2014年1月24日金曜日

更新、ちょっと間があいてしまいました。
東京アトリエはスタッフ育成のため、
しばらくは制作の場に集中させて頂こうと考えています。

よし子から連絡があって、階段から落ちて腰を痛めていると言う。
骨折かも、というので心配。
肇さんも敬子さんも共に腰が悪いので、3人ともの状況。
共倒れが心配だ。
教室もあるそうだ。
近ければすぐに行くのだけれど。こんな時に何も出来ないのが申し訳ない。

場は充実している。
関川君が一人前になるまでは大変だけど、
お互いに全部出し切る気持ちで挑んで行く他ない。
僕の努力で何とかなることなら、いくらでもして行きたいのだけど、
こればっかりは最後のところは自分でつかんでもらうしかない。

場に入ったら甘えが許されないからこそ、
普段、それ以外の時間で気持ちを通わせて、お互いを大切に思って行く。

先週は打ち合わせが続いたので平日のクラスは、
僕はほとんどアトリエに居られなかった。

水曜日は絵の具の缶と筆を入れ替える作業をした。
これが意外と時間がかかる。
色の調整もあった。
関川君には新婚そうそう夜遅くまで手伝って貰った。

画材にはお金がかかるが、ここだけは妥協したくないので、
生活の他の部分をけずってでも良い素材を使いたい。
まあ、家族もいるので簡単ではないが。

都美術館の中原さんと、久しぶりに打ち合わせして、
長い時間、熱く語り合った。
本質の部分を共有して下さる方なので、今後も長いお付き合いになるだろう。
展示に関しては中原さんを信頼してお任せしていれば間違いないと思う。
妥協のない、作品主体の本格的な展覧会になることだろう。

そのため、参加して下さっている方々には申し訳なくもあるが、
作品はかなり絞ったものとなるようだ。
今回は出品される作家の方が少なくなるだろうが、
他の作家たちの作品に関してはまた別の展示を行うことも考えている。

作家が誰かということよりも、美術の視点でしっかりと構成された展示を、
鑑賞し体験して頂くことが、
最終的に彼ら全体の素晴らしさを伝えることになると考えている。

中原さんという存在が入ることで客観性が生まれる。

どんな展示になるのか、どんな体験が出来るのか、
どんな作品が見られるのか、僕も今から楽しみだ。

よし子や肇さん敬子さんの身体が心配だったのか、
昨日は何度か夢を見て目が覚めた。
最後に見た夢は関川君を叱っている場面だった。
これから一緒に仕事をすることになっている人達が作品を見ている。
その内、作品を配慮のない扱い方をしだして、僕はイライラし始める。
机の上にある作品をいつまでも片付けない関川君にもイライラしている。
何かの拍子に一人が作品を壊してしまう。
全員に、強く帰れ、と言ったあと、関川君に何故作品を早く片付けないのか、
と強く叱りつけている、
その中で、すぐに言い訳したり、反論するヤツはダメなんだ、
悔しかったり違うと思うなら、形で示すのが本当だ、というフレーズが出て来る。
これは最近、僕が今の世の中に感じていたことだ。
途中で目が覚めるが、ふー、夢で良かった。

実際には僕はそんなに人に怒るなんてことはほとんどない。
むしろ普通より怒らないのではないかと思う。
最近はブログを読んで下さっている方も多くて、
外で仕事をしていると気遣って下さるのだけど、
書いているのは考えであって、だからといってそのままそれを主張したり、
怒ったりはしません。
その場、その場、あるいはその人の状況によって判断しているので。

さっきから関川君と書いているけど、やはりイサという愛称の方が呼びやすいので、
これからはイサで行きたい。イサ=関川君です。

イサに一番おぼえて欲しいのは、場に入る感覚だ。
場に入った瞬間に何かが変わって、
それぞれがこうあらねばいけないというバランスが見えてくる。
ちゃんと入れば必ず分かる。後は微調整。ちょっとしたズレを正しい位置に戻す。
立つ時でも、立ち方はピタッと決まった形がある。
立ち方が決まったときに場にすっと入った感覚が来る。
まあ、難しく考えることはないけれど。

そう、立ち方や座っている形がぴたっと決まったとき、
その場に居るだけで気持ちがいい。
立っている、座っているというだけで、言いようのない心地良さがある。

僕は最近、外に居る時にその気持ち良さを感じて、
あ、今場に入っているんだ、と感じた。
そうかあ、今人生という場に入っていることは確かだと。
でも、だからといって、早急に場と生活は一つだとは言えない。
というより、まだそんなレベルには達していない。
僕ぐらいでは一生無理だと思う。
ただ、今よりは多少は良くなって行くことは分かるので、そこまでは行きたい。

先日、歩いていると、黄金色の日差しがさして来て、
近くにある保育所から子供達の歌声が聴こえてきた。
本当に良い声で、素晴らしくて、美しくて、こんな歌は聴いたことがないと思って、
その場で立ち止まった。
歌の練習をしているようだ。
子供達の声が重なって、僕の胸をうった。
言いようのない声。本当は素直とか純粋とか、透明とか、
そういうありきたりの言い方はしたくはない。
何かそういう言葉では語れない何か、でも、やっぱりピュアとしか言えないのだけど。
なんて素晴らしいのだろう。
先生の伴奏も素敵だった。
子供達の声に寄り添って、やさしく自然にコントロールされている。
ピアノは音と音の間が切れてしまうのに、その音は自然に歌っていたし、
子供の声の奥にひっそりと消え入ろうとする態度は、
演奏の上手い人には出来ないことだ。
ここでは愛情が自然に通い合っていて、奇跡のように美しい歌が与えられている。
練習なのだけど、これからいくら練習したとしても、今の声より美しくはならない。
練習とはなにか。教育とは何か。
それらが必要がないという意味ではなく、
生きるとは失って行くことでもあるという意味において。

あまりにピュアな声を聴いて、涙が出てきてしまった。
人通りも多かったので、怪しまれるといけないと思い、僕はその場を去った。
振り向くともう日は陰り、黄金色の日差しも消えていた。

やっぱり一番の楽器は人の声だろうか。
僕は普段、たくさん音楽を聴くけれど、歌をあまり聴かない。
歌には心が入りやすい、思いや魂がこもる。
だから、
僕みたいに普段からこころやら魂やらを聞き分けることをしている人間には、
反射的に感度があがってしまって休めない。
そんなこともあり、楽器を聴いている方が楽だ。

でも、魂のこもる歌だからこそ、本当の意味で人を救うことが出来る。
ビリーホリデイの歌声、かつて友人の家で良く聴いていた淡谷のり子の声、
クラシックでなら柳兼子の歌。
こういった歌声にはどれほど救われ勇気づけられたか分からない。
柳兼子の歌うとおくゆく雁は本当に素晴らしいし、
淡谷のり子の昭和27年頃の声は何度聴いても心揺さぶられる。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。