2015年2月15日日曜日

最近の制作

今月は本当に充実した場だった。
作家達は素晴らしくて、笑顔と幸せ感に溢れていたし、
作品への集中度も高くて、質も高い。
スタッフとしての自分の働きにしても満足のいくものだった。

自分のことで言うと、感覚の動くスピード、瞬発力の低下を気にしていたし、
一番良かった頃の動きと比較すると、腕は落ちているな、と思っていた。
もし、制作の場に入り続けるのなら、歳とともに適合して行かねば、とも。
今後の現場での在り方が分かって来た気がする。

このやり方なら、これから体力が衰えて行っても出来る。

それにしても昨日、今日は特に次元が違っていた。
彼らの凄みは本当にほとんど知られていないのが残念だ。
これほどの人達が、と思ってしまう。

僕自身も場の中で良くなっている部分は、身体の軽さだろう。
動きを静止させている時が重要で、そこで重さや堅さが出たらマイナスだ。
静かに動けて、動作が静止している時も、消え入るくらいに軽いのが理想。

アトリエが終わって、
外を歩いても軽く浮くような歩き方になっていることに気がついた。
(ふらふらしているのとは違う)

リズムを感じている。そのリズムはとても軽やかだ。

今月のみんなは特に色の出方が素晴らしい。
濁りも無くスッキリしていて濃厚になり過ぎてもいない。
物足りなさも全く無い。凄みがあるのに親しみやすい。
最上のものが生まれている確信がある。

明日から三重へ行きます。
3月1日のクラスからまた帰って来ます。

2015年2月13日金曜日

場と音楽

今日はこれからお一人だけお会いする人がいる。

ちょっとだけ音楽について書いてみたい。

音楽と場には深い共通性がある。
そして音楽は最も原始的で直接的な芸術だと思う。
もっと言うならこの世界や宇宙すらが音楽と同じように出来ていると思う。

スタッフが場に立つ時、「場」というものがどんなものなのか、
知っているかどうかが大切だ。
個人としてのスタッフの資質としては情景を描くことが出来ること、
それから音楽的であることが必要だと思っている。

情景を描くには、沢山の情景を自分の中にもっていなければならない。
これは一言で言えば、どれだけしっかりと生きて来たのか、その経験にかかっている。
中でも奇麗なものに触れた経験と、大切にされたり、愛されたりして来た経験。
僕らにとっては一つの場面や一つの記憶や、
一つのイメージが命を繋いでくれることすらある、宝物のようなものだ。

音楽的であることは、ここで何度かリズムやテンポの問題として書いた。
さらには即興的に創られて、消えて行くプロセスにある快、
不快の感覚が磨かれていることが大切。
一定の答えは無いけれど、何でも良い訳ではなく、その瞬間の答えを見つけること。

日常的にも本当にたくさんの音楽を聴いて来た。
音楽が好きだと言うと、どんな音楽を聴くのか、と質問される。
これが一番困る。僕にとって音楽は生き物で、その時にしか存在しないものだ。
聴くものも、聴き方も日に日に変化する。

この辺りも場と全く同じだ。

イサからもらった音楽に衝撃をうけた。
それから一週間が経った。
未だに鮮烈にイメージが残っている。

ジョンフェイヒイの「リヴァーズアンドリリジョン」はここ2年くらい、
何度も繰り返し聴いて来た。
この音楽が存在しない2年間は想像ができない。

身にしみる音楽について、また改めて書くことにするが、
今日は2つだけにしよう。

ボブディランの新しいアルバムが素晴らしい。
全曲フランクシナトラを歌っている。
当たり外れの大きい人だけど、やっぱりこの人は天才だ。
僕と同じ誕生日、5月24日(だからなんだ)

そして最近聴いた高橋竹山(初代)の三味線独奏には度肝を抜かれた。
凄すぎる。
これまで聴いていた竹山と全く印象が違う。
まさしく魂の音だ。音にならないものが音に宿っている。

そういえばグールドも若い頃の音源が出回ってからは、
スタジオ録音のものが聴く気がしなくなるくらい新鮮だった。

竹山を聴いたら、竹山の音のような構えで場に立ちたいと思う。
本当に学ぶことが多い。

アラヤシキの住人たち

疲れたので早めに寝ようかな、と思いつつも音楽を聴きながら色々考えていた。
今日のうちに書こうかな、と思う。

今週は来客続きだった。
お仕事のお話もあるけれど、どちらかというと視察というか、
他の施設の方がアドバイスを求めに来られることが多くなった。

アトリエの場合、やっぱり福祉とは方向性が違う、と言う部分は
これは良い悪いではなく認識として共有しておいた方が理解しやすい。
エッセンスはどんな場においても使えるとは思うけれど。

福祉には福祉でしか出来ないことがあるし、
アトリエにはアトリエにしか出来ないことがある。

僕のことを福祉や他団体に批判的だと解釈する人もいるけど、
決してそんなことはない。ただ単に同じにしてはいけないというだけだ。
例えば、しょうぶ学園、アトリエインカーブ、浦河べてるの家、
それに共働学舎なんかは良い活動をしていると思っているし、
社会に良い影響を与えていると思う。

それでも、手放しで良いとは思わない。
もし思っていればわざわざ他の活動はしていないだろう。
僕は僕なりにもっとこういう部分が大事じゃないのかな、
というところを実践している。

共働学舎の宮嶋信さんと久しぶりに会った。
相変わらず突然来て泊まって行ったのだけど。
楽しかった。いっぱい話すことが出来た。
そして、信さんはしょうもない人でもあるけど、
未だに僕にとっては尊敬出来る方だと思った。
まあ、あんまり言いたくはないけれど、僕の師匠だ。(ちょっとだけ情けないが)

前置きがずいぶん長くなってしまった。

共働学舎が映画化された。タイトルは「アラヤシキの住人たち」。
5月1日にポレポレ東中野で公開されます。
なるべく多くの方に見て頂きたいです。

僕は試写会に行って来ました。
久しぶりの渋谷。ユーロスペースは場所が変わってから数回しか来たことがない。

実は書くべきか迷っていた。
何故なら客観的に見れてはいないだろうと思うので、
正当に判断出来ないのではないかと。
でも、もう客観的な判断を書くことは諦めた。

僕の主観で書かせて頂きたい。
素晴らしかったです。
学舎を知らない人が見たらどんな風に見えるのか、僕には全く予想は出来ない。
でも、多分何かが伝わるのではないだろうか。

少なくとも作られた感じの嫌らしさ、わざとらしさは全く無かった。
自然だった。

思い入れが強いだけに、変な風に解釈されてないか、誤解されないか、
見てみるまで怖かったし、
もし違和感があったら伝えるつもりだった。
良くなければ批判しなければならない、と覚悟していた。

大丈夫だった。なつかしい共働学舎の姿がそこに映っていた。
とてもあたたかくやさしい世界が広がっていた。
もっと勢いがあった時と比べると落ちる気もするけど、
やっぱり信さんの存在感も良かった。
メンバーのみずほさん、えのきどさん、くにちゃんの雰囲気も充分伝わって来る。

特にみずほさんとえのきどさんが中心に撮影されていて、
この2人の面白さがを見てもらえることが本当に嬉しい。
この人達は全く変わっていない。

僕の原点の風景でもあることを改めて教えられた。
自分の仕事の中のどこまでが共働学舎から来ているのか、
親方(宮嶋先生)や信さんから来ているのか、
どこからが僕の部分なのか、確認することが出来た。
素晴らしいなあ、これだなあ、と思う情景までが共働学舎から学んだ部分だ。
そして、そこもっと掘りたいなあ、もっと深めたいなあ、と思う部分、
それが僕が追求して来たところだろう。

僕だったらくにちゃんやえのきどさんやみずほさんは、
ああいう部分から先にもっと面白くて凄い部分が見えている。
見えているからそこに触れたいし、人にもその姿を見て欲しいと思う。
その結果が僕の入る現場になる。

あったかい、やさしい、みんな仲良し、そうだけど、
僕ならその先を一緒に歩きたい、それぞれのもっと深くカッコいいところを見たい。

とはいえ、感動したことは確かだ。
信さんが自分一人でひっぱるということをしないで、
ひく場面をしっかり弁えているところが流石、と思った。
あのバランスが信さん。

みさきさんの存在が素晴らしくて、
こういう人に一緒に居てもらえて幸せだったと思い出した。
希有な人だ。

同時にあまりに悲しくて涙が出た。
そこにいたはずの山岸さんがもうこの世にいないこと。

片山さんもたくみさんものぶちゃんも亡くなってしまった。

あの頃あったほとんどのものは消えていった。
沢山居た人達もそれぞれ去って行ってしまった。
もうあの頃の共働学舎は存在していない。
勿論、それは何も学舎だけのことではない。
この世に存在するすべてのものがやがては消えて行くのだから。
変わって行くことを恐れてなどいない。
昔の方が良かったという言い方もしたくない。
ただ、寂しさ悲しさという感情からは逃れられない。

あの場所がこの世のすべてだった時代があった。
たくさんの人に出会った。
愛し合ったし、傷つけ合った。
それぞれが人生の大切な時間に自分のすべてを賭けて向かい合った日々。

懐かしいなあ、と思う。
それでも、振り返っている暇はない。
僕はそれ以上のことを実行するためにここに居る。

あの頃から言い続けて来たこと、僕は約束を守っている。
誰が忘れたとしても。
ついつい個人的な感傷に浸ってしまいました。ごめんなさい。

良い映画だと思います。
是非、おすすめしたいです。

2015年2月10日火曜日

本当に寒いですね。
全国的に雪が心配です。

制作の時間が穏やかで平和なものとして続いていることに、
何より感謝の日々です。

悪夢のような時代になってしまった。
争いに溢れている。
平和を主張する声も、戦争に反対する主張も多くなって来た。

でも、僕は今の社会の動向に直接発言しない。
平和と言うのは主張すべきものではなく、どれだけ実行出来るかだと思っている。
平和な場、あたたかい時間を少しでも創りたい。

昨日はプレのクラスが終わった時間にあきさんのお母さんから連絡があって、
小田急線が止まっている、と言う話だった。
電車で来ている人を気遣って連絡下さった。
それで調べてみると電車は動いてはいるようだったけど、
遅れているし、普段直通で来ている人が乗り換えなければならないので、
送って行くことにして、駅へ向かった。

電車に乗ってからもゆうすけ君はニコニコしていた。
乗り換えの電車に乗るところを見送って、あしたねーというと満面の笑み。
アトリエではずっと話しているのだけど、
ここまでぼくたち2人は全く会話しない。
それなのに気持ちが通い合っている。
言葉など必要ない。

それにしても僅か数日でそれも僕のいる小田急線上だけで、
3件も人身事故で。
もう毎日のように感じてしまう。

人が電車に飛び込んで、自分の命を捨てる。
こういうことが日常のように起きてしまう世界に僕達はいる。
とんでもないことだ。

国と国との争い。沢山の犯罪。

個人の善悪や責任は当然の話だろう。

けれども、個人の中でおきていることは社会の反映であることは事実だ。

人が自ら死を選ぶような、世界が今描かれてしまっている。

大きな流れに僕達は無力な存在だ。
悔しいけれど、憤りを感じるけれど、どうすることも出来ない。

ただ、少なくとも、僕達は力を合わせて良い場を創って行く。

2015年2月6日金曜日

新たな感覚

一週間はあっと言う間だ。
木曜日は本当に寒かったですね。

僕のところはアトリエの上の吹き抜けの一部屋なので、
暖房をつけても暖まらない。エアコンでもストーブでも同じ。
電気代が勿体ないのでもう使うこともなくなってしまった。

だから、寒い。

朝は目が覚めるのは早いけど、布団から出るまでに1時間くらいかかってしまう。
最近はその間に音楽を聴く。

音楽を聴き出すと止まらなくなる。
仕事が終われば一人の時間はほとんど音楽を聴く。

中古のCDショップで音楽をあさっている時の感覚は、
現場にいる時に近いと思う。
責任感から解放されている部分が大きく違うけれど。
ただ、沢山の情報の中から何か一際輝くものを探す感覚。
未知のものへの直感。ワクワクドキドキ感。
見えている僅かな情報から直感するプロセス。
出会えた時の感動。

いくら安くても2枚、
せいぜいが3くらいまでしか一回には買わないことにしている。
何となくこれも入れようか、と思ってしまうと甘くなるから。

あとはビデオで(DVDか)映画鑑賞ぐらいが趣味かな。

アトリエでの制作の場で創造性の動きを追っている時は、
こちらがハズしたら途切れてしまうので必死だ。
楽しむだけの余裕はほとんどない。
それでもこちらはやっぱり本業なので別の醍醐味があるし、
何より命を賭けているから得られるもののスケールは違う。

こうやって趣味の世界と本業の世界を行き来する。

いまいち、体調が悪くてぱっとしない。
風邪とまでは行かないのだけど、鈍い感じがする。
まあ、場に立てばぱりっとしますけど。

イサと話していて音楽とか映画の話題で、
「サスペリア」が出て来て、懐かしいなあ、見たいなあ、と思ってまた見た。
やっぱり良い。安っぽさもオシャレになってしまう。
それにホラーなのにこんなに安らかな気持ちになるのが不思議。
深いところにどんどん入って行く辺りもさすが。

イサがよしもとばななを読んでいるらしく、
よしもとばなながサスペリアが好きで、
自分から見えていた景色があれと全く一緒で自分だけじゃなかった、
と救われたと言う話をしていた。
良い話だ。

僕の場合だったらタルコフスキーがそれにあたる。
やっぱり同じようにこういう風に見えている人がいるということに救われた。

よく考えてみると、どんなジャンルであれ良い作品は、
何かしら分かってしまうというか、外から見ている感じがしない。
懐かしくもあり、自分の内側から出て来ているように感じられる。
良い現場と同じように。
こころの深い部分でみんなが同じような景色に出会う。
そこに触れられているものこそ、そこを思い出させてくれるものこそ、
良い作品と言えるのでは無いだろうか。
これも良い場も同じ。

そして、イサにラップかヒップホップで何か良いのあったら教えてよ、
と言っておくと、CDに焼いて来てくれた。

これが衝撃の体験。
外に出てもそこで聴いた音と同じ景色が見えて来た。
これだよ、このことだよ、と思ったし、これがやりたかったんだよとも思った。
懐かしいものであり、見ていたものであり、知っている世界でもあり、
且つどこか知らない、新しい景色が広がっている。
嬉しかった。
一つ一つの感覚が順番に開いて行って、全方向へ向かって行くようだった。
ここにいるのにここにいない、という奇妙な感じもあった。
こういう出会いがあるから楽しい。

新しい部類に属する音楽だと思うけれど、
こういうのをやっぱり聴いていないとダメだなと思った。

絶えず前に向かって進んで行く気持ちでいなきゃ。
新しいものも素晴らしいものも今でも生まれ続けているのだと実感。

僕達も生み出し続ける仕事をして行かなければならない。

よし子が子育てしつつ沢山仕事をしてくれている。
忙しそうだけど感謝。きくちゃんにも。
気まぐれ商店の商品注文が少しづつ入っているようです。
ご注文ありがとうございます。
引き続き応援して下さいね。

東京都美術館でお話しした内容を中原さんが纏めて下さっている。
とても深い内容で充実している。
有り難い。

私事で恐縮ですが、
プライベートのページでツイッターを始めました。
こことは全然違う雰囲気で、かなり楽に書いています。
くだけた内容なのでもしご興味のある方はフォローして下さい。
でも、まだ上手く使えていません。
気が向いたらちょっと覗く程度の感じでお願いします。
(そんなにちゃんと読むような雰囲気にはなっていません)

これからも本拠地はこのブログということで行かせて頂きます。

2015年2月4日水曜日

明日は雪かな

ここ数日、月明かりがとても奇麗だ。
明日は雪が降りそう。
作家達が来る日でなくて良かった。

平日のクラスはもうここが家のようで、
イサも含めてここに暮らしているような自然さ。
平和だなあ、と思う。
争いの世の中でこんな生活を実現出来れば、と思う。

僕の理想とする場のイメージは、
ずっとそこにあって来たい時に人が来る。
誰もいないときもあれば、いっぱいの時もある。
作家も見学者も自由に出入り出来る。
自然に制作が始まって、時にはとんでもない瞬間に立ち会うことが出来る。

そんな場があれば、無理しないで嵐の中、寒い時、熱い時にはゆっくり休めば良い。

今の限られた条件の中で、なんとか理想の場であろうと努力はしている。
でもいつかは本当に開放的な場所を実現したい。

それにしても、酷い世の中だ。

茶道の空間とは、戦乱の中で一歩外へ出たら死が待っているかも知れない、
という状況であの小さな空間だけは静寂があって、
そこで道具やお茶や人と対話すると言うものであったという。
まさに一期一会。

僕は制作の場に挑むときは同じような心構えでいようといつも思っている。

だからこそ、この一回限りの場が平和に満たされ、
生命の輝きに満たされなければならないと。
本当の意味で生きていて良かった、みんなと居られて良かったと言う場にしたい。
みんなも僕自身も。

平和は観念ではない。理屈ではない。
この場で形に出来るかどうかにかかっている。

ささやかながら人のこころに響く何かがこの場から広がって行って欲しい。

気まぐれ商店の商品が注文可能となりました。
是非HPをご覧になって下さい。

2015年2月2日月曜日

日曜日のアトリエで

昨日は午前のクラスも午後のクラスも素晴らしかった。

机の上に仕上がった作品が並んでいる光景は圧巻だ。
こんな日もある。

所々で場は透明になって消えて行きそうでもあった。

特に午前のさとし君、午後のてる君はひときわ高い次元へ上っていた。

途中から今日は結構走るなと感じたので流れを尊重した。

純度の高い場も作家も作品も、もうこの世のものとは思えない。
でも、一方でこれこそが現実なのだと感じている。

関わるスタッフの動き次第では流れは良くも悪くも変わってしまう。
だから制作の時間が終わると、かなり良いときでもよーしという気持ちよりは、
ふー何とかなったというほっとした開放感の方が強い。
良いときほど、流れを扱う繊細な感覚が必要となるので、
責任の重圧もある。

時にこんな時間が訪れるのだから、本当に不思議だ。

やっぱり場は良いなあと思う。

2015年2月1日日曜日

なぞる

教室前にちょっと書いてみたい。

なぞるということについて。
これもすでに何度も書いていることだが反復する。
何故ならなぞるということが僕達の仕事の基本中の基本でもあるから。

場を共にした人が離れた場所で不調であれば、
少なくとも僕には負荷がかかって来る。
それは場の中で深い部分で相手の心をなぞっているからだ。

大きなどこまでも広がる海を見ていた。
いつの間にか海が自分の中に入って来て呼吸していた。
内面が海のように動いていた。

最初はなぞっているのだけど、
やがて自分の中になぞっている対象と同じ動きがある事に気づく。
そうすると海をなぞっていうところから、
海と僕との共通の原理が共に動いているということになる。

人と人が繋がる時に起きているのはそれで、
その時、文字通りお互いが他人ではなくなる。

共感ということももともと何か同じ仕組みがあるからこそ起きる。

僕らは深い部分でこのなぞると言う行為を繰り返すが、
なぞること自体は一般的と言うより、
むしろ人のこころはすべてそれによって出来ているとさえ言える。

どんな人でも日々なぞっていることは変わりない。

僕達は誰も思ったことのないことなど、思うことは出来ない。

それが良いものであれ、悪いものであれ、
どこかから誰かから来たものをなぞっている。

小さな頃、産まれたばかりのころからずっとそうやって来た。
ある意味でそういう条件付けにがんじがらめになっているともいえる。

教育にしても家族にしても恋愛にしても、
究極的にはお互いをなぞる行為な訳で、
それなら良い描写が出来なければならない。
安心や暖かさや、強い実感や強烈な何か、輝かしい瞬間とか、
しっかりと描くことが出来て初めて、一緒にいる人がなぞることになる。

自分はいつでも描いているし描写しているし、
それに他人は少なからずなぞり投影して行くのだ、
ということを自覚している人が少ない。

一方で相手のこころと響き合うためには、
相手が描いているものをしっかりとなぞって行かなければならない。

縛られたくないとか、決められたレールの上を歩くのは嫌だ、
というようなことを言う人がいるが、
そういう人達に最もむいていないのが僕らの仕事かも知れない。

場に立った時、僕の目の前には沢山のラインが見えている。
それは最初からひかれている線で、しかも無数にあって、
それぞれが自分の上を歩いて欲しがっている。
絡み合っていて通りにくい線もある。
かき分けるように通らなければ行けない場所も。
一つ一つのラインを正確になぞって行くことでしか、
場は見えて来ない。

こころとこころが通い合った時、人は幸せを感じる。

場においてはどんなに良いものも悪いものも、
それが誰かから出ているのなら否定しない。
一旦は自分の中に入れてから出す。

個人のこころに起きていることに良く目をむけてもらいたい。
今社会で描写されている、され続けているものを見ていると、
個人、特に子供達のこころに、何がなぞられて行くのか、
本当にしっかり考えて行かなければならない。

一つの場、一回の制作の時間がどれ程大切なものか、
日々実感している。

書いている人

アトリエ・エレマン・プレザン東京を佐藤よし子と 夫婦で運営。 多摩美術大学芸術人類学研究所特別研究員。