2014年10月31日金曜日

命の輝き

ここ数日、何度か燃えるような夕焼けに遭遇した。
と、書いてみてそうか、そもそも夕焼けって夕が焼けると書くのか、と気がつく。

最近、言葉が安くなったと思う。
思ったことを何でも書くという人も多い。

そんな中でどんな言葉を紡いで行ったら良いのか、と考えさせられる。

社会情勢を見ていても、いや、つまり今というこの場面を見ていて、
本当に今言わなければいけないこと、
書かなければならないことはもっと別のことなのだという思いがある。

ただ、僕にはそれを発信するだけの力はない。

だからこそ、自分の仕事の中で答えて行かなければ、という思いが強い。

ここ1、2年、断続的に制作の場に撮影が入っている。
先日、監督からこれまでのサンプルを少し見せて頂いた。

映像に対して否定的な見解を持って来た僕だけど、
そこには確実に何かが映っているような気がした。
一言で言えば可能性を感じた。

東京都美術館でのあの素晴らしい展示にしても、
学芸員の中原さんとの対話だったと思っている。

僕達は仕事を通して対話する。
それぞれが形で示して来る。そこにこちらも形で返す。
それが相手への敬意の示し方の唯一の方法だと思っている。

何度も書くが制作の場において、インチキは通用しない。
全て形となって現れるものだ。
作家達は必ず形で示して来る。
これに形で答えて行かなければ、すぐになんだ、つまらないな、でおしまいだ。

今の社会の中でどのように、振る舞うべきか、それは突きつけられた問いでもある。

作家達と付き合っていて、作品だけではなく、凄いもの出して来たなあ、
ということが沢山ある。
真っ正面から受けて、それをどうするのか。
そこが大切だ。

場に立っていて、これまで以上に自分の人生を感じることが増えて来た。

ただ見ていただけで感動したと言ってくれる人がいる。
作家達の姿にもスタッフの姿にも、見た人の心を打つものがある。
また、場とはそういうものでなければいけないと思っている。

絵でも、映画でも音楽でも、本でも、何でもいいから、
圧倒的なものに触れる経験を積んで行く。
その経験が僕達を助けてくれる。

美しいものというのははかり知れないものだ。
ちょっと良い、何となく心地良いといった程度のものではない。
これ以外にあり得ない、これしかないと感じるような圧倒的な世界。
そういうものにこそ出会う努力をしていくこと。

これまでの経験が全部吹っ飛んでしまって、
ああ、この今のためにだけ全てはあったのだ、と思えるような。
もっと言えば危ないことかも知れないが、
これ以外の全てはとるに足らないどうでも良いことなのだとさえ思えるような。
そんな瞬間を経験すること。

だから、そこまで行かないような、絵や映画や音楽をあるいは文章を、
どれだけの数を集めてもくだらないおままごとにすぎない。

こんなことを書いているのも、
久しぶりにCDでサンソンフランソワのピアノを聴いていて、
その影響があるかも知れない。
フランソワもタイプとしてはあんまり好きではなかった。
最近また惹かれるようになって来て不思議だ。

フランソワの演奏を一言で言えば、豊穣さであり過剰さであると思う。
ある意味でやり過ぎ。
でもそこにこそ惹かれている。
思えば制御が行き届き過ぎて、小さく小さく生きている現代の人間。
あまりにチープでちゃちな表現と生き方だらけ。
こんな時だからフランソワに魅力を感じるのかも知れない。

あれだけのテクニックがあれば、しっかりコントロールして、
練習もして構成もちゃんとつくれば、
誰しもが認める非のうちどころのない演奏が出来ただろう。
でもそこじゃないというところがフランソワの素晴らしさだろう。

壊れても崩れても、一瞬輝く何かの方がよっぽど大切だという感性。
立川談志だって、恐ろしい位、落語が上手い。
でも上手さを超えた何か言うに言えない世界を表現出来てこそ、
という思いがあの芸をつくっていた。

フランソワは破滅型の天才の典型的な例だったから、
破綻した生活が若死にの原因になったのは間違いないだろう。
それでも才能に溺れて甘えている芸術家とは一線を画している。
どこが違うか。圧倒的な何かを形に出来ているかどうかだろう。
あの演奏の前では破綻もなにもない。
悲劇とか不幸とか、そういうものを無化してしまう輝きがある。
あの音楽の前で幸福とか不幸とか、早死にとか長生きとか、
そんな価値観が通用しようがない。

一瞬の美の前にすべてを犠牲にしたとも言えるが、
その美はあまりにも圧倒的なものだった。

この前では他のものは無価値に見える、というだけの何か。
過剰と言ったのはそういうことで、談志の落語にもそういう瞬間があった。

好きな映画の話をするとその人がどんな人か分かってくる。
例えばフェリーニの作品で何が一番好きか、
「道」なのか「8 1/2」なのか。
僕なら迷わず「甘い生活」を選ぶだろう。
フランソワのように豊穣さ過剰さに溢れた作品。
多分古びることはないだろう。
虚しさ痛ましさ、儚さ切なさ、救いようのなさ、それ故にひときわ輝く瞬間。
風景、リズムとテンポ、疾走感、目がくらむほどの美しさ。

この瞬間のためにこそ全てがあったかのような、輝く時。

確かに普通に生きて行くためには、
様々なことでセーブをかけて行くしかないだろう。

でも、時には、この世界はもっともっと凄いものだということを思い出したい。

僕自身はどんな世の中になろうとも、
場に立つ以上はどこまでも輝く瞬間と、
どこまでも深く進む覚悟を持ち続けたい。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。