2015年12月25日金曜日

最終回

みなさん、メリークリスマス。
大きな大きな月が夜空に輝いている。

明日、明後日の土日のクラスが今年最後となる。
良い場になりますように。

さて、これでこのブログもおしまいです。
長い間、本当に有り難う御座いました。
大切に想って下さっていた方々、惜しんで下さった方、有り難うございます。

みなさんと出会えたこと、嬉しかったです。
例え離れていても素晴らしい時間を共有してきました。

ここに書いて来た全ての瞬間を全力で生きて来ました。
それらの場面は一つ一つが掛け替えのないものとして、
今も生き続けています。

作家達とスタッフが集まり、周りが大切にする思いを持つことで、
「場」と言うものが生まれます。

場から見える景色、場が僕達に見せてくれるもの、
連れて行ってくれた場所。
その時間は特別なもの。
そこから見える美しい景色を共有することが目的で書いて来ました。

もう多くは語る必要は無いと思っています。

場はたった一つのことを教えてくれました。
全ての存在するもの、人も出来事も、風景も、ここにある全部。
すべてはあるべくしてあって、必要な場所にあって、
そして輝いている、ということ。
今、そのように見えなくとも。
混沌と闇と破壊にしか見えなくとも。
苦しみの中にいようとも。

普段、僕達が見ているもの、見えている世界は、
表面的な上澄みの部分に過ぎない。
場は一つ一つの服を剥ぎ取って裸にしてくれる。

見えている世界、生きている世界、目の前の景色。
その奥の奥を見て行く。
そうするとそこには本当の光に満ちた美しい景色がある。

それを見るためにこそ僕達は生きているし、
それを深く味わうために、認識するために生まれて来たのだ。

場が教えてくれているのはこのことだけだ。

作品も人の心も、表面に現れて来る動きを通して、
その奥へ奥へ入って行こうとする。全身で感じようとする。
深く深く入って行く時、僕達は一つの動きになる。
場が示す最後の場所に立った時、僕達はすべてを見ている。
この世界のすべて。

何もかもが愛おしい。なにもかもが完璧で、何もかもが輝いている。
僕達はただただ、その場所に佇む。
言葉も時間も何も無い。そしてすべてがある。
得るものも失うものも存在していない。

これからも状況が許す限りは場に立つことだろう。
みんなと生きている喜びを分かち合って行きたい。

これで終わりです。

これから、更に良い場とそして活動を展開して行きたいと考えています。

そして、こういう形で定期的に書くことはありませんが、
何かお伝えする必要があることがあれば、その都度書くつもりです。

時々はそういう更新があるかも知れません。
こういう形で内面のことを現場以外で深く追求することは、
今後は無いかも、と思っています。どこかで形を変えてなら別ですが。
そんな意味でもこのようなテーマをこれまで書かせてもらえて、
本当に良かったと思いますし、熱心に読んで頂いて感謝しています。

みなさん、どうかお元気で。
良い意思を持つことで繋がり続けて下さい。

とんでもない時代が待っていると思います。
これから危機と困難は更に大きくなって行くだろうし、
それこそ滅びるかどうか、というところまで来ているのだと感じます。

それでも希望を失わずに、全力で生きて行きましょう。
場が見せてくれる景色、ここで描写して来たようなものから、
もし少しでも何かを感じて頂けるのであれば、
その景色、その感覚を時々思い出して下さい。
どんな状況の中でも究極のところでは僕達みんな幸せで、
もっと深くでは世界の全てが輝いているのだということを、
ほんの少しでも感じられれば、どんなに豊かになれることか。

あの場所に立っている安心感を思い出して下さい。
記憶が助けてくれると言う場面もあります。

ここで共有出来たことをお互いに大切にして行きましょう。

さようなら。
またどこかできっとお会いしましょうね。

皆さん、本当に有り難う御座いました。
これからもアトリエ・エレマン・プレザンの活動を応援して下さい。
皆様にとっても希望に繋がる展開をしていきたいと思っております。

これからもどうぞ宜しくお願い致します。

2015年12月24日木曜日

クリスマス

今日はクリスマスイヴ。
雪でも降るのではと思っていたのだけど、朝から穏やかな気候。
昨日はあんなに寒かったのに。

去年はどんなだったかなあ、と思い出そうとしても思い出せない。

記念日みたいな日は好きではなかったけれど、
最近はそう言うのあった方が良いと思っている。

幸せを感じることが出来たり、
もっと大事なことは人の幸せを願う日になれば。

東京では僕は一人だけれど、いつでも繋がりを実感出来る。

さて、今年も本当にもう終わってしまう。
このブログも次が最終回となります。

色んなこと書いて来たなあ。

人の心にも場にも終わりと言うものは無い。
そして限界もない。
だからこのブログではそのほんの入り口に触れたに過ぎない。
そこから先は感じる世界。実感と共に生きる世界。

昨日、映画「アラヤシキの住人たち」のトークに、
畏友井上宗高が舞台に上がったので、応援に行った。
みんなで飲みに行ったが気がつけば途方も無い時間話していた。
時を忘れるとはこのこと。
あの映画の中で一番好きなシーンはラストと言うか、ラストの一歩前。
何でも無い景色だ。アイスが溶けてしまうから誰が食べるのか、
と語り合っているところ。みんなが居るということ以外に何も無い景色。
でもただそこにみんなが居る景色が愛おしく奇麗だと思える場面。

同じ景色の中に居た事もあった。

何も変わらない部分と、大きく変わってしまった部分。

金沢にも帰っていない。

滋賀に居た時、色んな場所から琵琶湖を見た。
僕には帰りの電車の素朴な景色の方がよっぽど奇麗だった。
もう使われなくなった旅館を寮にして、僕らは4人くらいで生活した。
京都まで友達の車で走ったり。

サラリーマンだった人が一度一緒に働くことになって、
食堂で一緒にご飯を食べた。
それぞれのラインに戻る時、「腹一杯になったかい?」と彼が呟いた。
悲壮感が漂っていた。

僕はいつでも楽しかった。どんな条件でも肯定して行けた。

石川には海も森も山も川も、そして街もある。
寒い冬と暑い夏。

小谷村に水害があった頃、あれから1年は北陸へ向かうバスが出ていて、
電車が通れないので臨時でだったか。
崖の間を通る凄い道だった。

祖母が亡くなった日の北陸の雷も思い出す。
電車は新潟から豪雪地帯をなかなか進めず、半日かけて金沢へ。
寒かった。雪と雷。強い風。

そっと特別な景色を見せてくれた人達がいる。
その人達が居なかったら現場などやってはいなかったと思う。

それから一人一人のこころの中を一緒に生きて行くことにした。
だからここには境界は無いし、もっというなら時間もない。
時間がないから無限だ。そこに入ったらそこにずっといる。

もう説明なんてしなくていい。
場には理屈なんてないのだから。
理屈は全て時間で出来ている。言葉も時間で出来ている。
時間は限界が設定されている。

時間が消えて、無限が顔を出す。
場はそこを見続けよと、そこを生き続けよと言っている。

生の深淵。
これまで見たどんな景色も、これから見ることになるどんな世界も、
すでにこの場にあって、無限に包まれている。

僕が産まれたあの消毒の匂いのする家。
天狗の大きなお面を見て角を曲がった一軒家。
それから祖父と祖母がいた映画館の前の家。
僕は今でもずっとあそこにいて、そして2015年の東京の冬。
ここにもいる。
遥か彼方からずっと見ている視線。
人生の始まりから、終わりまで。
そしてこの世界の始まりから終わりまで。
遥か彼方から、見渡す視線。
それは自分自身のものでもある。

あんなに辛いことの連続だった人達も、今は穏やかに微笑んでいる。

今いる場所が何処なのか、これが何なのか、いつか思い出すよ、と
遥か彼方からの声が聞こえる。

この世界は途方も無い。
無限に抱かれて、そこで立っていればそれで良い。

どんな状況の中にいる人も、例えひと時でも幸せを感じられますように。
ハッピーであれる人は、この瞬間に喜びを噛み締めよう。

こころの奥にある時間の無い場所では、全てが完成されているのだから。

2015年12月21日月曜日

もうすぐ最終回

1、3週日曜午後クラスの方達、
毎年恒例のケーキの会をご一緒出来なくてごめんなさい。
僕も楽しみな時間だったのですが。

1、3週、土、日曜クラスの皆様、今年は最後に居なくてごめんなさい。
制作の時間を大切にして頂いて、いつも本当に有り難うございます。
良いお年をお迎え下さい。

日本橋の三重テラスでの企画、
素晴らしい展示となっております。
是非ご覧下さい。
どれだけ見続けても感動が薄れるどころか、深まって行きます。
本当に美しい作品達。

日曜日、ファッションジャーナリストの生駒芳子さんとトークを行いました。
素敵で楽しい時間でした。
根本のところが純粋な方だとすぐに感じたので、
お話ししていて気持ち良かったです。

充実した内容になったと思います。
トークが良かったと多くの方に言って頂きましたが、
生駒さんと皆さんのピュアさに感謝です。
都美術館の中原さん、うおがし銘茶の葉さんを始め、大好きな人達、
大切な方達が来て下さったことも嬉しかったです。

本当はまだまだ書きたいこともあり、
そして今だからこそ見えて来たこともあります。
さまざまな場や経験が去来しています。
でもそれはまたいつかどこかで。
時間を考えると、近い内に最終回を書かなければなりません。

もう終わりなのか、と。

展示の初日に来て下さった方が居た。
数年前、講演を聴いて下さって、それからこのブログをずっと読んできて
くれたと言う。もう終わりなんですね。残念です。ずっと楽しみにしていました。
そう仰って下さいました。
このページを離れた場所から大切にして下さった方達がいます。

ここに書いて来たように、自分のこころを良く見て、
人と世界を大切に、奥深くに進む気持ちがあれば、
僕達は何処にいようとも繋がっていることが出来ます。

これからも、一緒に大切にして行きましょう。

関東の方はもしお時間が許すなら、作品をご覧になって下さい。
どんな言葉より、こころの深くに届くものがあります。
そして人間は本来素晴らしい存在なのだと気づかせてくれます。

寒いですね。
皆様、お身体お気をつけ下さい。
元気でいて下さいね。

2015年12月18日金曜日

明日19日より

今日はグンと冷え込んだ。

さて、いよいよ明日から三重テラスでの展示がスタートです。
お忙しい時期かと思いますが1月7日までありますので、
お時間のある方は是非お越し下さい。

8点の作品はもう選んであるのだけど、緊張している。
今回は準備期間も少なく、そして当日まで搬入を行えないので少し不安。
前回の土、日曜の制作の場が良くて、そこで生まれた数点は、
本当は今回に相応しかったのだけど、残念ながら断念した。
乾燥の時間が必要なことと、一点入れ替えると、
全部組み直す必要が出て来てしまうこと。

作品自体はクオリティの高いものばかりで、そこには確信はあるのだけど、
いざ会場で並べてみて、上手く呼吸して馴染んでくれるか、というところ。

展示構成する時間は短い。

それでもきっときっと作品達は輝いてくれると思います。

初めて作品と出会う方も多いと思います。
楽しみにして下さい。
きっと素敵な世界にご案内出来ると思います。
あえて説明的なものは一切入れないことにしました。
絵から直接感じて頂きたいと願っています。

僕も三重テラスでまた新たに作品達に出会えることが楽しみです。

今年はスケジュールが厳しくお会い出来なかった方がたくさん居ます。
可能な日はなるべく会場に居ようと思いますので、お会い出来ると嬉しいです。

宜しくお願い致します。

2015年12月16日水曜日

僕達の中に

あまり寒くならないのは有り難いけれど、
何だか変な天気が続いている。

年末の仕事に追われ、やるべきことで出来ていないことも多い。

このブログもあと数回となってしまった。

この数年でも多くの出会いと別れがあった。

離れた場所で生きている人達をずっと思っている。
出会えたことに感謝している。

これからはより芯に入る伝え方や現場をやって行きたい。
僕自身、少しづつ在り方に変化が起きている。

ここでの言葉は場が見せてくれた美しい景色を描写する為にあった。
このブログが終わっても、どこかで話すだろうし、
直接お会いした方達にも伝えることを続けるだろう。

作品は直接、心の奥の世界を見せてくれるだろう。

ここでもやってきたように繰り返し描写していく事が大切。

イサには何度も何度も魂の場を見せて来たし、
芯に入るような情景を描写して来た。
それらの場面が彼の中を生きて動いてくれる日がくるだろう。

沢山の景色を僕に残してくれた人達が、この世から去って行った。

今僕はここにたった一人で座ってこれを書いている。

僕のことを佐久間さんは来る者は拒まず去る者は追わずだね、
と言った人がいるがそれは違う。
場と言うものは、いや、人生自体がそうなのかも知れないが、
来る者は拒むことは出来ない、去る者は追うことが出来ない。
それがこの世界の掟であるとも言える。
場はいつもやさしく、そして、厳しかった。
そこでは、どんなことも自分が決めて行くしかない。
自ら落ちて行く人、罠に嵌って行く人、逃げて行く人、
道から逸れて行く人。
手を差し伸べることは出来ない。それが場の仕組みなのだから。

僕達は明日どうなるのか分からない世界にいる。
この瞬間に良いものを残さなければならない。
目の前にいる人と一緒に行けるところまで行っておかなければならない。

僕の師匠だった禅の老師さんと名古屋の街を歩いたことがあった。
「のっぽ、お前が次にここを歩いた時、もうこれはないぞ。わしも居ない」
急にそう言われて、何も答えられなかった。
あの時の景色は忘れられない。そして言葉通りになった。

学舎時代、親方と金沢まで電車に乗ったことがあった。
東京から乗ったのだから、あれは学舎に居た頃ではなかったのだろうか。
記憶が定かではない。
その前後に父と会っていた気がする。
父がそば屋の戸をバーンッと乱暴に開け「もりくれっ」と怒鳴ったのが、
記憶の片隅にある。
親方とは電車の中で運命や神や、宇宙に他の生命体が居るのかについてや、
世界に終わりがあるのか、宇宙のどこかに天国があるのか、
等と少年のように純粋に語り合った。
金沢までかなりの時間をかけて走る電車で、通過する場所によって寒さが厳しかった。
あの電車ももう無い。

やまちゃんもノブちゃんもたくみさんも、そして片山さんも親方ももう居ない。

人生の全てが凝縮されたような素晴らしい現場がいくつもあった。
一緒に居た人達はため息をついたり涙を流したりした。
これ以上のものはない最高の瞬間。
僕らはその景色を一緒に見て来た。

大きな木が目の前にある。それを見上げると、どんどん視点が上に上がって行って、
その木自体も途方も無く大きくなって行く。
僕は別の目で別の世界を見ている。ここはいったい何処だろう。

悠太の声。「上かなー、下かなー、何処かなー」。
ここは一体何処だろう。夜の闇が何処までも広がる。

沖縄の陽射しの中で中年の男が言った言葉「ずいぶん遠くまで来てしまったなあ」
本当にいつの間にか、遠いところまで来てしまった。

ハルコの声。「もっと深く掘って。お空まで届くまで」
僕達は掘り続ける。日は暮れて行く。

身体の奥が揺れ続けていた。
津波の映像を見続けて、自分自身が大きな波となったようで、
全てが壊れ、流されて行く動きそのものとなっていた。
何の感情も感覚も思考も動かず、ただ大きな大きな波と化していた。
やがて奥の方から光が射し、調和に包まれて行った。
世界はそれでも輝くものとしてそこにあった。

ピグミーの歌声。何層にも何層にも折り重なって、
無数の線がそれぞれの道を走りながら分け入りながら、
無限のように、どこまでも複雑に混ざって行く。
それぞれはバラバラに動きながら、全体は一つの声を出している。

古代の人類が洞窟に描き残した壁画のように。
無数の時間と無数の空間が、一つの画面の中で重なっている。

夢の中のようなタルコフスキーの映画。その映画の中にこの世界があるかのように。

友枝喜久夫が舞っている。柔らかく無限と戯れる。
全ては仮のもの、仮の姿なのだと。
ここは夢の中で、全ては鮮やかな光の戯れなのだと。

一つの場が語ってくれること。
この光り輝く場所に、この世界の全てがあるのだと。

僕達はみんな終わりの場所に立って微笑み合っていた。
全ては本当に美しい。
だからどんなことがあっても大丈夫だよ。
この景色を見にこうね。忘れないでいようね。
ここでこそみんなが安心して仲良く一緒に居れるのだから。

そして、いつでも、どんな瞬間にも、その場所はある。
一人一人の心の奥深くに。

2015年12月14日月曜日

厳格な掟

最近は天気予報がなかなか当たらない。
今日もちょっと変な天気だった。

本当は少しセンチメンタルな内容で書きたいテーマがあるのだけど、
どうも今は違うのかも知れない。

今日も場の話だ。

繰り返すが絵は僕達にとっては目的ではない。
過程が正しければ良い作品は生まれる。それは結果に過ぎない。
ただ言えるのは高い質を持った作品が生まれていないのであれば、
プロセスに間違いがある、ということだ。
ここを弁えないで仕事をしている人が多いのであえて書いている。

さて、場にはそれ以上に大切なものがある。
前回も書いたように、一つの場において、一人一人が生ききるということだ。

長年、場と言うものを生きて来て、
場が素晴らしいと思う部分は、人の尊厳が現れるところだ。
人はそのままの姿が一番美しく、そして尊厳に満ちている。

自分の尊厳を奪ってはいけないし、まして他人の尊厳を奪ってはいけない。

場から見るなら、外の世界は嘘にまみれている。
媚び、諂う人間はそれによって自分が得をしようとしているのだから、
自分で自分の尊厳を奪ってしまっている。

地位も名誉もお金も、いざとなったら何の役にもたたないことを忘れいる。

いくら誤摩化しても場では見えてしまう。
立場が偉い人を恐れる人が多いが、それも自分が得をしたいからだ。

自分が何も貰う必要がなければ、誰のことも恐れることは無いだろう。

持ち物で自分を語り、立場で威張って見せているだけの人間に、
媚びるということは、たかって生きて来た証だ。

それよりも尊厳と言うものは立っていただけで漂っている。
絵でもそうだけど、1本の線だけで決まってしまう。

これからの時代、これまで通用して来た様々な道具が使えなくなって行くだろう。
色んなものを失って行ったとき、その人がそのままの姿で、
裸でその場に立って尊厳を持ち続けられるか。

場においては、上っ面の誤摩化しは全てはぎ取られる。
誰がする訳でもなく、場がそうするのだ。
威張っている人ほど惨めな姿が曝されるだけ。
弱くても素直であれば場から愛され、可愛がられる。

化けの皮を剥がされると言うよりも、最初から裸にさせられてしまう。
そこであたふたと逃げ回る惨めな人をこれまで、何人見て来ただろう。

ここにいる人達の方が遥かに立派なことは見てみれば一目瞭然だ。

だから場は本当の意味で平等だと思うし、
平等はなかなか怖いですよ、と言いたい。

場には厳格な掟がある。
僕はそれを忠実に守って来た。
作家達を見ていても、時に誤摩化したり逃げようとしてみたり、
僕達と変わらない姿を見せたりもするが、
最後のところで素直に前に進む姿は素晴らしい。

ここではみんなが場の仕組みをしっているし、
どうすれば人や自分が輝くのか分かっている。

見ていて人間と言う存在は美しいな、素晴らしいな、凄いな、
と思える場面が沢山ある。
自然の中で、ただ裸で何も持たずにその場に立っている姿。
自分の全てを賭けて一つの行為を行う。
尊厳に満ちた裸の存在同士が、全身でやり取りする。
響き合う。
相手を感じて、お互いを気持ち良くしようとする。
感じ合う。

今何のためにここにいるのか、感じてみよう。

2015年12月13日日曜日

場の神が降りて来る

土、日曜日のアトリエを終えて、沢山のことをまた教えられている。

本当に良い現場だった。
作家達の凄さが溢れ出ていた。
全員が最高の水準で制作していた。

そして、スタッフとしての自分の仕事、役割としても、
驚くほど正確で奇麗に動けていたし、必要なところで芯を捉えて、
深いところにぐっと入ることが出来ていた。

スポーツ選手や勝負事の世界を生きている人達、
あるいは芸術や芸能等の人達であれば、
最高の出来の時に神が降りて来たかのような瞬間があるだろう。
僕達の場を創るという仕事においてもやはり、そういうことはある。

よく言われるゾーンに入るというような。

やって来て良かったなと思える時だし、最高の幸せを感じる。

僕達の場合は良い時、悪い時が無いように、いつも一定の水準は保っているし、
かなりのレベルで仕事しているという自負はある。

それでも時に次元の違うような神懸かりのようなことが起きる。

この2日間は特に良かったけど、
この一年くらい、僕の入る現場はもう一段深まって来ていると感じていた。

これは不思議なことだ。
僕自身の感度は確実に落ちているし、腕も落ちている。
それははっきりと分かっていて、冷静に自覚している。
けれど、場自体はむしろ質が高くなっている。

不思議なことだし、場が何かを教えてくれているのだと思う。

いずれにしても僕の力ではない。

でも確かなことは作家もスタッフも全員がその瞬間全力で生きている、
ということ。
出し切っている、ということ。

全力同士が響き合うことほど楽しいことは無い。
生命が喜び活性化する瞬間だ。

可能性を閉じない、ということ、活き活きと全身全霊でその場を生きること。
そのことの大切さを噛み締めている。

出来なくなって行くことは多くても、
よりシンプルに力強くなれるのかも知れない。

それにしても一人一人の命の力や輝きがどれほどのものなのか、
思い知らされる。

分かり易く言えば場はチームプレー。
誰一人欠けても最高の時間にはならない。
自分を捨てて、場にとって良いプレーを出し合う姿。
社会全体がこの一つの場のようになれば、どんなに良いだろう。

人間にとっての基本は場の中に全部あると思っている

2015年12月12日土曜日

南風が運んで来たもの

昨日は本当に不思議な一日だった。
特別な時間。

雨があがり、気温が上昇して来てから、まるで天国のような景色が。

何だろう、何だろう、この懐かしさは、と。
ちょうど、2回に渡って夢の認識について書いたところだった。

世界は時に本当に美しいものを見せてくれる。

溶けるような、消え入るような景色を前に、
様々な場面が甦って来る。そのどれもが霞みがかっていて懐かしい。
それでも細部までぼやけている訳ではなく、どこまでも新鮮でもある。

ここはやっぱり夢の中。

この瞬間を大切に生きて行こう。
目の前の出来事や、今ここにいる人達のかけがえのなさ。

最近も濃い内容のブログとなっているけど、
もうすぐ終わるので置き土産のつもり。

今日もみんなと一緒に幸せな時間を、
命の輝く瞬間を場の中で実現して行きたい。

そしてどんな作品が待っているのだろうか。

2015年12月11日金曜日

夢の中を生きる

夜から強い雨が降り続けた。
雨があがって南風が生温い空気を運ぶ。

前回、かなり深いところまで書いた。
場の中で世界が夢として見えて来る、ということについて。
何度か夢の自覚、みたいな感覚について語ったと思う。

これが実は場とか人間の本質に関わる重要なことなのだと思う。

場に入れば僕達は全ての先入観を外して行かなければならない。
思い込みや、これまでの世界観を捨てなければ、
今この瞬間を動いているものを捉えることは出来ない。

きっかけはそんなことから始まったのだと思う。
最初の頃は出会った人の数だけ、
行った場の数だけ、めくるめく新しい景色が現れた。
どれもこれもが真実で、世界は一つではない、
自分が生きている世界だけが全てではないと知った。

場を生きる、ということは無数の人生、無数の現実を同時に生きるということだ。
でもそれだけではない。
一人一人の問題と向き合う時、その人が今ある世界を固定してしまった時に、
こころが歪んで行くことは明白だった。
人や環境や社会によって、歪んだり偏ったり、
ボロボロになってしまっている心もある。
一つ一つ解して行くということは、極端に言えばその人の世界を消すということ。
個性を消すということではない。
世界を消す。世界と言うのはこれが現実だ、という固定された形だ。
それが人を縛っている。
その形を現実として認識してしまって、他の人にも押し付けて行く。
こうしてお互いがお互いを縛って身動きが取れなくなる。
混乱や争いや病はすべてここから来ている。

だから無数の現実があるという認識だけでは先へ行けない。
何処でその現実、その世界を創ってしまって固定してしまったのか。
どうすればそこから自由になれるのか。
それこそが場が教える要となる。

現実と思い込んでしまっている世界を消す。
これによってしか、心が本来の自由な動きを取り戻す方法は無い。

場はその辺りから変わり始める。
何かが現れてもそれを決まったものとしては見ない。
背景を読もうとするし、動きを見ようとする。
触れ方もべったり触ったりはしない、もっと柔らかくそっと触れて行く。
ここからは動きはより微細になる。
人も世界も現実も、そして心と言うものも、確固としたものではなく、
柔らかい動きの中にあるのだと分かって来る。
そう、夢のようだと。
ならば現れている世界を夢のように見て行く必要があるし、
夢のように動き、夢のように扱わなければならない。

場は夢のようだという認識が生まれ、その先では全ては夢なのだという感覚になる。

そして日に日に夢の自覚が深まり、夢の中を生きているという認識が生まれる。

ここは夢で、僕達は夢の中を生きている。

瞬間瞬間を幻として認識し、夢として触れて行けた時に、
まっさらな本当の姿として、僕達は世界に出会うことが出来る。

夢の中を生きる感覚は、終わりから振り返るように生きて行く安心感と同じだ。
もうすでに全てはとっくの昔に終わっていて、
今ここにあるものはみんな、思い出のようなものなのだ、という感覚。
終わりの中には完成があり、完璧な調和がある。
この瞬間を、今を、ここにやって来る出来事を、
全力で生きているのに、何故か懐かしい気持ちになる。
この瞬間はずっとずっと昔にあったもの、
それをこうして全く同じように再現している。
夢の中を生きる。夢の中を走り抜ける。
様々なあたたかくやさしく美しい景色と出会いながら、
全ての瞬間と人を愛して、夢の中を何処までも舞うように。

みんな素晴らしいね、と思うし、全ての場面が美しい。本当に。

言葉では比喩としてイメージでしか伝えることは出来ない。
いずれにしても、場は深い場所で人間の本質に触れている。

2015年12月10日木曜日

「夢」「予感」「回帰」そして「終わり」を見ること

今日は寒いですねえ。
ジャンパー着て書いています。

色んな人に会うけど、本当に大変な時代に入っているのだと思う。
求めている気持ちも切実なものとなっている。

だから、もういい加減なものへは構ってはいられなくなるのではないか。

もっとも僕達からすれば、ずっと場と言うものに向き合って来て、
そこには人間の本質的なものが現れているから、
一瞬たりと簡単な場面は無い。
困難と向き合って、少しでも何かが見えてくるようにしていく。
その連続が現場なのだから。
むしろ、社会的な流れが上手く行っている時は、
ほとんどの人は本質に向き合おうとしない。

差別とか偏見をなくすべきだと多くの人は思うだろう。
でも、大切なのは気づくこと。
人間はどんな時も思い込みに生きていて、多くのことを見落としているのだから。
そこに気がつかないで、外の世界のせいにばかりしていてはいけない。

全ての混乱の元は人の心の歪み、偏りから生まれている。

場と言うのはそこに向き合って行って、何が問題を生み出しているのか、
しっかりと認識して、その限界を超えて行くことだ。

一言で言うなら場は人を幸せにする。
でもそのためには汚いものにもしっかり触れて行く必要がある。

場においては「場に入る」という状態が必要だ。
それが無ければただ表面を撫で回すだけで終わってしまう。
一生そうしている人だっている。

「入る」ということをしなければ何も始まらない。
そして、もっと言えば「深く入る」ことだ。

そうすれば普段見えていない物事の本質が見えて来る。
歪みや偏りが何処にあるのか、それをどうやって解して行ったら良いのか、
感じとれるようになるだろう。

人の心の中で良いことも悪いことも起きているが、
起きていること自体が問題なのではなくて、そのことへの反応だ問題だ。
全ては変化の中にあるのに、良いもの、悪いものを固定して、
世界や物語を自分で作りあげてしまう。
そこにその人の癖が出て来る。これが偏見の元となっている。

場においては動いている心は変化の中で見ている。
現れているものより、その動きを見ている。
そうでなければ創造性のような心の動きは見極められない。
柔らかく変化するものを動きの中で扱って行く。

様々な抑圧を外して行くと、自由で豊かな動きが戻って来る。
その本来の自由な動きの中からしか良いものは生まれない。

この世界が夢のようなものだと僕が言うのも、
変化と言うものがどのような形をしているのか描くためだ。
人が現実と呼ぶものは自ら作りあげた限界に他ならない。
そのような現実は本当は存在しない。
いつでも解釈して構成して、必死になって作り続けているだけのこと。
自分に限界を作ってそこから出られなくなった人が、
他人にも限界を設定して行く。
個々の形の違う限界同士が争いを起こす。

場から見るなら、はっきりと固定されて、ここまでと言えるような現実は無い。
良いものも悪いものもその場でそのように見えるだけで、
本当にあるのは変化と言うものだけだ。

だから夢のようだと言う訳だ。

場に深く入った時、そこでは行き来する全ての現象が夢として見える。
あるいは幻の中にいるという認識が保たれる。

世界は夢の中で、何の滞りもなく透明に澄み渡っている。

僕達はこの場と言う片隅、あるいは部分の中にいるが、
大きな全体の気配や予感がある。

「居場所」や「安心」は全体への予感からやって来る。

こう言っても良い。
安心は「終わり」からやってくる。

「終わり」は遥か彼方にあって、今ここにある。
深く入るとは瞬間の中で「終わり」を見てしまうこと。

「終わり」は全てを輝かせている。
大丈夫なのだと、どのようなものも瞬間も、
終わりの中で完成されていて、すべては美しいのだと。

世界の全てが一枚の絵のようにはっきりと見えて来る。
それが「終わり」の景色だ。

僕達はそこにいて、再び帰って来て、この場を生きている。
進むことは遡ること。
あらゆる動きは回帰だと言える。

場の中で一つ一つの場面をもう知っていると言う感覚や、
ずっと前に起きたことだな、と言う感覚は、
全体への予感であり、終わりから見た景色だ。

そして、僕達の生きているこの世界も、
僕達の人生も、どこかでもうすでに知っていることなのではないか。

生きることは繰り返しなぞること。
進むことは回帰すること。

この認識を持てた時、僕達は本当に安心して安らかに生きて行くことが出来る。

場が教えてくれたことだ。
荒唐無稽に思える方もいるかも知れないが、
こういう情景が自分を助けてくれることもある、
人を助けることもある、ということをどこかで少しでも思い出してもらいたい。

2015年12月9日水曜日

普遍的なもの

太陽はごちそう。
北陸のどんよりとした気候で生まれ育ったから、
本当にそう思う。冬場でもこうして日が照る時間があって幸せだ。

三重テラスでの展示に向けての作品選定がほぼ終わった。
限られた条件の中だけど楽しんで頂けるものとなるだろう。
額を良いので行ければ本当に良かったと思うが仕方ない。
その分、中身で勝負。
8点の作品はキャプションもいれず、無駄な説明を行わない。
純粋に絵の世界を感じて頂きたいと思う。
一点一点じっくり見て頂ければと。
ダウン症の人たちの豊かな文化に触れて頂きたい。

そして、展示の時期に書くことではないかも知れないが、
僕達は見せるために制作する訳ではない。
むしろ見せること、見られることから遠くにいるからこそ、
純度の高いすぐれた作品が生まれるのだ。

最近、いたずらに人に見せるために作品制作が行われている風潮がある。
様々な場所で本質に全く触れない、イベントや企画が行われている。

僕達は責任を持って意味ある活動、本質に触れる動きを続ける必要がある。

毎度言うことだが、10年後に何が残っているでしょうか?

一番大切なのは場であると、これは何度でも強調したい。
場での充実感の欠如を外での企画によって誤摩化してはいけない。

場に入って響き合うこと。そこで生きていること。
幸せを共有して行くこと。
それが僕達の仕事であると思う。

展覧会や他の企画は社会と繋ぐためであり、
充分に満たされた幸せをギフトすることだ。
それから知ってもらうこと、感じてもらうこと、
一緒に大切にして行きたい何かに気づいてもらうこと、
仲間の輪を広げて行くこと。平和を共有していくこと。

もう20年、場と言うものを通して、人の心を見て来た。
社会の中で、あるいは関係の中で人の心が傷つき、壊れて行く場面。
小さく萎縮してしまう場面。積み重なって身動きが取れなくなっている人。
人が生きるということは、本当に難しいことだ。
自由な囚われのない心を取り戻さなければ、真の平和などありえない。

人の心が自由に動いている本来の姿。
ダウン症の人達の作品はそれを示している。
今の世の中が最も必要としているものだ。

彼らを理想化している訳ではない。
彼らも僕らと同じく、様々な心の歪みを抱えてしまうし、
傷つき蓄積された影響によって身動きが取れなくなる場合もある。
だからこそ、本来の状態に近づいてもらう制作の時間を創っている。

彼らが本来の状態であれる時、そこで示される心の在り方こそが、
僕達も含めた全ての人間の根源にある姿なのだと言える。

多くの人がこの調和の輝きと出会うことを願うばかりだ。

2015年12月8日火曜日

こころから

土、日曜日の制作、とても良かった。
みんなと一緒に場に立てることを本当に幸せに感じる。

小さなアトリエでスタッフも不足している。
沢山の要望にお応え出来ていない。
でも、ささやかながらお受けしたお話や、
出会った方々へ心を込めて向き合って行きたい。

あれも足りない、これも足りない、と数えればきりがない。
その中で今何が出来るのか。出来ることを一生懸命にやっていく。

難しい時代にも入って来ているので、
運営面でも経済的な部分で厳しい状況におかれている。

どんな時でも最善を尽くすしか無い。

今日は曇りなのかな。

様々に書いて来たけれど、言葉で行けるところはこのくらいまでかな、と思う。
後は場のようにどれだけ、共有して行けるのか。

三重テラスでの小さな展示会は、今年最後の企画ということもあり、
そして沢山の状況を受け止めると、質の高い仕事で答えなければ、と思う。
条件的には難しい展示だけど、必ず良い企画になるように頑張ります。
ご期待下さい。出品される作品は8点ですが、その中でエッセンスを見て頂きます。
作品選定は今回は佐久間が一人で責任を持って行います。
8点の作品がダウン症の人達が共有している豊かな文化全体を、
感じて頂く入り口となれば、と思います。

人を幸せにしたい、という思いは大袈裟だしおごりだと思っている。
でも、少なくとも僕達が生まれて来てここにいるのは何のためなのか、
考えるとやっぱり目の前にいる人を楽しませたい、喜ばせたいと思う。
制作の場はそれだけを見るという生きる基本なのだ。

快、不快の感覚を大切にすると言うのもそこから来ている。
これらは基本だ。

僕は場において基本に忠実にやってきたと自覚している。
これからも更にシンプルに基本を守って行く。
みんなが気持ち良いということが大事だ。
感覚が鈍ると気持ち良さも感じないから、ここがなかなか難しい。

伝え方も在り方も、これからより直接的なものになって行くだろう。

人はもっともっと自由になれるし、
もっと素晴らしい世界に生きることが出来る。
抑圧されて小さく縮こまってしまった心を解放して、
本当に広い広い、無限のような場所に辿り着いて、
そこで幸せを感じてもらう。
それこそが僕達の仕事だと思う。

2015年12月4日金曜日

もう12月。
毎年この時期が来ると、一年が本当にあっと言う間に感じられる。

小谷も金沢も雪が降っている。

みんな元気でいて欲しい。

忙しいけれど、一緒に仕事してくれている人達はもっと忙しそう。

明日は制作の現場。
本当に場に立つよりも外で仕事する時間の方が多くなった。

それだけに場に還元出来るようにしていきたい。

どんな仕事も求められていることには答えて行きたい。

外は冷えるから、明日は気持ちも暖まる場になりますように。

深く深く、一緒にいられるように。

場を共に出来ない仲間達や、いつでも繋がっていてくれる人達。

みんなの幸せを一つの場の中で実現して行こう。
誰のことも忘れない。

前にも書いたけど、心の深くで、皆のいる場所に僕は行く。

場と言う船に乗って、みんなと一緒に、みんなのところへ。

何処までも行こうと決めたから、約束したから、みんなで進み続ける。
何処まで行くのかは分からない。
でも、その過程で沢山の美しい場面が見えて来る。

一緒にいっぱい見て来たね。

深く深く潜って行く。奥の奥に輝く場所があるから。

2015年12月3日木曜日

脱皮中

皆さんこんにちは。
冷え込んできましたね。

ようやくブログ更新します。
12月で区切ることに決めたので、本当に残り少ない時間となってしまいました。

今年も女子美術大学でお話しさせて頂きました。

そして、12月19日より日本橋の三重テラスにおいてミニ展示を行います。
トークも予定しています。
http://www.pref.mie.lg.jp/TOPICS/201511039420.pdf

あと何回くらい更新出来るのだろうか。

これまでのブログを少し思い出してみると、それは場に関する物語だった。
場が僕に見せたもの、場が僕に伝えたこと。

場は円を描き、その円はぐるっと回り閉じられて行く。
そんな気がしている。
ここで書いて来た全ての情景は今も鮮やかに思い出すことは出来るが、
同時に過ぎ去って行って過去となった。

これからまた新たな物語が始まることだろう。

これからも場に立ち続けることだろう。
でもそれはこれまで語って来たこととは違っているだろう。

最近、特に自分自身のことを意識したり考えたりするようになった。
そして、自由になった。
身体も気持ちも変化している。

皮が一枚一枚剥がれて、目から鱗が落ちて行く。

場に出会った頃から重要な使命と責任を背負って来た。
その道に進むために、かなり自分を改造して来た。
気がつけばサイボーグのようになっていた。
それが嫌なのではなく、一つの答えだと思って来た。
そして、今でも間違っていたとは全く思わない。
サイボーグと化さなければ出来ないことがあったから。
でも、その先があったことがようやく分かった。

人の心をずっと見て来た。
どんなに人が自分を制限し限界を作っているのか。
どれだけ自分で自分を縛っているのか。
無駄なものをとって行って削いで行って、本来の自由を知ってもらう。
それが僕の仕事だった。

場に立てば、当然人の心も自分のこころも明晰に見える。

でも日常生活ではそうはいかない。
いざ自分の人生となれば、手に負えない。

人のことは見えても自分のことは見えていない。

そこに気がついた。

力が抜けて、解放された。
長い時間の間で改造された部品を一つづつ取り外して、
何も無い元の状態に戻って行くプロセスを実感している。

一つのサイクルが閉じようとしている。
僕はより自由で新鮮な眼差しでかつての自分や場を味わっている。

脱皮はまだゆっくりと進行している。

これから仕事の上でもどんな風に変化して行くのか分からないけれど、
一言で言えば、もっと深い安心感や開放感を描写出来るようになれるかも知れない。
場においても。

現場でも他のことでも最終的には、ああ、大丈夫だなあとか、
すっと抜けると言うか、そういう隙間を作るために存在出来るのが理想。

生きていると言うこの現実、命や世界は本当に深い。
その深さをちょっと感じようよ、ということで、
それが出来たらもっと色んなことや人に優しくなれるはず。

人間に必要なのは、この場にいてどれだけ充実感を持てるかということだ。

人も世界も本当に深くて素晴らしいもの。
もっと見て、もっと感じよう。それを単純に実行するのが一つの現場なわけだ。

今度の土、日曜日クラスもそんな時間になって、
終わってみれば煌めくような作品に囲まれ、みんなの笑顔が溢れている、
そんな景色が見られれば良いと思うし、
僕達はいつでも響き合ってその場所まで行くだろう。

2015年11月20日金曜日

これから三重です。

ブログの更新を予定していたのですが、
腹痛で少し倒れてしまいました。
絶食してひたすら寝たので今は回復しました。

これから三重へ向かいます。
10日程ですが。

また12月にお会いしましょう。

12月はイベントがいくつか入っているので、
終わりまで東京に居る予定です。

宜しくお願いします。

2015年11月17日火曜日

優しい雨

静かな一日だった。

生温い。曇り空に時々光が射した。
夕方からぽつりぽつりと降り出して来た。

思い出話を沢山書いて来た、と思う。
昔のことはやめておこうと思いながらもついつい。

過去が強烈だったということでもある。

でも、最近、ずっと現場に立って来たことと、
人生で色んなことをいっぱいやってきたことを、本当に良かったと感じる。

人が生きて行くということは、多くのことに振り向かないということでもある。
場に立つということは、そんな一つ一つを見据えて噛み締めることだ。

無数の記憶に囲まれ、それら一つ一つが語りかけて来る。
時に胸が張り裂けそうな程、美しく悲しい記憶。

自分の経験だけではない、場の中で出会ってきた人達の経験や、
映画で見た場面や、本で読んだ景色、
今となっては全部同じように生々しく迫って来る。

今は恐ろしいことが進んでいると思うし、
個人の力では到底、太刀打ち出来ない。
僕には一つの現場に魂を注ぎ込むことくらいしかやれることは無い。

ただ、命ある限り、全力を尽くすこと。
そして、沢山見て、経験して、感じて行くこと。
どれだけ見て来たかが大切だ。
見たもの、感じたもの、経験したものが、認識を深めてくれる。

認識の深みの中で人は最後のものを見る。
それこそが生まれて来た意味であり、この世界の素晴らしさだ。

この世がどんなに悲惨で救いようの無いものになろうとも、
それら全てを超えて、全てを包んで輝くもの。

一枚の美しい絵を見るように、この世界の全てが見えて来る。
その光景を前に、僕達は生きて来て、産まれて来て、
みんなと出会えたこと、この世界にいることに、
深い感謝の想いと喜びに満たされるだろう。

僕達はずっとここに居たし、これからもここにいる。

2015年11月16日月曜日

枯葉

私的な話題で申し訳ないけど、今日は悠太の誕生日。
4歳になった。あれから4年経ったのかあ。
誕生日、一緒に過ごしたかったけど、東京での仕事がまだ残っている。

時の過ぎ去るスピードは加速して行くばかり。

土、日曜日のアトリエは素晴らしかった。
作品も場も美しかった。日曜日の静かな陽射しも。みんなの笑顔も。

僕の感度は落ちているが、皆のお陰と、そして場が助けてくれるから、
本当に良い時間になって、惚れ惚れするくらいだった。

若い頃お世話になった共働学舎の収穫祭が東中野で行われた。
アトリエが終わってから、皆に会いに行って来た。
しばし楽しい時間。かつての仲間達。
ずっとずっと大好きだし、本当に感謝している。
でも見解の違いは確認する。
僕は自分の道を歩いて行く。これからも。

駆け抜けるように何もかもが通り過ぎて行く。

スピードにのり、疾走しながら流れ流れる景色達。
きらめくような瞬間の数々。

ちらちらと枯葉が舞う。
空は高く遠くへ。夜は長く。

もうすぐ冬だ。
それぞれの季節。それぞれの時間。
どんな時も大切に生きて行こう。

2015年11月13日金曜日

遥かな深み

冬へ向かってどんどん寒くなる。
東京は暖房どうしようかな。そもそも少し片付けないと。
この部屋も寒くなって来た。

みんなが来るアトリエ部分は暖房で暖められるから大丈夫だけど。

それにしてもすぐに12月になってしまう。

2011年からずいぶん語って来た。書いて来た。
場の深みの中から見えて来るダウン症の人たちの在り方について。
あるいは場から見た人や社会や世界について。
場については結局どれだけ書いても書き尽くせない。
それは始めから分かっていたことだけど、
書くことによって明らかになって来たことも多い。

場と言うものがなければ、人にも世界にも出会うことはなかった。
本当にそう実感する。

場と言うものに出会う前の話をしよう。
原風景はそこにある。全ての始まり。

小さな頃の僕は様々な困難を抱えた人達と共にあった。
過酷な環境だった。
自然に覚えて行ったのは、勝負の感覚。
勝負と言うのは一つ一つの場面において、リスクを負って賭けるということ。
それによって何かを獲得すること。
言い換えれば、当たり前に自明に物事は存在していない、と言う自覚。
あるいは受け身でいて、誰かや何かが助けてくれるという思い込み、
甘さを捨て去ること。

目の前の人が偏見を抱いてこちらを見て来る、
あるいは悪意を持って見つめられる。
僕もそして僕の知る人達もそれは日常だった。
その時にどうするべきか、戦っても無駄なことは早い段階で気がつく。
方法は一つしか無い、相手の認識の隙をつく、
見解を揺るがし、ちょっとでも違う角度から見える景色に連れて行く。
そのために、間合いを合わせたり外したりする。
タイミングとセンス、リズム感がものを言う。
険悪なムードの中で一瞬にして笑いが起きる。
そうやって人が自分達を見つめる目線を変えて行く。
認識を深めてもらう。

関係が世界を変えてしまうことくらいはすぐにつかんで行った。
いい人も悪い人もいなくて、良さや悪さが現れる環境や関係があるだけ。
だから変化を自覚出来ていれば、どんな状況でも改善のすべはある。
能で言うところの離見の見みたいなのは自然に身につけざるを得なかった。
舞台の上に立つ感覚だ。
今日の条件、人数、それぞれの性質を見て行く。
さて、どう振る舞い、自分をどのポジションにおいてどう動かして行くか。
どうすれば、みんなが喜んでくれるか、気持ち良くなってくれるか。
その中で否定されそうな人、排除されそうな人がいれば、
どうすればその人が認められて行くか、を配置する。
見せ方を考える。可愛さを見せるか、面白さを見せるか、凄さを見せるか。
それぞれの瞬間において無数の方向性があり得る。

これを教えてくれた人達もいたが、ここでは書けないような立場の人達だ。

これが最初の地点だ。

障害を持つと言われる人達との出会いで、
この認識は場と言う概念にまで発展した。
一人一人の心の奥にどんな世界があるのか、
それは外へ現れていない部分がほとんどで、関係によって初めて見えて来た。
それまでは一人一人のが喜んでくれるところがゴールだったが、
そこから先は場の喜びとか、場面の美しさ、というより大きなことが見えて来る。
場自体が作品として美しいか、ということを追求し始めた。
やがて最高の場、最上の空間、を実現出来るまでになった。
途轍もなく美しく深い情景を共有出来るようになった。

人の本質や、更には生きている上での意味や幸せについて、
追求せざるを得なくなった。
最も極端な例で言えば、もう何をしてもこの世の中では、
救われない状況にいる人達にも沢山出会って来た。
だからより深く見て行くこと、この世を超える程の深さまで見ることが必要だった。

途轍もない深みから共感が生まれた時、
その認識の中で、ここに来ることが出来たのだから、
この景色を見れたのだから、僕達はみんな存在していて良かった、
というところまで行くことが出来た。それが最後のものだ。
同じ場に立った人達が人生最上の経験とまで言ってくれるようになった。
一番大切な一番美しい瞬間と言った人もいる。
見たことがなかったものだと、見てみたかったものだとも。
最高のものがそこにあった。命を持った存在の醍醐味がそこにあった。
場が教えてくれた。場が見せてくれた。場がここまで連れて来てくれた。
僕はようやく場の声を聴くことが出来た。

場の認識を深めて行くということは、この世界が夢として見えてくることであり、
全ては仮のもの、仮の姿であると言う自覚が生まれること。
沢山の人や人以外の無数の視点を同時に持ち、
様々な知覚と認識を行き来すること。
無数の時間と空間を同時に生きること。いくつもの生を生きること。
どこかからやって来て、どこかへ去って行く様々な現象を、
どこまでも明晰に、偏ることなく見つめていられることだ。

すべてはずっとずっとここにある。

制作の場において深く掘って行くと、
そこから自然に言語を超えた造形が生まれて来る。
そしてそこには調和と平和がある。

これが場におけるすべてだ。
何かイメージくらいは感じて頂けたらと思う。

繰り返し書いて来たことではあるけど、今日は真っ正面から書いてみた。

2015年11月12日木曜日

僕達が見て来たもの。

寒くなりました。

日曜日の場から始まり、良い時間が流れている。

場における一つ一つの場面をしみじみ振り返る時がある。
突然、ある時の情景が帰って来たりする。

現れては去って行く景色。行ったり来たり。
同じものが形を変えて何度も何度も。
あるいは螺旋の風に乗って運ばれているようだ。

身体と心の奥深くに刻まれたリズム。

制作の場が僕達に見せてくれる走馬灯のような景色。

いっぱいいっぱい見て来て、貰って来て、
やっぱりみんながこの場所に立てる時間を少しでも増やしたいと思う。

終わりが近づいているブログだけど、
この場所を伝えるために書いて来たのだなあ、と実感する。

僕達がいつも場に向かって深めて行った時に、
連れて行ってもらえる場所。

全ての時間が走馬灯のように流れて、そしてあたたかい愛があって、
包み込まれるような安心感があって、
何もかもが美しく輝いて見えて、誰のことも大好きになる場所。

場においていつでもそこまで辿り着こうとするし、
この人生においてもそれは同じなのだろう。

みんなと見て来たもの、今後も見て行くもの。
本当に幸せな気持ちになる。

2015年11月10日火曜日

感じてみよう

雨が続く。
そろそろ寒くなって来そう。

制作の場においても、人生においても、感じていることが大切。
いつでももっと沢山のことに気づきたいし、感じたいと思う。

僕達はいつでも変化の中にいる。

今何がどうなっているのか、まずは気づくこと。

場において、感じることを大切に出来たら、
感じたままに動けたら、みんなが嘘をつかずに、そう出来たら、
そこが最高の場になる。

場を感じる。変化を感じる。流れを感じる。相手を感じる。

僕達は互いに感じ合う。
そして心地良いリズムをバランスを見つける。
物事に、人に、そっと触れる。

大振りな動きは決してしない。やさしくそっと触れる。
丁寧に時間を重ねる。

感じるところから始まる。
感覚に従って、次にはその変化をまた感じながら進んで行く。

平和や調和は、気づきを重ねたところにある。

もう今ならはっきりとこんな言い方をしても許されるだろう。

場は愛だ。

2015年11月8日日曜日

夜のフィッシュマンズ

今日は雨のようだ。
静かで制作するには良い日かも。
本当に久しぶりに場に立ちます。
楽しみです。

昨日の髙橋源一郎さんとの対話は良かったですよ。
聞けた方はちょっと得したと思います。

個人的にも大好きな方なのでやり易かったです。
久しぶりの再会。
2人で話す時は子育てと家族の話ばっかり。

講義中、突っ込んで行こうとするばかりの僕に対し、
髙橋さんは分かり易い話に落ち着けて下さっていた。
かといって話を遮ること無く、自由にやらせて頂いた。

高橋源一郎という人が何故あんなに人気があるのか、
今さらながら理解出来た。
いつでも生活している視点から、生きていると言うナマの場から、
発言し、そこから決して逸れないこと。
今でも2人の子供を育てながら、その経験を一番土台にしていること。
そこから来るやさしさや穏やかさ。

悠太が小さな頃、抱っこしてくれたことを思い出した。
普段から接している方であることはすぐに分かった。
そういう部分に人の本質は現れて来る。

さてさて、場に帰って来たという実感。
数ではないのだけど、それでも今僕が場に入る回数を考えると、
現場の人間とは言えないと思っている。
だからちょっと違う立場から伝えて行かなければ、と思う。
ブログを終了させる理由の一つでもある。
ここでの言葉は現場の人間として書いて来た。
立場が変われば、違う伝え方が必要となる。

今出来る場の中で最高の時間を創って行きたい。

昨日の夜、一人になってフィッシュマンズを聴いていた。
本当に夢の中だ。
重力が消えて空に浮きながら、愛おしむように生きている世界を見つめている。
僕はこの世界観、好きだなあ。

今日も良い場を。
そして皆さんも良い日になりますように。

2015年11月6日金曜日

ほんのりあたたか

外仕事が続いていて、まだ現場に入っていない。
明日は久しぶりにモロちゃんにもお願いした。
アトリエをよく知るメンバーは本当に心強い。

髙橋源一郎さんとの対話。僕自身が楽しみだ。
体調は万全とは言えないけど、聞いて下さる方が良かったと思えるものにしたい。

それにしても瞬く間に時は過ぎて行く。
すぐに年末って。

纏まった時間がないので聴いてはいないけれど、
今でもチェリビダッケの生み出した音楽が鮮やかに浮かぶ。
手に触れられそうなほど鮮やかに。
様々な過去の情景が鮮明になぞられ、目の前で浮き彫りになって行くかのような。

今も、そしてあの時も、無数の時間と光景が目の前に見えてくる。

ここはいったいどこだろう。

全く何も分からない。
いつの間にかここにいて、そしてここは夢の中。
ただ、言えることはこの世界はどこまでも美しいということ。

土曜日、場には入れないけれど、みんなにとって良い時間になりますように。
日曜日は久しぶりに入らせて頂きますよ。

何処にいる人も、何をしている人も、みんな素敵な時間の中でありますように。


2015年11月4日水曜日

ある小さな記憶に。

今日は大事な打ち合わせが2つ。
明日と明後日はラッシュジャパンさんの社内イベントに、
気まぐれ商店として参加させて頂く。
そして、土曜日は明治学院大学で高橋源一郎さんとお話しする。

12月も3回程、トークします。

ぼーっとしている時間にふと思い出した記憶。
保育園の頃からずっと2人だったK。
この記憶もKが関わっている。

僕らが子供の頃、一番良く遊んだのが、まあちゃんだった。
まあちゃんは僕らより一つ年上で、最初は上のクラスまで遊びに行っていた。
ところが、次の年には同じ組になって、
その次の年には一つ下の組になっていた。
子供時代はそんなことにあんまり拘らなかったから、
なんでだろうとも考えた記憶は無い。
Kも僕もまあちゃんと居るのが楽しかった。
遊び方が似ているのもあった。
まあちゃんは知的障害を持っていた。

記憶とは不思議なものだと思う。
いつの間にか僕はまあちゃんの存在自体をすっかり忘れてしまった。
まあちゃん自身もどこかへ消えてしまった。
いつ居なくなったのかさえ覚えていない。

それからいくつかの夏が過ぎて行った。
相変わらずKと遊び回っていた。
ある日突然、Kが僕に言った。まあちゃんのことを覚えているか、と。
ああ、そうだったまあちゃんっていたんだ。
あんなに仲が良かったのに。
Kは続けた。
やっとまあちゃんの居場所を見つけた、と。
え、ずっと探してたのか。

とにかく、今度遊びに行こう。

Kの話によれば、まあちゃんは僕らの共通の友人の兄だった。
障害があるので、人に知られないよう家から出ないようにしている、という。
内緒だよ、とその共通の友人が打ち明けたそうだ。

まあちゃんの家に大人が居ないと言う日を狙って、
僕ら3人は遊びに行った。

まあちゃんの部屋は2階にあった。
そこでの再会は忘れられない。

僕らは何も変わったことが無かったかのように遊んだ。

Kはやっぱり凄いヤツだと思った。

僕らはその時間をずっとずっと秘密にした。

そしてまたいくつかの夏が過ぎて行く中で、
秘密もまあちゃんも記憶から消えて行った。
今度はKも思い出さなかった。

まあちゃんのことをもう一度、思い出した。
30年ぶりに。

木漏れ日の中で。
それでも、あの頃と何も変わっていないのだ、という感覚もある。
緩やかな風が吹いて緑の葉っぱを揺らした。
今日と言う日のこともまた何度も思い出すだろう。
そう思いながら外を歩いた。

あの頃の夏は無限のように、時間が静止ているようだった。
Kも僕も、まあちゃんも今もあの時間に居て、
僕はあの3人を微笑ましく見つめていた。

また遊ぼうね。

2015年11月3日火曜日

成瀬巳喜男とチェリビダッケ

今日は一転、良い天気で暖かかった。

早くも三重での時間を思い出す。
悠太を連れて伊勢の病院へ何度か向かった時。
車で聴いていたアンバートンのささやくような歌声。
伊勢神宮の裏の深い森。
舞果を抱いていた感触。

場が何故大切なのかと言うと、
そこでは凝縮した形で人生や世界の本質に触れることが出来るからだ。
普段の僕達は物事の断片しか見ていないし、
見えているのは表層の部分だけだ。
本質と言うのはもっと奥にあって、
そこから見ることが出来れば認識は全く別のものとなる。

何度もその経験について書いて来たが、
制作の場では終わりから始める感覚がとても大切だ。
てる君とのあの特別な時間においてもそうだったが、
ある時、絶対的な安心感に包まれる。
全ては今進行しているのに、もう全てが終わっていて、
回想するように見つめている感覚。

何もかもがそこにあって、何もかもが完璧で、
動いているのに静止しているかのような時間。

チェリビダッケの音源を聴いた。
改めてこの指揮者は特別なのだと実感。
生命も宇宙も、この世界の全てが明晰に見えてしまうような場面がある。
それを見せられる人はほんの僅かだ。

チェリビダッケは魔法のようにそれが出来てしまう。
チェリビダッケについては、評論家の許光俊が最も深くその本質を語りきっている。
それ以上付け足すことは何も無い。
それでもあの途轍もない魔法を見せられてしまうと、
感動を語りたくもなって来る。

スウェーデン放送響とのライブ録音で、
チャイコフスキーとショスタコーヴィッチを聴いた。
驚くことに音楽は鳴り響きながら全く静止している。
最初から最後まで全体が克明に見えて来る。
全ては決まっていて、完璧にその場に存在している。
この世界の真実の姿が目の前であらわになる。

恐ろしい程、見えてしまう。
克明に明晰にその場に姿が刻まれていく。
始まりも終わりも無いかのように。ただただそのものがある。

成瀬巳喜男のどこからどこまでも完璧な「流れる」という映画のようだ。
2人共、何もかもが見えてしまう地点を描いている。

そこは全ての果てであると同時に今ここでもある。

絶対的な安心感に包まれて、全てがここにある。
みんなここに居る。

場において、表層に現れているものから、
奥へ奥へとその本質に入って行った時に見えてくる世界と同じだ。

幸せな景色の中に一緒に行きましょう。
みんなで。

2015年11月2日月曜日

誰でもないところからの眺め

1、3週日曜午後クラスの方達から、お祝いを頂きました。
本当に有り難うございます。

今日は寒い一日。

前回の夢、幻の感覚の続きを書く。
夢のような見え方で全てが映ってくる、
と言うのはお能が言う幽玄のような境地かも知れない。

このブログで一番多く語って来たのは場のことだろう。
未だ触れていない話もあるのだけど、それはいつか何らかの形でと思う。

ダウン症の人達の持つ世界観を伝えて行く、という仕事が一方である。
今後はこちらの方が中心になるだろう。

彼らの世界と言うのと、場と言うのは重なるところが多いが、
それぞれが単独でも存在している。
ダウン症の人達に固有の世界があって、そこから人間の根源を考えることが出来る。
場と言うのは、その性質が最大限に引き出される何ものかだ。

場というのは一人一人の本質が浮かび上がり、お互いを活かす次元。

僕が初めて場に出会い、場を自覚したのはダウン症の人達に出会う以前のこと。
でも、きっかけは障害を持つと言われる人達と共に過ごした時間だった。

本当に遠いところまでやってきた。
場を知った時から、教えてくれる先生は誰もいなくなった。
たった一人で足跡の無い道を歩くしかなかった。
場においては誰よりも先まで歩いた。
誰も見たことの無い場所まで行って、誰も見たことの無い景色を見た。

ここでも誤解を恐れず、率直に言えば、
このようなことを生業としている人間の中では、
一番深いところにいると自覚している。そこに関しては客観視もしている。
誰もここまで来なかったし、残念なことに今後もそういう人は出て来ないだろう。

違うジャンルにおいてはもっと先まで見ている方が多くおられるが。

以前は見解の浅さに反発を覚えた業界も、今では何とも思わなくなった。
もともと関係のない世界だったと気がついたから。
僕らの場は福祉的な視点とは無関係だし、
かといって言うところの芸術というのともちょっと違う。
ただ人間とは何か、生命とは何か、という本質的なところから場を見て来た。

アウトサイダー?アール・ブリュット?
アートセラピー?
それらの概念が何をさしているのかも定かではないし、
本質に関わる議論が出来るとも思えない。

場とはそんなものではない。
あえて言えばもっと普遍的なもの。

ちょっと横道に逸れてしまった。

場において僕らは対象を変えようとはしない。
むしろ対象に応じて自分を変えて行く。
相手の見え方をなぞって行く。
そうすることで、自分自身の知覚は変化して行く。
見える世界も変わって行く。
今まで自分が見て来たものを実体化していてはそんなことは出来ない。
少しでも場を続ければ、自分など存在しないことに気がつくし、
見えている世界もすぐに変わって行く。
苦しんでいる人が居たとしよう。
その人を少しでも楽にさせたかったら、
その人に現れている苦しみをもっと深いところから捉えて、
別の場所に立ってみる見え方まで運べなければならない。
だから、場において自分の感情も人の感情も、
現れているものの奥にある動きを見る。
そうやって変化の扱い方を知って行くと、
人間の姿自体が仮のものであるという感覚になって行く。

無数の人々の心を行き来し、同時になぞる。
一生という言い方があるが、場を生きる以上は無数の生をなぞることになる。
もはや自分が誰なのか分かるはずが無い。

最近、「誰でもないところからの眺め」というマンガを読んだ。
震災によって人の心が崩れて行く、とう悲劇がテーマの一つであるには違いないが、
それ以上にもっと本質的に自分とか心とは何なのか、というテーマがメイン。
登場人物達は気がつかないうちに、自分の世界を失って行く。
見える景色も変わり、意思すら失われ、どこかへ連れられて行く。
感覚的にはこれは場に近い。
勿論、場には悲劇性は無いが。

モネの色と光のところでも書いたが、
本当はこの世界には区切りと言うもの、境界と言うものが存在しない。
どこまでが何なのか、本当は分けられない。

そういう見え方が深まってくるにしたがって、
夢のような感覚が強くなって行く。
どこかからやって来てどこかへ去って行く幻たち。

夢だからこそ鮮やかに輝き、懐かしい光が射している。
沢山の場を創ってくれた人達。共有してくれた人達。
一緒に生きてくれた人達。見せてくれている人達に感謝と、
そして切ないくらいの愛情を感じる。
誰でもないところからの眺めは、どこまでも美しい。


2015年11月1日日曜日

夢の中で

皆さんこんにちは。
東京へ戻りました。
一ヶ月以上空けてしまいましたが、ご理解とご協力を有り難うございます。

舞果が産まれて、家族で幸せな時間でした。
子供2人を抱えてよし子一人で心配ですが、まずは東京の仕事に戻ります。

三重では家事育児の中で生活のリズムと充実感を味わった。
病院まで車を運転して一時間。日常の買い物をするにも12キロは走る。
その分、環境は素晴らしい。
生きていること、生活していること、その中に全てがある。

この11月、12月はいくつかの場所でトークする企画が入っている。
来客も多く、一期一会の出会いに真剣に向き合いたい。

現場に関して、イサ達が頑張ってくれていて、良い作品が生まれている。
イサも何かをつかんだのではないか。
前回までと質的に変わって来ている。

時間をかけて色んなことが前へ進んでいる。

このブログを12月で区切るのも一つのけじめでもある。
すべては変化して行くのだから、留まっていてはいけないと思う。

夢を見た。
袂を分かつ結果となった人と、再会し和解した夢。
夢の中で、ああ、これは夢だけど本当だなあ、と思っていた。

場というものとずっと向き合って来たからだろうか。
最近、増々全ては夢なのだ、という実感がある。
確固とした現実、不動の実体など何処にも無い。
たくさんのものと、景色と出会うけれど、経験して行くけれど、
全ては現れては去って行く幻のような柔らかな何かで、
ここは夢の中なのだと感じる。

幻なのだけど、夢なのだけど、それはどこまでも鮮やかで活き活きとしている。
それはどこまでも美しい。

夢の中で僕らは舞い続ける。友枝喜久夫の能のように。

舞果、自分で考えた名前では無いけど、良い名前かも。

夢の中で柔らかく舞う。場という儚い美も、
夢だからこそ、何よりも大切だと思う。

2015年10月16日金曜日

やさしくて幸せで切ない時間

次の更新は11月と言いながら、また書き出しています。
今度こそ10月は最後です。

12月でこのブログの区切りをつけるので、
少しでも書ける時は書きたいという思いもあります。

赤ちゃんは元気に育っていて一安心。
やっと抱っこも出来た。
よし子も悠太の時より快復が早いようだ。

退院したら4人での生活が始まる。

11月はラッシュジャパンさんのイベントに参加したり、
明治学院大学で高橋源一郎さんとお話したり、アトリエの来客も多い。
12月は今年も女子美の生徒さんにお話しする。
そして、フラボアさんでの展示くらいのミニ展示も年末に。
ここでもトークを予定しています。
またご案内します。

ここ数日、ゆうたと2人の生活をしている。
後にも先にもこんな時間はもうない。
ゆうたが産まれた後、見える景色がすべて優しい透明な空気に包まれて、
新鮮に見えて来たことが思い出される。

今のこの時間も与えられた大切なもの。

ゆうたが見せてくれたもの。教えてくれたもの。

よし子に育てられて来ただけあって本物志向。
ごっこ遊びをしていても、「このお店は美味しくて油も使っていません」とか、
「ここの温泉は消毒もしていなし卵の良い匂いがします」とか。

僕がチャーハンやカレーで一種類で乗り切ろうとすると、
必ず、これだけ?おかずもっと作ってよ、となる。
豚肉を焦がしてしまったとき、
「ゆるしてあげるよ。一回だけなら次ぎからもうしないなら、許してあげるから」
だって。

掃除をしながら、ご飯を作りながら、ゆたの喘息の薬を準備しながら、
一緒にお風呂に入りながら、ずっと懐かしい感覚に包まれていた。

こんなに幸せな時間がこれまでにあっただろうか。
こんなに穏やかでやさしい気持ちになれたことがあっただろうか。

こんなに幸せなのに、何故こんなに寂しいのだろう。悲しいのだろう。

もう遥か昔、ずっとずっと遠い所であった時間を思い出している様だ。
もうその時間はそこにはない。懐かしい。優しい。

そして生きているなあ、と思う。

よしこが頑張って、喘息の発作を起こしながらも産んでくれた命を思う。

流れて来る放送を聞きながら、ゆうたが急に真剣な顔になって、
「人って何で死ぬん?」と言った。
「死んだらもう食べられんし、何にも見れんの?」
「ゆうたん、死ぬの嫌や」

その純粋な眼差しを見て、涙が出た。

終わらないものは無いんだよ。終わりたくない、もっと見たいもっと聞きたい、
もっと一緒に居たい、もっと生きたい、って思えるために終わりがあるんだよ。
終わりがあるから全ての瞬間が輝く。
だからいっぱいの思いにならなければ。

終わりが無かったら、面白いものも苦痛になる。
美味しいものもずっと食べ続けなければならなかったら辛い。
それが良いものである為には終わりがなければならない。

この幸せな時間も終わって行く。
でも、だからこそ、いつまでも輝いている。

このブログも終わる。終わることでこれまでが分かって来る。

悠太のことが大好きだ。
一生で一番2人が深く繋がっている時間が今かも知れない。
幸せが深い程、だから悲しい。
悲しみが深い程、だから幸せなのかも知れない。

物理的に離れてしまった人達が深いところで、
一緒に居るという感覚は日々強くなる。

最近、はるこがくれるメールには「地下室にみんな居るよ」と書いてある。
だから僕も地下室へ行く時間が増えている。

よし子が帰って来たら、また家族4人での新しい生活。
東京へ行くまであまり時間はないけど、大切にして行こう。

さて、今度こそ、次回11月となります。
またアトリエでは最高の場と時間をみんなと創って行きます。

2015年10月13日火曜日

このページのこれから

みなさんこんにちは。

よしこは喘息の発作が出たため、入院して出産を待つ事になっていました。
12日、安全のため緊急帝王切開の手術を行い、
無事、女の子を出産しました。
母子共に今のところ問題はない様です。

会える時間がかなり制限されていますが、僕はしばらく病院通いです。

ゆうたと2人の生活は初めてで、こういう時間が本当に大切だと実感しています。
今もゆうたが寝ているのを確認して書いています。

今日書いておかなければしばらく、また書く時間がとれないので進めます。

さて、一つお知らせです。
このブログについてですが、これまでの様な定期的に更新して行く形は、
今年の12月いっぱいまでとさせて頂きます。
今後も何か特別な事があったり、伝えなければならない事が出て来た場合は、
書くことはあるかと思いますが、ひとまずは終了としたいと思います。

また、場所やスタイルを変えて別の形でスタートする日が来るかも知れない。

このブログがあったから出会えた人達がいた。
このブログがあったから深い理解を共有してくれた人達がいた。
救われたと言ってくれた方。特別なものと言ってくれた人。
このページに真摯に向き合って下さった方々。
大切にして下さった沢山の方との繋がりが嬉しかった。

楽しみにしてくれたみんな。本当にありがとう。

僕にとってもこのブログは現場の次に大切な特別なものだった。
だからこそ、期限を区切らなければと思う。
惰性になってはならないし、形式化されてはいけない。
今のスタイルでならいつまでも続けていられる。
でもそれではいけないと思う。
先に進まなければならない。歩を止めてはならない。

しっかりと終わりを設定することこそがこのブログには相応しい。
と、ある時期から直感していた。

思えばいくつかのテーマについてはもう少し深めたかったり、
まだ時期じゃないとして書かなかったこともある。

12月が終わるまでに、後どれくらい書けるのだろうか。

こんなに沢山の方にお読み頂いて、本当に感謝です。
最後まで楽しんで下さいね。

また、次回11月に更新します。

2015年9月21日月曜日

しばらく場をスタッフに委ねます。

すっかり秋で夜も長くなった。

この土、日曜日は本当に本当に素晴らしい時間だった。
制作の場とは汲めども尽きない無尽蔵なものだと思う。

場から離れる時間がどんどん増えて来た。

だから入れる時は精一杯挑んで、次の時間に繋げて行くし、
ズレが出ているところは修正して行く。

それと同時に違う繋がり方も必要だと思う。

まあ、場を共有して来た人達とは深い部分で繋がっている。

世の中の流れはとんでもないところへ来ている。
子供達の将来に何が出来るのか。

これまでのことでも、最善の方法を日々選択して、努力も続けて来たが、
出来なかったことの方がはるかに多い。

大きな流れに逆らうことは出来ないのか、と無力感を感じることもある。
でも、諦めることはこれからもないだろう。
今出来ることはやって行かなければ。

ブログも暫くお休みします。
また11月に書く予定です。

場でいつでも共有しているように、
どんな時も想い合って行きましょう。
僕達はいつでも一緒。

一人の人間に出来ることには限界がある。
身体的にも能力的にも、時間的にも空間的にも。
誰かだけに、頼らないように、みんなで力を合わせて行こう。

場のことを片時も忘れない。
響き合う時間を。一人一人の笑顔を。
美の連鎖を。個人を超えた計り知れない仕組みの素晴らしさを。

この2日で生まれた作品だけ見ても凄まじいものがある。
作品が示す生命の仕組み。この大自然、大宇宙の摂理。
美の原理。
それは一人一人が無駄なものを捨てて裸になって、
謙虚に向き合った時、動くものであり、
自分ではなく、目の前の人に対して、
全てを差し出した時に、響き合うリズムがある。
そのとき、世界は本当の姿を見せる。

僕達はただ、何も考えないで従っていれば良い。

さて、この先どうなるのか、分からないけれど、命ある限り、
みんなと可能性を切り開いて行こうと思う。

一緒に前をむいて少しでも良くするために、歩み続けましょう。

2015年9月19日土曜日

光の戯れとしての世界

晴れました。

昨日までの天気が一転。これが秋ですね。

土、日曜日の制作です。

10月は三重で過ごさせて頂きます。

こころをこめて、場に挑んで行きたいと思います。

昨日、東京都美術館に伺いました。
キュッパのびじゅつかんは、一年前に楽園展を行っていた同じ場所。
テーマも近いと思います。
目の前の世界を新鮮に捉え直す。
その眼差し。世界との対話。
驚きと遊びと、広い広い世界に感覚と知覚を開いて向き合う。
そんなテーマが共通しているかな、と思います。

モネ展の内覧会。
これは是非ご覧頂きたいです。
何処までも色彩が溢れ出して、この世界が沢山の光が戯れ合う、
全てが渾然一体となった情景として迫って来た。
モネが見ていたのは何だったのか。
色と色の境界は消え入るギリギリのところにあって、
物の輪郭もほとんど消えて行く。
白内障になって視力を失って行く時期の作品を見ていると、
見えるって何なのか、と思う。
確実にモネの方が見えているのだから。
世界は色であり、色とは色彩とは光に他ならないのだ、と。
世界は光の戯れで、それが無限に連鎖して行くのだ、
と言うところまで見えていたモネの凄さ。

そしてやっぱり確信するのだが、
これはダウン症の人達の描く世界と共通している。

重なってくるのは当然で究極のところにある何かなのだから。

外へ出ても世界は色彩に満ちていた。
ある時期に外を歩いていて風景全体がしんじの絵のように見えたが、
描かれる世界とはこころの深くにあるものであると同時に、
この世界の本当の姿なのだ、ということ。

今日もそんな制作の場へと向かいます。

2015年9月16日水曜日

金木犀

夕方から静かに雨が降っている。
みんな疲れは出ているからゆったりと過ごしたい。
今日は静寂な一日。

外へ出るともう金木犀の香り。

今年になってから亡くなった人達が頭を過ったり。
アトリエで音楽をかけていたけど、歌がやっぱり響いて来る。

写真家の中平卓馬さんも亡くなった。
イサ達がお世話になった。
アトリエにも一度来てくれたことを思い出す。
初対面の時、扉を開けるなり
「こんなところにあったのかあ。おれ、ずっとさがしてたんだよ」
と言ったこと。
その言葉はこのアトリエの場がどんなものなのかを感じさせる。

誰しもにとってそんな場でありたいと思う。

綾戸智絵の歌にぐっと来て、何か救われるような感じがあった。
人に希望と勇気を与えるもの。
何か救いのようなものを、肯定を、
生きていること、世界とか人間を、やっぱり良いな、と思わせてくれるもの。
そういうものしか美とは呼べないと思うし、
そういう感動を与えられるもののみ仕事と言える。

僕達の現場とは、中へ深く入った時、誰もが肯定される瞬間を目指すもの。

以前このブログを読んで下さった方からメールを頂いた。
深いところから、人間はみんなどこかで救われている、
大丈夫なんだ、と思えて涙が溢れてきた、と。
困難で辛い現状の中でも精一杯大切に生きて来られた方なのだろう。

場の中でもそうだけど、そういう視点が少しでも、
人の中に入って、ちょっとでも余裕が生まれたり、
楽になったり、ほんの少しでも、
こころの中でそんな場所があることを感じて貰えたら、どんなに嬉しいことか。

いつも一緒に居て、作家の中でも特に透明感の強い人は、
ふわっと浮いているような感覚で、その言葉は一体何処から来たのだろう、
と思うようなことを言ったりする。
その瞬間、ふっと場自体が軽くなって、宇宙に漂っているような感覚になる。

絵の中での景色が全て上の方から眺められた構図になっている作家もいる。
それから、地球をやっぱり上から見た感じに描いている作家もいる。

場に立っていて、みんなと一緒にふっと、そんな場所に居ることがある。

とても柔らかくて、すーっと透明で、何処までも軽い。
この世で起きていることは全部、仮の姿で、この場から見えるように、
僕達はみんな守られている、みんな、どんなこともそのままで良いのだ、
と、そんな風に思えたり見えたりする瞬間。

実際の僕達が生きている世界では、やっぱり辛いことの連続だし、
本当にままならないけど、
そんな中でちょっとでもその景色を思い出すことが出来たら、
感じることが出来たら。
全てが良い悪いだけで決められた世界に生きていて、
全部どちらの要素もあるよ、本当には否定出来るものは一つもないかも知れない、
と思えれば、もっと争いは減って行くだろう。
もっと人に優しくなれるだろう。

深いところで見えてくる世界で、例えひと時であっても、
僕達は知ることが出来る。見ることが出来る。
本当にみんなが居る場所があって、全部があって、
何一つ否定されないで、そこはずっとずっとあるのだと。

この人生の中でそんな風に感じられる瞬間をどれだけ増やすことが出来るか。

場はその人の中に生き続ける。

このブログでもそんな景色を少しでも感じて頂ければ、と思う。

2015年9月15日火曜日

遥か彼方

空もずいぶん高くなった。
夏は遠く行ってしまった。
夕方から聴こえてくる虫の音。
透明な光。

信州に居た頃はよく、田んぼのあぜ道から夕日を見た。

怒濤のごとく過ぎ去った日々。

平日のクラスでは、この時期は割と静かに過ごしていて、
みんなの穏やかな表情が掛け替えのない時間を写す。

作家達の生きている世界では、今と言うものが全身で感じられている。
そんな風に僕らも生きてみること。

今と言う時間を、そこで起きていることを、
しっかりと、そして深く、よーく見て行こう。

いずれ全ては過ぎ去る。
去って行った時にしか見えて来ないものがあり、
むしろそちらの方が大きいことを知っているから。

皮膚がヒリヒリと痛みを感じるような、
そんな切実な実感の中で生きていたい。
例え傷つき、疲れ、失望しようと。
絶望しないために希望を抱かないのは、つまらないこと。
別れの切なさから出会いを避けるなんて、それでは何故ここに居るのだろう。

深く深く向き合う程、喜びも悲しみも大きくなるものだ。

どんなものであれ、そこにあるものを愛して、よく見る。生きる。

僕達はずっと途上にいて、あるもの全てが仮のもので、
今こんな風に掛け替えのない輝きの中にいるのだから。
そしてそれら全ては消えて行った時に本当に生きてくるのだから。

大切なものが目の前にあり、それを噛み締めて、その流れの中に深くあること。

僕らは制作の場と時間の中でそんなことを学んで来た。

最も透明になる瞬間、場はこの世の全てを見せてくれる。
自分から離れて、全てが見渡せる場所に立たせてくれる。
遥か彼方からこの世界を見つめる視線。

そこから見たとき、これまでよく見て、よく生きた現実は全て今でも輝いている。

そこから見た時、存在する全てが透明に輝く。
どの時間もどの空間も、あらゆる場所と瞬間がその場に同時にあり、
同時に動いている。

僕達はみんな今ここにいて、この世界を生きていると同時に、
遥か彼方に立っている。

だから、辛いことも悲しいことも含めて、
深く向き合って深く生きて行こう。
決して明るくないこの現実の中で、それでも目を背けず、
何が起きているのかよく見ていよう。

自分のいる場所とそこに居てくれる人達を大切にしよう。
一度しかない時間の中に居るのだから。

2015年9月14日月曜日

いつまでも輝く昨日の場に

曇り空。涼しい。

昨日のアトリエは本当に素晴らしかった。
時々、あんな風になるから場は不思議だ。
神秘とか奇跡と言って良い場面がある。

場はその一回が全てという側面は確かにある。
その自覚が必要だ。
でも、もう一つ忘れてはならないことに、蓄積されて行く要素。
これは良いものも悪いものも残って行くので、
後のことがある程度見えていなければならない。

結論から言うなら全てのプロセスが正確であること。

仕事は韻を踏み続ける。それに尽きる。

全身全霊で注いで行く、ひと時も疎かにしない。
日々続けて行ければ、場は確実にあの日曜日のような場面を見せてくれる。

条件としては、体調的にもみんな疲れていたし、難しい現場のはずだった。
でも、感触はすでに違っていて、何か来るぞ、という勘があって、
それはだんだん大きくなった。
来ている、確実に来ている。
グングンと深みに入り込んで行く。
凄まじいエネルギーと集中。

作品は当たり前に純度の高いものばかり。
しんじが特に良かったが、これは彼が一人で描いたものではない。
僕らにとってそれは当然のこと。
しゅうちゃんが前で何度も何度も場を引き出していたし、
さとちゃん、だいすけ、みんなが高いところで響き合っていた。

こういう時には本当に彼らの10年を超える関係の深さを思う。
それを言葉にするのでは無く伝えられる豊かさ。

生きている醍醐味の全てがそこにあった。

場と言うのはやっぱり途轍もない何かだ。

そこに、その人が居るということの凄さを、本当に深く経験し生きること。

あまり多くは語れない。
またあのような場面がやって来るだろう。
韻を踏み続ける。正確に刻む。ひと時も疎かにしない。
どんな時でも、それを続けて行くこと。
そうすれば、またあの場所へ行けるだろう。

日曜日の朝早くにラジオを聴いて下さった方々、
本当に有り難う御座いました。
ディレクターの方は深い共感を示して下さったし、
熱意のある素晴らしい方でした。
ナビゲーターの平井理央さんの気配りの素晴らしさ、
プロとしての仕事のお陰で、時間をあまり意識せずに話すことが出来ました。
深く感謝しています。

体調を崩している人も多いです。
無理をしないで、身体にお気をつけてお過ごし下さい。
今日も良い一日になりますように。

2015年9月12日土曜日

地震

朝、かなり揺れました。

本日のアトリエは平常通り行う予定です。
これから準備に入ります。

交通状況もご確認の上、くれぐれもお気をつけてお越し下さいませ。


2015年9月11日金曜日

場を想う時間

秋なので忙しい時期でもあり、10月は東京に居られないこともあって、
いろいろ整理すべきことも多い。

それでもやっぱり秋は内省的になって行く。

最も敏感に動けていた時は、場から離れればすっかり何もかも忘れていた。
その方が良いと思っていた。

今はまたちょっと違って場から離れている時に、
場を思う時間が大切になった。

場のことを思い浮かべる時間が楽しくもある。

いっぱい見て来たなあ、と思う。

ここで生まれているようなレベルの作品は他ではそうそう出て来ない。
当たり前にそう言ってしまうことが出来る。
それは事実だから。
でも、僕は場の中で絵を見ている訳ではない。

もっと言うと作品と言うのは手段に過ぎない。

場の全ては一つのところへ行くためにある。
そこではみんなが、自由で、平和で、輝く。これ以上のものはない。
そしてそれは誰も否定出来ない。

ここが最高の場だといつも言う。
普通はそんなこと言わないし、言えない。
確信がないから。それから自慢話ととられるから。
場は僕のものではないから自慢しようがない。

良い作品が生まれる条件がある。
良い場になる条件がある。
しっかりと条件を満たすのみ。

最近もそうだけど形だけ真似する人が後を絶たない。
表面だけまねる。どうにもならない。やっている本人も実感も充実感もない。
だから何処にも行けない。

本気でやる気があるのなら、いつでも教えるのに。

さあ、2、4週のクラスだ。
土曜日のクラスは集中という側面から見れば、今一番かも知れない。
かなり深く入る時間。

静かな夜に、虫の音を聴きながら場を思う。

2015年9月10日木曜日

水に包まれた時間

台風の影響で猛烈な雨が続いた。
圧倒的な水の世界だった。
平日のクラスと重なった日もあったが無事に。

ラジオに少しだけ出演します。
9月13日(日)朝7時05分〜7時15分頃 J-WAVE 「WONDERVISION」
生放送です。お時間のある方、宜しければお聴き下さい。

怒濤のごとく降り続ける雨の中で、時に水が止まって見えたり、
霞んで遠くへぼやけて行ったり、強い浄化を感じたり、
今もう、その雨が存在していないことが不思議だ。
こんな風にある全てが本当に夢幻のようなものなのだろう。
洗い流してくれる、という感じもあった。

いくつもの時間が交差する。
時に凄まじいスピードで駆け抜け、時に永遠のように静止して。
速い流れと、止まっているかのような場面が、同じ場で交わっている。

色んなことを思い出す。思い出すと言うよりは、その場面が動き出す。

場と言うものに人生の全てを賭けて来た。
今の場がどんなものであれ、それこそが与えられた回答だと思っている。
そして物理的には場に立つ時間はどんどん減っている。

役割を与えられて、そこに居られたこと、今こうしてここで見ていること。

これまで出会って来た人達のやさしさ。

想いをのせて、想いをなぞって来た。

どこまで来たのだろう。何処まで行けるのだろう。

場は何処から来てくれたのだろう。
僕にとっての場はいつ終わってしまうのだろう。

これまでも、これからも場の意志に従うしかない。
場が決めること。ずっとそうやって来た。

良いものも悪いものも、やって来る何ものも受け止めて、しっかり見て来た。
そんな全てが見せてくれているものの大切さ。
誰かから来たもの、どこかから来たもの。
ほんの一瞬しかこの場に留まってはくれないのだから。

自分なんて居ないし、自分のものなんてどこにもない。
それが場から見た答えだと言える。

だから与えられた全てを抱きしめる。

僕の心や身体を使って生きてくれている人達。
もう会えないと思っていたのに、こうなってからの方がより生きている人達。
最近は増々、みんなが居るのを実感する。

無数の時間と場所を同時に生きていることを実感する。
何もしないでも、何かがやって来て、何かをしてくれる。
ただ任せていれば良い。そして今しかない一瞬を全身で味わう。

誰かに見せてあげたかった景色があるなら、
今自分が見に行くこと。
そうすれば、みんなに見せてあげられる。
いや、それはみんなで一緒に見ているということだ。

降り注ぐ雨。溢れる水。流れる時間。
身体はまだ雨の音を聴いている。
あの場面だってある日、突然戻って来るだろう。

無数の場面が交差する情景を見つめながら、
また現場へと向かう。もう一度、更に深くなぞるため。
掛け替えのない時間と人と出来事に愛を伝えるために。

2015年9月7日月曜日

一緒に見たもの

土、日曜日の制作の場。
やっぱり最高の時間が流れていた。

とても静かで深いもの。

金曜日に久しぶりに東京都美術館の中原さんにお会いした。
人間同士、響き合えることが最大の幸せだと思える再会だった。
展覧会から一年が過ぎ、沢山の想いを伝え合ったけれど、
これはもうまたご一緒する運命なのだろう、と感じた。

それにしても、
中原さんはいつも僕の中にある深いものを引き出して下さる。

一緒に作品を見ながら、凄い光景を見ていた。
この景色が共有出来るからこそ、お互いを信頼出来るのだ。
こんな世界があることを多くの人は知らない。

数ではない。
僕達は深い想いを持った人達と響き合って、
本物の繋がりの中で、本当の仕事をしていく。

どうなるか分からないし、一寸先は闇と言うのは、
今の人類に突きつけられた真実だと思う。
でも、どんな状況の中でも最善を尽くして行こうと思う。
出来ることを全てやって行こうと思う。

昨日の午前の場の中で、
ここでよく書いている情景が再現されていた。
たった4人で居たのに、その場に沢山の人や想いや景色がやって来ては去って行った。
僕らは知っている偶然でこんな言葉や気持ちは出て来ない。
場に立つ時、僕達は個人ではない。
誰が誰とは言い切れないし、何処までがどうとも言い切れない。

みんなと出会えて、一緒に居られて、繋がることが出来て、
そして一度でもあの同じ景色を見られたことを忘れない。
本当に幸せ。

2015年9月3日木曜日

秋の空は

夏の後半は三重での時間を頂きました。

9月1日より東京で仕事しています。

早くも名刺の山状態だけど、その中で素敵な出会いもあった。

夏も終わって、雨続きの秋の空。

10月は一ヶ月お休みを頂き、三重で過ごします。

気持ちを切り替えて、精一杯の現場を頑張ります。

離れている人達もいつでも繋がっているし、
みんなが居る場所に僕は行く。

何度も書いて来ているけれど、一つの場は他の全ての場に通じていて、
深く入って行くとこれまであった全ての場が、みんなと共有されて行く。
ここが僕達の居る場所。誰一人欠けることなく、みんなが居る場所。
そういう言葉はなるべく使わないようにはしているが、魂の場所だ。
そこでみんなはいつまでも輝き続けている。

だからこそ、その実感をみんなが認識出来るような、
純度の高い場を創らなければならない。
一回の場はそれが最後になるかも知れないのだから。

色んな人に会って、色んなことがあった夏の時間。
三重のジャスコで買い物している時、ゆうたが玩具を見ると言うので一緒に。
乗り物の玩具を凄い集中力で見つめる。
純粋な眼差し。想像の中で玩具で遊んだりしている。
僕はパズルのコーナーをふと見ると、アニメのワンピースのやつが展示されていた。
その中に僕は知らなかったが、
モザイクアートというジャンルが存在するらしく、
沢山の写真を集めてその濃淡で一枚の絵になるように作られるものなのだろう。
ワンピースも見たことがないし、モザイクアートも知らなかったが、
そこにあったワンピースのモザイクアートのパズルに僕は感動した。
目が釘付けになって、その前に立ち尽くしていた。
アニメの無数の場面が一つ一つは鮮やかに一枚になっているが、
それらが集まって大きな一つの絵になっている。
主人公がニッコリ笑ってピースしている大きな絵。
ああ、そうこの景色は場だな、そうこれのことだよね、と思った。
一体になるという言葉をあまり好きでないのは、
その中で一つ一つの固有の輝きが曖昧になり溶けてしまうからだ。
それは眠りに近く、あるいは煮物のようで、場は決してそんなものではない。
むしろそれぞれの断片はかつて無い程、活き活きと輝いて動き出してこそ、
場だと言えると思っている。
だからそのパズルの情景は現場そのもの、人生そのものとも思う。
全体で一つの絵になっているのに、集まっている断片それぞれも、
そのまま一つ一つの景色として存在している。
喜怒哀楽、良いも悪いもみんなあって、これまで起きた全部があって、
それを同時に輝かせている一枚。
全部を入れた景色が笑顔でピースと言うのも本当だ。

みんな居るよ。みんなここに。
世界の全てがここにあるよ。
どんなことも、ここから見れば、素晴らしい何かなのだと。
だから一緒にこの世界を見て行こう。
だからみんな大丈夫。
降り積もる雪のように、音もたてずに満ちて行く実感。
何もかもが過ぎ去って、なにもかもがここにある。
音楽のように見えないけれど存在する調和の律動。

さあ、見に行こう。さあ、生きよう。全身全霊で。

良い時間を。

2015年8月10日月曜日

過ぎて行く夏

夏の制作、無事終了しました。

まだまだ暑いのに、アトリエが終わってしまうと、
何か夏も終わったような気になってしまう。
僕もイサも全力で挑んだ日々だったのでぐったりと言うよりは、
充実感とともに放心している。

みんなの笑顔が忘れられない。
作品も含め、本当に素晴らしい日々だった。

やっぱり制作の場は最高だと思う。

ここまで一人一人の生命が輝く場面を見ていると、
人間が生きてそこに居ることがどれほど凄いことなのか、
そして希有なことなのか、痛感する。

一場面たりとも疎かに出来ない。

みんなが見せてくれたものを、今感じている。

みんな本当にありがとう。
思い合う姿、響き合うリズム。
最高の場と笑顔と輝く作品。

蝉の声が遠くから響く。
この夏も去って行く。

土曜日の夜、花火の音を聴いていた。
体力があったら見に行くのだけど、全力の場の後だったので動けなかった。
どこかで夜空に光っている花火が、確かに見えていた。
ああ、奇麗だなあ、良い夏だなあ、と。
僕達の場は花火みたいだ。
みんなの輝く姿が駆け巡った。
沢山の作品達。

全てが過ぎ去って行く。
切なく悲しいと思う気持ちは大切だ。
その悲しみがあってこそやさしくなれるのだし、
一つ一つを大切に出来る。
そして今この瞬間を噛み締める。
共に居る人達、居てくれる仲間を思う。
決してやり残してはならないのだ。

この夏は全力で駆け抜けた。
みんなの素晴らしさをみんなで感じられた。
僕達は確かに生きていた。

過ぎ去って行く儚さ悲しさと共に、心の奥に刻まれ残って行く何かを知っている。
残してもらえたもの、残してあげられたもの。
それは宝物だ。何より大切なもの。

素敵な時間をありがとう。

また9月に会いましょう。

2015年8月8日土曜日

夏のアトリエも、残すところあと1日。

まだまだ暑い。
でも今日は少し風もあってずいぶん助けられた。

フラボア中目黒店での小さな展示が本日より始まっております。
東京アトリエは夏の制作期間中で僕もまだ展示を見ていません。
早くお伺いしたいと思っています。
今回の企画を進めて下さったデザイナーの佐々木春樹さんは、
本当に真摯な方で作品へ向ける眼差しや、
アトリエの活動への共感は、確かで強い方だと、
これまでお仕事をご一緒しながら感じて来ました。
とても信頼している方です。
深い部分で響き合える方でもあります。
今回、額は簡易なものを使っているので、
若干反射したりとか、作品を鑑賞するのにベストとは言えませんが、
これまでの展示とはまた違った視点で、新しい作品をご覧頂けるかと思います。

画面全体を一色の濃淡だけで表現されている作品や、
他の数枚のちょっと渋めの作品はこれまで外へ出ていないものです。
こういう作品を選ぶあたりがさすがは佐々木さんと思いますが、
ここで僕の個人的な感想は控えた方が良いでしょう。
お時間のある方は是非、原画をご覧下さい。

さっき、少しだけ雨が降った。
静かな、とても静かな夜。
蝉の声が聴こえ始めたのは最近で、これだけはちょっと遅かったかな。
こんなに暑い時に、と思う部分もあったが、
夏の制作を今年もすることにして良かったと思っている。
いつの間にか、明日が最終日となってしまった。
まだ夏は続いて行くのだけど、僕にとってはこの制作期間が夏の中心だった。
連日、とてもとても良い時間だったばかりでなく、
普段の制作時間に出来なかったことが出来たり、
普段見られなかった作品が生まれたりと、日々新たな現場があった。
みんなの存在がやっぱり素晴らしいなあ、と思える時間が流れた。
嬉しいこともいっぱいあった。
勿論、気になっている人もいるし、ちょっと今後が心配な人も居る。
ずっとそこと向き合い続けている人、良くなったりまた辛くなったり、
行き来している人も居る。
でも、こうして場の中でみんなに役割があって、
みんなが認め合える、そして一人一人が輝くという場面。
響き合えることの素晴らしさ、楽しさを実感する。
この世の中でこの場所だけが、という作家も居る。
僕だってそうなのかもしれない。
だからこそ、ここで内面的な意味でだけど、取り戻せること、
人生の逆転ができることが嬉しい。

せっかく生まれて来たのだから、深い実感の中で、良かった素晴らしかった、
と肯定したいし、一緒に居られる人達を深く愛したいと思う。
それが出来るということを僕達はここで学んで来た。

夏の制作。とてもとても素晴らしかった。
まだ明日、1日ある。
この夏を精一杯生きて行こう。

2015年8月6日木曜日

夏の制作もあと少し

パソコンのあるこの部屋はクーラーも効かず、
ブログを更新しようと思っても頭がまわらない。

暑くて暑くて、という夏だけど、これも過ぎ去ってしまえば、
この気候と共に思い出す懐かしい場面になるだろう。

夏の制作では思った以上に、
参加してくれている作家達の集中力が持続している。

最高の舞台で、最強のメンバーと、
感覚をフルに使って響き合って行ける幸せ。

残すところあと3日となってしまった。
みんなで楽しんで行きたい。

こんな夏だったよ、と。
一人一人の笑顔と輝く作品と共有した時間が、
深い深い大切な記憶となって、細胞の芯に生きて行くような、
そんな現場でありたいと思う。

2015年8月4日火曜日

展示あります。

まずはお知らせです。
今年もフラボアさんとの企画で、
アトリエの作家達の作品がデザインに使用されております。
コラボアイテムの発売が8月8日となります。
合わせてフラボア中目黒店にて、原画の展示を行います。
展示期間は8月8日〜9月27日となります。
デザインの雰囲気と合わせて、
作品の選定と展示はデザイナーの佐々木春樹さんが行っております。
これまで展覧会等に出ていない作品が数点あります。
この機会にご覧頂きたいと思います。
10点の小さな展示ですが、かなり良い作品が選ばれています。
アトリエの作品を何度もご覧になっている方でも、
おお、こういうのもあるのか、と感じて頂けるかも知れません。

東京アトリエは現在、夏の制作期間中です。
毎日、本当に純度の高い作品が生まれています。

ここ数日も最高の現場があって、
ここだけ別世界のようだと感じていた。
本当にそれは作家もスタッフも共有している実感で、
色々あるけど、この時間があるしな、とみんなで感じられる喜び。

現実逃避や誤摩化しではない、本当の意味での輝きをこの場で実現して行く。
人に肯定的な感情を与えること、幸せを噛み締められること、
そういうもの以外は信じない。

深い実感を持っての幸せとは、深く入って行かなければ得られないものだと思う。

その場にいることには強いリアリティーや迫力が無ければならない。
そうでなければその場で誰も信じないだろう。

何度も書いて来たが命懸けでなければ、人は輝かない。

缶詰の魚の油と醤油の汁。
あれを呑むと何と言うか、幸せな気分になる。
子供の頃、水商売をしていた母が3時とか4時に帰って来て、
一緒に缶詰を何度か食べたことがあった。
親子としての感情はあんまり強く持てないまま大人になってしまったけれど、
あの時間は今となっては大切な感触を残している。
何かあたたかい感じ。

小さい頃は、大人の感情から距離を置くことで身を守って来た部分もある。
兄とだったか、妹とだったか、母が一緒に居て、
魚を食べていて、食べ終わると、目を瞑って、と母が言う。
今から魔法をかけるから、と。
目を開けると食べてしまったはずの魚がまた出来ている。
片面を食べてまた片面を裏っ返したのだ。
僕はそれを見ていて、素直だったから、魔法をかければいくらでも食べられる、
と思ってしまった。それにいつでもお腹がすいていたから。
「もう一回、魔法使ってよ。」そう言った瞬間だった。
母の怒鳴り声が響いた。裏っ返しただけに決まっているでしょ、
そんなに食べるものがある訳無いでしょ、と。
あの頃は母も切羽詰まった生活で不安定だったのだろう。

まだ父が金沢にいた頃、離婚していたので家は違うところにあった。
大きな赤い石のネックレスがあって、
母は僕に楽しそうにそれを見せてくれて、これがルビーなんだと言った。
この時も僕は何の悪気も無く、父のところへ遊びに行って、
母がルビーを持っていると話すと「なんなのはガラス玉に決まっているじゃないか」
と父に言われたのだ。
バカだなあと思うのだがそこでも僕はまた悪気なしに、
母に「あれ、ガラス玉だってね」と言ってしまった。
ここでも怒鳴り声が響き、何度かそんなことあって、
僕は大人に何か言う時はよほど気をつけるようになった。

今となっては懐かしい。
良いことなんて何も無かったはずなのに、
それに別にそんなことも何も傷にもならなかったくらいに、
家族のことなんか、故郷のことなんか、どうだって良かったのに。
ふとした時に、缶詰の記憶が甦って来たりする。
案外あたたかい時間もあったのではないか、とか。

僕にとっては全ての時間が大切な記憶だ。
どんなにどん底にいようと、不幸や悲しみを見ていようと、
そんな全てを、もっともっと奥にある輝きが肯定してくれる。

そういうことを教えてくれたのが場だったと思う。

だから場に立つということがどれほど幸せなことなのか、知っている。
その場に居る人、いや居てくれる人が、その瞬間、笑ってくれる、
もっと深いところから、喜びを感じてくれる、
みんながそういうものを共有出来る、それが場なのだと思う。

一つの場が成立していることは奇跡のようなものだ。

僕達は大切に大切にその場に立つ。
いつまでも一人一人のあたたかい記憶に繋がるように。
そこで見た景色によって、他の何もかもが肯定出来るように、
いつかは全てが掛け替えのない輝きを持って、
そこに在ることに気がつくように。
生命や創造性の深淵が覗けるように。

せっかく生まれて来たのだから。

どんなに酷い時代の醜い現実が迫って来ても、
僕達はこの景色を忘れてはならない。思い出そう。
人間は本来、こんなに輝いているのだということを。

2015年7月31日金曜日

ブルームーン

ずっと月を見ていた。
明日から夏の制作。連続でアトリエが開かれる。
どんな時間になるだろう。

いつだってそこに行けば、最高の時間がある。
場は決して裏切らない。そんな仕事をしたい。

ずっと憧れて来た場所がそこにある。

映画を見に行く。寄席へ行く。
祭りに行く。
そこにはいつでも夢があって、何か違うものが見られた。
見ている時間だけが全てを忘れて夢中になれた。

良い店や、旅館やホテル。

うっとりさせてくれる多くのもの。

人ってこんなに凄いんだ、こんなに素晴らしいんだ、と感じさせてくれる瞬間。

二進も三進も行かなくなって、どうすることも出来ない人達。
どこかで大逆転が起こらなければ嘘だと感じていた。

教えてくれた人達の傍へ行きたい。
楽屋裏でありスクリーンの向う側。
そこでは日々、汗と涙が流される。

場を見つけた時、僕はこれで行こうと思った。
たまたま、むいていた。センスもあった。必要な才能もあった。
その上で誰よりも努力を重ねた。
沢山勉強して、沢山練習して来た。

こころの深い部分での安心を持ってもらいたい。
満足して帰って欲しい。今までの自分よりもっと自分らしくあれるように、
その時間の中でリズムを見つけて欲しい。
そのためなら自分の命を削ってもいい。

どんな時でも美味しいものを作って、お腹いっぱいにして帰してあげられるように。
仕込みをした。準備をした。

喜んでもらえることを幸せに思う。

だから自分を裏切ることが一番出来ないことだ。

精一杯の、掛け替えのない場が目の前にある。

2015年7月30日木曜日

全てを含む瞬間

8月1日から夏の制作に入る。
かなり暑い日が続いているので、気をつけて進めて行こうと思う。

場について色んな人に語る場面が増えている。
僕自身の語り方も変化していることに気がつく。
年々そうなって行くことだが、場は増々、人生と切り離せなくなっている。
場は人生そのもの。とても個人的で普遍的なもの。
生きることに真っすぐ向き合う以外に答えは無い。

前回のブログでも書いているように、何か精一杯なもの、
全身全霊で輝こうとしている姿に胸が打たれる。

そうやって場を生きて来た。
場は人生が凝縮されたもの。一瞬の中に生きて来た全てが宿る。
だからこそ言い切れる。生まれて良かった、生きて来て良かった。
勿論、まだまだ責任もあるし、やって行かなければならない。
でも中身だけで言うなら、
見るべきものは見た。見せてもらった。
悔いは無い。一切。
そう言い切れることを幸せに思う。

凝縮された時間の中で場が見せてくれる景色。
走馬灯のように全てが輝く。

この前から洞窟壁画が気になりだして、写真を見たりしていた。
そしてヘルツォーク監督の「世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶」の、
DVDを手にした。
これは映画館で見ているのだが、改めて強く惹かれている。

映し出されるショーヴェ洞窟の壁画に圧倒され、
何度も何度も見てしまう。
真っ暗な洞窟の奥から様々な動物達が迫って来る。
考古学的な興味とは全く別に、なんて凄い世界だろうと思う。
何万年も昔にこの様な圧倒的な世界が描かれている。

これは一体なんだろう、という問い以上に、
何がここまで惹き付けるのだろうか、と考えてしまう。

洞窟の闇の中で動物達が動き回っている。
何かに似ている、と思う。
何だろう。
そうだ、これはダブだ。そして友枝喜久夫だ。
夢のようでも走馬灯のようでもある、一瞬の中に凝縮された無限だ。

ダブのことも友枝喜久夫のことも何度か書いた。
ジャマイカで誕生したダブという音楽を僕はもうずいぶん聴いて来た。
ダブとは録音された音楽の音をある部分だけ引き延ばしたり、
差し替えたりして、元の音楽の流れとは違うものを作るという手法だ。
このやり方というか方法がダブとして語られるが、
本当はこうした方法で生まれた世界が何を表しているのか、ということだ。
一言で言えば、真っすぐに流れている時間や、一つの物語を、
それが唯一のものとして僕達は生きているが、
その向うにはもっと無限で計り知れない世界が広がっている、
と言う事実をダブは見せてくれる。
音楽の流れは止まり、無数の時間が入り込み、それぞれが動き出す。
確固とした形が崩れて、裂けて、その奥にある無限が顔を見せる。

人間の形をもって身体という固定されたものを使って、
その奥から形をなさない動きを感じさせてしまう友枝喜久夫の能も同じだ。

ショーヴェ洞窟の壁画。
様々な動物達がまるで動いているかのように、
岩の凹凸にそって何層にも折り重なって行く。
様々な動き、種類、いくつもの時間、それら一つ一つがリアルに、
個別に動きながらも無限の中に重ねられて行く。
全ては同時にあり、様々な時間が同時に動く。
ピグミーの歌がそれぞれの声を何一つ否定すること無く、
活かしながら、同時に存在させて行くように。
それは夢のようであり、走馬灯のようだ。
現実は一つではなく無限だ。

これが場という凝縮された時間の中で見えてくる現実であり、
そして人生なのだ。

2015年7月28日火曜日

いつまでも輝く時間

暑さが続く中、アトリエ内での仕事ばかりだったので、
ここ数日あまり外へ出ていない。

土、日曜日は、この時期にしては驚く程の集中で制作しているみんながいた。
僕達も踏ん張ったのでかなり良い場になった。

保護者の方から相談を受けていて、心配していた作家がいたが、
まずは今の流れの中で出来るだけ安心出来る時間を創れたのではないか。

2日間、研修の方を受け入れた。
伝えられることは精一杯伝えた。

暑くて頭が回らず、仕事はきっちり出来るのだけど、
それ以外の時間はぼーっとしてしまってブログにまで辿り着けなかった。

以前、僕はダウン症の人たちを語る時に、
ゆっくりに見えるが、内面的なところから見ると、早い時間の中を生きている、
と言うような表現をしたことがある。

いつでも敏感で繊細な感性で物事の流れを感じとって行く姿は、
素直で正直で、素晴らしいと思うと同時に少し切なくなる。
こうやって感じて行くのに相応しい世の中ではないから。
見なければいけなくなる多くの現実を思うと、胸が張り裂けそうになる。

悠太と過ごしていると、いや、今の子供達を見ていると、
これに近いものを感じる。
僕達はゆっくりゆっくり大人になって来た。
でも、彼らの中を流れている時間はもうそうではない。
善くも悪くも、人生の早い時期に多くのものを見てしまうし、感じてしまう。
それは確実に現代と言う時代が生み出した一つの流れだ。

だからこそ、僕達はなるべく多くの、
あたたかく人間的でやさしい景色を見せてあげなければならない。

朝、何気なくニュース番組を見ていたら、
ある歌手の不幸な死をとりあげていた。
そのニュースを聞きながら、いつかこんな場面があったなあ、と感じた。
いうところのデジャビュというやつか。
この時間は昔確かにあったぞ、という感覚。

立川談志の書き残していた映画時評が「観なきゃよかった」という本になった。
編集も素晴らしい。
読んでいて、談志はやっぱり良いなあ、と思う。
世代的なものも大きいと思うけど、映画の趣味は全く違うのに。

ジーンケリーについて語った最初の文章を読むだけで充分価値がある。
素直な愛。惚れきったものを語る無邪気さ。

これを読んでいると、
今、「雨に唄えば」や「イースターパレード」を、観たいと思う。
観たいと思うけれど、暑い。2時間の集中力がない。

それでも頭の中でジーンケリーやアステアが鮮やかに踊り出す。
何度も何度も彼らの踊っている姿が駆け抜けて行く。
輝かしく、活き活きと。なんて素敵なんだ。
愛があって、喜びがあって、肯定的な感情をみんなに与えてくれる。
ありがとう、と自然に思ってしまう。

談志の落語、過剰な演出、やり過ぎな感じも、業の肯定も、
全ては喜んで欲しい、楽しませたい、これまでにない経験をさせたい、
と言う想いの結果ではないか。ある意味でサービス過剰にならざるを得ない。
ジーンケリーやアステアが全身全霊で輝いていたように。

そば屋でよく顔を合わせる人がいた。
僕達はたわいもない会話を楽しんだが、お互いについて何も知らなかったし、
知ろうともしなかった。
ただ偶然、時々顔を合わせる、人生のある瞬間にすれ違う人。
このまえ、そのそば屋に行くと、店主に「××さん、亡くなったそうです」と。
その時もあれえ、これはずっと前にあった場面だな、と感じていた。

ジーンケリーとアステアが頭の中で踊り続ける時間の中で、
CDでピアニストの演奏を聴いた。
新しい音だ、と感じた。
クラシックの演奏なのに、音楽の流れから音達が別のものを主張して、
文脈を離れて行く。
バラバラになったそれぞれの場面が、何故かよりリアルに迫って来る。
マイケルジャクソンの動きを思い出した。
身体がバラバラになって、それぞれが一場面をつくって行くかのような。
大きな物語の中に全てが収まっていたのが過去だとして、
現代の世界においては全てのパーツがバラバラになってしまっている、
と言うような纏め方をして良いのか、分からない。
でも、僕にとってもバラバラになった先で、それぞれをどう扱うのか、
というテーマがかなり大事な部分だと思っている。

ジーンケリー、
そしてアステアが今この瞬間を祝福している、ということがありがたい。
人はどうなるか分からない、特に今のような時代は。
それでなくともやがていつかは消えてなくなるのが僕達の宿命。
でも、だからこそ、全身全霊で輝こうとする。
人の輝きを見つけようとする。愛し合う。

しばらく熱に浮かされたような真夏の中でぼんやりしていた。
色んな人の姿が頭を過って行ったが、
やがて友枝喜久夫が現れるともなくやってきた。
友枝喜久夫の舞。走馬灯のように、夢の中を歩いて行く。
あるのか無いのか、居るのか居ないのか。
風のようでもあり、ほとんど形をなしている全てのようでもある。

そんな全ては幻。仮の姿にだと教えてくれているようだ。

こうして過ぎ去って行ったにも関わらず、
いつでも自分を助けてくれる景色のように、
生き続け、輝き続ける時間を創ること。
あれがあったから、あれが見られたのだから、生きて来て良かったと思えるような。

僕達の現場はそういう時間を目指している。
こころの中で生き続けるものは永遠だ。

2015年7月25日土曜日

昨日は特別支援学校の方の研修が行われた。
アトリエの活動を知ってもらいながら、
今度フラボアで展示される作品を額装したり、絵具の準備をしたり。

かなり深い部分に触れる話になったり。

次回は制作の場の映像を見て頂こうと思う。

大きな雷が鳴って、雨が降り続けた。

今日の東京もずいぶん静かだ。

遠いどこかの土地の何でも無い空や田園風景、
何故だか頭を過る。

夏休み前最後の土、日クラス。
暑いけれど、良い時間にしたい。

夏は駆け抜けて行く。


2015年7月23日木曜日

何も見ない

朝は雨。
今日は曇りか。灰色の空。
風の向きなのか、時々電車の音が聴こえる。
東京は静かになって来た。

もやっとしていて、涼しいとは言えないが、
ここ数日の猛暑で疲れ気味なので、これくらいの気候は休める。

小さな部分でなのだけど、身体も弱くなって来たと思う。
多分、気持ちの部分も。
別に気にする程ではないけど。
奥歯がまたとれてしまって、歯の治療をしなければならない。
この忙しいのに。

平日のクラスは昨日が最後で、今日から夏休み。
土、日曜日クラスはあと一回づつ。
8月は1日から連続で制作を行う。

明日アトリエで研修を受け入れるので、昨日は顔合わせ。
だったのだけど、すでにかなりお話ししてしまった。
真摯で誠実な方だったから。

次に繋ぐことや、他の環境で仕事される方に伝えて行くことを、
ここ数年ずっとやってきた。
この場だけであってはならないと思っている。

はるこが時々する夢の話は本当に面白くて深い。
出て来るイメージも凄い。
夢以外の起きている時間でも「画面」から色々見えるらしい。
誰々が画面から見えた、と呟いた数秒後にその人が入って来ることもある。
この前も欲しいマンガを探していたら、
次の日に「佐久間さん古い本屋さんに居たね。画面から見えたよ」と。
「何してた?」「マンガ見てたよ」

しばらく夢の話が続いていたので、
ある日「昨日はどんな夢?」と聞くと、
「何にも見なかった。真っ黒」。真っ暗だったかな?。
とにかく、ここが凄いところで、何も現れていない暗闇を、
彼女はしっかり見ていて自覚している。

実はこの意識の在り方が彼らの絵の秘密だと思う。
何故、あんなにもすぐに深いところまで行けるのか。
それは色彩や線やイメージから、
少しづつ深みに入って行くようなプロセスとは違っている。
むしろ、色彩や線やイメージが現れて来る、
何も無い深い場所に最初からいて、そこからイメージを生み出して行く、
というか自然に発生して来る、といった形に近いだろう。
勿論、いつでもそうであるということではなく、
そのプロセスを逆に行かなければならない時があり、
色と線とイメージから、あるいは筆の動きやそれ以外の振る舞いから、
そして会話から、辿って行って深みを見つけて行く必要もある。
そこを見極めるのが主にスタッフの役割だと言える。

それはともかく、真っ黒とか真っ暗の何も無い場所から、
ほとんど無限の流れが自然に生まれて来るという光景は、
普通の人ではなかなか経験出来るものではない。
それでも、それは人間にとっての根源的な在り方を表している。

はっきり言ってしまえば、暗闇とも何も無い場所とも言える何か無限なもの、
全ての源のような地点、そこを見なければ、
いくら形や言葉や、見えるものに意識を向けていても、
何一つ分からないとすら言える。
世界も宇宙も人の心も。

手放すと言うか、すっと最初に戻れる、と言うのは強い。
最初の場所に裸で立つことが出来れば、
そこから全ては自然に進んで行く。

これが創造性の源泉なのだから。

僕達はそこから来たのだし、いつでもそこへ立ち返れば良い。

「何も見なかったよ。真っ暗」という世界から、
活き活きと動き出す光や色彩や線。

僕達の抱える様々な問題も、
この何も無い場所に戻れなくなったことが原因にある。
だから制作の場とはそこへ立ち返って命を取り戻すことなのだ。

戻ることが出来る彼らと、帰り道を失って盲目的に争い続ける僕達の世界。
どちらが本当か。どちらが豊か。どちらが本質か。
今こそ、彼らの示すものから学ぶ必要がある。

2015年7月21日火曜日

波の音、潮の匂い。

厳しい夏ですね。

夏の制作は、こめるとか集中とかいう部分がやっぱり、
なかなか難しですが、その中でかなり良いせんで進んでいます。

とにかく、暑さ対策。

そんな中で奇麗な夕焼けがあったり、
東京の早めのお盆の茄子やキュウリに割り箸をつけて馬にして、
置かれているのを見かけたり、盆踊り、ゆかた、
商店街で見た阿波踊りがあったり。
夏だなあ。

セミはまだ鳴かないけれど。蛙も。蛙は田んぼが無いと聴こえないかな。

池袋のリブロ本店も閉店。
どんどん寂しくなる。

本屋さんで福井県の観光名所を紹介した冊子が無料で置かれていた。
その周りは福井コーナーで、先日亡くなった物理学者とか、
作家の舞城王太郎とか、水上勉とか、ドラマが話題の「天皇の料理番」の、
料理人の本とか、他にも色々、置かれていて、
福井県の奥深さが感じられる。
北陸新幹線が金沢止まりだということが、福井の人達にとってまたか、
という想いを抱かせていることを、僕は色んな人から聞いている。
不便なところだけど、だからこそ、福井は素晴らしい。
僕も何度か回ったことがある。
恐竜と縄文のことに興味のある方は行くべき土地だ。

福井と同じように石川県の中でも能登は未だに遠く不便だ。

能登半島の先っぽに立つと、朝鮮半島や中国、
そしてロシアが決して遠くないことが分かる。
福井と同じく能登にも縄文遺跡がある。

親戚の家に預けられていた頃や、宿泊施設で住み込みのアルバイトをしていた頃、
能登の海をよく見た。
連続して数多く行われる祭り。
車で僕を見知らぬ祭りに連れて行ってくれた女性。

小学校で交流したイルクーツクの人達。
彼らが帰りに飛行機をハイジャックし亡命に失敗し、
全員ピストルで撃たれて殺されたのだということや、
音楽を奏で陽気に踊っていたあの時から、楽器の中には武器が忍ばせてあったのだ、
という事実を後で僕達は知った。

僕らと同じ位の年齢の子供達のこと。
一緒に手を繋いで踊ったこと。
イルクーツクって何処だろう、どんな国だろう、と、
能登半島から海の向うを見て、ずっと向うに行けばあるのだろうか、とか。

もう一度、能登の先っぽまで行って、そこに立ってみたいと、時々思う。

金沢では本当に沢山のことがあり過ぎて、
そして今でもまだ言えないことが色々ある。
父のことや母のこと。あの場所にいた沢山の人達のこと。
忘れたいと思っている人も多いだろうし。

金沢に109がある事に驚く人が多い。
しかもかなり前からある。
あそこは祖父の家の近くで、09のある場所はもともと大神宮があったところ。
その時代は勿論僕は知らないが。
でもこの事実は重要だと思うし、ちゃんと記憶しておかなければならない。

みんな必死に生きていた。
ここには書けないけれど、かなり酷い目にあって来たけれど、
誰のことも本当に恨んだことは一度も無い。
みんなそうせざるを得ないほどに追い込まれていたのだから。

今僕は一つ一つの思い出や情景を掛け替えのない宝物だと感じている。
その中からどのパーツも失いたくはない。
多くの人が不幸だと思うような場面が、今の僕には輝くような何かとして見えている。
あそこに居られて良かったと思う。

いつも書くことだけど、過ぎ去って行った全ての時間が、
今でもここで生き続けている。

2015年7月18日土曜日

雲の隙間

制作前なのであまり時間がない。

大きな台風が時代の不穏な空気を暗示するようだった。

何かのため、誰かのためには、怒ること、抵抗することも必要だ。
今はそのことを思い出す時。
安保も原発も大きな流れの中でうやむやにされないように。
このまま行くと滅ぶという危機感を持ち続けなければならない。
大切なのは次の世代に何を残して行くのか。

男達の勘の悪さにはあきれるばかりだ。反応が鈍すぎる。
勿論、そうでない人達も沢山居るけれど。
でもこういう生命に関わる場面においては、
女性達の方が遥かに敏感だと最近特に実感する。

久しぶりに尊敬している方と長い時間お話しした。
こういう方達を見ていると本当に励まされる。
一つだけ。大切な言葉を。
本当のものはあまりにも普通すぎて多くの人に気づかれない。
だから評価されるものは良い悪いと関係なく、
目立つものインパクトのあるものだ、と。
そのとおりだと思う。
この普通すぎて気づかれない、というこのレベルの仕事をしたい。

いろいろあったけど、僕は良い場を目指して行く。
一回一回の制作に命を吹き込んで行く。
それが全てだ。

どこかで読んだので、間違っているかもしれないが、
ヴァイオリニストのチョンキョンファの言葉。
「私は学びの途上にいます。一つ一つのステージに命を賭けます。」

あの崇高な音は、この覚悟から生まれている。

今、大切なのは次の世代に、本当のものを知る経験や、
本質に触れる時間を、そのための環境を残して行くことだ。

大人はいつでも、仕事に向かう姿勢を、
生きる姿勢を見せて行かなければならない。

しばらく、内側から見えてくる情景を書いて来たが、
今回は外面的と言うか、外を問題として書いた。
責任ということも考えた。
またこれからも内面のことを書く。
そちらの方が僕達の仕事の部分だと思う。

グールドの演奏を沢山聴いた。
小プレリュードと小フーガ集は、グールドのスタジオ録音の中で最も好きなもの。
グールドは若い頃のライブの方が良いと思う。
でも、この作品は別格。
バッハの作品の中でも、演奏する人は少ないが、
ゴールドベルグや平均律クラヴィーアよりこっちの方が好きだし、
傑作だと思う。シンプルだけどエッセンスが詰まっている。
多分グールドもこの曲集が特に好きなのだと思う。
だから真面目に弾いている。
正確なリズム、明晰な構造、音の重なりが、螺旋のように刻まれていく。
まさしく宇宙の秩序のように。
いつの間にか人は消え、構造だけがそこに残る。
折り重なった音が快を与える。
我を忘れる、という気持ち良さ。

制作の場でもそうだけど、僕達は調和に向かって行く。
向かって行くのだ、ということは忘れてはならない。

今起きていること、そこに本当に向き合う必要がある。
戦争に反対したり、誰かを批判したりしているだけでは意味が無い。
平和と言うもの、調和と言うものも、選択し、意志を持って、
主体的に向かって行くべきもの。
争うのにある種の能力が必要なように、平和にも能力が要求される。
ぼーっとして放っておけば平和だと思っているのは、
それこそ平和ぼけと言うものだ。

そして、一人一人が理想を、平和を主張だけではなく、
実践、実証しなければならない。
今立っている自分達の世界において。

僕達は今日も場へ向かいます。

2015年7月16日木曜日

絶望しないこと

今日も暑い暑い一日だった。

直接的な表現は避けて来たし、
何かに賛成とか反対ということの意味の無さも知っている。
でも声をあげなければならない時がある。
黙っていてはいけない場面がある。

安保法案が強行で可決された。
今何が起きているのか、目を見開いていなければならない。

単純な一つのことしか言えない。
どんなことがあろうと戦争を拒否しよう。
子供達に触れさせてはならない。見せてはならない。
断固として争うことを拒絶する態度を教えて行くべきだ。

この不穏な空気の中で何が出来るのか。
無力ばかりが実感されるが、それでも諦めてはならない。

増々、人間の根源にあるものが求められる。
本当のものに触る経験が求められる。

制作の場は魂の居場所とならなければならない。

台風が近づいている。

昨日はデザイナーの佐々木春樹さんとフラボアの方達と打ち合わせ。
8月にフラボアの店頭での作品展示を予定している。
商品のデザインと同時に見て頂くので、
作品の選定と展示はデザイナーの視点で行って頂く。
佐々木さんにお任せしたが、作品を深く見る目と信頼出来るセンスの方だ。

僕にとってもお話ししていて響き合える人だ。
言葉を介さないで通じ合える稀な人。
希望に満ちた企画になるだろう。

今日はプレにあきこさんが来てくれた。
一年ぶりの再会。
春にも日本に帰って来た際に会えなかったけれど、連絡してもらっていた。
この場を、みんなのことを、忘れないでずっと大事にしてくれている。
去年の展示にも来てくれた。
くりちゃんもそうだけど、こういう仲間達がここには集まっている。
みんなの思いが一つの場となっていることを忘れてはいけない。

プレが終わった後、イサと少し話していて大事な大事な話になった。
かなり深いところに触れていて、何かに語らせられるかのようだった。

たった一つの情景が人を救うことがある。

僕達はこの世界の中で何か少しでもそういうものを見つけて行って、
人と分かち合って行きたい。
その場に居る人とは本当に奇跡のように出会っているのだから。

場と言うものを知っていたから、いや教えられ、導かれ、
見せてもらって来ていたから、だから希望を失わずに来られた。
世界は一つではないと知っているし、
過去は今でもここにあることも、死んだ人やいなくなった人が、
決して消えること無く存在し、語りかけてくれることも、
同時にたくさんの場所に自分がいて、自分が決して自分ではないことも、
全部、場が教えてくれたことだった。
沢山の声が僕に語りかけ、向かう方向を示して行く。
一緒に居る人、いた人は僕自身でもあるし、
むしろその人達が僕の身体や声を使って動いていることも知っている。

普段、見えないこと見ようとしないことが、
場の中では見えて来るとこと。
そのために耳を澄ましていなければならないこと。

この世において決して報われることが無かった人達を知っている。
絶望以外に無かった人達、今もなおその状況にいる人達。
僕達の関わるという仕事では手も足も出ないような場面。

何も出来ない現実。

そこで希望を失わずに一緒に居続けることが出来るのは、
もっと深い何かが存在していることを知っているからだ。
あえてこういう言葉を使えば、魂のレベルにおいてはどんな人も救われているから。
そこから見ることが出来れば、あるいはほんの一瞬であっても、
そのことに気がつくことが出来たなら、生きていることの価値が輝く。

もし浅いレベルでだけ世界を捉えるなら、
救われない人は沢山居る。
世界は不平等で不条理にみちている。
でももっと深く見て行ければ、そういうところまで掘り下げられれば、
僕達は決して絶望する必要は無い。
幸も不幸も、どんなものであれ、ある意味で全ては仮の姿に過ぎない。
仮りのもの。こころも身体も世界も。
正体はもっと違う姿をしている。
本質とか根源と僕が言うのは、目の前に現れている仮のものを通して、
その奥にある形をなさない存在を意味している。

人間も世界も、何かもっと凄いものだということが出来る。

成瀬巳喜男監督のたしか「流れる」という作品だったか。
その映画の中で様々な場面で背景から、どこか遠くで鳴り響く音のように、
ドーン、という太鼓の音が聴こえて来る。
その音が聴こえて来る度に何か不思議な遠い気分になる。
あの音は、あれはいったい何なのだろう。
あれは人生の瞬間瞬間に垣間見える生命の深淵なのではないか。

僕達の世界や命の背景には普段気がつかない、何か途方も無いものがある。
それは時にドーン、と聴こえて来る。

それはただただ、どーん、となるばかりで、それ以上言葉にはならない。
僕達が何か意味付けしようとしても捉えられないし、
決して自分のものにはならない。
あのどーんを聴く心地良さは、何も分からない、という感覚の懐かしさにある。

制作の場の中で、最も大切な瞬間はあの音を聴くことかもしれない。
そのとき、僕達は同じ音を聴いていて、放心したように、
あの懐かしい感覚に身を委ねている。
世界も、この自分も、誰ものでもないこと、
把握したりコントロールしたり理解出来るものではないということを。
僕達は我を忘れて、謙虚に身を委ねているだけ。
何か大いなるものが場全体を包んでいる。

命はかけがえがない。
大切にここに居よう。いつでもみんなと一緒だ。

2015年7月14日火曜日

見張塔からずっと

暑い、暑い。
夜も朝も。

今日は大事な打ち合わせがある。

ボブディランの古いCD。
誰かがくれたもの。

音楽を聴いていると、ふと思う。
こんなにも何もかもが過ぎ去って行って、
そして多くの人がもうこの世から消えているのに、
何一つ変わらないような感覚は何だろう。

初めて場に立ったその時から、
あれからずっとずっと同じことをして来た。
目の前に広がる光景に目を見開いて、ワクワクしながら素直に喜んでいたころ。

目上の人達からずいぶん可愛がられた。

やがて生意気になり、自分なりに見つけた答えに固執した時期。
仕事勘が冴え渡って何をしても的に的中し、
何処を突いても簡単につぼを捉えられた。
ちょっと本気で仕事すれば、見ている人達はすぐにうっとりした。
チヤホヤしてくれる女性達に囲まれ、誰からも非難されず、
言いたいことを言って、やりたいことをやって。
外から見たら調子に乗っているように見えたかもしれない。
でもあの頃が一番孤独だった。
歩みが止まっていることに気がついていたし。
身動きが取れない息苦しさを感じていた。

いくつもの夏。

全てはただただ過ぎ去って行くためにあるのだろうか。

昨日電車の中でランドセルを背負った小学生のいじめを見た。
お互いの力を試し、確認する時期が必ずある。
でも、そのいじめはそのようなものではなく、陰湿でひねくれたものだった。
人間の汚さを表すような。
「やめろ。やりすぎだ。」と注意したが、不快感が残る。
大人の世界そのものだから。

社会のこと、政治のこと、震災以後に起きていること、
意識的に発言しないようにして来た。
仕事を通してしか何も出来ないと分かっているから。
多くの虚しい言葉が飛び交っているから。

でも言って行かなければならないことはある。

子供達のことを考えなければならない。

あえてこの言葉を使うが戦わなければならない場面はある。
守らなければならないものがあるはずだ。

命に関わること、放射能のことを無かったことにしたり、
じわじわとしかし強引に戦争を肯定する方向へ向かったり。
そんなことを放置して良いのか。

外の世界のことでも、自分の内側のことでも、
向き合わない、逃げるということが一番恐ろしいことであり、卑怯なことだ。

僕達は制作の場において命と向き合う。
命とは響くもの。
この響きを聴いたことが無い人間は争う。
人間がどれほどの存在か知らないからだ。

醜いもの汚いものから目を背けない。
そこに向き合って真っすぐに進む。
もっともっと奥に光り輝くものがあるのだから。

きれいごとを言うつもりは無い。
実際に一つ一つの現場でそれを証明し続けるのみ。

僕達はずっとそうして来たし、これからもそうして行く。

そんなもの信じない、と多くの人が言った。
出来る訳が無い、と。
自分の幸せだけ考えれば良いのだと。
そう思う人はそう思えば良い。今でもそう思っている。

僕達は出来ることを知っている。
人間がこころの奥に持っているもの。
命の、魂の、輝き。

悔しい思いもいっぱいして来たし、挫折したまま居なくなった多くの人を知っている。
僕に託してくれた人達も居た。
沢山の涙と笑顔と、儚い想いも。
全部受けて、持って来た。

今言えることがあると思っている。
あったでしょ、やっぱり。
こんなに素晴らしい世界が広がっていて、
こんなに美しい風景を見ることが出来る。

ちょっと思っていたこともあるけれど、
ざまあみろとはおもう思わない。
でも勿体ないよ、と思う。
行けるのに。
人として生まれて、その可能性を充分使ってから死んで行こうよ、と。

僕達は同じ景色を前にしている。
一緒に見に行こうね、と思ってくれる多くの人達と歩んで行く。

照りつける陽射し。強い風。青空。
暑い、暑い。夏。

あ、今日のテーマに使った言葉は以前にも使った気がする。
でもいいか。たぶんこのフレーズが好きなのだ。

そろそろ花火やビーチを描く人がいるだろうか。
良い夏にしましょう。

東京です。

みなさんお元気ですか。
本当に暑いですね。

東京に帰って来ました。

三重では新たな繋がりの場となる小さなスペースを作ろうと、
家の一部を改装していました。
気まぐれミシンの会も充実でコースターが出来つつあります。
これはなかなかクオリティーが高いです。

悠太と家族との時間も有り難いものでした。

最近、改めてイサやきくちゃんの存在に感謝の思いです。
人生を賭けて選択して来てくれる仲間がいます。

きくちゃん、それから我が家の近くに最近、子供連れで移住して来た方が居ます。
ちかちゃん。
これから一緒に何か出来そうな予感がしています。

色んなことがありました。

いつの間にかの夏です。

いつだって簡単な仕事は無いですが、この時期の制作は難しいです。
どうしたってエネルギーは外へ逃げて行きます。
それは作家もスタッフも同じです。
ただ、この外へ開いた力は良い方向へ行けば素晴らしい作品に繋がります。
何度か質問も受けていて少しはテクニカルな問題も書こうかなと、
最近考えていました。
まだ少し後になるかも知れませんが。

東京アトリエは僕が離れている時間も、
しっかりと制作の質を守れるようになって来ました。
これでほぼ大丈夫だと思います。
イサはまだまだですが、基本はクリアしたと言って良いと思います。

僕が居なくても良いというところまでは行けると思っています。

作品整理をしながら、おやっ、今日は見え過ぎるな、と感じた。
そうすると色々と自分の駄目さが明晰になって、困ってしまった。

さてさて、またゆっくり様々なテーマを書いて行きます。
そして制作の場も夏らしい、この時期ならではの充実したものにしたいです。
暑さに気をつけながら。

2015年6月22日月曜日

マイトレイとヨハンソン

みんな素晴らしかったです。
作品も自然の光の中でビックリするくらいに輝いていました。

ずっと純度の高い場が続いている。

この場をしばらくイサに託して三重へ行って来ます。

僕達は場の中で何処までも行くと決断した仲間のように感じている。

生きていて、様々な経験の中で、仕事においてでも、
残念で悲しいことに全力を出さない人が多い。
もっと高みに登れるのに、もっと輝けるのに、進もうとしない。
やりきろうとしない。
疲れたくないのかも知れない。自分をさらけ出すのが怖いのかも知れない。
全力を出した経験が無いのかも知れない。

でも、本当の一番根っこにある理由は何となく分かる。

この瞬間が輝けば輝くほど、終わってしまう寂しさがあるからだ。
今日が人生で最高の日だと想像してみれば分かる。
明日からどうしよう、という思い。

幸せの絶頂ほど、過ぎ去って行く悲しみを感じさせる。

大好きな人が精一杯の努力の結果、喜びを経験しているのを見ているとき、
その儚さに切なくなる。

こういうことは普段自覚している訳ではないけれど、
無意識の内に自分にセーブをかける理由になっている。

僕自身も孤独や切なさ、悲しさを強く経験して来た。
一回の場で全てを使い尽くして、空っぽになって、ああ、明日どうしよう、
と呆然としていた頃も実はある。
でも、いつの頃か決断したのだと思う。
行けるところまで行くのだと。どんな瞬間も命の限りを尽くして輝くのだと。

今ではそれがいかに大切なことなのか知っている。
行けるところまで行って、輝く瞬間の中で全てを使い尽くして、
みんなと幸せの絶頂を噛み締めて、空っぽになって場から離れる。
一人になって、その充実した時間の感触だけが残っている。
これで良いのだといつも感じる。

僕の使っているCDデッキは壊れかけている。
勝手にラジオがついたり消えたりするので、使わない時は電源を切っている。
でも時々忘れる。
今日も忘れていて、部屋に戻ると珍しく小さな音から始まって、
だんだんと聴こえるようにラジオがついた。
誰かが歌っていて、途中からオーネットコールマンが入ってくる。
人の声のように響いた。その声は泣き声でも笑い声でもあった。
喜びと悲しみはほとんど一つの感情なのではないかと、
これは美しいものに触れた時にいつも感じることだ。

最近、ようやく最後まで読めた小説にミリチャエリアーデの「マイトレイ」がある。
一応は恋愛小説ということでしか言えないのだろうが、
この圧倒的に美しく悲しい世界をどんなジャンルでもくくる訳には行かない。

例えそれが恋愛以外のことであっても、
人生の悲しみは別れにあるだろう。
友であれ、場所であれ、
出会った大切なもの全てがやがては別れて行けなければならない運命にある。

マイトレイは美しく儚いもの全ての象徴でもある。
主人公はマイトレイともう2度と会うことは出来ない。
その断絶は2人が出会った最初の頃から直感されている。
2人が強く輝く時間の中に居た時、そこが幸せの絶頂であると同時に、
すでに深い悲しみが伴っていた。

だから恋愛と別れと言うより、もっと深いものが感じられる。
人の死によって大切な誰かの顔をもう2度と見ることが出来ないように。

マイトレイとの深く美しく濃密な時間。
人生の輝きの全て。優しさと愛おしさと、過ぎて行く時間。
他にどんな選択肢があったのか。

「マイトレイ」を読む時間に、これもたまたまだったが、
ヨハンヨハンソンのアルバムを聴いていた。
それは映画のサントラ用に作られた音楽だった。
あまりにも美しい音楽。
マイトレイにはあの音楽が流れていて、
あの音楽にはマイトレイの情景が浮かんで来る。
僕にはもう何処までがどちらの魅力なのか分からない。
でも2つともあまりに美しいことによって結びつけられている。

音楽は何処からか始まっていつの間にか消えている。
所々で美がふっと現れる。形をなさないギリギリの淡い世界。

僕達は全力で生きていて、ある意味でその中で無我夢中になっている。
その時は見えないけれど、後で気がつくことがある。

心の奥にしまっておいて、ずっと言わないでいた方が良いことなのかも知れないが、
無くなることで、消えて行くことで、
初めてそれらと繋がることが出来るのではないか。
別れこそがその人と自分を本当に結びつけるのではないか。
全ては消えて行くからこそ、輝き、何か永遠性のようなものと繋がるのではないか。

主人公はマイトレイと2度と会えなくなった時にこそ、
本当の意味で繋がり、その後を生きていったのだろう。

ヨハンヨハンソンの音楽にしても、沈黙の中へ消えて行ってから、
聴こえて来るものの方が大きい。

寂しさや悲しさは人を真実に近づける。

全てが消えて行くと言う切なく悲しい現実を真っすぐに見つめたとき、
人の眼差しは透明になり、物事を曇り無く見ることになる。
そのとき、人は直感する。
いや消え去った全ては今この瞬間にここにあるではないかと。
確かに何一つ失われていないではないか、と。
全てが活き活きと、そこに在って、それは永遠のような何かを感じさせる。

生命とは本当に不思議で掛け替えのないものだ。

どんな時でも生きていることの素晴らしさを実感出来る場を創りたい。

2015年6月20日土曜日

見たことも聞いたこともない場所で

朝はとても良い光と風。

今日は何処まで行けるだろうか。

月曜日からまた三重に行きます。
しばらく制作の場を離れるので、この土、日の2日間を大切にしたい。

月日の経つのは早いものだ。

僕達は気がつくと、
どこか途轍もなく遠いところまで来てしまっているのかも知れない。

新幹線が開通してかまだ金沢へ行っていない。
数年前からいくつかの場所が消えた。
金沢も変わった。

これも数年前だったか、何処かへ向かう途中で滋賀県のある駅を通った。
しばらく居たことのあった場所だけど面影は無かった。

震災直後に行った神戸の街。

それにそれぞれの土地にある小さな店。

消えて行った多くのもの。

いつでも思い出は美しい。それは実際の事実とは違う幻想なのだろうか。
それにしても幻想の方が強いリアリティをもってしまうのは何故か。

例えば、昔見てこころに残っている映画をもう一度見る。
その作品は全く違うものにさえ思える時がある。

あったはずのものが無い。
あったはずの場面や情景。

映画でも小説でも音楽でも、こういうことがよくある。
そして僕達の人生の経験の中にも。

錯覚だと思えばそれで終わり。だから終わりにしていることは多いだろう。

でも僕はそんな経験こそが本当に近いものだと思う。

いつでも深い体験は原風景に触れてしまうのだと。
僕達はこころの奥に普遍的な世界を持っていて、
それは見えるものでも聴こえるものでもなく、匂いも形も無い。
それぞれの人生や経験はそこへ触れるための手がかりなのだと思う。
固有のものをを通してしか普遍へは至れない。

どこかに残された記憶が、何かのきっかけで甦ってくる。
生きているということは高度な推理小説を読むようなものかも知れない。

制作の場に立っていると、それぞれが持って来る風景や、
大胆にあるいはそっと出して来る数々のパーツがある。
その人自身にも未整理で何故今それを出してしまったのかすら分からない。
コントロールのきかないものの方が深い部分に関わるものだから。
一つ一つを拾って行くと、やっぱりその人の中で欠かせない何かなのだと分かるし、
無数の断片が深い部分や浅い部分に重なって、
その人を存在させ、動かしている掛け替えのないものなのだと感じる。

最後に見えて来るものは一つだ。
でもそれは言葉には出来ない。
そしてそれはそのものとして触れることは出来ない。
それぞれが自分だけの感覚と経験を通してそこへ至る。

だから全く私的な体験が他の人のこころの深いところへ届くことがある。

本当の意味で人と響き合おうとするなら、
たった一人になる勇気と、裸になって開いていく覚悟が必要だ。
それが出来た時、あ、それ見たことあるよ、一緒だね、という場所に行ける。

美しいもの儚く悲しいもの、沢山の景色。
僕らは恐れることなく、その一つ一つを味わいながら、
手をつないで歩いて行く。
全部見て行く。逃げないで。
そしてようやく、みんなが繋がる場所にたどりつく。
そこには何も無いがこれまで見た全てがある。
僕達はみんなで顔を見合わせる。微笑み合う。
もう何も言う必要はない。

これが共感というものの本質だ。

やっと思い出す。ここは初めて来た場所なのに本当はずっとここに居たのだと。
大丈夫。みんなここに居るよ。
色んなことがあったけど、もう全てが必要だったと気がつく。
良かったね。誰も何も欠けていないよ。もう安心だね。
みんな大好きだよ。みんな一緒だね。

工程を省略してそこへ行くことは出来ない。
だからどんなことでも受け止めて、精一杯生きて行くしかない。
向き合うしかない。

ややメルヘンチックに例えたが、制作の場とはこのようなプロセスだ。
だからこそ、場は人生だと言い切れる。

もっと上手く書ける日が来るかも知れない。
今日はこんなところで。

さて本番の現場です。

2015年6月19日金曜日

今月も

一日雨。
土、日クラスの準備。気候の変化と共に微調整。
紙の質が明らかに落ちて来ているので、絵具等でのバランスも考えた。

スタッフの都合上、今月はこの土、日まで佐久間で行かせていただきます。
それと来月は1、2週が関川君ゆきこさんで、3、4週が佐久間となります。
普段と逆になりますが宜しくお願いします。

共働学舎のドキュメンタリー映画「アラヤシキの住人たち」を、
アトリエでもご紹介させて頂いていました。
ご覧下さった方々から多くの感想を頂きました。
ありがとうございます。
温かい場所で人の生きている素晴らしさを感じたとの言葉、
それに皆さんが佐久間の背景を感じたそうです。

共働学舎のこととなると他人事に思えず、ハラハラしていました。
まずはほっとしました。

何かが感じられる映像だったと思います。
そして、好評のため、まだ公開中だそうです。
引き続き、アトリエでも少しですがチケットを置きます。
ご興味のある方は制作終了時にお声をおかけ下さい。

とても良いと言って下さる方が多かったので、その次のことを言います。
あれは入り口に過ぎないと思っています。
少なくとも僕は。
入り口から入って、その奥に進んで行くと何があるのか。
僕自身は今のアトリエでそこを実践、証明して来たと実感しています。
今後も実践していこうと思います。

彼らの世界はもっともっと深いです。
その深く豊かなものを少しでも感じて頂ける場でありたいし、
そこから生まれた作品を通じて、彼らの凄さを知って頂きたいです。

最近、あからさまにエレマン・プレザンの真似をしている団体がいます。
人からも聞きます。
一言で言うなら上っ面です。果たして月日の経過に耐え得る活動なのか。
いづれにしても何かや誰かの仕事を引用する時は、
何処から借りて来たのか明らかにした上で敬意をはらうのが最低限のマナーだ。
そんなことすら出来ないのなら、その活動は根の無いものなので、
その内に消えて行くか、もしくは社会性の無いもので終わるだろう。
評価する人、受容する人の水準が低いので、
案外そういうものが残ってしまう場合もあるが。

これ以上は言わない。それで満足する人はそれで良いと思うから。
ただ作品が全てを語っている。
少なくとも、ダウン症の人達のセンスは、
僕達のアトリエで生まれているような質が基本であるはず。
はっきり言うなら、そのレベルのものが何処の団体を見ても出て来ていない。
何故なのか考えてみる必要がある。

作家に対しての尊敬心が感じられない、ということにつきる。

こんな世の中だから、今後こういった節操のない人が増えて行くのだろう。

制作の場で僕は答えたい。
これこそがこの人達の世界だということを。
そして、世の風潮に逆らってでも本当の仕事をしたいという真摯な方達に、
学べる場所を提供したいと思っている。
各現場で心ある人達は変わる準備が出来ている。
求めて来られる方達を見ていてそれを感じている。

諦めずに本当のものを見つけてもらいたい。

人が真に輝く瞬間がどれほど素晴らしいものなのか、経験してみて欲しい。

この瞬間に人と人が響き合って、奇跡のような何かが生まれる場面を見て欲しい。
より深く生きること、自分の全てを相手に差し出した時、
相手もまた同じように返して来る。
そこで繋がる関係こそが人の本来の在り方なのだと。

人のこころの奥にある創造性とは、調和へ向かうプロセスだ。
それは全ての人が持っているものだ。

僕達は制作の場で、次もその次も、命ある限り、証明し続けなければならない。
人はこんなにも優しくなれるし、こんなにも深く輝くことが出来るのだと。
みんなが居てくれることや、この瞬間があることが、
それだけで途轍もないことだということを。

明日も最高の時間が待っている。

2015年6月18日木曜日

意識していないもの

今日はもっと降るのかと思っていたが、この時間でもまだ静かだ。
何日か打ち合わせが続いていた。

志の高い方達と繋がっている。

夏にはフラボアでデザインされた商品と共に原画の展示も行われる。
また新たな希望に繋がる企画となるだろう。
詳細が決まりましたらお伝えしますね。

他の企画もいくつか同時に進行中です。

それから少し先になりますが今年も外で少しお話します。
こちらも日にちが決まり次第、お知らせします。

夏は研修の方を受け入れる。

様々な現場から学びたいとやって来る方が多い。

僕達のすべきことは変わらない。

自分の子供も含めて、子供達を見ていてもそうだけれど、
育児にしても教育にしても、もっと言うなら生きること全般がそうだけど、
人の表面、上っ面を見ていても駄目だ。
自分を見る時でもそれは言えること。

人間はいつからこんなに生命力を失ってしまったのか。
外の基準に頼らずに、自分の感覚を使って把握する力。
今起きている問題のほとんどは本能の力を失ったところから来ている。

人を見る立場に居る方達は本気で考えるべきだ。
特に教育に関わる方は。

人間の基礎を作らずに知識やテクニックを上から塗っても、
そんなものはメッキに過ぎない。
すぐに剥がれるし、むき出しになった芯は最初から作られていないから、
簡単に壊れてしまう。

まずは大人が何を大切にするのか見直すべきだ。
表面ばかり見ていて、元の部分を見ないなら、
その見方は子供の注意力を方向付ける。
表面しか見ようとしない人間が増えているのはそのせいだ。
表面しか見ないということは、お金や権力や成績や、
そういった数字になるものでしかものが見えなくなるということだ。
そうなれば世界は損得しかないということになり、
自分のことしか考えない人になる。
人を大切にするということを口にはするけれど、
ほとんどの人は家族や友達やもっと言うなら自分の分身か、
自分に利益のある人のことしか考えていない。

こういう認識は周りを見て身に付いてくるものだ。

人を見る時、大人であれ、子供であれ、その人の芯を見るべきだ。

何がその人を動かしているのか、背景に何があるのか。

制作を見守るときでも色や線を追っていても何も見えはしない。
絵をいくら見ていても、その絵を生み出しているこころが見えなければ、
創造性の輝きはくすんでいく。

意識しているようなことはその人間の10%にも充たない。
自分にも他人にも同じように、意識していない部分を見て行く必要がある。

どんなに絶望している人の中にも、
まだこんなのもある、と言うものは必ず見つかる。

若いうちに良い経験を積むことは、
それらを覚えて蓄積して行くためではない。
逆に無意識の部分、自覚されない部分をしっかりと満たして行くためだ。

沢山本を読みなさいと、教えられる。
でも沢山読むのは何のためか。
ここでも知識を集めるためではない。
元となる感覚や芯をつくって行くことが大切。

だから良いものに沢山触れて、全部忘れて行って良い。
そして人に良い影響を残したいのであれば、
その人の表面に触れるのではなく、背後で動かしている部分に語りかける。

僕らが制作の場で見ているのはお互いの素の部分。
表面で意識されているものの奥にある働き。
言い換えれば魂と言っても良い。

覚えて行く部分より忘れて行く部分により良い働きかけが必要だ。

誤摩化したり取り繕ったり、という卑しい振る舞いが何故生まれるのか、
といったら人も自分の表面だけしか見ないからだ。
逆に芯だけ見ているのであれば、誤摩化し自体が不可能となる。

大人でも子供でも愛情が栄養になっている。
愛していると伝えてはいても、それは上っ面を褒め合っているだけ。
それではいつまでも伝わりはしない。
その人を愛するということはその人の表面を見たところで駄目だ。
その人の自覚されない奥の奥まで見て、その部分に愛情を注ぐ必要がある。
そうでなければ、ただ自分が好きなだけだ。

もっと意識されない部分や分からない部分を大切にすること。
この世界に対しても人同士に対しても、
お互いがもっともっと神秘で、そして深いものであることを認識しよう。

見えているものより、見えていないものが、
意識しているものより、意識しないものが、より本質で大切であるということだ。

そんな自覚を持って人と接して行くと見えて来るものが沢山あるはず。

2015年6月15日月曜日

夏が来る

蒸暑い日が続く。

かなり良い2日間の現場だった。

これまでと違った作品も生まれた。

もう夏が来るだろう。

涼しい夜も今だけかな。

今週は外仕事が少し。

ぱっと見ただけなので細かいところは分からないけど、
貧しい子供に食事を与える場所をテレビで映していた。

子供達の表情を見ていると、食べ物以上に愛情に飢えている。
可哀想。本当に。

子供時代を思い出した。
自分のというより、子供の頃近くに居て同じような境遇にあった人達のこと。
あの人達が居たから今の自分が居るのだと思う。

こんなことを書くべきか分からないけど、友達とセミを食べたことだってある。

その後に出会った人達とのそれぞれの時代も忘れられない。
みんなのことが大好きだった。今でも。

小学校の時、必ず買わなきゃいけないリコーダーの注文用紙を捨てた。
持っていれば注文しないで良いというものだった。
僕にリコーダーをくれた女の子がいた。
1つか2つ上の子だった。
それまで本当に仲が良かったのに、
それ以来、気を使って何となく距離をとるようになってしまった。

子供の頃の方がそういうことに対して敏感で繊細な部分がある。
多分僕よりも、物をあげた彼女の方が罪悪感みたいな感情が残ってしまった。

夏が来る。
子供時代から十代後半にかけて、暑くて長い長い夏が一番好きな季節だった。

信州時代の夏の情景。
田んぼの蛙。澄んだ空気と夜空の星。

ラジオから聴こえるアルトンエリス。

今では春も良い、秋も冬も好きだ。
梅雨のしっとり雨も。この時期にはこの時期にしかないものがある。

掛け替えのない時の中で、人が大切にして来たやさしい気持ちを渡してくれる。
目の前に居る誰かのためだけに、思いを差し出す。

困難が大きいほど、そういった人の愛情を受け取る場面がある。

どれだけ助けられ、貰って来たことか。

その度にいつかこれを誰かのために使う、とこころに決めて来た。

場においてもそうだけど、良いものの全ては、来てくれたもの、
あるいは貸してもらっているものだと思っている。
返すことで、より大きな繋がりが生まれる。

ほんの一時であれ、その人と出会えていることが奇跡にも似たことであること、
そこで一緒に響き合って、お互いに何かを残せる幸せ。

今、目の前にある人や世界を、愛情と敬意をもって迎えること。

夏が来る。またいつものように。
そして2度とない今だけの季節として。

2015年6月12日金曜日

場からのメッセージ

昨日は深夜まで曇りで、遅くなって来てから雨が降り出した。
それまで風の変化が何層にも。
空気が変わる場面もあった。夜は感覚が敏感になる。

言葉は悪いが雑用のような仕事が沢山あって、
これだけで時間が過ぎてしまいたくないなあ、と感じていた。
そんな中、ちょっと本気になれそうなお仕事の依頼も入って来ている。
制作の場の質を外で、と言うのは難しいことだ。

場から学んで来たことを書いたり、しゃべったりしている。
場には表面的な美しさや素晴らしさが、無論ある。
それは初めて見た人でも感じられるものだ。
誰に対しても開かれていると言える。
ただ、もっと奥があって、それはもう見ても良いよ、という許しを貰わなければ、
見ることが出来ないようなものだ。
よし、そろそろいいよ、と場が言ってくれて、見せてもらえる。

ここに立ってごらん、ここからほら、見てみな、と。

そうやって認識も知覚も生き方も、生きる世界も変わって行く。

今、自分が見ている世界とは、それがどんなものであれ、
場が見せてくれているものだと僕は感じている。

ずいぶん、遠くまで来てしまったという自覚もある。
ある意味で確かなものはもう何処にもない。
全ては無限のように変化の過程にある。

場が連れ来てくれた場所から、自分の人生を見るという視線が自然に身に付く。
全ては夢のようだ。そしていつでも同じ場所から眺めている。

装わない者だけ、逃げない者だけ、誤摩化さない者だけ、
場は通してくれる。
捨てて、裸になって、素にならなければ、この道は通れない。

この世において、絶望が深い人、全てを失っているような人、
ある意味で極限のようなところにいる人、
そういう人達ほど、場においては豊かであることが多い。
まるで世の中とは逆のような光景をよく見る。
それが何故なのか、僕には分かる。

いずれにしても裸になって場に抱かれるのは救いと言って良い。

だからこれもよくいうことだけど、
こんなに持っているよ、とかどう凄いでしょ、とか、
これがわたし、とかそういう見せようという意識が、
どれほどその人を濁らせてしまっているのか、
単純に言うならつまらなくしてしまっているのか。

評価や、出来る出来ないだけで人を見る社会に慣らされてしまって、
それが癖になっているのだから仕方ないが。
テストされて来た人間はやがて人をテストするようになる。
その連鎖が社会と人間関係をつくっている。

場が言っていることは、すべての存在はただ無限の中で、
ある場所が与えられている、ということ。
自分を小さくしなければ、自分の居るべき場所が見えない。
持てば持つほど、装えば装うほど、構えれば構えるほど、
本来の場所から遠ざかる。尊厳を失う。
尊厳は素の状態にあるから。

場が教えてくれるもう一つのこと。
全ての瞬間が奇跡であり、掛け替えのないものであるということ。

大切に丁寧に生きること。

何度か書いたことだけど、有り難かった感覚の変化として、
これまで経験して来た場がいくつもいくつも重なって行って、
今の場になって行く感覚がある。
最近はまたちょっと変わってきた。
強く実感するのは、折り重なる無限の感覚と同時に、
これまでの一つ一つの場での時間は、確かに今もここにあって、
一つ一つが別の命を持って生きているということだ。

それは場でのことだけではなく、
人生での経験もすべて含まれる。

過去は決して消えるものではない。もしかしたら過去など存在しない。
こんなにもはっきりとそれぞれの時間が今も生きているのだから。

この世から本当にたくさんの人が居なくなってしまった。
恩師も友も。
それでも追悼のような文章を読んでいて違和感を持つ自分が居る。
みんなここに居るのに、と。
何故だろう、確かに居るし、生きていた頃と全く変わっていない。
だから生も死もますます分からなくなって行く。
何処までが生なのか、どこからが死なのか。

かつて存在した全ての時間は、今も生きている。
それは場が確かに示している認識の一つだ。

科学が何と言おうが、理屈がどうであろうが、
強い実感を否定することが出来ない。

場において鳥や草木と対話出来ることや、
偶然と遊べることや、過去も未来も、そこにない情景も取り込むことが出来ること、
それをどう見たら良いのか。
理屈で説明出来るはずがない。
それでもそこに居る人達は、少なくともその瞬間は確信を持っている。
いやもっと自然に当たり前に受け入れている。

今日はこの辺にしておきましょう。
明日はまた制作の場に入ります。

みんなが帰って来る。楽しみ。

2015年6月10日水曜日

暑い日

東京は梅雨入り。

夕方以降の涼しくなった時間が何とも言えない。
気持ち良くもあり、静かでもあり、寂しくもある。
昨日の幻のような空の色。

赤く輝きながらゆるやかに変化して行く空は、
白い紙に色が重ねられて行く時に見えている景色のようだった。

人のことは言うまい、と思う。
外のことは放っておいて、黙々と良い形を創って行けば良いのだ、と。
でもつい言いたくもなる。
くだらない活動は害を及ぼすから。
あまりにも節操がなさすぎる。
遊びで何をしていても法にさえ触れなければ良いと思う。
でも、人に関わること、少なからず人に影響を与える何かをするなら、
責任と自覚を持って、そしてプロとしての技術を持って行うべきだ。
自分に資格があるのかどうかも、問うてみるべきだ。

まあ、人のことばかりも言ってはいられない。
何となくとか、これまでそうして来たから、というのは僕には動機にならない。
このブログにおいても何を書くべきなのか、
今、何を伝えるべきなのか、もう一度確認して行かなければならない。
惰性は最も恐れるところだ。

僕にとって現場が全てで、そこで何が出来るのかにつきる。

ここでの言葉が単に場を薄めただけのものなら、書く意味はないはずだ。

このブログがあるから繋がっている人も居るし、
これを通じて出会えた人も居る。

場と同じように、少しでも見方や認識に変化が起きるような言葉を見つけたい。

場と同じように、いつでも命を、魂を投げ出す覚悟で。
最も大切なものを差し出す、ということが必要なのだろう。

場においては、思ってもみなかったものが姿を表すこともある。
そんな深い場面まで、言葉が行くことが出来るのなら、いつかは、と思う。

どんな方向に向かって行くのか、まだ模索中だ。
でも、言えることは、生きているということはやっぱり素晴らしいこと。
制作の場とはその認識を全身で噛み締めることだ、と思っている。

2015年6月8日月曜日

描く

土、日曜日、まずはしっかりした良い場になった。

昨日の午前の制作でのこと。
一人の作家がかなり深く集中していた。
柔らかい陽射しで、とても静かな時間。
こころが直に動いている場面。

やさしく時が刻まれて行く。
自然な流れでこのまま最後まで行くのだろうな、と感じていた。
その瞬間、本当に何の違和感もなくふっと筆の振りが変化した。

おやっと思う。
あくまで軽くゆっくりした動きなのだけど、
これまでよりは振りも大きくて、そして勢いがありながら、
全く力が入っていない。

2振りくらいしたところで、僕は外を見た。
風が動いた。葉っぱが揺れる。
風の動きは穏やかで、はっきりと見ることが出来るようだ。

筆の動きと風の動きは、交互に対話するように、お互いをなぞっていく。

時間にすると2、3分。いや、おそらくもっと短いだろう。

始まった時と同じように自然に、風が止み、そして筆の動きも止まった。

制作はまだ続いていたので、彼女は違う呼吸に合わせて変化していた。


2015年6月6日土曜日

生かされている実感

昨日は大雨だった。
今日は涼しく、ちょっと過ごしやすいだろうか。

今月も制作が始まる。

一回一回の場が掛け替えのないものだ。

いつも現場について書くと、もっと違うなあと思う。
仕方なく、反対のこと、矛盾することをまた言わなければならなくなる。

場と言うものは計り知れない。
一人一人のこころの中が無限であるように。

場を通して見てきたし、理解して来たし、
もっと言うなら僕自身は、場を通して生きて来た。

数々の場が自分を創り、動かしている。

必要条件である腕も感度も落ちてしまったけど、
数々の場が今ほど自分を生かしてくれている時期はない。

場において、自分と言うものは通過点でしかない。
それよりも向うから来るもの、動くものが重要で、
全てはどこかから、誰かから、何かからやって来るもの。
作家もスタッフも実はここではどれだけ受け身で居られるかが大切だ。

この世から居なくなった人達や、
もうこの人生において会うことのない人、
もう消えてしまった場、無数の過去、
それらがこんなに近くに居てくれる。
過去は過去ではなく、ここで隣に居る。

生かされているという感覚は、自分以外のものが自分を通過して行く感覚だ。
僕はこれを場において学んだ。

最近実感しているのは、この感覚が日に日に強くなって行くことだ。

場と言う無限は僕達を素直にさせる。
そして生きているのではなく、生かされているのだと気づかせてくれる。

今日もみんなが幸せを感じるな時間になりますように。

2015年6月5日金曜日

創造性の律動を聴く

しばらく更新が出来なくてごめんなさい。
暑いですね。

さて、東京です。
今月も来客の予定が続きます。

制作の場に立てることはやっぱり嬉しい。

三重でも色んなことがあった。
気まぐれ商店のポーチづくりの場、ミシンの会が毎週行われている。
とても良い雰囲気。

家族のこと、色々変わって行くところ、考えなければならないこと。

このプロジェクトだけでなく今の社会に向かって行くことは、
相変わらず困難の連続でもある。

出来得る最善を実行して行く以外にない。

音楽を聴かない日々に、グレングールドのバッハクラヴィーアコンチェルトが、
くりかえし、くりかえし頭を駆け巡った。
特に若かりし頃の演奏。
ただただ、奇麗に正確に配置された音達。
無限の反復のような、あるいは運命のような。
音はスピードにのって消えて行く。

制作の場で見て来た無数の景色。
匂いや音や感触。
こころの奥で鳴り響く音楽。
人生で経験して来たたくさんのもの。

立ち現れ、消えて行く。
くりかえし、くりかえし。

僕達が制作の場で、奥へ奥へと向かって行くのは、
それが正しいからでも、目的があるからでもない。
ただただ、生命の律動がそうさせるだけだ。

一度でも場の声を聴いたら、鳴り響くリズムに浸ったら、
忘れられないだろう。

創造性とは生命が形をなして行くリズムのようなものだ。

生命や宇宙や、全ての背景で動いているもの。
その仕組み、法則の前に、僕達は小さくなって素のまま立つべきだ。

絵を描いて、作品が仕上がる。それが制作の場だと思っている人がいる。

僕のいう場とはそんなものではない。
一人一人が素直になって、自分の本質に帰ること。
身につけた嫌らしさ汚さを一時捨てること。
捨てて捨てて、削ぎ落としてまっさらな素になり、透明になること。
その時、この世界は本来の輝きを見せてくれる。
目の前にある世界が裸で迫って来る。

この世界を形にしている創造性と、人間の内側にある創造性とは、
本来は同じものだ。

グールドのリズム。
反復されるすべての音が、必要な場所に刻まれている。
僕達はあの音楽のような世界に生きている。

生命体の根本に流れる音楽を聴こう。
場に入る。深く進むことは、そのような音楽を自身の内側に聴くこと。


2015年5月10日日曜日

充実感

今日は良い天気ですね。

昨年から原点である制作の場の充実に力を入れて来た。
そして、確認して行くと本当に取り組んで来ただけ、
返って来ていることに驚かされる。

場も作品も、何処へ出しても恥ずかしくない。

これです、こういうことです、と言い切れるような場になっている。

もうこういうことは言うまい、と思っていたけど、
やっぱり今の社会の動向を見ていて腹立たしいことが多い。

いい加減な人達が制作に関わっている。
真剣に考え、真摯な動機を持って挑む人がいない。

もっと緊張感を持って、行動すべきだ。

僕のところにも沢山連絡が入るので、
今いろんな場所で行われていることは知っている。

はっきり言ってしまうと、関わらない方が良い人や物事がある。
関係と言うことを仕事としてはいけない人も居る。

需要する方にも責任がある。

無駄なこと、害になることを教育と称して教える人達。
意味のないばかりか、こころを消耗させるイベント。
助けてあげたいという無礼な態度。
理解を広めたいと言う奢り。まずあなたはどれほど理解しているのだろうか。

これらの動きがどれだけ、作家達を疲れさせ、気持ちを削いでいるのか、
ほとんどの人は気がつかない。

自分を納得させるために、彼らを巻き込むことはやめてもらいたい。
浮ついて、スケベ根性丸出しで、意味ありそうなところに、
何となく飛び込んで、あっちこっち連れ回されている人達が沢山居る。

やっている方にも、参加している方にも問いたい。
一体、それに何の意味があるのですか。
それが何になるのですか。
マイナスの方なら証明されていますよ。

人を使って何かを主張する人達にも言いたい。
自分でやりなさい。

今、最も必要なことはそれぞれが現場を充実させること。
先生なら教育の場を、保護者の方なら家庭での日常を。
何かを教えている人なら、その場をよりあたたかく安心出来る場にすること。
それをしないで、
外に向かって主張の定まらないイベントを仕掛けてどうするのだろう。

何を大切にしたいのか、もっと足下を見つめてもらいたい。

いつでもそういう人々の、卑しさ、さもしさの犠牲になって、
丸ごと受けて、消耗してしまう人達が居ることを忘れないで欲しい。
よかれと思う行為も時には暴力にすらなるということを。

どんな仕事や家庭や、場所であれ、その場が充実していて、
それぞれが責任を果たしていて、そこに居る人達が響き合えているのなら、
幸せを感じ合えているのであれば、自己顕示欲から生まれるような、
活動に手を出すことはないだろう。
自分が満足出来ていないから、さかしらでやらなくて良いことをしてしまう。
そして何故満足出来ていないかと言うと、向き合わずに逃げているからだ。

今、自分の立っている場所をまず良いものにしていきましょう。
そこで責任を果たして行きましょう。

僕達は場に入って少し時間を過ごせば、作家もスタッフも、
これだよね、もう何も要らないよ、という思いになる。
そういう時間こそが人には必要なのではないでしょうか。

今日も良い場を。

2015年5月9日土曜日

霞んだ空

曇り。
昨日は暑い一日だった。
イサとアトリエで絵の具の缶の取り替えをしていた。

一日だけ信州にも行って来た。
親方のお骨に会いに。

嬉しい再会がいっぱい。
仲間達と語り合える幸せ。

時は流れている。
何もかもが過ぎ去って行く。

仲間達には感謝しかない。

僕は現場に立つ。
他のどんな場所より輝く時間に入るために。

みんなが居てくれたこと、みんなの夢見たことを形にするために。

土、日曜日のアトリエが終わったら、またしばらく三重です。


2015年5月3日日曜日

土、日曜日のアトリエ

今日も暑くなりそうですね。

春はもう行ってしまった。

昨日の場は素晴らしかった。
みんながみんなに答えてくれた。

響き合う、これが場の全て。

ゴールデンウイークで外は何やら騒がしかったりするけれど。
こういう時期のアトリエは良い時が多い。
制作の時間は、騒ぎ回っていたとしても、内面の静けさが引き出されて来る。

青空や海や、そしてもう少し薄い水色。
今は青が奇麗。

午前のクラスでは本当に作家全員が一人で描いているみたいで、
作品を並べても見事に統一されている。
それでいて一人一人の個性はしっかり出ている。

午後は強くなる陽射しとともに、グングン、本当に天国のような。

絵具を作っている時に何気なく、
タチアナニコライエワのザルツブルグでの演奏をかけていた。
こんなに良かったっけ。
最初から最後まで心のこもった音楽だった。
当たり前かも知れないが、人間が演奏しているということを実感させてくれる。
今は人間を感じさせる音楽が少ないからだろう。
最後のところでベートーベンのソナタ32番を弾いている。
これが途轍もなく素晴らしい。
もともと好きな曲ではあるけれど、ニコライエワは良い。
2楽章、アリエッタ、深く慈しむ眼差し。
自然に涙を誘う。でも、その先がある。
遠くの方からこの世のものとは思えない光が差して来る。
これだ。ベートーベンはやっぱり凄いと思うし、
ニコライエワの誠実さと一音一音を大切にするあたたかさに感動する。

こんな場面が見えて来なければならない。
こういう景色を見なければならない。

緑の葉っぱに日が射している。
緑と言う色を持っているのに、それはどこまでも透明。

生きて動いていて、そして透き通るような場でなければ。

さて、今日も楽しみましょう。

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アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。