2014年7月13日日曜日

途轍もない作品

昨日は暑かったですね。
2、4週クラスは撮影が入っていることが多いです。

昨日は午後のクラスが久しぶりに全メンバーが揃って、みんな嬉しそうだった。
最近は休みの人が結構いたから。

いつでも数名は心配な人もいる。
何もしてあげられないのだが、せめてアトリエにいる時間でちょっとでも、と思う。

そして全部のクラスがそうだが、
一人一人がさり気なく気にかけ合っている姿が素晴らしい。

ここしばらく、ゆうすけ君の作品が更なる高みに登っている。

作家にはピークというものがあって、その時期はそんなに長いものではない。
ピークを過ぎたからと言って、ただ枯れて行くばかりではなく、
色んなことが可能だ。
ピークが過ぎて行くことは別に悪いことではない。
むしろ一人一人にピークというものが与えられている、と考えた方が良い。

ピークを過ぎると、燃え盛るような新鮮さはもう戻っては来ない。

それなのに、ゆうすけ君は再びピーク時のようなところへ来ている。
これは不思議だし、凄いことだと思う。

自然にピークが終わり、落ち着いて行く分には良いのだけど、
場合によっては何か切っ掛けがあって、ガクンと落ちてしまう人がいる。
今だから言えるが彼にもそんな時期があった。
しんじ君やゆうすけ君の場合、そういう時でも作品に入る時はある程度は、
良いのが描けるという部分がある。
それと、ゆうすけ君の場合はまだ内面から見えて来るものに、
もう一度、行けるかも、という要素があった。
こういう時期は周りの認識が大切になって来るので、
リスクに気がつかない方が良い。
希望を失わないことが大切で、もっというなら楽天的なくらいで良い。

たとえ、以前のテンションまで戻らなくても、良い作品は創れるし、
幸せであることも出来る、そういう在り方を一緒に見つけることが大事だ。

どっちかな、ちょっと行けそうな気もするし、安定の方に行くかも知れないし。
そんな訳で、微妙な時期は誰にも話せないこともある。
話すと影響がでるし、考慮する要素が増えてしまうからだ。

少しでも可能性があるなら、最大限に活かしたい。
少しでも良い時間の記憶は刻みたい。
ピークの時、上れるだけ上った人はピークが過ぎても、安心感が違う。
作品は残るが、もっと大切なプロセスや場は消えて行くもの。
ただし、食べたものが消えて行くのと同じで、
その消えたものが自分の身体を作っている。

前に拾うことが大切だと書いたが、
そういう良い流れやこころの動きを拾って行くことで、
見えなくなって消えて行きそうになっている大切なものが、
再び表に現れるということがある。

ゆうすけ君の作品は奇跡のように再び燃えているが、
以前より深みも増している。
ここに来れて良かった。

これはあくまで信頼関係の上でのこととお断りしておくが、
ある時期は僕がテーマを指定することもあった。
こういうことは普段は絶対しない。
アトリエ・エレマン・プレザンにおいては、指導的な手は一切加えない。

ただ、ここが難しいところなのだが、本人の内なる声を聴き、
時にはあえて踏み込むことで、よりその人が活きてくるなら、
そこは責任を自覚した上で進めなければならない。

単純な話になるが、アニメの絵を写して描きたいと言ってくる人に対して、
一歩、じゃあ頭の中に入れて見ないで描いてみる?
それだけでも絵のみならず、こころの動き方は変わって来るし、
終わった時、本人はこうしておいて良かったと実感する。

そういう経験があるから、彼らもどう?と聞いて来るし、
滅多にないけど、こうしよっか、と僕がいう時、うんいいね、とすぐに答えてくれる。

内面の声を聴いて、信頼関係の中から生まれた作品と、
指導され、描かされた作品とは圧倒的な違いがある。
それは見れば分かることだ。

何度も書いたが、描かされた、と言っても指導されていない絵も含まれる。
その場にある雰囲気や、言葉を発しなくてもいる人の目線、
描かせる、強要する要素は無限にある。

そんなことはともかく、
ゆうすけ君の作品は凄いです。
これこそ絵でしか表現出来ないなにものか。
言葉を超えた感覚の世界であると同時に、普遍に達している。
奥深い内面の世界であると同時に、どこかこの宇宙のようだ。
そこには内も外もない。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。