2014年7月2日水曜日

夜の散歩

昨日はプレの時間はみんなと居て、ちょっと休んだ。
夕方からパソコンでの打ち込みの仕事をしていてたので、
身体が硬くなるし、眼も頭も疲れた。
一日暑かった。

夜は冷たい空気が戻って来て雨も降らなかったので散歩する。
闇は良いのに街頭が明るすぎる。

暗闇を歩き続けるのは気持ち良いし、感覚が研ぎ澄まされて行く。
色んなことが感じられ、色んなことが見えて来る。

この前、5分間ほどだけ見えたピンク色の光について書いた。
そして忘れていた。
前回のアトリエである作家が黄色い太陽のようなのを描いたので、
「朝日か、夕日?」と聞くと、「ほら、昨日見たやつ。光」
「ええー、あれのこと」「そうあれだよ」
ほとんどは言葉以外のところで対話している。

2駅分ほど歩いて戻って来ると近所の大きな木が闇の中でそびえ立っている。
勿論、いつもそこにあるのだけれど、
今はひときわ存在感があって、何かを伝えて来ているように感じる。
この木ってこうやって見ているより、本当は大きいのかも、と思う。
そして下から見上げると、本当にどんどん大きくなって行く。
ほとんど夜空に届きそうなくらいに。
大きさって客観的に存在しているのだろうか。
急にその巨大さが迫って来て、なんだか途方もない感覚の中で、
僕は一人見上げていた。

ああ、以前に見上げた瞬間に、
何処までも大きさがクローズアップする木の夢のことを書いたっけ。

ダウン症の人たちと出会ってからのこと。
彼らと続く日々のことはこれまで書いたり語ったりして来た。
その前に10代の頃の経験があって、
僕にとってそれは言葉にするのに随分時間を要する記憶だった。
未だに語れないところもある。

部屋の片付けをしていてメモ帳が出て来た。
何度か信州時代の経験を書いてみたことがあった。
色々やってみて、難しいな、という結論に至ってやめてしまった。
その頃、これは小説にでもすれば少しは書けるかもと思って、
数パターンの文章を書いた。全部繋げるつもりで、どれも断片的なものだ。
それらの断片は書いた時期も場所もまちまちで、
もはやどこに行ったのかも分からない。

見つかったメモ帳はわずか10ページ分ほどだけど、
もう恥ずかしいと言う繊細な感情も失っているので、
懐かしないあと、読んでしまった。

実際に書かれているエピソードより、暗示しているものが僕の記憶を刺激する。

主人公の一人、りえの独白の場面。

「私は誰もいなくなった森の中で一人でタバコを吸い続けた。もうここにはあの時あった大切なもの全てが無くなっている。それなのにこの森はここにある。また、私は車を走らせる。結局、みんな真面目過ぎた。だから誰も残れなかった。今、私だけがここに居る。私の不真面目さにも意味がある。」

「私の前からみんなが居なくなって、それまで分ちがたく結びつき、染み付いてしまっていたものからやっと自由になって、ようやく自分の身体で見たり聞いたり出来る日々がやって来て数年が過ぎた。そしてひさおが死んだ時、あの日々をめぐる様々な断片の最後のひとかけらまでが失われ、みんなと見て来たすべてがこの世界から消えて行った。私達が過ごして来たあの山の中でのこと。私だけが残され、何を思い出すべきなのだろう」

こんな場面がいくつかメモされていて、書いてあることより、
書こうとしていたいろんなことが懐かしかった。
言葉に少し刺激されて、もう一度、外へ出た。

夜に佇むあの大きな木が無限のように見える。

まだまだこれから続いて行くことだし、振り返る必要もないだろう。
制作の場にもっともっと立ち続けたら、今度は何が見えて来るのだろう。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。