2014年7月10日木曜日

大切なこと

早めに仕事と用事を終わらせて、建物の中に居る。
これから台風ですね。

すっかり暗くなって風も強くなって来ました。
教室日でなくて良かったと思っています。

昨日のブログで上杉さんのことを書いた。
いろいろ思い出していて、一つだけ書いておきたいことがあった。
良い方だったけれど、僕が最も素敵だなと感じたのは打算のなさだった。
シンプルなことだけどこれは大切なことだ。

たとえ稚拙であれ、多くの失敗を重ねようと、
最後のところでは損得勘定を離れた姿勢に人は清々しさを感じる。

世の中はお金がベースになっている以上は、
善意の人がなかなか上手くいかない仕組みになっている。
お金自体が悪い訳ではないが、お金というものは人の醜さを引き出す。
こういう仕組みではずるい人ほど成功することになる。
だから何も成功者が良い訳ではない。

昔から、理想を語ると実現出来るのかなあ、と反応する人が多い。
こういう人達は実現出来るかどうかだけを考える。
実現出来ないことに労力を費やすのは無駄だから、損だからだ。
始めから失敗しないようなことを選んで動く。
世の中では賢いと言われる人達だ。
僕はこの賢いという言葉をずるい、汚いと置き換えたい。
自分がそこから無縁だといういう訳ではない。
誰しもがそういうずるさや汚らしさを持つからこそ、
そうでないようにしたいし、人のそう言う部分が引き出されない環境を創りたい。

損したくない、得をしたいという感情がどれだけ醜いものか、自覚を持つべきだ。

場において自分を顧みないという姿勢だけが、仲間達のこころをうつ。

上杉さんの他にもう一人思い出す人がいる。
以前、イニシャルでこのブログに書かせて頂いた方だ。
僕より10才位上の方だろう。
本当に短い間だけど一緒に仕事をしたことがある。
孤児院のようなところにいる子供達と合宿をした時だ。
このとき、彼と2人で数日間、僕の言葉でいえば一緒に場に入った。

最初は子供達とサッカーをしているところだったか、
彼がみんなの笑い者になっていて、それを楽しんでいるのが分かった。
そしてその場はどんどん輝きだした。
彼は重要なタイミングを見極めると、自分のダメな部分を曝して、
みんなに笑われながら、一人一人が人のどんな部分も肯定出来る雰囲気を創っていた。

その場面を見ながら、場を知っているな、と僕は思った。
それが分かる人はこれまで数人しか出会っていない。

彼は自分を捨てることなんて平気で出来たし、
いつでも喜んで損する気持ちがあった。

僕らはすぐに意気投合した。

そういう人と場に入ると本当に楽しい。
一緒に投げ合って行くと共に音楽を奏でて行くようだ。

場においては一番エネルギーを使う人が一番損するように出来ている。
そこが素晴らしい。

僕らはみんなとコミニケーションをとらなければならないが、
打算はそれをストップさせてしまう。
自分のことを考えた瞬間に繋がりが止まってしまう。
ああ、この人はここまでか、と相手をがっかりさせてしまう。
打算は深いところでの繋がりの中で一番見えてしまうところだ。
この人、自分のことを考えてるな、損したくないな、とか。
明日のことを考えるようでは良くならないのは当たり前だ。

場の中で、自分を考える人を見ていると悲しくなる。

セコいな、ずるいな、ケチだな、という人がほとんどだ。
なんでそこで全部あげないのだろう、と思う。

何もかも失っても良いという覚悟がなければ、場になど入れない。

外からどんなに出来ないレッテルを貼られていようと、
明日を考えないで場に立つ人を見ると、すぐに伝わるものがある。

生きているほとんどの時間が損か得かで出来ていたとしても、
最後のところではこんな世界を大切にしようではないか。
みんなが投げ出し合って、自分を顧みないで、人や場を見つめているとき、
そこで響き合うものの素晴らしさは言葉にできない。
これこそが生きている時間だと感じる。

少なくともそういう時間をこの世の中のどこかには、
ひっそりとでも良いから残して行きたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。