2014年6月29日日曜日

トイレ

暑いですね。
今日は5週目の日曜日ということでアトリエはお休みです。
事務仕事しつつ、部屋の片付けをしています。
2階の部屋は暑くて進まない。

そんな訳で本日2度目ですが、少し気分転換も兼ねてブログを更新します。
今月は少し頑張って、ブログを沢山書きました。久しぶりに。

トイレについて考えてみた。
男女の違いや平等が議論される。セクハラ野次問題とか、バカな話がいっぱいある。
でも、いくら平等だと言っても、
男と女が違う存在であることを無視すると逆にお互いにストレスになると思う。

今はまだ平等は議論されても、違っていることや、
違っていて良いということがよく考えられていない。

男女の平等にしても、
どちらかと言うと男基準での男的世界観の中での権利が言われている。

同じだと思うからスタンダードを作って、その中での平等を確立しようとする。
その過程でお互いの違いやオリジナリティが失われて行く。
違いこそ、尊重されるべきなのに。
存在しない真ん中を目指すのではなく、
男が男であって良い社会、女が女であって良い社会が理想なのではないか。

発展途上国という言葉があるが、何を持って発展と呼ぶのだろうか。

男と女の話で良くあるのが、何か食べようとお店を探す。
何が良い?と男が聞く。女性は何でも良いと言う。決めて、と。
そして男が選んだ店に入り、後で美味しくなかったとか、
別のものが食べたかったとか、不平を言う。
男は何でも良いって言ったのに、と怒る。
これなんかも思考構造が違うと言うだけなのだけど。
こうなっているからこう、という順番で考えてその論理を優先するのが男だ。
女性は迷ったときは誰かに決めてもらいたいと思う。
そしてそこは決めてしまわなければならない。
でも、決めてしまった時点でこの話は終わっている。
決めたからこの場面は終わりなのだ。
後で不平を言うというのはもう次の場面の話。
嫌だったり不快だったりしたものは出してしまいたいのが女性だ。
ためてはおけない。
だから、ここの場面ではこれを連続で考えて論理を取り出すから、
男としては何んでも良いと言ったのに不平を言う、という矛盾を感じてしまう。
それを女性の感情から見ると、迷ったら決めてもらいたい、という感情。
それと不快感は発散したいと言う感情、それぞれを見てみると当然のことになる。

これと同じことが民族の違いや様々な違いの中にある。
僕は10代の頃に一般に障害を持つと言われる人達の世界に飛び込んで、
仲間にしてもらって、最初に気がついたのはスタンダードなどない、ということだ。
例えば自閉症の人が居て、ジャンプしたり大声を出したりしていると、
多くの人は何故そうしているのか分からないから、荒唐無稽に見える。
でも、彼らにはその行動、一つ一つに意味も一貫性もある。
少し深く付き合えばすぐに分かることだ。

そんなことで、トイレのことだった。
僕達のアトリエは生徒達も学生達もお客様も、保護者の方達も、
人数で言うなら女性が中心だ。

少ない男性陣のトイレの後、便座が上がっている時が良くある。
ああ、これもそう言えば、よく言い合っているやつだ、と思っている。

僕は女性の多い場所での共同生活も長かったので、
便座を上げたままにするのは違和感があるし、ずっと昔から下ろしていた。

ただ、良く女性陣の言っている必ず下ろすのがマナー、
みたいな見解はちょっと偏っていると思う。
何故なら、多くの女性は下りている便座を使用して、そのまま出ているのだから。
これは女性側の視点が強い。

そこで今の僕の結論は蓋を閉める、ということだ。
そうすれば、どちらにとっても同じ状態といえるし、
トイレ自体、蓋をしておいた方が良いような気もする。

これはトイレを通して何を考えたかを書いたのであって、
こうして欲しいと言う話ではない。
別に空けてあっても構わない訳だけど、こんなちょっとバカバカしいところから、
スタンダードって何なのか、と考えてみた。

余談ですが、男が座っておしっこすることは反対です。
尊厳も身体機能にも影響があるでしょう。
息子が居るのでそのこと割と真面目にを考えています。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。