なのか、
そこにはこの世界の様式や秩序があるはずで、
それが人の中から出てくる創造性の原理と繋がっているはずだ。

人の中に創造性が何故あるのか、と言うのは、
何故ビックバンで宇宙が生まれたのか、とかと同じくらいの謎だろう。

なぜかは分からないが、どのようにということは、
仕組みを知ることは出来ると思う。
制作の場を経験すること、こころの深い部分で起きていることに触れて行くこと、
そのプロセスをたどることは、
ある意味でこの世界の成り立ちに立ち会うようなものだ。

創造性の源から何かが生まれ、形を創って行く時、
そして美が生まれる瞬間、このプロセスを生命の様式と言って良いだろう。

以前、雑誌の取材で遊びということについてお話したことがある。
僕は制作の場をずっと見て来て、
ほとんど無限というくらいに途切れることなく生み出されて行く、
造形の連鎖を見ていて、人のこころの中にある創造性とは、
意味も目的も持たない純粋な遊びなのでは、と感じて来た。
それはもっと言えば、
この世界も宇宙も遊びのような純粋な動きが生み出したと言うことでもある。

すべては根源、始まりにこそ答えがある。
そして、僕達はいつでも始まりに立ち返ることが出来る。
そのことを教えてくれているのが、ダウン症の人たちの作品だと思う。

2013年12月2日月曜日

型と即興

色々と仕事が増えてくると、事務仕事だけでも朝終わらせるとスムーズだ。
早朝に時間をシフトさせると、朝日を見ることも出来るし。
そう言えば、久しぶりに一人でやっている日の出を見る会も始めるか。

日曜日の教室はいつもながらに明るかった。
1、3日曜日の午後のクラスは天気も良い日が多いのが不思議だ。
流れも勢いもあって一瞬で終わっていたりする。
彼らのリズムを分かりやすく伝えるために、
僕もゆっくりとか穏やかとか言ったりするが、
本当のことを言うとそれだけではない。
制作を見ていても感覚の動きを見ていても、
僕達より遥かにスピード感がある。
彼らの感性に敏感に反応して行くには、こちらもかなりのエネルギーを使う。

さて、またブログの更新が少なくなるかも知れないので、
その前に書いておきたいテーマがある。
本当はもっと別のことを書こうと思っていたのだが、
このことに気がついてしまったので荒削りながら書いてみたい。

やはり、ダウン症の人たちの制作における特徴のことだ。
紙を前に、座った瞬間に筆をとって動き出す。
あの即興性。アドリブなのに、最後には必ずあるパターンが生み出されている。
魔法の様に美しい。
彼らにはあるバランスや秩序があるし、スタイルがある。
それをパターンや法則として見ることも出来る。
それでも、色と線と戯れている時の彼らは即興であり、アドリブである。

以前、「型」について、様式や儀式も含めて考えてみた。
あの時はまだ追求が足りなかったように思う。
あの時点では、あそこまでしか分からなかった。

そこで、即興はひとまずおいておいて、型のことをもっと考えてみたい。
機械的とか、メカニックとかは否定的に言われることが多い。
僕自身も私的な部分で、
よくロボットの様に感情を動かさないと言われていた頃もあった。
昨日のブログの中でも、場の中では流れに反応しているだけだという話を書いた。
古典芸能の型のように、とも言ったが、
そんなこともあって僕は型と言うものが気になるのかも知れない。

自分の経験を入れられるので、場における僕自身の動きをまず考えてみる。
場の中に居るときでも、勿論僕も人間なので感情は動いているし、
思考も完全に止まっているわけではない。
でも、感情や思考を何処で使い、何処においておくのか、
どの程度のボリュームで出すのか、といった調整をおこない、
ある意味で指示を出している。
自分と言うものを消してしまうのではなく、道具として使う。
場の中ではすべての要素が意味を持つ。目の前のやかんであっても。
その要素の一つが自分であったりする。
すべては、どのように認識するかにかかっている。
時々、身体としての自分が消えて、純粋な認識だけになっているような場面もある。
プライドとコンプレックスが人を不自由にしていることは何度も書いた。
そのプロセスが明晰に見えるからだ。
なぜ見えるのか、
それは自分自身がプライドとコンプレックスを全く動かさないからだ。
実はそれは当たり前の話で、
その場に居る時、僕はただの操り人形なので、場の要求に従っているだけだからだ。
何をやっても自分の手柄にはならないし、逆に自分がどんな存在でも、
別に恥じることも媚びることもない。
認めるとか、肯定するとかではなく、ただ、善くも悪くもないということだ。

僕は言いなりになって、こうしなさい、ああしなさいという場の要求に従う。
何処までも服従する。操り人形の様にただ動かされているだけだ。

そう考えた時、これは限りなく「型」というものに近いのではないか。
尊敬する白洲正子はお能において、型とは人間がロボットになることと書いている。
個性も感情も入れてはダメで、ただ型に服従するのだと。
でも、これだけでは何のために、が分からない。
白洲正子は型に従って行けば、やがて個性も滲み出て来るものだと言っているが、
それでもまだ何かが足りない気がする。

確かにお能を見ていると、型がいかに人を自由にするか、という逆説を感じる。

ところで、グレン・グールドというピアニストも、
メカニックとか、ロボットと言われている。
そのグールドがある時、はっきり聴こえたと思えた。
初期の頃のピアノコンチェルトのいくつかを聴いていた時だ。
音は完璧なまでにひたすら決められた場所に置かれて行くだけだった。
でも、グールドはいつもの様に気持ち良くうなっている。
グールドは2人いるのか、と思ったこともある。
構成し完全に配置するグールドと、その調律に感動しているグールド。
グールドの感動は決して感情移入ではない。
音と音の関係性と重なりに快感を感じているだけだ。
グールドは自分が設定したテンポととリズムに正確に従う。
非人間的なまでに、感情や、音楽の情感を無視してただ一定のテンポを維持する。
ずっとそうやって音を重ねて行ったとき、何かが見える。
その時、僕はグールドの、完全に置かれるべき場所に置かれた音を聴いて、
これが世界だ、と感じたのだ。これが宇宙だ、と。

正確に刻まれていく音は、この世界の秩序のようだった。
あるDNAの研究家がどこかで言っていたことを思い出した。
遺伝子を研究している時、そこに書かれた情報を読んで行く、
その配列を見た時、あまりの完璧さに圧倒されたと。
すべては寸分の狂いもなく、完璧に並べられているのだと。
何人かの物理学者や他の科学者も同じようなことを言っている。
その研究家が見た宇宙の秩序と、
グールドが聴かせてくれた調律には共通するものがある。

グールだが設定したリズムとテンポを守って行くことは「型」と言って良いだろう。

とするなら、この世界にも宇宙にも秩序や調和という「型」があるということだろう。
型とは、その型を通して、型の核、型の奥にある型、普遍的型に至る為のもの。
ある時代にある人達が、
そう言った世界の秩序そのものを型として読み取って形にしたのだろう。

そうすると型は、型を感じとるためにある、ということも出来る。
宇宙の秩序を型の原型とするなら、その型をつかむということが核心にあるはずだ。

ここまでくれば、はっきりして来るのだが、つまりは即興のこともここで分かる。
即興やアドリブはその場の雰囲気を感じとって展開されて行く。
アドリブが美しくある為に、でたらめとの違いが何処にあるのか。
アドリブが美しく展開されているのは、
背後にある秩序をその場、その場でつかんでいくからだ。
そう考えれば、型と即興は同じものだ。
つまりはこの世界の秩序をどうつかみ反応出来るか、ということだ。

名人の型はアドリブに見える。また美しい即興も型の様に自然に見える。

落語の好きな人は、文楽、志ん生、みたいにいって、
それぞれ型と即興と捉えているが、志ん生は稽古に明け暮れているし、
文楽の自在さや遊びの軽さをどう見るのだろうか。
そこに志ん朝の芸を加えるなら、
即興が型に繋がって行き、型が即興に繋がって行く境地がありありと見える。

付け加えるなら、孔子の「心の欲するところに従って、のりをこえず」も、
道徳的な意味ではなくて即興と型の繋がる境地を言っているのではないだろうか。

こんなところから、ダウン症の人たちの制作における、
即興生と普遍的なバランス感の謎が、
人間にとっての根本のテーマに繋がることが分かってくる。

2013年12月1日日曜日

今日はちょっとだけ

今日から12月。
年が終わったり始まったりして、それによって何が変わるわけではないのだけど、
やっぱりなんか意識する部分がある。
それに、僕達は有限の時間の中で生きているのだから、
区切ることで気持ちを切り替えて、次に向かって行くのは有効だ。

昨日はすっかり思い違いをしていたが、
今日はいよいよ潜水艦を出発させる。
(潜水艦のことは前回のブログに書いてあります。)

この前、朝のニュースで海女さんを特集していた。
三重のアトリエの近くの話だったので見た。
素晴らしかった。
特に海に潜る前に身体を暖めて行く場面。
確か1時間とか言っていたが、大きな炎に背中を向けて、ひたすらじっとしている。
その表情が凄かった。
厳しさと謙虚さと、大きなものを相手にしている人間特有の静けさ。

ああいうのを見ると、自分の生き方を反省する。
足下にも及ばないなと思う。

途方もなく大きなもの、自然や宇宙といったものを前に、
僕達は小さな、小さな存在として、謙虚にそして真剣に生きなければならない。

人を幸せにするとか、それは大それた話で、そんなことを考えるのはおごりであろう。
でも、たとえわずかな時間でも幸せを感じてもらうことなら出来るはずだ。

僕の「場」での仕事は外から想像したり、ちょっと見たりした印象とは違って、
クリエイティブなものでも個性的なものでもない。
創造性や個性は作家の側の話であって、僕自身はひたすら受け身だ。
僕はその場に反応して行くだけだ。
ただ、それだけのことを全力でやって行くと、何かしら良いことが起きる。

人のこころや、「場」には原則がある。
それに従わなければならない。
どんなにこころの赴くままに見えても、それはそう見えるだけで、
実際には古典芸能の型の様に、法則に従っているだけだ。
型の様に見えないのは、こころや場の要求はその瞬間に変わって行くからだ。
場では思いつきで動くことも、我を忘れることも許されない。
ただひたすら流れを感じとり、順応していく。
場の要求に従って行く。なにも考えないで無心に。

一度、場に入ると無心になる。
目の前に人がいて、その人のこころは場の流れに従って行くと自由になる。
そのプロセスがめくるめく展開されて行く。
あまりに鮮やかで楽しい場面だ。

ゆうたが最近、良く言ってくれる言葉、「一緒に踊ろうよ」。
ゆうたはまず自分が踊って楽しくなってからそう言う。

僕らも場を見る人間はただ言葉で言っていてはいけない。
まず自分がすっと裸になって、さあ一緒にと。
楽しくなってもらえるか、自由になってもらえるかは、
まず目の前ですっと自分が入って行くかどうかにかかっている。

何度も書いていることでもあるので、今日はちょっとだけにします。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。