2013年12月12日木曜日

スローモーション

今週は打ち合わせが続いたので沢山の人に会った。
年末はいつもそうだけど、そうこうしているうちに事務仕事が滞る。
スケジュールを間違える。
人の迷惑にならないように、それだけは気をつけてはいるのですが。

そして、あっという間に時が過ぎている。
いつもこの時期にそれを実感して書いているけれど、
なんでこんなにすぐに時間が経ってしまうのだろうか。

これまで何度か触れて来たが、ダウン症の人たちのリズムや時間を考えている。
彼らはゆったりとした時間を生きている、と僕は言って来た。
僕達の生きている時間がすべてではなく、他の時間もあり得るのだと。
でも、本当は追求して行けば、そんな単純な話では無くなる。
本当のことを言うなら、彼らの時間のあり方こそが本来のもので、
僕達が日々、感じている時間の流れは人為的に作られた世界だとすら思う。

難しいテーマなのだけど、相変わらずさらっと書きます。
何故、時間が早くなって行くか。
それは僕達が現実を切り取ってその部分しか見ないようにしているからだ。
これは時間以外のすべてのことに当てはまる。
僕達は本来の現実を歪めて、便利に使う為に部分的な現実だけを切り取っている。
勿論、生きて行く為には切り取るしかないのだけれど、
切り取った現実がこの現実の全てだと思い込んでしまうから、
様々な問題が生まれてくる。

時々、スローモーションで映される映像を思い浮かべる。
あれは一応、現実をスローにしたものだ。
だけど、あっちの方が現実に近いのではないかと思う。
スローにした時、何がおきるのかと言ったら、
そこのある事や、動きに対して一つ一つ気づき、認識している状態が持続する。
本当は存在しているのに、見えていない様々な瞬間に出会う。
現実には僕達は多くのことを見落とし、見失うことで生きている。

何か事故にあった人や、
特殊な体験をした人達はその瞬間がスローモーションに見えたと話す。
僕自身も深く場に入っている時、そのように見えることが多い。
そうすると、人はそういう特殊な状況でおきたことが、特別な経験だと思うわけだ。
でも、実際には普段の僕達の見方の方が特殊なのかも知れない。

僕達は自分の考えていたり、必要としている要素だけを見ようとしているし、
機能的に使おうと、無意識に思っているので、自動的に現実を切り取ってしまう。

もう一つ、スローモーションを見ると、
現実が一つに繋がっていて、何処にも強弱や凹凸が無くなっている。
大切なものと、そうでないもの、必要な物とそうでないもの、
それらを瞬時に識別して切り取るからこそ、凹凸や強弱と言うものが生まれる。
スローモーションではそうではなく、どこか特別な箇所と言うものがない、
何処までも繋がっている現実があるだけだ。

特別なものや、特別な瞬間や、意味や価値がないとということは、
逆に全てのものが特別な価値を持つということでもある。

こうしたすべてが重要で大切なものとして、見え、経験される世界においては、
どこかだけが、特別でどこかだけが大切、という切り取りが無くなる。
その時、感じられるのは実際には時間がゆっくり流れるということではなく、
あるいはスローモーションは時間をスローにしたものではない。
つまり、そこでは時間が存在しない、ということだ。
時間が消えてしまっている。あるいは止まっていると感じるはずだ。
野球の名人級の選手がかつて、「ボールが止まって見える」と言ったという。

時間という存在自体が、現実を切り取ることによって始めて生まれるものだと言える。
どこかだけを強調し、大切にすることで、強弱、凹凸が生まれ、時間が生まれる。

夜、DVDで見たいお能の映像を映すのだけど、
毎回、途中で寝てしまう。どこから寝てしまったのかも思い出せない。
でも、夢うつつの中でも思うのだけど、
お能の世界はスローなのではなく、時間が存在しないのだ。
極端に凹凸や強弱の無くなった空間の中で、すべての存在があるかなきかの、
朧げな動きを続けて行く。
全ては人もものも消え入るギリギリのところで存在している。
僕にはお能の描く現実こそがリアルに思える。

自然の中の生き物や植物を見てみると、みんな風景や環境に溶け込んでいる。
つまりはその中で目立たない、いないように見える。

良い動きとは、自然な動きであり、自然な動きとは目立たない動きだ。

自然界においては目立つものは滅びる。

日本の作曲家の音楽が聴きたくて、早坂文雄という人のCDを聴いていた。
特にピアノコンチェルトは本当に素晴らしい。
名曲中の名曲と言って良いだろう。
たまたま解説書を開くと、片山という批評家がかなり長文を載せていて、
それだけで何か強い思いを感じたのだけど、文章も良かった。
特に勉強になったのは、日本には昔、色を示す言葉が少なかったという話だ。
そこでは明るいか、暗いかという濃淡でしか色が表現されていなかったと言う。
光の強さから無限のバリエーションの色が存在するだろうが、
そこで強調されるのは色どうし連続のほうだっただろう。
西洋のコントラストに対して日本のグラデーションというようなことが書いてある。
この指摘は面白い。

以前にも何度かダウン症の人たちの色彩感覚に対して、
色と色のコントラストより、色と色の近さだ、と書いたことがあった。

部分と部分が対立することで、凹凸、強弱、時間が生まれる。
対して、それら全ての連続する動きから見て、現実全体を認識することで、
あるかなきかの、目立たない存在となることを理想とする在り方。

時間が消えたように静かな世界。
そこには全てがあって、全てが意味を持つ。
特別な何かがあるわけではなく、全てが特別で掛け替えがない。

ダウン症の人たちの感性を、自然と調和すると言っているが、
自然と調和するとは、自然の中で目立たない、ということだ。
それが自然界においての本来の在り方ではないだろうか。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。