2014年7月12日土曜日

農耕と狩猟

今日もちょっと暑くなるのだろうか。

この2、4週の土曜日はどちらかと言うと集中型のメンバーが多い。
1、3週のクラスが動であるならこちらは静。
単純には言い切れないけれど。

スタッフも静かに集中して場に入る。

良い時間が流れれば驚くほどの何かが生まれて来るのも、
この土曜日の良いところだ。

2、4週の日曜日のクラスは外で色んな出来事が起きている日が多いし、
1、3週の日曜日は特に午後クラスは良く晴れた日が多い。

そう言えば、この2、4週の土曜日の午前のクラスは雨が多い。
時には嵐の中だったり。
外の喧噪をよそにみんなが凄い集中力を発揮している場面がいくつも記憶にある。

この前、テレビで長い間変わらない生活を続けているという人達が映っていた。
タレントがその生活に入って行くという番組。
いわゆる狩猟民族で、番組で見た限り何かを栽培したり蓄えたりは一切していない。
道具はほぼ槍だけで、その槍も木を歯で噛んで作る。
狩りに出て獲物を穫って、全員に平等に分けて食べる。
穫れない時は諦めて帰って来る。
ひたすらその繰り返し。
ただ、ただそれだけの毎日なのだが、見ていて良いなあ、と思う。
こういうことだよね、と思う。
彼らには家もなかった。かなり遠いところまで移動しながら狩りを続けている。

彼らはことさらに何かをしようとはしない。
自然の中での自分達の位置を分かっていて満足している。

ありのままに近い生活だろう。
何も持たず、裸で自然の中に居る。

一方で農耕のようなことはどうだろうか。
食べ物を栽培するので同じ場所に居続ける。
毎日、手をかける。
村のような共同体が出来て行く。

信州にいた頃、働いていた場所の近くにおじいさんがいて、
山の主のような人だった。
農業をずっとやって来たので何でも知っていた。
それどころか、蚕のことや炭焼きのこと、村の歴史に関わること、
本当に多くの知識と経験を持っていた。
良い米を作ろうと思ったら、毎朝、毎晩、田んぼに入れ、良く観察しなさい、
そんなことを言っていた。
実際に彼は毎日、田んぼで何かしていた。
裸足で入れば、土に何が足りないのか、今年の収量はどれくらいか、分かった。

最近も考える、日本の本当の生活をするには毎日家にいなければならない。
でも、そこから見えて来るものは果てしなく大きいと思う。
毎日、何かに手を入れて行く、維持されて行くと同時に磨かれて行く。
新しいものよりも、月日が経ったものの美しさ。

農耕的なものと狩猟的なものとまで言ってしまうとテーマが大きくなり過ぎるが、
手をかけ、日々磨かれて行く世界と、
いつでも新鮮な恵みの中にいて、裸の身体と感覚だけをたよりに、
明日を考えずに生きられる世界。

またまたテーマをこちら側によせるなら、
制作の場にもこの2つの要素が共存している。
割合で言ったら6対4、狩猟6に農耕4だろう。

磨かれて想いがこもった場に入って、こころや自然や偶然の波の中から、
輝く瞬間を穫ってくる。
感謝とともに誰が穫ったものであれ、全員で平等に分けて食べる。

日々、積み重ね、ゆっくり大切に創って行くと同時に、
ほとんど無限に見える広がりをひたすら歩き続け、本当のものを見つける。
的を外してはならないが、それ以上に的を見つける力が大事だ。

そして、どんな時も仲間の存在を忘れてはならない。
自分のために動くのではなく、みんなのために動く、これが基本中の基本だ。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。