2014年7月30日水曜日

生きること

場の中にいる時、個々の作品は鮮明に見えてはいない。
そのかわり、もっと強い実在感のある何ものかが見えている。
形としては捉えられない何か。

生きている限り変化し続けるもの。

流れとして感じたり、音として聴こえたり、
川のように流れ、海のように深く、森のように底知れず、
何かがあるが、決して固定出来ないし、名付けることも出来ない。

ただ、宇宙も生命も動いているものであって、
そこに躍動感とか震えがある。

動いていること、変化していること、そこに本質がある。

知ろうとすることの意味のなさ。

それより一緒に楽しめば良い。

絵を描き続けること、何かを創り続けること、
それは特殊なことではなく、生き続けることと同じ。

僕達は今日もここに居るし、歩くしかない。動くしかない。

2014年7月27日日曜日

始まりました

暑い日が続きます。
アトリエでの様子を見ていると、作家達もややつかれぎみです。
身体に気をつけて過ごしたいですね。

展覧会無事スタートしています。
プレスリリース、レセプション、内覧会を終えて、昨日が初日です。
盛況とのことで感謝しています。

僕もまた新たに作品達に出会う事が出来ました。
個人的にはこのレベルの展覧会はそうそうないと思っています。
彼らのエッセンスがあるし、質も高いし、一言で言えば凄いものを感じます。

ただ、毎回言うことですが、絵は自分で見て感じるもの。
それぞれが自己の体験の中で出会って行くものだと思います。

僕らは本当は何も語るべきではないかも知れません。

そんな訳で、だからこそ是非、作品に触れて頂ければと思います。

今日は午前の制作の場に入ろうと思います。
真剣勝負。美しい時間をみんなで創って行きます。
一つ一つの作品、一つ一つの場が答えです。

上野と経堂の場が響き合うように。
創る人、見る人、様々な立場でその場にいる人、
みんながやさしい感情に満たされるように。
そこに平和と調和の静かな風が運ばれるように。
人と作品、こころと美、人と人、こころとこころ、個と世界、
たくさんのあたたかい出会いが生まれるように。

今、自分の目の前にあり、足下にある、この場所が、
こここそが世界中に繋がる地点なのだと思う。
美も調和もここにあるよ、とそういうことを彼らの作品は教えてくれている。

2014年7月25日金曜日

26日、展覧会開始

昨日の雷は凄かったですね。

明日から「楽園としての芸術」展スタートです。

僕も今日始めて展示の全貌を見せて頂きます。

よしこが取材を受けていたので、昨日は美術館へ行っていたのですが、
その時点では、これから大詰めといった感じだったようです。
直前まで悪戦苦闘されているだろうと思います。
学芸員の方、具体的な作業を担当される方々に感謝です。

沢山の方々のご協力と努力なしでは一つの企画は成立しません。
本当に有り難い事だと思っています。

23日の制作ではアトリエスタッフ達も大分疲れただろうと思いますが、
昨日一日空けさせて頂いて、スッキリと今日に備えました。

始まってしまえば、後は見る方々のものだと思っています。
普段の制作の場でもそうですが、送り出すところまでがこちらの仕事。
そこから先は多くの方々の客観的評価に委ねられます。

作品なので、こちらが何を見て欲しい、感じて欲しい、
ということは押し付けられない、ということです。

個人的な経験が重要になってくると前回も書きました。

様々な反響や批判もあるでしょう。
ドキドキしながら楽しみです。

そんな中、初日は絵画クラスの日です。
僕達は普段の制作の場を最も大切にして行くべきです。
土曜日のクラスが充実した制作を行えるように、
場に全力を尽くします。
スタッフは関川君、ゆきこさんです。
僕は最初は居られるかも知れませんが、展示の初日でもあり、取材も入っていて、
そしてしょうぶ学園の方の講演もあるので会場へ行かせて頂きます。

宜しくお願い致します。

2014年7月24日木曜日

いよいよ展覧会

昨日、東京都美術館で大きな作品を制作しました。
しんじ君、ゆうすけ君、ゆうこさん、けいこさんの4名。
スタッフはよしこ、さくま、イサ、ゆきこさん、きくちゃん、みひろ、
いながき君、の7名で挑みました。
作家達もスタッフも良い集中力で本当に素晴らしい場でした。
作家も作品も、そして場もその時勝負だからこそ、
全力で行かなければならない場面があります。

アトリエとしては昨日の現地での制作が仕上げでしたが、
圧倒的に素晴らしかったと思っています。

作家達のエネルギー、即興性、感度の高さ、そこに答えるスタッフ達の動き、
学芸員の中原さんをはじめとする構成して下さった方々のお仕事、
全てが響き合って良い流れが生まれました。

僕達もまだ全貌は見ていませんが、今回の展示はエッセンスだと感じています。

どんな方にも見て頂きたい、お勧め出来る展覧会だと思います。

ご期待下さい。

作品、一点一点が個人の世界を超えた、作家達共通の感性を示しています。
それはまず、アトリエの場においてもそうですし、
さらにダウン症の人たちみんなが共有しているものでもあり、
もっと言うなら僕達も含め人間誰しもが持っている大本のところを表しています。

作品との出会い、美しいものとの出会いは、個人の体験だと思います。
美は普遍的なものですが、そこへ入る経験は個人的なものです。
ご覧いただく全ての方が、
その人でしかない経験を通して何かを見るのだと思います。

描く人の経験、その場にいるスタッフの経験、作品を展示構成する人の経験、
そして見る人達の経験。
それぞれが異なっていて、
それでもどこかで響き合う何ものかがあるのではないでしょうか。

本当の意味で彼らの作品の本質に触れられる機会となりました。
そのことの社会的意義も大きいと考えます。

ご興味のある方は是非、会場まで足をお運び下さい。
僕自身も個人としてまっさらな目で展示を見に行きたいと思います。

2014年7月22日火曜日

祈り

それにしても暑いですね。
台風が抜けて、ゆうたもとりあえずは何とか行けそうです。
元気でさえ居てくれれば、と思います。

いよいよ、展覧会です。
皆様、是非ご覧になって下さい。

色んな場面でお話しさせて頂く機会も増えたし、
時に講演もさせて頂く。
このブログでも沢山語って来た。
でも、そんな言葉の遥か先にあるものが作品からは見えてくる。

それからスタッフ目線に立つなら、
作品は場において妥協をしなかった証でもある。

作家や自分の事以上に場のことを発言する事が多い。
作品については語れないし、見てもらうのが一番。

それでも10年前には場について語るなんてナンセンスだと思っていた。

様々な事に時期というものがある。

想いを込めることや、覚悟を持つ事や、注意力を使い切ること、
それに命を賭ける事、場において大切な事として語って来た。

それだけではない。そこから後一歩何かが必要だ。
最近はそれを祈りと呼んで良いのではないかと考えるようになって来た。

全ての人がそうである必要はないけれど、
僕にとっては場に入る、場に立つとは祈りなのではないかと思う。
これは別に宗教とは何の関係もない話なのだが。

どんな時でも場に立って来たから、一つ一つの情景が強烈に残っている。
あの時も、あんな時も、場に居たな、と。
人生のあらゆる場面で。
辛い時も悲しい時も、誰かや何かを失った時も、
それでも場に立っていた。

だから、僕にとって誰よりも場は特別なものだ。
個人レベルの経験から見えて来る事については、またいつか語るだろう。

今日はキクちゃんと合流する。
明日から、様々な準備がある。

前回の絵画クラスでよしこが少し場に入っていたが、
夫としてとは別のところで、やっぱり彼女は貴重な存在だと思わされた。
極端な言い方かもしれないが、
僕らの仕事にもミリ単位の精度が要求される場面がある。
しかもなかなか習って憶えられるものではない。
すんなりそれが出来る、そして絵になる、というところに、
やっぱり彼女の凄さがあるし、まあ、何と言うか、そこを計算でやっていない、
というのも面白い。
場にとって貴重な存在だ。
繰り返すが、そういう人はあんまり居ない。

一面的な言い方に過ぎないが、場においての個性を考えると、
よしこはあたればボームランというタイプ。
僕はどんな球でもバットにあてる事が出来るというところが強みかな。
僕は地味な努力型だから。

あまり書く時間はないが、HPも開いて頂く機会が多い時期なので、
またどこかで出来るだけ更新して行きたいと思います。

2014年7月19日土曜日

本日

ゆうたとよしこが無事東京に合流しています。

疲れもあり、喘息が完全に治まっていないので、
今日はアトリエに居させて頂きます。

制作の邪魔にならない範囲で、2階と行き来しています。
制作の後の時間で少しみんなとも触れ合って欲しいと思っています。

ゆうたの成長にとっても、こういう環境に触れる時間や、
何気なく作品の色を見ておく経験が大切だと考えております。
制作に関しましては、スタッフが責任をもって普段の環境の質を保ちます。
参加されている皆様、ご理解の程、宜しくお願い致します。

外部から、ご見学の希望が殺到しておりますが、
東京アトリエは8月は夏休みとさせて頂いております。
申し訳御座いませんが9月にもう一度お問い合わせ下さい。
宜しくお願い致します。

さて、今日も良いアトリエの時間となりますように。
ブログの更新もちょっと間が空くかも知れませんが、
またお会いしましょう。

2014年7月17日木曜日

匿名性

結局、昨日も暑かったです。
これからは秋まで暑い日が続くのでしょうね。

しばらく珈琲を飲まなかった。
よしこが東京に来るので、美味しい豆を買っておこうと、
久しぶりに大好きで仕事としても尊敬している珈琲屋さんへ。

その方のつくり出す味は本当に素晴らしいが、
特に凄いと思うのは雑味やわざとらしさが全く無いこと。
透明感があって、内にぐっと秘められている何かがある。
丁寧だし、更に言うなら表面を着飾った美しさではなく、
内面から出て来る本物の美しさがある。

少しお話ししていて、珈琲業界の他の方々のことや、
今、社会でうけているものについての話題だった。
結論はやっぱり名前が出ている人にばかり注目が集まる、
それによって分かり易い、つまりはそれっぽいものばかりが流行る。
作り手も名前を打ち出して行くことが、創る中心にさえなって行く。
これでは良いものは生まれないし、良いものの価値が見落とされてしまう。
結果、本物が滅び、偽物ばかりが残って行く。

美と美を扱う業界は無縁のものだ。

外に出る時、そして出す時、このことが一番注意すべきことだ。
世に出ることは名前が出ることでもある。
それにはリスクが大きい。

良いものは、美しいものには匿名性がある。
本当の作品はすべて匿名であった方が良いと思う。

日本に数々ある美しい仏像なんて、その大半は匿名だ。
かつての民芸にしてもそうだろう。

名前なんか出さないにこしたことはない。

僕自身も自分の名前が出ることには気をつけている。
名前は発言や行為に対する責任の意味でしか使わない。

多くの良いもの、美しいものが名前のせいで台無しになって行く場面がある。

だから、僕達のアトリエは本当に理想的だ。
ここでは競争はないし、誰も目立とうとしない。
活かし合うことが基本にある。
みんなそれを知っている。
場とはそういうもので、前にも書いたが得しようとすると場に嫌われるから、
結局自分が楽しくなくなる。
楽しもうと思うと、必然的に活かし合う形となる。
これがみんなが知っている場の基本だ。
誰でも気持ち良く過ごしたい訳で、それを追求して行くと、
最終的に場の声を聴く、場の流れを感じる、そして活かし合う、という形になる。
ここの作家達は日々、それを実践しているし、肌で知っている。

2014年7月16日水曜日

元の形

今日は曇りですがその分、少し涼しいですね。

昨日はプレの時間に久しぶりのあきこさん達が来てくれました。
双子の子供達も。

海外生活だと滅多に会えないけれど、繋がりを大切にしていきたい。

やっぱり人。みんなのことが大好きです。

これから、色んな部分でもっともっとシンプルにして行きたいし、
自分自身もシンプルになって行きたい。

そして、場にしても展示にしても、他の活動にしても、
シンプルさの持つ力強さを感じられる方向に行けたら、と思う。
根本のところで何が大切なのか。
最後に残るものは何なのか。
そこへ立ち返るにはどうすれば良いのか。

そういった人として元の形が必要とされる時代だと感じている。


2014年7月15日火曜日

もう7月

何度も言っても仕方ないですが、暑いですねえ。

プレのみんなも元気です。
暑い日は途中でゴロゴロしてたりします。
自然体です。

よしことゆうたが本当は昨日、今日くらいに東京に来る予定だったが、
台風と風邪の影響で体調がいまいちで、体力が戻ってからということになった。

プレのみんなと会いたかったけど残念。

でも、以前と比べたら喘息も酷くなくなっているし、
体力もついて少し安心出来るようにもなった。

病院の先生とよしこと支えてくれる家族、親戚、それにアトリエのみんなのお陰だ。

夏は切ない思い出、辛い思い出も多いが、その倍以上鮮やかな情景を思い出す。
沖縄も素晴らしかったなあ、またいつか行きたいなあ。
山形で花火を見たことも思い出すし、信州での日々も思い出す。
去年やその前の夏合宿。
今年はどんな夏になるだろうか。

日曜日にしんじが言った「海は深い、浅い、これよ」。
そうだよなあ。
深かったり浅かったり、良かったり悪かったり、嬉しかったり悲しかったり、
色々あって、場所ばかりでなくいろんなところに行って、
浮かんだり沈んだり、そうやって続いて行くんだな、と思う。

自分が正しいと思っていた時期もある。
勢いもあって恐れも知らない時期もあった。
人の気持ちを知り、恐れることを知り、単純には行かなくなった。
その分、認識は深まっていると信じたい。

いつでも今が一番と思える。それが幸せだ。
だって、どんなことであれ、それを知ることが出来たのだから、
経験することが出来たのだから、その前には戻りたくはない。

今日も暑いですが良い一日になりますように。

2014年7月14日月曜日

昨日のアトリエ

暑い日が続きますね。

すっかり空っぽになってしまう。
その感覚は気持ち良いものでもある。
でも、良いとか悪いとかではなくて、なんだか不思議なものだ。

一つの場に対してすべてを使う、ということだけど、
使おうと思っても使えるとは限らない。
それはあくまで場がそうさせる。

昨日の午後のクラスのこと。
急な欠席が多くて、最近では珍しく、しんじ君とさとちゃんの2名となった。
ところが、ここから2人が凄いモードに入った。

こういうことが起きる。
勿論、結果として創られた作品は普段以上のものになる。
しかし、それ以上にそこへ向かって行くときの、静けさや深さや、
力強さや、繊細さが凄い。

こういう時間こそが生きている時間だ。
作家もスタッフもそういうところに賭けて行く。

いつまで経っても面白いなあ、と思う。


2014年7月13日日曜日

途轍もない作品

昨日は暑かったですね。
2、4週クラスは撮影が入っていることが多いです。

昨日は午後のクラスが久しぶりに全メンバーが揃って、みんな嬉しそうだった。
最近は休みの人が結構いたから。

いつでも数名は心配な人もいる。
何もしてあげられないのだが、せめてアトリエにいる時間でちょっとでも、と思う。

そして全部のクラスがそうだが、
一人一人がさり気なく気にかけ合っている姿が素晴らしい。

ここしばらく、ゆうすけ君の作品が更なる高みに登っている。

作家にはピークというものがあって、その時期はそんなに長いものではない。
ピークを過ぎたからと言って、ただ枯れて行くばかりではなく、
色んなことが可能だ。
ピークが過ぎて行くことは別に悪いことではない。
むしろ一人一人にピークというものが与えられている、と考えた方が良い。

ピークを過ぎると、燃え盛るような新鮮さはもう戻っては来ない。

それなのに、ゆうすけ君は再びピーク時のようなところへ来ている。
これは不思議だし、凄いことだと思う。

自然にピークが終わり、落ち着いて行く分には良いのだけど、
場合によっては何か切っ掛けがあって、ガクンと落ちてしまう人がいる。
今だから言えるが彼にもそんな時期があった。
しんじ君やゆうすけ君の場合、そういう時でも作品に入る時はある程度は、
良いのが描けるという部分がある。
それと、ゆうすけ君の場合はまだ内面から見えて来るものに、
もう一度、行けるかも、という要素があった。
こういう時期は周りの認識が大切になって来るので、
リスクに気がつかない方が良い。
希望を失わないことが大切で、もっというなら楽天的なくらいで良い。

たとえ、以前のテンションまで戻らなくても、良い作品は創れるし、
幸せであることも出来る、そういう在り方を一緒に見つけることが大事だ。

どっちかな、ちょっと行けそうな気もするし、安定の方に行くかも知れないし。
そんな訳で、微妙な時期は誰にも話せないこともある。
話すと影響がでるし、考慮する要素が増えてしまうからだ。

少しでも可能性があるなら、最大限に活かしたい。
少しでも良い時間の記憶は刻みたい。
ピークの時、上れるだけ上った人はピークが過ぎても、安心感が違う。
作品は残るが、もっと大切なプロセスや場は消えて行くもの。
ただし、食べたものが消えて行くのと同じで、
その消えたものが自分の身体を作っている。

前に拾うことが大切だと書いたが、
そういう良い流れやこころの動きを拾って行くことで、
見えなくなって消えて行きそうになっている大切なものが、
再び表に現れるということがある。

ゆうすけ君の作品は奇跡のように再び燃えているが、
以前より深みも増している。
ここに来れて良かった。

これはあくまで信頼関係の上でのこととお断りしておくが、
ある時期は僕がテーマを指定することもあった。
こういうことは普段は絶対しない。
アトリエ・エレマン・プレザンにおいては、指導的な手は一切加えない。

ただ、ここが難しいところなのだが、本人の内なる声を聴き、
時にはあえて踏み込むことで、よりその人が活きてくるなら、
そこは責任を自覚した上で進めなければならない。

単純な話になるが、アニメの絵を写して描きたいと言ってくる人に対して、
一歩、じゃあ頭の中に入れて見ないで描いてみる?
それだけでも絵のみならず、こころの動き方は変わって来るし、
終わった時、本人はこうしておいて良かったと実感する。

そういう経験があるから、彼らもどう?と聞いて来るし、
滅多にないけど、こうしよっか、と僕がいう時、うんいいね、とすぐに答えてくれる。

内面の声を聴いて、信頼関係の中から生まれた作品と、
指導され、描かされた作品とは圧倒的な違いがある。
それは見れば分かることだ。

何度も書いたが、描かされた、と言っても指導されていない絵も含まれる。
その場にある雰囲気や、言葉を発しなくてもいる人の目線、
描かせる、強要する要素は無限にある。

そんなことはともかく、
ゆうすけ君の作品は凄いです。
これこそ絵でしか表現出来ないなにものか。
言葉を超えた感覚の世界であると同時に、普遍に達している。
奥深い内面の世界であると同時に、どこかこの宇宙のようだ。
そこには内も外もない。

2014年7月12日土曜日

農耕と狩猟

今日もちょっと暑くなるのだろうか。

この2、4週の土曜日はどちらかと言うと集中型のメンバーが多い。
1、3週のクラスが動であるならこちらは静。
単純には言い切れないけれど。

スタッフも静かに集中して場に入る。

良い時間が流れれば驚くほどの何かが生まれて来るのも、
この土曜日の良いところだ。

2、4週の日曜日のクラスは外で色んな出来事が起きている日が多いし、
1、3週の日曜日は特に午後クラスは良く晴れた日が多い。

そう言えば、この2、4週の土曜日の午前のクラスは雨が多い。
時には嵐の中だったり。
外の喧噪をよそにみんなが凄い集中力を発揮している場面がいくつも記憶にある。

この前、テレビで長い間変わらない生活を続けているという人達が映っていた。
タレントがその生活に入って行くという番組。
いわゆる狩猟民族で、番組で見た限り何かを栽培したり蓄えたりは一切していない。
道具はほぼ槍だけで、その槍も木を歯で噛んで作る。
狩りに出て獲物を穫って、全員に平等に分けて食べる。
穫れない時は諦めて帰って来る。
ひたすらその繰り返し。
ただ、ただそれだけの毎日なのだが、見ていて良いなあ、と思う。
こういうことだよね、と思う。
彼らには家もなかった。かなり遠いところまで移動しながら狩りを続けている。

彼らはことさらに何かをしようとはしない。
自然の中での自分達の位置を分かっていて満足している。

ありのままに近い生活だろう。
何も持たず、裸で自然の中に居る。

一方で農耕のようなことはどうだろうか。
食べ物を栽培するので同じ場所に居続ける。
毎日、手をかける。
村のような共同体が出来て行く。

信州にいた頃、働いていた場所の近くにおじいさんがいて、
山の主のような人だった。
農業をずっとやって来たので何でも知っていた。
それどころか、蚕のことや炭焼きのこと、村の歴史に関わること、
本当に多くの知識と経験を持っていた。
良い米を作ろうと思ったら、毎朝、毎晩、田んぼに入れ、良く観察しなさい、
そんなことを言っていた。
実際に彼は毎日、田んぼで何かしていた。
裸足で入れば、土に何が足りないのか、今年の収量はどれくらいか、分かった。

最近も考える、日本の本当の生活をするには毎日家にいなければならない。
でも、そこから見えて来るものは果てしなく大きいと思う。
毎日、何かに手を入れて行く、維持されて行くと同時に磨かれて行く。
新しいものよりも、月日が経ったものの美しさ。

農耕的なものと狩猟的なものとまで言ってしまうとテーマが大きくなり過ぎるが、
手をかけ、日々磨かれて行く世界と、
いつでも新鮮な恵みの中にいて、裸の身体と感覚だけをたよりに、
明日を考えずに生きられる世界。

またまたテーマをこちら側によせるなら、
制作の場にもこの2つの要素が共存している。
割合で言ったら6対4、狩猟6に農耕4だろう。

磨かれて想いがこもった場に入って、こころや自然や偶然の波の中から、
輝く瞬間を穫ってくる。
感謝とともに誰が穫ったものであれ、全員で平等に分けて食べる。

日々、積み重ね、ゆっくり大切に創って行くと同時に、
ほとんど無限に見える広がりをひたすら歩き続け、本当のものを見つける。
的を外してはならないが、それ以上に的を見つける力が大事だ。

そして、どんな時も仲間の存在を忘れてはならない。
自分のために動くのではなく、みんなのために動く、これが基本中の基本だ。

2014年7月11日金曜日

それにしても蒸しますね。

さてさて、最近は増々静かに仕事したいなあ、と思っています。
世の中騒々しいですが。

今の時代は何でも情報化されていて、ほとんど何処に居ても変わらなくなった。
それなのに未だに田舎者も大勢居る。
田舎者とは田舎に住んでいる人ではない。
一言で言えば劣等感から媚へつらう人。
都会が良いと思い込んでいる人。
外で有名な人が歩いていると喜ぶ人。

こういった方々が勝手に騒いでいる分には良いのだが、
他人も同じように考えていると思い込まないで欲しい。

別に科学なんて絶対ではないし、権威が偉いとも思わないし、
都会が素晴らしいものだとか、海外が進んでいるだとか思わない、
そんな価値観の人間も多く居ることを忘れないで頂きたい。

誰もが目立ちたいとは思ってはいない。
地位も権力も全く興味がない、そんな生き方もある。

自分の名前や手柄に拘る人間も田舎者の一種と言える。

バカバカしいと思わないのだろうか。

そんなものは全く何も与えてはくれない。

僕はいつでも手ぶらでいたい。
制作の場が楽しいのは自然界と一緒で、
人間の作りあげた下らない価値が通用しないところだ。
身動き出来る裸がいつでも一番幸せにしてくれる。

騒ぎ回るのはやめよう。

もっと中身を考えよう。

何故、あえてこんなことを書くのかというと、
こういう人達が世の中で騒ぎ回ると、
静かに質の高い仕事や生き方を追求している人間が巻き込まれるからだ。
少なくとも別の価値観も尊重して頂きたい。

さっき、鮮やかな虹が出た。
しかも二重の虹。感動。
駅の前で多くの人が見惚れていた。
あんなの人には創れない。
僕達は与えられてこの場にいさせてもらっているだけだ。
この奇跡のような現実に毎日もっと感謝したい。

2014年7月10日木曜日

大切なこと

早めに仕事と用事を終わらせて、建物の中に居る。
これから台風ですね。

すっかり暗くなって風も強くなって来ました。
教室日でなくて良かったと思っています。

昨日のブログで上杉さんのことを書いた。
いろいろ思い出していて、一つだけ書いておきたいことがあった。
良い方だったけれど、僕が最も素敵だなと感じたのは打算のなさだった。
シンプルなことだけどこれは大切なことだ。

たとえ稚拙であれ、多くの失敗を重ねようと、
最後のところでは損得勘定を離れた姿勢に人は清々しさを感じる。

世の中はお金がベースになっている以上は、
善意の人がなかなか上手くいかない仕組みになっている。
お金自体が悪い訳ではないが、お金というものは人の醜さを引き出す。
こういう仕組みではずるい人ほど成功することになる。
だから何も成功者が良い訳ではない。

昔から、理想を語ると実現出来るのかなあ、と反応する人が多い。
こういう人達は実現出来るかどうかだけを考える。
実現出来ないことに労力を費やすのは無駄だから、損だからだ。
始めから失敗しないようなことを選んで動く。
世の中では賢いと言われる人達だ。
僕はこの賢いという言葉をずるい、汚いと置き換えたい。
自分がそこから無縁だといういう訳ではない。
誰しもがそういうずるさや汚らしさを持つからこそ、
そうでないようにしたいし、人のそう言う部分が引き出されない環境を創りたい。

損したくない、得をしたいという感情がどれだけ醜いものか、自覚を持つべきだ。

場において自分を顧みないという姿勢だけが、仲間達のこころをうつ。

上杉さんの他にもう一人思い出す人がいる。
以前、イニシャルでこのブログに書かせて頂いた方だ。
僕より10才位上の方だろう。
本当に短い間だけど一緒に仕事をしたことがある。
孤児院のようなところにいる子供達と合宿をした時だ。
このとき、彼と2人で数日間、僕の言葉でいえば一緒に場に入った。

最初は子供達とサッカーをしているところだったか、
彼がみんなの笑い者になっていて、それを楽しんでいるのが分かった。
そしてその場はどんどん輝きだした。
彼は重要なタイミングを見極めると、自分のダメな部分を曝して、
みんなに笑われながら、一人一人が人のどんな部分も肯定出来る雰囲気を創っていた。

その場面を見ながら、場を知っているな、と僕は思った。
それが分かる人はこれまで数人しか出会っていない。

彼は自分を捨てることなんて平気で出来たし、
いつでも喜んで損する気持ちがあった。

僕らはすぐに意気投合した。

そういう人と場に入ると本当に楽しい。
一緒に投げ合って行くと共に音楽を奏でて行くようだ。

場においては一番エネルギーを使う人が一番損するように出来ている。
そこが素晴らしい。

僕らはみんなとコミニケーションをとらなければならないが、
打算はそれをストップさせてしまう。
自分のことを考えた瞬間に繋がりが止まってしまう。
ああ、この人はここまでか、と相手をがっかりさせてしまう。
打算は深いところでの繋がりの中で一番見えてしまうところだ。
この人、自分のことを考えてるな、損したくないな、とか。
明日のことを考えるようでは良くならないのは当たり前だ。

場の中で、自分を考える人を見ていると悲しくなる。

セコいな、ずるいな、ケチだな、という人がほとんどだ。
なんでそこで全部あげないのだろう、と思う。

何もかも失っても良いという覚悟がなければ、場になど入れない。

外からどんなに出来ないレッテルを貼られていようと、
明日を考えないで場に立つ人を見ると、すぐに伝わるものがある。

生きているほとんどの時間が損か得かで出来ていたとしても、
最後のところではこんな世界を大切にしようではないか。
みんなが投げ出し合って、自分を顧みないで、人や場を見つめているとき、
そこで響き合うものの素晴らしさは言葉にできない。
これこそが生きている時間だと感じる。

少なくともそういう時間をこの世の中のどこかには、
ひっそりとでも良いから残して行きたい。

2014年7月9日水曜日

上杉さん

台風はかなり大きいみたいですね。
いやあ、蒸暑かったですね。

昨日、前世田谷区議会議員の上杉裕之さんを偲ぶ会に出席しました。
多くは語らないことにしたいです。

出会いから始まって色んなことを思い出していた。
代々木から経堂へアトリエを移転する際には一緒に探して下さったばかりか、
ご自分の自宅をどうでしょうか、と提案して下さった。
ダウンズタウンで馬を飼いましょう、それが私の夢です、と常々語っていた。
多くの人をご紹介頂いた。
沢山相談にものって頂いた。
お誘い頂いて、色んな場所にご一緒した。
よしことのやりとりでは、
三重で早くゆうたと一緒に釣りをしたいと言って下さっていた。

映像で様々な場所で指揮をする上杉さんの姿を見た。
ベートーヴェンの第9を指揮する上杉さんを見ていて、涙が溢れそうになった。
そして、この人の根本はやっぱり音楽なのではないか、と感じた。
やさしくて愛があって、夢があって、素直な方だった。
その元には美に対する感性があったのだろう。

そういえば、テレビ番組のレポーターに挑戦する浅田真央を見たけど、
海外を歩きながら、出会うものに対しての驚きや発見の姿が本当に素直だった。
途中、リストのピアノ曲の演奏を聴く場面があった。
彼女は最初のいくつかの音を聴いただけで涙を流していた。
美への感受性が、やさしさや素直さの元にある。

美しいものを尊敬することほど大切なもことはない。
そして美は個人のものではない。
もっと普遍的な何かだ。
上杉さんの献身的な生き方はその一つの現れだったと思う。

2014年7月8日火曜日

原始の植物

しばらく、ご見学の方が続いていた。
この場所を必要とされている方々は、
現在アトリエのメンバー以外に沢山の人がいるのだ、と実感する。
今、社会の中でどんなアプローチが必要なのか、
僕達に与えられた責任を考える。

様々な世界があるいは、あまり使いたくない言葉だが業界がある。
前にも書いたが業界と一般の人達とのズレは大きい。
一般の人達の感じ方が実は大事だ。
業界の常識とはそこに生きる人達の損得勘定で作られて来たものだから、
少しづつ社会からズレて行く。
何も話題になっている政治や学会の話ばかりではない。
どんなジャンルであれ業界には業界にしか通用しない理屈があって、
本当に社会に必要なことが出来にくくなっている。

業界で評判が悪かったものが、一般には反響が高かったり、
業界で高い評価を得たものが、一般には何の反響も呼ばないことは良くある。
何故か。
業界に社会がない、社会性がないからだ。

このことはまたいつか考えよう。

そんなことより、アトリエも一般の人達、社会へ向けてしっかり発信したい。

そうしなければ、いつまで経っても限られた人達が、
言い方は悪いが、傷跡をなめ合っているうちに終わってしまう。
まっさらな人達に何かを感じてもらう、興味を示してもらう、
更に言えば、何か凄いものがあるぞ、と感じてもらう、
それが広がって行ったとき、始めて社会の中での彼らの文化が守られる。

台風の影響でよしことゆうたが心配だ。
台風が近づくと本当にひやひやする。

しばらく、お会いする人との関係でもあるが、深めの話題になることが多かった。
かなり深いものを出していると、不思議に触れている現実も違って来る。

そんな中で、絵とタイトルの話とか、筋とかストーリーのことを話していた。
作品におけるタイトルは拘ると逆に絵の邪魔をして見えなくする場合もある。
また、絵を描いているとき、彼らはとっかかりとして、ストーリーや、
具体物を出して来るが、それは最初の導入であって、
どんどん絵に入って行って、感覚が反応しだしてからは、
色と線と戯れ、もっと言葉にならない世界に行っていることは確かだ。
ダイレクトに感覚の世界に入ってる作家、たとえばしんじ君の絵を見たりすると、
本質が分かり易いが、みんなそれぞれがそのような表現が根本にあって、
付随するものとして言葉や具体物や物語が出て来る。
そのとっかかりばかり見ていては本質は見えて来ない。

というような話題にもなった。
そして制作の場に入って、かずき君が仕上げた作品が答えてくれた。
タイトルは違うものになったが、
テーマは最初の植物でまだ色んなものが分かれる前、
全てが繋がっていた頃の植物だという。
あまりにも僕がテーマで語っていることに近いが、
これは彼自身がはっきりとそう言ったのだ。
こうなって来ると、タイトルも描かれた作品も同じものをはっきり示すケースだ。

それにしても、全てが渾然一体と化して動いているその美しい一枚は、
様々なことを象徴していて、僕自身、本当に良いイメージをもらったと思う。
このイメージでまた場へのアプローチが一つ増えるし、動きも変わる。
前に書いた繋がるカギのようなものだ。

いつか、作品もご覧いただければ、と思います。

2014年7月7日月曜日

志村ふくみ

2日間とても良い場があって、作品もいつになく光っていた。
その前の週もかなり良かったり深かったりしたので、
1ヶ月ほどこの流れが続いていた。

エネルギーが溢れるように湧き出て来る時でも、
流れの良い時はどこか遠いところから見ているような感覚になる。
どうも作家達もそういう瞬間があるみたいだ。

とてもクリアで明晰で、瞬間に敏感に反応出来ているのにぼーっとしている感じ。

深い場が続く時はやはり眠りが深い。何の夢も見ない。何の記憶もない。

昨日は眠ったというより、気を失っていた。
気がつくと朝。
その前までのすべてが消えて、スッキリする。
ここからはまた新しい。

そうだテレビを見た。
途中からだったが素晴らしかった。
日曜美術館の特別編だったのだろうか。
染織家の志村ふくみが特集されていた。
全部良かったから、何処がとは言えないけど、やっぱり色って凄いなと思う。
色は命だし宇宙だし、人間のさかしらを超えた何かなのだと、
そしてそれを言葉ではなく肌で知っている人なのだと感じた。
志村さんのような人こそ、何かを知っている人だ。

志村さんの言葉や姿や、
そして染めた着物が背景の自然と一体化している場面に感動。
あの音楽は何とかならないのだろうか。
あんな「感じ」とか「雰囲気」とは全くかけ離れた本物が目の前にあるのに。

最も印象に残ったのは、というかもっと自分が分からなければならない、
と感じさせられたのは、
「人間よりも植物の方が位が高い」という言葉だ。

記憶だけで書いているので間違っているかもしれないが、
志村さんはそのように言っていた。
欲と言ったのだったか我欲だったか、
とにかく、そういった小さな頭や意識の世界に生きている人間に対し、
植物はただただこの宇宙の摂理に忠実に、ひたむきに生きている。
その営みの厳粛なる姿。

志村さんは本当に植物を尊敬している。

このように書いても、
志村さんのぽろっと出て来る言葉の豊かさに届くどころか、
擦りもしないのが残念だが、実際にご覧になられた方はその世界に触れたと思う。

制作の場に入る時、僕達にも必要なのは我を離れ、
自然界や宇宙の摂理に忠実であること。
遥か先を見ておられ、歩いておられる方々が居る。
及びもつかない。
でも、どれほど遠くても、目指すものが遥か彼方であろうと、
今歩いている道が間違っていないことだけは確かだ。

2014年7月6日日曜日

場への信頼

昨日も本当に良い場だった。
何度も言うがこれって楽園だなあ、と思う。
でも、それは一人一人の良くしようと言う意思の現れだ。

最近よく話すことだが、作家達への信頼と、作家からもらうスタッフへの信頼は、
勿論、必須条件なのだが、もう一つ場への信頼が必要だ。

場への信頼は色んな局面で僕達を助けてくれる。
そして、場からも信頼されなければならない。
作家との内面的な対話と同じように、場ともしっかり対話して行く。
前回の言い方で言えば、拾うこと、どれだけ拾えるのかが大事。
誰かがこうしたい、といったら、そうしてあげるのは簡単。
でも、それはすでに主張されたものであり、意識レベルのものだ。
制作や場に関わって行くと、意識にのぼる浅いレベルでの接触は初期的な段階だけだ。
無意識の反応や声を聞く。そして尊重する。
尊重するというのは拾うことだ。
何かが現れて来る、それはほとんどの人が気づかないレベルで。
気づかないあるいは、気づく必要がないものと思われている、
何気ない動きの中に大切なものやメッセージがある。
拾わなければ、大切に扱われなかった、尊重されなかったと、無意識が感じる。
そして出づらくなって来るので、表面から見えるものはより減って行ってしまう。
そうすると更に拾いづらくなる。
それが人の心であれ、場であれ同じだ。
場の中で偶然の何かが起きる。
それはただ単に誰かがくしゃみした時に偶然ポットが音を出したとか、そんなこと。
それが何かを示していると感じたら、しっかり拾う。
拾ってもらえれば、次も出易くなる。
それが対話であり信頼関係だ。

場が応えてくれるという信頼があれば、場は助けてくれる。
僕達も場が何か言っているとき、必ず拾うことで、
言ったことはちゃんと聞いてるな、
と信頼され、次のメッセージをもらうことが出来る。

作家との関係と一緒で一方向の付き合いではない。
どちらかだけが受け続けるということはない。
響き合い、応え合う。
最終的には何処までがどっちなのか分ちがたいほど深く対話して行く訳だ。
改めて言うが、僕の言う対話は言葉のことではない。

フィッシュマンズの「男達の分かれ」を聴いている。
最後の頃のライヴだけど、彼らのどのCDより好きだ。
はかなさや切なさ、悲しさにみちているけれど、本当のところに触れていると思う。
どんなに辛くても、感じないより感じた方が良い。
その先にきっともっと美しいものが見えて来るから。

2014年7月5日土曜日

場そのものが作品

さて、土曜日のアトリエ。
この1、3週目の土曜日のクラスは午前、午後ともににぎやかなクラスだ。
こういうエネルギーの強いクラスの場合、前半の1時間が重要だ。
制作にも勢いがある。
今日は雨かもしれないが、暑くないので描く環境としては良い。

先週ゆうすけ君が描いた作品が一週間経って、色も大分落ち着いた。
素晴らしい作品だ。これまで見て来たのともまた違う。
一枚の絵の持つ力の凄さを感じさせる。

前回は入魂の作品だったので、普段2枚描く彼も1枚にした。
100枚分の内容だ。勿論、数では語れないが。

前にも書いているが、さとし君やゆうすけ君の作品は特に、
出来たばかりの数時間が一番美しい。
その状態を残せないのは残念だが、しかしそれは制作の場が残せないのと同じ。
それぞれの時間は消え去った訳ではなく、こころの中に刻まれていく。

確かに色のトーンが落ちるという部分も大きいが、
それ以上に彼らの場合、その場、その場の風景に融合して描いている。
季節や天気や、外の光との関係。作家達同士やスタッフのこころの動き。
描き始めの時間と終わりまでのプロセスでの変化。
それら全ての中で、調和して行く。
その結果、その場に最も合った作品が、
その日、その瞬間に最も光る作品が生まれる。
だから、当然出来上がった時がその作品が最も輝く時だ。
それはやはり音楽のようだ。
もう一つ言うなら、出来上がった作品を切り取って見るというのは、
CDで音楽を聴くようなもの。
良い悪いではなくちょっと別のものだ。
色を塗り重ねているうちに、外の景色が薄暗くなって行き、
対応するように光の度合いを強めて行く。
出来た瞬間、薄暗い景色の中で荘厳に輝く色彩が、ぴたっと決まる。
逆に霧のような景色の中で、淡いぼかしたような色が重なり、
徐々に外の景色に光が射して来たその時に、作品が完成される。
外からの光に照らされ、淡い色の作品が景色の中に溶け込む。
まるでその光から自然に生み出された色のように。

よく現場を見に来る方が、セッションを見ているようだ、
と仰るが全くその通りだ。

場というものは、絶えず輝こうとしているし、
そこに入った個人も場の中での自分の最適な位置に行こうとする。
ここには偶然と言う要素も入り、その偶然を一人一人がどう扱って行くのか、
そして、流れや空気をそれぞれが感じ、互いを活かし合う。
音楽でいえば、相手の音を良く聴いて自分の音を出す。
言葉を使わないところでの対話が大切になって来る。

外の音、響き、庭の色の変化、筆の動き、言葉、それぞれが活かし合う。
ある意味で言うなら、一瞬の隙もない。
その一瞬が全体の中での大切な要素になって来るから。
さらにいうなら、何処まで拾うことが出来るのか、と言うことでもある。

そうやってその日の場という作品をみんなで創って行く。
いつも場について書くが、場というのは実態として存在している訳ではない。
その瞬間瞬間に、一人一人の気づきによって創りあげて行くものだ。

今度の展覧会は「楽園としての芸術」つまりは芸術的な環境とも言える。
これを制作の場に限って言うなら作品としての場と言えるし、
同じことになるだろうが、作家達は作品のみならず、生き方も美しい。
(もし様々な環境での無理がなく、本来の状態が保てるならば。)

今日も良い場を。


2014年7月4日金曜日

マーラー

この前のプレの日、イサとみんなが楽しそうに過ごしている中で、
僕はソファで休んでいたらそのまま寝てしまった。
次の日、ハルコさんが折り紙でソファを作ってくれて、
「はい。サクマさん、これで寝ていいよ」と言ってくれる。
言葉にすると、やさしいなあ、ということだが、もっと深い部分もあって。
とにかく、こういうの良いでしょう。

よく浅いとか深いと書いてしまうけど、
別に深くなければならない、という意味ではない。

ただ事実として深い部分をいっぱい見て行くことが、僕達に要求されている。

物事が良いか悪いかで出来ていたら、こうすればこうなるで出来ていたら、
分かり易いし単純で良い。
でも、ほとんどのことはそうはなっていない。

複雑で情報量も多くて、混沌としている。
そんな現実を見ていると疲れるから、多くの人は単純化して考える。

この前の朝、玄関から男の子の声がして、
雨がどうとか言っている。
時々、こんにちはとか。
声がゆうたに似ているので、あれ、ゆうたかな、どうして東京に?
と思って覗くと、オウムが立っていた。
オウムがこんにちは、という。
言葉までしゃべるのだから、飼い主がいるはずだ。
保護しておきたかったが、すぐに飛んで行ってしまった。

あれだって一体何を示していたのだろうか。

喜びと悲しみが全く別のものだったら、ただ喜びだけを探せば良いだろう。

人の生にはもっと言い表せないほど深い何かがある。
深い部分から逃げたいと言う気持ちと、そこに触れてみたいと言う気持ち、
人にはその両方がある。

美と言うものにしても、ただ美しいだけではない。

ずっと昔、一枚の写真に衝撃をうけた。
僕が最も苦手なものは血だ。見ただけでクラクラしてしまう。
その写真はどこかの神社の儀式を撮っている。
無数の兎と鹿が首を切られて、並んでいる。
生け贄なのだが、想像以上の数だ。
他にも色んな儀礼の道具が並んでいただろうか。
白装束を着た人達が並んでいる。
ゾッとして鳥肌が立った。残酷さも感じた。
だが、それと全く同時に何とも言えない感動があった。
そこには確かに美が存在していた。

ああいう突き上げて来るような感情を何と表現したら良いだろうか。

全く言葉が触れ得ない、あるいは全く何の手がかりもない領域。
論理的には絶対に分析出来ない世界。
そういうものが僕達の根本にはあって、みんな扱いかねている。
でも、どこかでそれに触れなければ、充実感もないことは知っている。

この話はしたくない。本当は。
恩師の信さんの長男が亡くなったころ、
僕は内部に過激すぎる感情を抱えていて、どうすることも出来なかった。
最初で最後の精神的危機に直面していた。
10日間くらいだろうか、いろんなところを逃げ回っていた。
東京で友達の家に行った。そこで本当に小さな音でなっていた音楽。
美しかった。救われたと思った。
あんなに美しいものに触れたことはない。

ならば本当の美に触れる経験は、悲しみや痛ましさや絶望と無縁ではないだろう。

夜、レナードバースタインとイスラエルフィルハーモニーのマーラー9番を聴く。
(最後の第4楽章)
途轍もなく美しく、はかなく、悲しく、痛ましく、そして慈愛に満ちている。
凄いと言うか凄まじい。
掘って掘って、抉って、何処までも深いところに触れようとしている。
いつでも聴くような、また聴こえるような演奏ではない。
音楽でしか表現出来ない、語れない生の深淵に連れられていく。

バーンスタインは実はあまり好きではなかった。
芸術家に必要な厳しさが足りないと思っていた。
もっと自己を律するべきなのではないかと。
でも、この演奏は全く別次元で、それもバーンスタインでなければ出来ないだろう。

時にはこういう深いところまで行かなければならない、と思う。
そして、どれほどそこに痛ましさがあるにせよ、
最後のところでの本当の意味の肯定が、愛がそこにある。
生命は美しいのだと感じる。

逃げずに直視することも大切だ。

それにしても、
世の中で美しいとか楽しいとか言っているものとの次元の違いに驚く。
こういうものもあると言うことを知るのは、
間違いなく素晴らしい経験であると言い切ることは出来る。
でも、みんながみんな、そういう次元に行く必要があるのかは分からない。

良いものが必ず万人に求められるとは限らない。

浅かろうが深かろうが、少なくともお互いを否定してはならない。
良しとする基準を強制してはいけない。それは勧誘と同じだ。

ただ、僕らはどこかで本当のものを切望している。
そしてそこに触れるような深い何かを生み出すことは可能だ。

2014年7月3日木曜日

生き方

霧の中から見える光。
強くなったり弱くなったり。

いつからこの感覚を憶えたのか、もう思い出すことも出来ない。

創造性の源に入って行く時、他では得られない不思議な感覚になる。

昨日は夜、アトリエを応援してくれている、しとみ君と会っていっぱい話した。

話しながら、ああ、あの時の感触と言うか、
雰囲気と言うかそこがなかなか伝わりづらいところなんだろうな、と思った。

良い悪いではないと、最近は感じる。

入って行く時の感覚。
自分が消え入りそうな。

福祉領域の人達ばかりでなく、多くの人は障害を持つ人に接する場面で、
意識的にせよ、無意識的にせよ、上から目線を外すことが出来ない。
これは正義を主張している人達でもそうだ。

そこから見えているものと、僕達の見ているものとはまるで別のものだ。

例えて言ってみれば、こういうことだ。
自分のこととして考えてみれば分かると思うが、
内面の奥深くとか、裸の自分なんてものを人前にさらせるだろうか。
僕の場合で言えば、相手にそれをしてもらわなければならない状況にいつもいる。
だから、自分が正しいとか正義とか、助けてあげようでは、その先には行けない。
むしろ、本当に奥深くまで行く時には、申し訳ないような、
あるいは自分なんかが居てはいけないような気持ちで居る。
だからこそ、中に入れてもらえる。
ノックもせずにぱっと戸を開けようとする人が居るから、カギが閉められる。

本来は誰にも見せないような、もっと言えば自分自身でさえも普段は見ないような、
そんな領域まで一緒に歩いてくれる人達を裏切ることなど出来ない。

静かにそっと、そこに何があり、何が動こうとしているのかを見ようとする。
いいよ、おいで、見せてあげる、と言ってもらえたら、
ゆっくりついて行く。
ほら、もっと先まであるよ。
ここの扉も開けてあげるね、そういうことを言ってもらう。

あるいは、その味も分かるの?だったらもっと美味しいのもあるよ。
あ、もうこのワインも開けちゃおうか。
そんな風にまでしてもらう訳だ。

だから、そんなところまで連れてってもらうためには、
振る舞い方から、気づき方から、色んなものが必要になる。

大切なのはそのセンスなのだと思う。構えと言うか。

毎回、書くことだけど、多くの人は見えているものが全てだと思っているから。
それが全てだったら、感じる必要が無くなる。
だから感じようとしなくなるし、感じなくなる。
僕にとっては見えているものとは、奥にあるものを表す何かだ。
制作の場、創造性、人のこころは特にそうだけど、
何もそればかりではなく世界全体がそういうものなのだと思っている。
言い換えれば、世界観の問題かもしれない。

そこに見えているものしか存在しないと考えるか、
全ては何かを表しているし、何かを語っているものとして、
読み取ろう、感じとろうとし続けるか。
そこに対話があるし、そこにコミニケーションがある。
生きるとは世界と対話することだと思う。

何だって、何かを語りかけて来る。

絶えず、開いていて、感じていて、対話しているか。
今日も生きているか。

制作の場は特殊なものではなく、そういう生き方そのものだと思う。

2014年7月2日水曜日

夜の散歩

昨日はプレの時間はみんなと居て、ちょっと休んだ。
夕方からパソコンでの打ち込みの仕事をしていてたので、
身体が硬くなるし、眼も頭も疲れた。
一日暑かった。

夜は冷たい空気が戻って来て雨も降らなかったので散歩する。
闇は良いのに街頭が明るすぎる。

暗闇を歩き続けるのは気持ち良いし、感覚が研ぎ澄まされて行く。
色んなことが感じられ、色んなことが見えて来る。

この前、5分間ほどだけ見えたピンク色の光について書いた。
そして忘れていた。
前回のアトリエである作家が黄色い太陽のようなのを描いたので、
「朝日か、夕日?」と聞くと、「ほら、昨日見たやつ。光」
「ええー、あれのこと」「そうあれだよ」
ほとんどは言葉以外のところで対話している。

2駅分ほど歩いて戻って来ると近所の大きな木が闇の中でそびえ立っている。
勿論、いつもそこにあるのだけれど、
今はひときわ存在感があって、何かを伝えて来ているように感じる。
この木ってこうやって見ているより、本当は大きいのかも、と思う。
そして下から見上げると、本当にどんどん大きくなって行く。
ほとんど夜空に届きそうなくらいに。
大きさって客観的に存在しているのだろうか。
急にその巨大さが迫って来て、なんだか途方もない感覚の中で、
僕は一人見上げていた。

ああ、以前に見上げた瞬間に、
何処までも大きさがクローズアップする木の夢のことを書いたっけ。

ダウン症の人たちと出会ってからのこと。
彼らと続く日々のことはこれまで書いたり語ったりして来た。
その前に10代の頃の経験があって、
僕にとってそれは言葉にするのに随分時間を要する記憶だった。
未だに語れないところもある。

部屋の片付けをしていてメモ帳が出て来た。
何度か信州時代の経験を書いてみたことがあった。
色々やってみて、難しいな、という結論に至ってやめてしまった。
その頃、これは小説にでもすれば少しは書けるかもと思って、
数パターンの文章を書いた。全部繋げるつもりで、どれも断片的なものだ。
それらの断片は書いた時期も場所もまちまちで、
もはやどこに行ったのかも分からない。

見つかったメモ帳はわずか10ページ分ほどだけど、
もう恥ずかしいと言う繊細な感情も失っているので、
懐かしないあと、読んでしまった。

実際に書かれているエピソードより、暗示しているものが僕の記憶を刺激する。

主人公の一人、りえの独白の場面。

「私は誰もいなくなった森の中で一人でタバコを吸い続けた。もうここにはあの時あった大切なもの全てが無くなっている。それなのにこの森はここにある。また、私は車を走らせる。結局、みんな真面目過ぎた。だから誰も残れなかった。今、私だけがここに居る。私の不真面目さにも意味がある。」

「私の前からみんなが居なくなって、それまで分ちがたく結びつき、染み付いてしまっていたものからやっと自由になって、ようやく自分の身体で見たり聞いたり出来る日々がやって来て数年が過ぎた。そしてひさおが死んだ時、あの日々をめぐる様々な断片の最後のひとかけらまでが失われ、みんなと見て来たすべてがこの世界から消えて行った。私達が過ごして来たあの山の中でのこと。私だけが残され、何を思い出すべきなのだろう」

こんな場面がいくつかメモされていて、書いてあることより、
書こうとしていたいろんなことが懐かしかった。
言葉に少し刺激されて、もう一度、外へ出た。

夜に佇むあの大きな木が無限のように見える。

まだまだこれから続いて行くことだし、振り返る必要もないだろう。
制作の場にもっともっと立ち続けたら、今度は何が見えて来るのだろう。

2014年7月1日火曜日

この先の10年

いやー、暑いですねえ。
湿気も多いので金沢を思い出します。

プレでのみんなを見ていても、こういう日は身体の動かし方が省エネモード。
元気がない訳ではなく、上手だなあ、と思う。

先の話をしてもなんだけれど、秋頃までに今後のことを含めて、
アトリエの向かうべき方向を内部向けに纏められれば、と思う。

まずはスタッフ達の意識の共有。
それから、参加している保護者の方達に今一度、方向性を確認して行きたい。
法的な整備も必要となって来るだろう。
ただ、ここから先は本当に自らの意思で良しとして、参加して欲しい。
スタッフも保護者の方達も含めて。
考えは様々だから、強要したくない。違う考えやスタンスがあって良いと思う。
その中でアトリエはこの考えで進める、それを良いと思う人、
同じ理想をとれる人が一緒に行けば良いと思う。
今は選択肢も多いし、更に言えば自ら新しい活動を作ることも出来る。
僕達はそんな中から、この方法を考え、選択してし、
意志を持って進めて行く集まりでありたい。

前回の絵画クラスもそうだったが、深い部分に触れて行けば行くほど、
制作の場に専念したいなあ、と思う。
そろそろ、そこは交代して行かなければ、と言う気持ちと、
まだまだ行ける、責任もある、と言う想いに揺れる。

外での意識を場に持ち込むことはない。
でも、外での仕事とのギャップは大きくなって行くばかりだ。
個人レベルで言えば、疲れるし、
何も命を削って理解されないことを続ける意味があるのか、と思う時もある。
矛盾を解消する方法はあって、それがさっき書いた場に集中して、
その後の整備や発信の仕事を他の人に委ねることだ。
そうすればもっと多くの人を見ることも出来るし。
だがなかなかそうはいかない現実がある。

まあ、どんな時でも場に立ち帰ると答えがある。
場には一人一人の意思と想いが集まっているのだから。

作家達と僕達が一緒に見ている世界が、
本当の意味で理解される日はまだまだ遠いのだろう。

でも、これまでにない新たな一歩を、
そのとき理解されずとも、確実に刻んで行けば、いずれはという想いはある。
10年前と、今とではどれほど、認識が変わって来たことか。
この変化を生み出したのはこころある活動を続けて来られた方々の、
地道な努力によってであることは忘れてはならない。
放っておいては何も変わらない。
自分のことだけを考えていては社会には伝わらない。

個人レベルでの幸せや安心だけを考えるのなら、
お金をたくさん集めて必要な物と環境を整備しておけば良いのだろう。
それだってなかなか準備するのは大変だろうが。
それにこころの問題に触れなければ、個人の幸せだって本当は分からない。

僕らはみんなのことを考えたい。
未来のことを考えたい。他の環境にいる人達や、社会全体のことも考えたい。

繋がりを創りたい。
目先のことより、本質が問われる時代が来ている。
安心も安全もままならない時代に、
真に切望されている世界観を描けなければならないと思う。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。